ギリヤーク尼ヶ崎、最後の大道芸人
ギリヤーク尼ヶ崎、鹿沼に出現! [Apr 4, 2015]
「ギリヤーク尼ヶ崎.com」が更新されなくなって以降、ギリヤーク師の動静を把握するのがきわめて困難となっていた。ところが昨年から、ギリヤークさんのファンのブログが公演予定や近況などを知らせてくれるようになったので、たいへんありがたい。そして先週になって、鹿沼公演のお知らせがアップされた。急なことだが、北海道という訳ではないので、行ってみることにした。私にとって、2015年最初のギリヤーク師の公演である。
なにしろ、ギリヤーク師の年間スケジュールは、春は関西、夏に北海道、秋の新宿に続いて冬は川越というのがここ数年定着している。春の関西公演はゴールデンウィークと決まっているので、エアもホテルも確保するのがなかなか困難である(ギリヤーク師はどのように移動するのであろうか?)。だから、冬の川越の後はうっかりすると翌秋の三井ビル55ひろばまで、ギリヤーク師を見る機会がないのである。
その意味では、こうしたイレギュラーな公演機会は大切である。そして、定期的な公演でさえ実際に行われるかどうか情報がほとんどないくらいだから、不定期な公演スケジュールを知ることは容易ではない。数年前も名古屋で不定期の公演が予定されていたのだけれど、数日前にギリヤーク師の体調不良で公演中止となったことがあった。
という訳で、半信半疑で主催者のホームページをのぞいてみると、確かに公演は行われるようだ。それも、設立30周年記念イベントの一環ということなので、かなり力が入っている。会場は栃木県鹿沼市。人形劇団のアトリエ前の畑でというのも面白そうだ。普段のギリヤーク師は都会の堅い地面の上で踊ることが多いけれど、路上公演数十年のキャリアからすれば、地面にせよ空模様にせよ大抵のことは経験しているはずだ。
鹿沼市街から古峰ヶ原街道に入り、山の方向に向かう。WEBで調べたところによると、会場は農産物直売所から脇道に入った先にある。直売所を見逃さないよう注意しながら走ると、案の定、直売所はごく小さな小屋掛けで、あやうく通り過ぎてしまうところだった。この先の道は狭くなるが、舗装はされていたのでちょっと安心する。グランドの前の建物あたりにひと気があるので近づいてみると、会場であるくぐつ・あとりえであった。
当日いただいた資料によると、主催者である人形劇団くぐつは1985年に宇都宮市に設立され、2001年の「くぐつ・あとりえ」建設に伴い、こちら鹿沼市に移った。人形劇による創作民話を中心に定期公演を行う他、各地で出張公演を続けている。栃木県だけでなく茨城、群馬、埼玉、福島などに年間平均160回の巡回公演を行っているそうだ。
この分野には根強いファンがいるようである。家の奥さんによると、生協とか環境保護が好きなおかあさんは、たいてい人形劇も好きなんだそうだ。この日も、ボランティアでお手伝いに来ているおかあさん達が何人かいらっしゃった。主催者と思われる方は舞台の黒子の衣装を着て、会場のあちこちで準備をされている。
開演40分前くらいに着いてしまったが、ちょうどその時、ギリヤーク師は会場の様子を見ていた。今年で御年85になるけれども、川越公演の時と様子は変わらず元気そうである。昨年は、新宿公演のときあまり調子がよくなくて心配したが、川越ではみごと復活した。この冬も、何とか無事に冬を越せたようで安心した。
アトリエの庭先にはおかあさん達が出店を開いていて、お茶や甘酒が無料サービス、蒸しパンやピザが売られていた。ギリヤーク師の公演では、あまり見ない雰囲気である。奥さんは無料の甘酒をいただき、私は100円の蒸しパン(ココア味)をいただく。悪いものがはいっていない安心できる味である。そういえば、生協のおかあさんといえば、蒸しパンというイメージがあるなあ。
受付をしているおかあさんに、「よろしければお名前を」と言われてノートに住所と名前を書く。「千葉からですか。わざわざ遠くからどうも。ファンの方ですか?」と聞かれて、奥さんが「主人がです」と強調する。ファンかといわれるとちょっと違うような気もするのだが、世間一般的にはファンということになるのだろうか。
