「常識で考える日本古代史」は  「http://godowngamblin.ninja-web.net/」  に移転しました。

加筆/校正等はこちらで行っています(最新の内容は若干変わっています)。よろしくお願いします。


第一部 実効支配  1.6 神武東征から古代統一王権を推理する

       

1.6.1 古事記による神武東征

古事記と日本書紀は日本の古代史書の双璧である。成立は古事記の方が古く和銅5年(712年)、稗田阿礼が暗誦した帝紀・旧辞をもとに太安万侶が編纂したものとされる。一方日本書紀は勅撰(天皇の撰)による史書であり、舎人親王らによって養老4年(720年)に完成したとされる。

よく知られるようにこの時期は壬申の乱(672年)後で大和朝廷=天皇家の基盤が確立していく過程にあり、古事記はより古くからの伝承に近く日本書紀は天皇家に有利な補完・脚色がなされているという見方が一般的である。

そうした背景から今回は古事記の記載をもとに神武東征を考えることとするが、もちろん古事記にせよ日本書紀にせよ(以降記紀と書くことにする)史実と伝説がごちゃまぜになっていて、書かれていることをそのまま歴史上の事実と考えることは危険である。

一方で、古くから伝えられてきたことというのはそれなりに意味があるからこそ伝えられてきたのであり、その意味の中には「実際に事実としてあった非常に印象的なこと」というのも当然含まれる。だから、「これは伝説であり事実ではなかろう」といってすべて捨ててしまうという姿勢は、歴史を考える上で必ずしも正しいとはいえないだろう。

その意味でまず最初に指摘しておきたいことがある。記紀のそもそもの大筋は、アマテラスオオミカミを頂点とする天上の神々の直接の子孫である天皇家が日本を統一するというものなのだが、歴史上で実際に天皇家が統一王権を確立している以上、そこに軍事行動があったことは間違いないはずだ。しかし、記紀において大部隊が他地域を攻撃・占領するという物語、つまり軍記にあたる部分はほとんどなく、その数少ない例が神武東征なのである。

歴史に詳しい方だと、「じゃあヤマトタケルノミコト(日本武尊)はどうなんだ?」と言われるかもしれないが、ヤマトタケルは単騎で敵陣深く乗り込んでいって、だまし討ちや暗殺で敵の大将を討ち取るという物語なのである。小規模な集団同士の戦争ならともかく、大部隊と大部隊が戦う場合にそんなにうまく大将を殺せるはずはなく、大将一人を倒したところで戦争は終結しない。だから、ヤマトタケルの話はそれほど参考にはならないのである。

さて、日本書紀によれば紀元前660年とされる神武東征であるが、古事記には具体的な記載はない。記載はないけれども紀元前7世紀などということはありえず、大阪湾の形状(湾が生駒山近くまで深く入り込んでいた)等から紀元2〜3世紀と想定されている。ちょうど倭国大乱から卑弥呼あたりの年代である。では神武天皇はどういうバックボーンをもっていたのか。

古事記によれば天孫降臨したニニギノミコトの孫であるウガヤフキアエズノミコトの四男という。一人の兄(途中で戦死)と一緒に東征したことになっているので、まだ二人の兄が出発地である九州にいたことになる。そう、神武天皇は九州にいたままでは王にはなれなかった、だから新天地を求めて船出したのである。


      

1.6.2 16年以上かかった九州→大和東征

神武天皇の東征について概略をまとめると、以下のとおりである。
@ イワレヒコは、兄とともに九州を出発し、中国地区で勢力を蓄えて、大阪湾から近畿地区に進出を図った。
A ところが、現地勢力のナガスネヒコの前に撤退を余儀なくされた。一連の戦いで兄のイツセなど多くの将兵を失った。
B 正面突破は困難とみたイワレヒコは紀伊半島を大きく迂回し、熊野方面から現在の奈良県を目指した。
C ここでも途中で現地勢力の抵抗を受けたものの、これらを打ち破り、橿原を中心とする地域を実効支配するに至り、神武天皇となった。

