神戸の鉄人28号    関ヶ原ウォーランド    大潟村干拓博物館    江田島海軍兵学校
国際館の恐怖    地図と測量の科学館    月形樺戸博物館    熱海赤線地帯跡


神戸の鉄人28号 [Dec 2, 2008]

神戸市長田区は、阪神淡路大震災で大きな被害を受けた所である。今回の出張の帰り道に、長田区に登場した鉄人28号を見に行ってきた。

なぜ長田区に鉄人なのかというと、作者の横山光輝氏の故郷なのだそうである。商店街には鉄人だけでなく、氏の作品である「三国志」にちなんださまざまの人物像(諸葛孔明とか関羽とか)も展示されている。

(展示パネルによると、横山氏は最初、神戸銀行に就職して短期間で辞めたそうである。何となく他人のような気がしない。)

正直なところ、三国志は氏のオリジナルではなく、ちょっと首をひねるところもあるけれど、まあ堅いことは言わないでおこう。ちなみに横山光輝というと鉄人の次は伊賀の影丸で、われわれの世代に由比正雪の乱が有名なのは影丸の功績も大きいのだが、「伊賀のカバ丸」と混同されることもあるのだろうか(そんなことはない)。

それはともかく、鉄人28号は新長田駅前にいた。18メートルの巨体はおそらく原作にそう書いてあるのだろう。付近のビルの4、5階あたりには達している。なんといっても昔の作品なので、一緒に行った人達と、

「鉄人って、飛ぶんでしたっけ?」
「“ビューンと飛んでく鉄人”っていうくらいだから、飛ぶでしょう。」
「アトムも飛びますよね。エイトマンはどうでしたっけ?」
「エイトマンは流星号に乗って飛ぶんじゃなかったですか?」
「流星号はスーパージェッターでしょう。」
「じゃあエイトマンは弾よりも早く走るだけですか。」

などと、お互いに昔の記憶をたどるのが大変である。

強化プラスチックで出来ているのかと思ったら、なんと鉄人だけに鉄である(叩いて確認してみた)。中に木の骨組みがあって、工場で部分ごとに成型した鉄を現場で溶接したようである。まだ周辺の工事をしていたが、結構人が集まって記念写真など撮っているのは観光地のようである。

せっかくだから賽銭箱でも置けば、おじいさんおばあさんが集まって拝むかもしれない。今後の維持費用(塗装とかサビ落としとか)にも使える。このあたりのコカコーラの自動販売機は「鉄人プロジェクト」仕様で、収益金の一部がそうした費用に使われるようなことが書いてあったので、ペットボトルを買っていくらか足しにしてもらうのであった。

[Dec 2, 2008]

♪ビルーの街にがおー♪(「ガオー」と吠えるのは鉄人ではないが・・・)


関ヶ原ウォーランド [Jul 15, 2009]

出張といえば、昔は交通費を概算で渡して後はよきに計らえというスタイルだったが、最近は早割り切符を会社で取ったりするので自由がきかない。そのうえ、「東京駅or羽田空港を7時に出て目的地に着く場合は日帰り」というルールで、理屈の上では日本全国日帰り圏になった。成田空港近くのわが家にとっては体力的に間に合わない。

というわけで、中部地区の出張は自費で前泊にしてしまう。今回は、以前から行ってみたかった関ヶ原に出かけてみることにした。

関ヶ原といえば、ご存知のとおり古戦場であるが、最近ではB級名所マニアの間で有名な関ヶ原ウォーランドである。「ウォーランド」というネーミングも妙だけれど、ここには当時の武将や兵士の像が展示されており、その作者である浅野祥雲(あさの・しょううん)師はこれまたマニアの間では非常に有名な彫像作家なのであった。

JR関ヶ原駅で下車、帰りの電車時間を確認し、出張バッグをコインロッカーに預けて、いざ出発。ウォーランドまでは直線距離で1kmちょっと。駅前にタクシーが止まっていたけれど、途中の旧跡も見てみたかったので歩くことにする。天気予報は曇りだったのに、晴れてまぶしいくらいの日差しである。

