アマ四強村上文祥先輩の墓参
            (豊島稲門会囲碁会から)

豊島稲門会囲碁会は毎年巣鴨にある本因坊家の墓参(今年は4月7日に実施)をしており、その御利益で昨年のオール早稲田囲碁祭りで念願のAクラス優勝を果たした。

これに倣い荏原製作所で村上文祥先輩の部下であった江戸川稲門会会長伊藤三郎さん、同役員の中村立雄さんのほか、各稲門会囲碁会幹事を含む11人が、先輩の命日にあたる417日世田谷豪徳寺(井伊家菩提寺)にある村上文祥先輩の墓参を行った。

 墓碑にはプロ・アマ最強戦で坂田栄男九段を破った棋譜(手合い:村上アマ6段、先番逆コミ3目)が彫られていた。

帰途、お寺の近くのそば屋で懇親会を行い、囲碁談議に花が咲いたが、なかでも早稲田囲碁会OBの武藤さん(郡上八幡出身)から伺った話として次のような秘話が披露され盛り上がった。「早稲田受験のため上京の途中、関西棋院に立ち寄り幹部と対局したところ、飛び付け四段にするから早稲田に行くなと言われたとのことである。」

 最後に本日の参加者は1年以内に1目(級位者は3目)強くなることを誓って散会した、

参加者 

(江戸川・元荏原製作所) 伊藤三郎会長、中村立雄(早稲田大学フェンシング部監督)

(江戸川)清水 亮(世田谷)武藤 哲、萩原 健(豊島)斎田釣(杉並)植田輝雄

(市川)田中健三(新宿) 山住市郎 (北)北 雷次, 志水一夫


 写真の墓碑に書かれている倶会一処(くえいっしょ)とは、浄土教の往生の利益の一つ。阿弥陀仏の極楽浄土に往生したものは、浄土の仏・菩薩たちと一処で出会うことができる、という意味である。
浄土真宗では、念仏の信仰に生きる人は、この世の命が終わるとただちに浄土に生れるとし、そこで墓碑に「倶会一処」と刻むことがある。それは、先に浄土に往生している先祖たちと、共に同じ浄土に生まれたいと思う心持ちを表したものであるし、また同じ浄土へ往生させていただくことを喜ぶ姿でもある(本項は志水代表が文字ネットで調査した結果)。


 本因坊家墓参     先輩墓碑    先輩を偲ぶ会     

     


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村上文祥について
   (Wikipediaから転載)   

 因島市生まれ、村上水軍の末裔という。小学3年の時に、入院中の父のために碁を並べて見せたことで、囲碁を覚える。中学時代にはプロ棋士の[[関山利一]]九段が[[岡山県]]の疎開先で開いていた研究会通った。この頃、向井一男七段、[[半田道玄]]四段などにも教えを乞い、天下四目を自称した。早稲田大学に入学すると「西の怪物」と呼ばれ、後にライバルとなる[[菊池康郎]]は村上と対戦するために専修大学囲碁部を作って関東学生リーグに参加、全勝同士で最終戦で対決し菊地が勝利したが、村上は学生時代の大会では、この菊池戦も含めて2敗しかしなかった(村上に勝利したのは、菊池康郎のほか江島界雄(中央大学)のみである)。

 大学を卒業した1955年に荏原製作所入社。1960年にアマチュア本因坊戦で優勝。翌年の[[高川格|高川秀格]][[本因坊]]との記念対局(二子で中押勝)は、テレビで初めての囲碁対局の放送となり、翌1962年から[[囲碁の時間#NHK杯テレビ囲碁トーナメント|NHK杯戦]]がテレビ放映となった。その後数々のアマ棋戦で優勝し、アマ四強の一角を占める。1963年には[[日中囲碁交流]]に訪中団代表として出場、641ジゴなど、国際囲碁交流でも活動。1979年、第1回世界アマチュア囲碁選手権戦の日本代表となり、[[聶衛平]][[陳祖徳]][[陳嘉鋭]]に次ぐ4位入賞。第3回には[[邵震中]][[馬暁春]]に次ぐ3位となる。1994年、荏原製作所副社長。1996年、荏原総合研究所社長。1999年死去、[[日本棋院]]より追悼八段。 

オール早稲田囲碁祭