日が傾いて、あたりはかなり冷え込んできた。すぐ近くが山なので日が暮れるのも早いし、桜が咲いたとはいえ山はまだまだ寒い。外は冷えるので、アトリエ内の待合スペースでコーヒーをいただきながら開演を待つ。格子戸を隔てて奥の舞台・客席スペースでは、ギリヤーク師が待機している。何やらつぶやいているのは、開演前に集中を高めるためだろう。いつものことである。
今回の鹿沼公演は、「人形劇団くぐつ」の開設30周年記念企画として開催されました。後方建物がくぐつ・あとりえで、中に舞台・客席と控室がある。
公演会場は、アトリエ裏の畑。木の板が敷かれているのが舞台で、暗くなってからはライトアップされた。山が近いので、かなり冷える。
午後6時前、控え部屋を通ってギリヤーク師登場。舞台となったアトリエ前の畑にはベニヤ板が敷かれているが、そこまでの地面にでこぼこがあってカートがなかなか進まない。それと、例のバケツ(水をかぶるやつ)が置いてある場所をどこにするかで手間取って、開始は5分ほどずれ込んだ。観衆は50~60人くらい。常連の方はみたところ5~6人で、他は人形劇関係者である。
とりあえず荷物をほどいて身支度に入るが、ベニヤ板のスペースが微妙に師匠のセンスと合わないのか、配置にいつもよりも手間取っている。思うに、今回のベニヤ板は公演の際にろう石で書くところの「丸印」と同じくらいの大きさなのだが、いつも「丸印」よりも広く荷物を置くので、イメージと違ったのだろう。ベニヤ板のスペース内に置こうとすると狭いのだ。
そうこうしている間にあたりはどんどん暗くなり、スポットライトの照らす場所以外は闇が濃くなってきた。「フラッシュ・ストロボ禁止」と書かれているので、旧式のデジカメでは手ブレが心配。というよりも、シャッターを押してから撮影するまでも師匠が動くので、後からみるとほとんどの写真でブレてしまっている。いつもは本格的なデジタル1眼レフを持ってくる人が何人かいるのだが、今回はどこかの記者らしい女性が一人(この方が師匠の写真集を出版するキノさんであったことが後で分かった)くらいである。
ようやく化粧が終わったのは6時40分頃だった。もう真っ暗で、背後の山の形はわからなくなっている。200mくらい向こうにあるお宅の門灯だろうか、2つ3つ強い光が点になっているのが印象的である。いったんは触れのプログラムを手にした師匠だが、何かがしっくりこないのかいったんそれを置いて、赤いヒザ当てを上げ下げする。滑り具合も、普段とは違うようである。
「じょんがらー、じょんがらー、じょんがらー。」
触れの声は相変わらず、御年85とは思えないくらい元気である。常連の何人が「待ってました!」「日本一!」「がんばれっ!」と声をかけると、その日はじめて見た観客からもかけ声が続く。最近の定番であるじょんがら一代からのスタートである。
出だしのすり足は、ベニヤ板から出て、土の上を歩く。やや動きが小さくなるのはやむを得ない。エア三味線がしばらく続いた後、三味線もバチも放り投げ、ペットボトルを放り投げするのだが、いつもより歩く範囲が小さい分、動きも小さくなってしまって予定より早くにやることがなくなってしまった。昨秋の新宿と同じようなパターンである。あの時は「念力」の振りで踊ったのだが。
今回は、ベニヤ板の外側、土の上を転げ回る。でも、曲はなかなか終わらない。スペースが狭いので、何かと不都合があるみたいだ。ようやく曲が終わりになる頃には、師匠は泥だらけで小道具は全部放り投げてしまって、赤じゅばん一枚になっていた。最前列で見ていた子供がせきをしているくらい冷えて来ているのに。
「今日は暗くてお客さんが全然見えなくて、」と師匠の第一声。「今日のじょんがらはアドリブばっかりになってしまいました。」話し始めると、だんだん調子が出てくる。
「遅い時間にやることもあるんだけど、こんなに暗いのは初めて。自分の動きも見えないし、お客さんも見えない。でも、だんだん調子が出てきたんで、がんばって踊ります。」
次は、お客さんを何人か誘っての「よされ節」、これも、あたりが暗いためか、お客さんもイマイチだし、師匠も今一歩、なにせ鹿沼の次は今市である。そして締めは念仏じょんがらである。これがまた、いつもに増してハプニング続きの念仏になった。
