ギリヤーク尼ヶ崎、最後の大道芸人


ギリヤークを見に行く(2012釧路公演)

ギリヤーク尼ヶ崎、1930年生まれだから今年82歳。最後の大道芸人と呼ばれる舞踏家である。「マルサの女」宝くじの男を見てそのインパクトある存在を知ってはいたものの、実際に見たことはなかった。しかし80歳を超えていまだ現役、そろそろ実物を見ておかないと後悔することになりかねないと思って、今年の春あたりから機会を探っていた。

ところが、ファンサイト”gilyakamagasaki.com”に2012年の北海道公演のスケジュールが掲載されたのが7月に入ってから。公演日程は7月1日から8月5日までなのであまり日にちがない。どうやら行けそうなのが7月28日の釧路なので、急きょ調整して土・日で釧路往復のエアを確保した。カシノではないので奥さんも一緒の北海道一泊二日の遠征である。

朝一の便で釧路に飛ぶ。バスで釧路駅に着いたのが11時過ぎ。駅に荷物を預けて、とるものもとりあえず和商市場の勝手丼を食べてから、会場である釧路フィッシャーマンズワーフMOOまで歩く。ここは釧路のランドマークともいうべき幣舞橋(ぬさまいばし)の近くにある。

近くでにぎやかに人が集まっているのは、「くしろ霧フェスティバル」が開催されているらしい。こちらのメインゲストは岡本真夜である。実はこの日、釧路市内のホテルはすべて満室であったのだが、このイベントが開かれているのと、後でレンタカーの店の人に聞いたらバレーボールか何かの大会があるらしい。駅にも警察の警備が何人かいたので、皇族方でも来るのだろうか。

さて、20分ほど歩いて会場には着いたのだが、どこにもギリヤーク公演の張り紙がない。フィッシャーマンズワーフの一番幣舞橋よりにある植物園施設EGGまで行ってみると、その運河側のところで、なんとギリヤーク本人が会場の人たちと打ち合わせ中であった。まだ開演2時間前である。

運河わきの通路にろう石で丸を書き、「ギリヤーク尼ヶ崎公演、午後2時より」と書いている。運河の柵のところには、近藤正臣が贈ったとされる「大道芸人ギリヤーク尼ヶ崎」の幟が結び付けられている。公演を知らせるものはそれだけで、これで人が集まるのだろうか。それとも、路上公演であるため警察に遠慮しているのだろうか。(WEB情報によると、何度も道交法違反で捕まっているらしい)

会場の人たちと打ち合わせをしているのを近くのベンチに座って聞いていると、どうやら演技中の掛け声について話をしているようだ。80を超えている割には高くて元気な声である。しかもずっとしゃべっている。しかし、白髪のざんばら髪にジャンバー、革靴。おんぼろのトランクを持った姿は、そうと知らなければ浮浪者の人とあまり変わりばえがしない。

後から奥さんが会場の人を捕まえて聞いてみると、どうやら昨年は2、300人集まったらしい。「1時間前くらいから場所取りの人が集まりだしますよ」というので、ちょっとびっくり。屋台村でラーメンを食べてから、後ろのベンチで座って待つことにした。こんなに前から待つのは、ディズニーランドに子供を連れて行って以来である。



開演2時間前、会場の人たちと打ち合わせるギリヤーク。ジャンバーを着るほどの気候ではないのだが・・・。足元は革靴。





最初の踊り「じょんがら一代」の準備をするギリヤーク。

ギリヤーク尼ヶ崎、1930年函館生まれ。現在は東京在住。配布されたプロフィールによると、邦正美舞踊研究所で学び、1968年から青空舞踊(街頭公演)を始める。以降、米国、フランス、オランダ、ベルギー、ロシア、ブラジル等々で街頭公演を行う。

日本各地でも街頭公演を続けるとともに、伊丹十三作品その他の映画・TVにも出演。阪神・淡路大震災の際は、被災者・犠牲者を追悼する「祈りの踊り」として、実際に被災地に赴いて街頭公演を行った。同様の追悼公演を9.11同時テロ、JR福知山線事故、東日本大震災でも行い、齢八十にして、ますます新境地を開いている。

