運は平等か(でんさんとtaipaのコメント往復)

カシノやギャンブルに臨む際、おそらく誰しもが「運」について考える。ギャンブルにおける運とは何かを考察し始めたら1日分のコラムで足りるはずはないが、ある側面についてのみ考えることは可能であろう。そういう訳で今日は、「運は誰のもとにも平等に訪れるのか?」について考えてみたい。

「幸運の女神には後ろ髪はない」ということわざがある。説明するまでもなく、チャンスが訪れたらすばやくこれをつかまなければならない。行ってしまってから後悔しても遅いという教訓を示しているのだが、このことわざは、そもそも幸運の女神は誰でもすれ違っているのだ、ということを前提としている。

だが、カシノでは、「いくらどうやっても泥沼から抜け出せない」場面が必ずある。それは、3時間で抜け出せる場合もあるが、一晩中抜け出せない場合もある。2泊3日の遠征のあいだ中、全く幸運の女神が訪れないということさえある。人生程度のスパンで、全く女神に会わない人がいない訳がないという意見すらある。

話は変わるが、今週号の週刊ポストに、細木数子の対談記事が載っている。その中で「あのね、自分の器を知る必要があるの。例えばマラソンがあるでしょう。マラソンが好きな人は、みんな走っていればオリンピックに出られるわけ?そうじゃないでしょう。自分の器に見合ったことをしなきゃダメなのよ。」(要約しました。このとおりには言ってません)というコメントがあった。

細木女史は、昭和の大儒学者であり易学者でもある安岡正篤(やすおか・まさひろ)氏の薫陶を受けただけのことはあって、時々まともなことを言うのだが、ここでは非常に重要なことを言っている。「人はその機会において平等ではない」ということである。このことは平安時代初めに天台宗の最澄と法相宗の徳一が大論争をやった内容と基本的に同じである。その時は、最澄が勝った。主張したのは「一乗論」、すべての人は仏になれる(=機会の平等)という主張である。以来、わが国では機会の平等が暗黙のうちに前提されてきた。

考えてみれば、人間は平等になど生まれついていないし、機会の平等など絵空事なのだが、それを言ってしまうと教勢の拡大ができないし(お前は仏になる素質がない、などという宗教に大勢は集まらない)、そもそも日本という風土(出る杭は打たれる横並び主義)に合わない。しかし、本当のことをいえば、多分、運は誰の上にも平等に訪れる、なんてことはありえないのである。

だとすれば、どうしても勝ちたい、という考え方も一局だし、初めから勝敗は決まっているのだ、と諦めるのも一局であろうと思う。勝ちたいのはやまやまであるが、みんなが勝てる訳ではない。だとすれば、せめて致命傷を負わないようにするのが、長生きの秘訣である、と言えなくもない。

でんさんのコメント

私は、運は誰のもとにも平等に訪れていると思います。

ただその運を使うタイミングで、運が来ているのに使わなかったり、運が来ていないのに運が必要な場面に遭遇したりで結果として、あの人は運がいい(引きが強い)、運が悪い(引きが弱い)の差になるのではないかと考えてます。

例えば、生まれたばかり(0歳)の時すごく運がいい状況にある人がいたとします。当然この人は0歳のときギャンブルはできないので、自分が引きが強いとは考えない(られない)はずです。また、成人(20歳)になって、ギャンブルができるようになったとき、運が悪くなっていて毎回負けていれば、おれは引き弱だと考えるはずです。

文章書くの苦手なものでわかりづらくてごめんなさい。最近引き弱なもんで、運(引き)について考えることが多いです。昔はもう少し引き強だったんだけどなぁ。

TAIPAさんとはちょっと意見が違いますね。

アンサーコメント(抜粋)

でんさん、コメントありがとうございます。

この問題は、かの最澄が徳一との論争のために他の用事をこなせなかった(そのため、空海に密教関係の資料の貸出を再三頼むことになり、最後には断られた)くらいで、私が短時間で結論を出せるものではありませんでした。

だから、でんさんのご意見は当然「あり」だと思うし、確かに、1日の間でも仕事している間や寝ている間に運が来ているのかもしれません。その意味でもなかなか難しい問題であることは間違いありません。

[Apr 27, 2005]