ギリヤーク師登場。いつもとちょっと環境が違う。後方に見える黒衣姿が主催者。「フラッシュ・ストロボ禁止」のため、手ブレご勘弁。
化粧の途中くらいから、あたりは真っ暗。仕度にも時間がかかってしまう師匠。この日は特にヒザ当ての調子が気になっていたようです。
山から深々と冷気が下りてくる中、念仏前の師匠のトークが続く。
「念仏じょんがらは、妹を思って作ったの。妹は赤ちゃんの頃、脳膜炎になって、・・・」
妹さんのことを話すのは、初めて聞いた。ギリヤーク師の妹さんは赤ちゃんの時の病気のために、今でいうところの知的障害者(当日はそういう表現ではなかったが)となってしまった。おばあさんに大変なついていて、おばあさんが亡くなる時には、よく分からないなりに大変悲しんだのだが、その妹さんも20歳過ぎてすぐに死んでしまう。
その時のこと、「ばあちゃんのところに行くか?」と尋ねたところ、「いやだ。死にたくない」と言ったんだそうだ。その後阪神淡路大震災やいろんな大きな災害があって、そんなことを思い出しながら念仏じょんがらを作ったというようなことを、声を詰まらせながら師匠は話したのであった。
なぜこのエピソードが、この日、師匠の頭をよぎったのだろう。私が思うに、原因は、くぐつ・あとりえの中にたくさん置いてある人形ではないだろうか。人間の脳は、同じものを見ても、過去に見た何かと似ているとそれと認識してしまう。よく言われる心霊写真というのもそれで、人間にとって「顔」というのはきわめて重要な情報であるから、似ているイメージを見ると顔と認識してしまうのだ。
アトリエに置いてある人形のどれかが、脳の奥底にある妹さんの記憶を呼び覚ましたのではないかと想像するのだが、どうだろうか。おそらく、四十年五十年前から眠っていた記憶である(だって、この日まで聞いたことがなかったんだから)。それが人形によって起こされたのだとすると、師匠にとってわざわざ栃木まで来た甲斐があったというものであろう。
時間はもう7時半近く、この日の公演は大変に長いものとなっている。そして、念仏じょんがらのスタート時、川越と同じく、またもや「禁じられた遊び」が流れ出してしまう。「あれ?」とか言いながら、カセットテープをひっくり返ししながら首をひねっていると、黒衣姿の主催者の方が走り寄ってきた。おそらく、予定時間をオーバーしているのだろう(屋外の公演なので、離れているとはいえご近所へのご迷惑となりかねない)。
テープを早送り、巻き戻しして懸命に頭出ししている。主催者の人に呼ばれて、川越の世話役の人も駆り出され、「僕も分かんないんだよなあ」などとつぶやいている。あまり他の人がいじると、年代物のカセットレコーダーだから壊れないか心配である。けれど、見ていて思ったのだが、あれは師匠が「わざと」やっているんじゃないかなあ。一度ならともかく、川越に続いて2度目である。きっと、あの時受けたのがうれしくて、またやったんじゃないかと思う。
5分ほど早送り巻き戻しした結果、なんとか頭出しができ、無事に念仏じょんがらが始まった。この日の演舞の中では、最後の念仏が一番よかった。階段がないので後ろの高くなっている場所(最初にカートが通らなかったところだ)まで走って行き、さらに件のバケツまで走って水をかぶり、数珠を振り回す。投げ銭が乱れ飛ぶ。いつものギリヤーク公演と同様である。
「夜でまわりがよく見えなかったけれど、なんとか踊り切って自信がつきました。4月はこれから関西公演に行ってきます。そして、88歳の五十周年までがんばります」
と話す師匠に、栃木の皆さんから暖かい拍手と声援が送られた。あまりに寒かったのでわれわれはすぐに車に戻ったが、師匠も主催者の方が用意したお風呂に直行したそうである。風邪などひかずに、GWの関西もがんばってきてほしいものである。
[Apr 12, 2015]
じょんがら一代が始まる頃には、あたりは真っ暗。
山から深々と冷気が下りてくる中、締めは念仏じょんがら。思うに、テープ間違えるのはわざとかなあ。
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