ギリヤーク尼ヶ崎、最後の大道芸人


ギリヤーク2017新宿公演 [Oct 9, 2017]

今年も体育の日がやってきた。体育の日といえば、ギリヤーク尼ヶ崎師匠の新宿公演である。 4、5年前に「50周年目指してがんばります」と言っていた時には、80過ぎてそんなにできないだろうと思っていたものだが、気がついてみるとあと1年である。NHKの番組以来観客が増えてしまったのは見る側にとってあまりありがたいことではないが、ギリヤーク師にとっては当然うれしいことであろう。

ともかくも、お遍路の日程を遅らせて新宿に向かうことにした。2017年10月9日、体育の日らしく快晴無風絶好のコンディションである。おそらくNHKや新聞の影響で人が増えているだろうから、少し早めに着いたつもりなのだが、開始45分前にはすでに三井ビル55広場は人でいっぱいだった。

昨年確保した前列ブルーシート桟敷席は、すでに三重くらいに列ができてみんな座っている。その外側に55広場の椅子を使って座っている人が二、三列で、師匠が踊る付近から15メートルくらいすでに埋まっている。驚くべきは、会場の後ろにあるベンチやレンガに座って待っている人がいるし、階段や歩道橋上にも観客がいたことである。すでに200人以上になっていたのではないだろうか。45分前に。

こういう場合、考えている間にも場所を取られてしまう。まだ誰も座っていない数少ない椅子を確保した。誰も「そこは私の椅子です」と言わないので、早い者勝ちで私の席である。そうこうしている間にもどんどん人が増える。私の横にも後ろにも人が立った。椅子を確保できたのはラッキーだった。

さて、落ち着いて周囲を見回すと、例の近藤正臣寄贈の幟は、いつものように会場右手に風になびいている。ただ、幟の周囲にいる人はいつも見る人達ではない。どうやらマスコミ関係の人のようだった。集音マイクやテレビカメラのようなものも見える。前回の新宿公演から、急に増えたようである。

さて、昨年のギリヤーク師は、春の関西・横浜六角橋を中止、夏の函館・札幌も直前キャンセルで、新宿が一年振りのぶっつけ本番であった。それに対して今年は、すでに横浜六角橋と、函館・札幌公演を済ませている。昨年は初めての車椅子使用で師匠も慣れなくて苦労したと思うけれど、今年はもう何回か踊っている。安心して見ていられるとは言わないが、そう冷や冷やしなくてもすみそうだ。

その分、アシスタントのキノさんのご苦労は大変なものと想像する。キノさんはもともと師匠の公演を何年も追いかけたカメラの専門家で、師の写真集「ギリヤーク尼ヶ崎への手紙」(ISBN978-4-9908-3410-4 C0720)を出版された他、写真展等も開催している。新宿公演2017で宣伝していたのは別の北海道新聞の写真集。こちらにもキノさんの写真は載っている。

だから以前は最前列でカメラを向けていたのだが、師匠の故郷である函館市の観光大使(だったかな)という縁もあってアシスタント的な役割を果たすようになり、このところの公演はキノさんの助けなしで行うことができない。一方、いまやアシスタントの役割が大変なものだから、キノさん自身が公演の様子をカメラに収めることができない。

これはご本人にとってかなり精神的につらいことだろう。撮影について快く引き受けてくれた師匠への恩返しの意味はあるとしても、キノさんのしたいことはあくまでカメラのはずだからである。いろいろ行きがかりがあってやらない訳にはいかないのだろう。がんばってほしい。

開演15分前、そのキノさんが黒衣姿で登場、以前だったら師匠が自分で運んできたトランクやテープレコーダー、茣蓙などを舞台中央へ運び込む。10分前、オサムさんが登場。舞台右手の前列に位置を占める。2時のチャイムが鳴る。会場は後ろまで一杯だ。400名か500名は来ているはずだ。人の影になって見えないが、誰かが「待ってました」と声を上げ、続いて拍手が巻き起こった。

昨年同様に丸亀製麺の前から、車椅子に乗っての登場である。すでに顔を白く塗り、赤い襦袢・白い羽織、叩きすぎて表が破れてしまった三味線を持ってギリヤーク尼ヶ崎師匠が現れた。黒衣のキノさんがゆっくり車椅子を進め、拍手とシャッターの音、そしてみんながスマホを向けた。2017新宿公演の始まりである。





