ノー・クリーニング 〜せいうち日記・貧乏克服編3

時々テレビ東京で自給自足番組を流すけれど、あれを見ると首をひねってしまうのである。なぜかというと、いまの日本で食料を完全自給できたとしても、それだけで生活できることはありえないからである。

例えば、仮に食費がゼロですむとする。ついでに住むところはタダで住めて、着るものも十分にあるとしよう。つまり衣食住の不安はないということである。それなら他におカネはいらないかというと、全然そんなことはない。公共料金というものがあって、電気やガス、水道、通信などを使えば食費に匹敵する、あるいはそれ以上の支出が必要になってくるのである。

それでは、水はわき水を引き、燃料は自分で焼いた炭、日が暮れたらランプで過ごし、テレビもDVDも見ないので電気はいらない。車も持たないのでガソリン代や車検費用はなし、加えて携帯もインターネットもしないので通信費用もないというなら現金支出はないのかというと、じゃあ医者にかかるときは何で支払うかということになる。

巨人の星で、宮崎キャンプ近くの山の中の医者は米や酒を診察料の代わりにもらっていたが、あれはあの時代だって梶原一騎の想像上の世界であろう。

さらに、医者にはかからない。自分で薬草を取ってきて直すという人であったとしても、健康保険料は必要である。税金、社会保険、年金についても同様で、いまの日本では、私には必要ないので払いませんとは主張できないことになっている。

つまり、自分で使うだけの分量以上のものを作って、それを現金に換えなければ、いまの日本では生活できないということである。これは厳密に言うと「自給自足」ではない。アイヌの人々は、自分と家族の食べる以上の収穫があれば「山の取り分」として、山の動物達のために残しておいた。これが自給自足ということだと思う。

長々と何を言っているのかというと、自給自足とか、環境負荷(この言葉はあまり好きではないけど)の軽減とかいう場合、どうしても作る方に考えが行ってしまうが、そうではなくて使うのを減らす方向で考えるのが正しいのではないか、という気がするのである。

最近、必要最小限の支出で暮らせるだけの生活水準にすれば、老後のことをくよくよ悩む必要がなくなるのかもしれない、と思うのである。この考えを突き詰めると、いっそみんな生活保護で暮らせばいいということになってしまうのだが、そうなると日本経済だけでなく日本の社会が崩壊してしまう。

そこまで行かなくても、少なくともいただける権利のある年金の範囲内で暮らすことにすれば、最低限の義務(勤労義務)は果たせるし、ムダもなくなるので環境負荷が少ないのではないか、と思ったりする。だから、最近の関心は夫婦2人で月20万円、年間200万円以内の支出で成り立つ暮らしにできないかということである。

もちろん、現役時代には収入もストレスもこれ以上にあるからプラスアルファの海外遠征もしていいかもしれないが、来るべき年金生活時代にはそうした余分の生活はすっぱりと思い切り、清貧の生活に入るつもりである。とはいっても、その支出の範囲内でも、結構楽しめるような気がするのだが。

そんなわけで、最近改めたのは、クリーニングに出していたワイシャツを自宅で洗濯機で洗うことである(実際に洗うのは奥さんだけれど)。

若い頃、既製品のワイシャツでは合うサイズがなくて、仕方がないからオーダーしていた。せっかくのオーダーなので、洗うのもクリーニング屋さんに出していた。1回100円位でも、1年通すと結構な金額になる。そこで自宅洗いにしたのだが、そうなるとオーダーの綿100%よりも既製品の化繊の方が仕上がりがよろしいのだそうである。

近頃はデフレでメーカーも大変らしく、50−90などという、昔では考えられなかったような既製品のワイシャツが見つかる。そんなわけで、手持ちのワイシャツの中で既製品のシェアが徐々に上向いているのでありました。

[Mar 23, 2010]