釧路ラーメンを食べて戻ってきたのは12時半頃。ちなみに釧路ラーメンは最近はやりの脂ぎったラーメンとは違い、あっさり味。麺も小麦粉とかん水で作ったシンプルな麺で、昔の味である。奥さんは醤油、私は塩を頼んだ。実は1時間前に勝手丼を食べているのだけれど、全く問題なく完食。

こんな早く集まる人はいないだろうと思っていたら、キャリーバックを引いている中高年女性が一人、それと最前列に場所取りをしている荷物が置いてある。他にも、遠巻きにして立っている人たちがいて、うちの奥さんが「あれはきっとそうに違いない」と言っていた何人かは開演前に近付いてきた。よく分かるなと感心したのだが、奥さんは人相風体からそれらしい人は直感的に分かるそうである。

開演30分くらい前には、隣の「霧フェスティバル」の警備をしているらしい警官がやってきた。路上に置いてある写真(ギリヤークの震災追悼公演のものなど)をしげしげと見ていると、どこからかギリヤークが現れて一生懸命説明している。かつては道交法違反で何度も検挙されているそうだが、この日はそんなこともなく、警官の人も立ち去ったようだ。

さて、2、30分前になるとベンチはほぼ満席、立って待つ人も現れた。目の子で数えると4、50人くらいだろうか。さらに、開演10分前になるとギリヤークが2時間前に書いた丸印の周りにみんな集まってきた。1列目の人はレジャーシートを敷いて座っているので、おそらく初めて見るのではないだろう。開演前には、会場の人の言う2~300は大げさとしても、百人以上は優に集まった。

警官への説明に時間をとられたためか、3分ほど遅れてギリヤーク尼ヶ崎登場。2時間前と同じ格好である。「大道芸人 青空舞踊公演 公演時間15分」と書いた小さな掛け軸を置いて、おもむろに身支度を始める。公演時間15分は短いようだがこれは正味踊る時間で、この人は身支度を始めるところからパフォーマンスなのだ。





白黒コピー機で制作したと思われるチラシ。左はフィッシャーマンズワーフ2階屋台村のメニュー。“ザンギ”とはこちらの名物であるから揚げ。





演技前に題目を触れるギリヤーク。黒の襦袢は、トリで代表作の「念仏じょんがら」。

見かけはホームレスの方々と区別がつかないのだが、こうした身支度は結構几帳面である。ジャンパーを脱ぐと、ボストンバックの中から赤い肌襦袢と帯を取り出した。脱いだ洋服はきちんとボストンの中にしまわれる。ズボンを脱ぐと、トレードマークともいうべき赤いふんどしが見える。フランスの街頭公演では警官にクレームをつけられたという、いわく付きの赤フンである。

足袋をはき草鞋をはき足下の身支度を済ませると、今度はバレーボールの選手がよくやる膝当てを付けた。この膝当ては赤く染められていて、茣蓙の上が赤くなっているのは、膝当ての色が移っていることがわかる。ペットボトルを3本、蓋を外して茣蓙の横に置く。そのうちの1本に口をつけると、茣蓙の上に霧を吹いた。

次は音楽の用意である。いまどきカセットテープレコーダーなのは、CDは使いこなせないだろうから仕方ないのかもしれない。このテープレコーダー、40年使っている間にそうなったのか、あるいは最初から廃品回収から拾って使っているのではと思わせるような年代物。しかも、カバーはそこらじゅう切れて、ガムテープで補修してあった。

さらに、ダミーの三味線、これも破れて原型をとどめない代物を肩にかけた。ボストンバックの中から布で作ったメニューを取り出すと、観客の方に進み、まず自己紹介を書いたコピーを「これ、回してください」と置いた。そして2、3歩下がると、「(左を見て)じょんがらー、(正面を見て)じょんがらー、(右を見て)じょんがらー」と最初の踊りを触れた。年の割に張りのある大声だ。大きな拍手。ここまで20分以上が経過している。