今年の新宿公演もキノさんの押す車椅子で登場。すでにお化粧済。





舞台に登場すると車椅子から立ち上がり、「じょんがら一代」。片足立ちのポーズも披露。





「じょんがら一代」が終わると早速トーク。ただ、何をしゃべっているのかよく分からない。

車椅子から立ち上がったギリヤーク師は、人垣の中を三味線と撥を手に踊る。距離があるせいで足下までは見ることができないが、動きは昨年よりもよくなっているようだ。片足立ちのポーズも決めて、大きな拍手を受けた。

「じょんがら一代」が終わった後、さっそくトークが始まった。しかし、何を言っているのかよく聞き取れない。「こんな病気になってしまって・・・」と腰に手を当てていることから、病気で満足のいく動きができないという意味のようだ。題目を準備したキノさんがいったん下がって待機するほどトークは続く。

さて、その話の時はいつもの公演の時より離れているので、それで声が聞こえないのかと思っていた。ところが、念仏の後のトークでキノさんがマイクを準備してスピーカー音声で聞いたのだけれど、それでもよく分からなかった。触れの声も以前より小さくなっているので、声量そのものが小さくなっているのかもしれない。

周知のとおりギリヤーク師は心臓にペースメーカーが入っていて、膝は半月板がない。その上パーキンソン病で手足の震えが止まらず、脊柱管狭窄症で背中も曲がったままコルセットが必要になってしまった。パーキンソン病は薬で抑えているということで震えは以前に比べると目立たなくなったけれど、満身創痍に違いはない。出て来れるだけでも大したものである。

かなり話した後、ようやく次の踊りに移る気になったようで、「よされー、よされー、よされ節ー」とよされ節を触れた。最初にオサムさんのところに行ってオサムさん登場。もうひと方、おそらく運営か報道の男性が中央に進んだ後、ギリヤーク師は最前列の女性を次から次へと引っ張り出すので、狭いスペースが人だらけになってしまった。

2、3年前まではギリヤーク師の動くスペースが必要なので、ブルーシートの桟敷席まで距離があったので「よされ節」が多人数でも大丈夫だったが、いまでは横浜六角橋くらいのスペースしかない。あんまり引っ張り出すと収拾がつかないのであった。でも、きっとたくさん集まってうれしかったのだろう。

よされ節が終わると再び盛大な拍手。今度は師匠トークをする暇もなく、念仏への衣装替えである。残念ながらこれもキノさんの手を借りなくてはならない。思えば、荷物運び、化粧、着替え、テープ、すべてキノさんの助けが必要である。それでもなんとしても50周年まではがんばりたいのだろう。キノさんお疲れ様。

かつては、縞のランニングシャツ(というのかどうか)、黒のズボン、革靴から器用に踊りの衣装に着替えたものだが、いまではコルセット姿が痛々しい。赤の頭巾を被った後、例のよだれかけを持って観客の方へと進む。ちょっとざわついたのは、「もっときつく。それじゃ苦しい」のギャグを会場でも期待したせいだろう。さすがにその余裕はなく、おとなしく結んでもらう。

「念仏じょんがらを」「・・・のため」「精魂込めて踊らせていただきます」とぎれとぎれでよく聞き取れない。今年はどの災害の犠牲者のためだったのだろう。「ねんぶつー、ねんぶつー、ねんぶつじょんがーらー!」ギリヤーク師精一杯の触れである。「いいぞ!」「がんばれ!」「日本一!」会場の方々から掛け声がかかる。

ギリヤーク師は茣蓙を脇に、杖を突いて、念仏じょんがらの準備。キノさんがテープのスイッチを入れる。キノさんの年齢だと、テープレコーダーはもちろん、カセットテープだってほとんど見たことがないはずである。私が就職した頃CDが出始めて、ハードディスクなどいろいろな媒体を経ていまやネットで音楽を聴く時代。私も引退する歳になった。

例によって、ご詠歌、風の音、三味線が交差する。「念仏じょんがら」のスタートである。





やっと始まった「よされ節」。例によってオサムさん登場。コルセット姿でがんばる師匠。





残念ながら、着替えやテープの準備はキノさんの手を借りなくてはなりませんでした。





「念仏じょんがら」を精一杯踊らせていただきます。

「念仏じょんがら」が始まった。以前ギリヤーク師は、「体が動かなかったら顔で踊る」と言っていたが、まさにこの日は顔で踊っていた。体の方も、以前のような大暴れという訳にはいかないものの、きちんとステップも踏めていたし、リズムも取れていた。数珠を手繰りながら、一生懸命に肩を揺らし、体を屈伸させ、顔を伸ばしたり縮めたりしている。