現実に神武天皇の子孫であるのが記紀が編纂された当時の大和朝廷であり、現在に続く皇室であるから、結論としてCがあったことは間違いない(その人物が神武天皇と最初から名乗ったのではないが)。そして、ほとんど何もないところから自らの実効支配を打ち立てた最初の政権が、それを誇らかに子孫に伝えたであろうことは想像に難くない。

その際、多少の脚色があったとしても、「子孫に伝えたいこと」が大幅に事実と違うとは考えられない。だから、橿原を目指して進んだら三本足のカラス(いまサッカー天皇杯チャンピオンチームが袖に付けることができる)が弓に止まったとか、「うちてしやまん」と歌いながら向かうところ敵なしの進撃を続けたとか、そういうことが本当にあったかどうかは分からない。

しかし、もともと九州から出てきたこと、途中各地で勢力を蓄えたこと、最初の戦いはうまく行かず迂回戦術をとらなければならなかったこと、といった内容は、それに近い事実があったと考えていいのではなかろうか。

さて、ここで前節の問題に戻る。他地域に進出しようとするからには、占領することによる利益があるはずである。利益とは、余剰生産力とその結果としての富の蓄積、つまり、「そこを実効支配すれば働かなくても食っていける」という目的である。それらの地域を支配するために、モンゴル・ウルスは高速運輸通信網(ジャムチと呼ばれる道路網)と高速運輸通信手段(馬)を持っていた。それでは、古代日本にはそんなものはあったのだろうか。

古事記には、神武天皇が出発してから橿原宮に即位するまでの年月が記されている。日向国を出発し豊前国宇沙(大分県宇佐、滞在日数不明)。そこからさらに、筑紫国(福岡県)で1年。さらに阿岐(安芸、広島県)国で7年、吉備国(岡山県)で8年、合計16年+αでようやく明石海峡を越えることができたのである。


      

1.6.3 大和を実効支配した勢力が九州と連絡した記載はない

古事記に記されている九州地区から奈良・大和を制覇するまでに必要だった期間は20年+α、その間、イワレヒコ(神武天皇)の軍勢が本拠地である九州に戻って体制を整えたとか援軍が来たとかいうことは書いてない。ここから導かれるのは、九州に成立している政権と、神武天皇が打ち立てた畿内の政権は全く別物で、血縁関係があるとしてもそもそも別の実効支配として成立したということではなかろうか。

その論拠としては、まず前述のように古事記自体に出発点から橿原まで、九州から援軍が来たという記述がないことである。当時(倭国大乱)以降九州地区には数十万の人口がいたと考えられ、彼らが総攻撃するとすれば少なくとも数千、普通に考えると二万程度の兵力はあったはずである。

しかし、神武軍勢の規模は小さく、しかも二十年の期間をかけて畿内に進軍し、その間少なくとも二度、全滅に近い敗戦を余儀なくされている。九州にあった統一政権の東上とみるには、あまりにも規模が小さいのである。そして、何かあったときに援軍を送れないならば、それは領土とはいえない。つまり、出発地である九州では、領土と認識していなかったということである。

そして、橿原宮に即位したとされる神武天皇の政権が、九州と連絡をとった(余剰生産物を確保し移送した)という記述もない。九州政権が畿内を統一したのであれば、当然あるべき記載である。余剰生産物を自らの意思で確保し処分したとすれば、それは統一政権ではなく、それぞれの実効支配である。

古事記の記載でも、税の記載が初めて登場するのは11代崇神天皇(ミマキイリヒコ)である[初めて男の弓端の調・女の手末の調を貢らしめき(初めて、男には狩りの収穫物、女には糸や織物を税として献上させた)]。そして、その税をどこかに納めたとは書いていない。

そして、崇神天皇伝に至って、初めて奈良以外の畿内(いまの京都・大阪)、越の国(北陸地方か?)、東国十二国(東海地方か?)征服の記事が登場する。熱田神宮が名古屋にあること、継体天皇が北陸から上京したことから考えて、大和朝廷の勢力圏がここまで達していた可能性は大きい。しかし、関東や九州の制覇は12代景行天皇の御世にヤマトタケルが単独で、しかも敵の大将を暗殺するという形で行ったことになっており、どうにも信頼性に乏しい