「じょんがら一代」は津軽じょんがら節の音楽に合わせて、エアギターならぬエア三味線で踊る。おそらく、じょんがら節の演奏に生涯をかけた演者という意味なのであろう。ギリヤーク自身、幼少のころは角兵衛獅子や門付けの大道芸に親しんだというが、東京で舞踊の勉強をした頃はプレスリーの全盛期のはずである。

次の出し物は「よされ節」。ここでは前列の若い女性や子供の手を引いて、一緒に盆踊りのように踊る。子供を持ち上げて「重いなー」と言っているのはほほえましいが、落としてケガをさせたら大変とちょっと心配になる。80にしては軽いステップを踏むのは、やはり年季が入っているからだろうか。

ここで小休止して、衣装を改める。赤い前だれを結び、赤い帽子をかぶり、黒い襦袢を着る。メインの「念仏じょんがら」である。





じょんがら一代を踊るギリヤーク。





よされ節を女の子と踊るギリヤーク。

「東日本大震災で亡くなられた方々の冥福を祈り、一生懸命踊ります。」とコメントした後、後ろを向いてボストンバックに何か入れた。奥さんはしっかり見ていて、ここで素早く入れ歯を外したそうである。外すのは素早かったが、踊りが終わって入れる時はそれほど早くはできなかった。その間はしゃべれないのがちょっと面白かった。

まず観客側を半周、木枯らしの伴奏を背に杖をついてゆっくり歩く。動きがゆっくりなのはここまでで、その後はじょんがら節の音楽に合わせて激しく動く。杖を動かし、数珠を振るい、南無阿弥陀仏を唱える。クライマックスでは、最初から置いてあったペットボトルの水をかぶって幣舞橋に向けて階段を駆けあがり、橋桁に上って再び数珠を振り回す。そこから戻ってくる途中、さらにバケツの水をかぶる。

(後から橋のところまで行って確かめると、1mほどの高さがあり、前は階段、後ろはコンクリの歩道なので、落ちたらかなり危なそうな場所であった。)

10分弱の演技であったが、あっという間に終わったような印象を受けた。おそらく迫力のあるライブ公演というのは、このように観客の目をそらさせないものなのであろう。路上なので通りがかりの人ももちろんいたのだが、かなりの数が立ち止って見入っていた。

正直なところ、途中で見るに堪えなくなるのではないかという危惧が若干あったのだが、それどころではなかった。最近TVを見ていると、2、3分で見ていられなくなるものがほとんどなので、そんな心配をしていたのだがとんでもなかった。着替えを始めてから約1時間、ほとんど目を離す余裕さえなかったくらいである。

演技の終わったギリヤークは両手を上げて観客の拍手に応え、水をかぶったびしょびしょの頭のまま周りを取り囲んだ人たちと話を始めた。会場の人に聞いたところ、ギリヤークは大変話好きなので、これが1時間近く続くそうである。

「50周年までやりたいんだけどね。まーどうだろーかね。」「踊りをやっているというと医者は日本舞踊を想像するらしくて、私のビデオを見たらたまげていた。」などと話しているのが聞こえる。観客の前に置かれた帽子には、ほとんどの人が千円札を入れている。この1時間の公演で、おひねり収入は数万円になったものと思われる。

路上パフォーマンスというと、30年くらい前の原宿路上での一世風靡セピアが思い浮かぶが、彼らは舞台が主で路上が従。ギリヤーク尼ヶ崎は彼ら以前から路上に立ち、80歳を超えた今なお路上一本である。おそらく、みんなの前で踊って拍手喝采を浴び、踊りのことを話したりするのが大好きなんだろうと思う。秋の新宿公演にも、できるだけ行くようにしようと思った。(完)

[Aug 8, 2012]




幣舞橋の橋桁に駆け上がり数珠をふるうギリヤーク。




公演が終わり、観衆に囲まれるギリヤーク。帽子の中には、千円札がたくさん入れられていた。



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