中盤に入ると数珠を振り回し、頭巾もよだれかけも脱ぎ捨てる。まさか階段まで行くつもりでは、と思ったがさすがにそれはなく、螺旋階段とは逆側に走って用意してあった例のバケツから水をかぶる。会場からは拍手、大歓声である。

このあたりから、ギリヤーク師に向けて色とりどりの紙に包まれた投げ銭が舞う。ところが、いつもより相当に距離があるものだから、なかなか踊るスペースまでは届かない。ブルーシートに座っていた人達は、頭の上から投げ銭が降ってきたことだろうと思う。私の近くの人も、ティッシュに包んだおそらくお札を投げたものだから、舞台のかなり前に落下してしまっていた。

水をかぶった後、念仏のラストでギリヤーク師は寝転んでのた打ち回る。おそらくそうしていたのだろうと思うが、人垣にはばまれて何をしているか全く見えない。きっと「かーさーん。来年は50周年、がんばるよー」と言っていたのだろう(100%私の想像)。

一度寝てしまったら起き上がるのが大変だと思っていたのだが、何とか立ち上がってお母様の写真を手に、再びトークが始まった。今度はキノさんがマイクを用意してスピーカーで流してくれたのだが、これがまたよく聞き取れないのである。

「来年はもっと踊れるように・・・」「みなさんも・・・」距離があるせいもあるが、いつもよりも滑舌がよくないようでもある。報道の集音マイクも向けられていたが、果たして音が取れたかどうか。それでも観衆はそのまま動かず、ギリヤーク師が話す言葉に耳を傾けている。

岩波の雑誌「図書」にギリヤーク師の原稿が載っているという話と、写真集(北海道新聞の)を買ってくださいという話は、キノさんがアシストしたのとモノが見えるので意味がよく分かった。岩波の雑誌は紹介だけの予定だったと思うが、ギリヤーク師は朗読を始めてしまい、これもしばらく続いた。

内容としては、「私が小さい頃、大道芸人の親子を見て云々」といういつもの話なのだが、後日、図書館に行ってその雑誌を読んだところ、「じょんがら一代」の話、妹さんの話、お母様の話などいつものトークでおなじみの話題の他、伊丹監督の映画に出た時の話もちらっと書いてあって興味深かった。

ギリヤーク師の生家が函館の菓子屋ということは知っていたが、その菓子屋がうまくいかず秋田の大館に移ってホームラン焼をヒットさせたこと、その菓子屋を売ったおカネで師が再び東京に出たことなど、はじめて聞いた話もあった。「おかあさーん」は、後に東京に出て来て、ギリヤーク師と一緒の会社で清掃員の仕事をしていたそうだ。

私も歳をとるとともに思うようになったのだが、人がみんな同じような生活をして同じような人生を送る必要はない。ギリヤーク師はある日青空をみてインスピレーションが下りてきたというようなことが書いてあったけれど、人それぞれ、自分のやりたいことをして好きな人生を送る権利がある。他人に大きな迷惑をかけない限りにおいて。

いつものように、トーク途中で会場を離れた。振り返ると、人が多い時でも後ろの方で下の煉瓦が見えるくらいなのだが、そこも人で埋め尽くされ、階段も歩道橋も人人人であった。おそらくピークで500人来ていただろう。ギリヤーク師にとっては喜ばしいことだが、個人的には数年前、大雨の中、30人くらいの観客で身近に見た時がなつかしかった。

いまなら、仮に雨になっても相当の人数が集まるだろう。そうしたことを考えると、時間は逆に戻せない、あの時の公演を見ておいてよかったとしみじみ思うのである。

[Oct 25, 2017]





三味線と風の音、ご詠歌が流れる中、ゴザを手に踊り始めた師匠。暴れ回ることはなくなったが、懸命に踊る。体が動かなければ顔で踊る。





お母様の写真を手に、目線は、今年は登れなかった螺旋階段の方を向いているようだ。





例によって抜け出した後の会場。今年はピークで500人以上いたと思います。階段も歩道橋も満員。ギリヤーク師の周りに見えるのは投げ銭の包み。



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