そして、繰り返しになるが征服活動というのは余剰生産力と蓄積された富を目的として行われているにもかかわらず、巨大古墳は、全国各地に存在するのである。判明しているものだけでも、全国に数十の古墳群、数百の古墳が存在する。そしてそれらの多くは、4〜6世紀に建造されたはずなのだ。

つまり、全国各地に余剰生産力を自分の思うとおりに使うことのできる人達がいたということである。余剰生産力を自由に使えるということは、その地域を実効支配していたということを意味すると考えてそれほど大きな間違いはなさそうである。


      

1.6.4 古墳時代までは各地の実効支配が並行的に成立

これまでの論点をまとめると、次のようになる。
@ 神武東征神話が祖先から子孫へ伝えられてきたことから、畿内を支配している政権(大和朝廷)がもともと九州から出発したことは事実ではないかと考えられる。
A 神武天皇は畿内侵攻にかなり苦心しているが、その間九州から援軍が来たという内容も、政権確立後九州と意思疎通を図ったという内容も、古事記には書かれていない。だとすれば、当時の九州と畿内は統一政権が成り立つほど近い距離ではなかったのではないか。

このことは、神武東征以外の古事記の記載からもある程度裏付けられる。神武天皇により成立した大和における実効支配は、山城、河内、但馬、淡路といった畿内、尾張など東方十二国、北陸を指すと思われる越の国など、現在の中部・近畿地方の侵攻についてはかなり具体的かつ背景となる記述もみられるのであるが、それ以外の地方、九州だけでなく中国・四国、関東といった地方はそれこそ「ヤマトタケルが単騎、暗殺して回った」世界なのである。

また、古事記により第十一代垂仁天皇までの天皇の妻たちをみると、九州出身の神武天皇を除き、すべて畿内ないしその周辺地域の出身者である。第十二代景行天皇に至ってようやく数多くの妻の一人が日向出身であるが、この天皇は例のヤマトタケルの父であり、続く成務天皇、仲哀天皇ではいきなり九州(筑紫)に遷都したことになっていて、どうも操作されているような疑いのある部分である。いずれにせよ早い段階で日本列島が統一されていたとすれば、通婚圏が拡大しないのは妙である。

さらに古事記をよく読むと、天皇の行列に似せた行列であるとか、天皇の住まい(皇居)に似た建物であるとかいうことに対し、かなり敏感に反応し咎めだてする記事がある(雄略天皇他)。よく地方の古墳に行くと、「大和朝廷が中央集権国家を完成し、地方の有力者に古墳を認めることにより、体制強化を図った」などという説明文があるのだが、基本的にそうとは考えられない。貴重な余剰生産力を使って、当の中央集権国家の王より大きな墓を作らせるはずがないと考えるのが常識である。

古事記については他にもいろいろ面白い記述があるので、別の機会にまた触れてみたいが、基本的に、神武東征と畿内制圧くらいが具体的な軍記であり、あとはほとんどが女がらみの事件簿と、暗殺、だまし討ちの記事ばかりである(と言ったら言い過ぎだろうか?)。そこから想定されるのは、そもそも大和朝廷が実効支配していたのは畿内と周辺の一部地域であって、それ以外に支配は及んでいないのではないかということである。

つまり、少なくとも古墳時代前期(4〜5世紀)には日本列島に統一政権は成立しておらず、軍団が容易に到達できる地域ごとの実効支配が複数あったというのが私の意見である。

この時期までに大和朝廷が統一政権を確立していないというもう一つの傍証がある。仮に、近畿を拠点とする軍団が日本全土を制圧した事実があったとしたら、「近畿の軍隊は強い」ということが各地にインプリンティング(刷り込み)されていなければおかしい。ところが、かなり早い時代から、近畿の軍団は弱いというのが常識なのである(強いのは、坂東、奥羽、九州とされる)。[第一部 完]

1.5 生産性の向上と青銅器の意義

「常識日本史」はこちらに移転しました。 続き(前)はこちらで。