線路の上を走る陸橋を越え、関ヶ原町役場の脇を通り、徳川家康陣地跡を見ながら目的地に向かって国道を北上する。この進路は、400年前に東軍が西軍に向かって突撃していった道で、石田三成、小西行長、島津義弘などの陣地跡がある。駅からずっと、ゆるやかではあるが上り坂。いつまでたっても、ウォーランドは見えてこない。

およそ30分歩いて、ようやく「ここを左折」の表示。大分と疲れたが、なるほど小早川秀秋が裏切るまで形勢ほぼ互角だったのはよく分かった。運動会の綱引きで、わずかでも下の方が有利であるのと同様、戦争では上から下に攻める方が体勢有利なのである。それに当時は歩兵が大部分であり、味方を援護しようにも重装備で上り坂を登っていくのは時間もかかったであろう。

などと、はるか戦国の世に思いをはせるが、膝ががくがくするのはいかがなものだろう。なにしろ、もともと出張なので足元は革靴なのだ。入場料の700円を払って、ウォーランド園内へ。ざっと10人ほどの先客がいたのは、かえって意外。彫像の周囲は腰くらいの高さまで雑草が生い茂り、ちょうど草刈りの最中。かえって戦場らしい雰囲気ではある。

さて、浅野祥雲先生はなぜに有名かというと、その独特のコンクリ像によってである。コンクリートで造形し、ポスターカラー(?)で色づけしたその彫像は、独特の味わいがある。中部圏を中心に、数多くの作品がある。代表作は桃太郎神社(!)、五色園仏像群、愛知県各地の弘法大師像、そしてこのウォーランド武将像である。興味のある方はぜひお調べいただければと思う。

さて、その祥雲作品を堪能しようと思ってやって来たはずなのに、炎天下の坂道を上ってきて膝が笑っているし、加えて園内は屋根のない野っぱらである。ところどころにあるベンチも古ぼけていて座り込むにはちょっと勇気が必要で、ゆっくり見られなかったのは非常に残念なことであった。

いつか来ようと思っているうちにつぶれてしまうのでは、と心配していたが、ウォーランドの外には休憩レストランと日帰り温泉があり、ランドそのものもほとんど人件費をかけずに営業しているようなので、当面大丈夫そうな気配である。今度はもう少し涼しい時期に、ちゃんと車で来ることにしようと心に決めたのでありました。

[Jul 15, 2009]

浅野作品の数々、こんな感じです(このあたりは除草済)。ソーラー携帯のカメラで撮ってみました。


これまた有名な武田信玄の亡霊(関ヶ原当時はとっくに亡くなっています)。「ノーモア関ヶ原じゃ!」とおっしゃっています。後ろに見えるのは、除草作業中の軽トラック。


大潟村干拓博物館 [Sep 1, 2009]

かつて、琵琶湖に次ぐ日本で二番目に大きい湖は、秋田県の八郎潟であった。

この八郎潟が干拓されたのは昭和30~40年代にかけて、今から40年ほど昔のことである。小学校の社会科で、この干拓により諸外国並みの大規模農業が可能になり、食糧増産にも大きく寄与すると習ったのだけれど、その直後から減反政策が始まったのはまさに皮肉なことであった。

またもや仕事の合間に、ちょっと足を伸ばしてみる。とはいえ、大潟村に行く公共交通機関は存在しない。レンタカーを使うか、泣く泣くタクシーで行くしか方法がないのであった。目指すは「大潟村干拓博物館」、八郎潟干拓に関する資料を展示する村営の施設である。

湖を陸地にするのだから、土砂を入れて埋め立てたのだろうと当然のように考えていたのだが、実際はそうではない。八郎潟は、そもそも河口近くにある汽水湖(真水と海水が交じり合った湖)で、しかもほとんどが干潟だったので水深が浅く、堤防を作って内側の水を排水することにより陸地にしたということである。文字通り、干上げて拓いた=干拓、ということになる。

しかし、事態は計画していたほど楽なものではなかったらしい。一区画数ヘクタールの農地に、ヘリコプターで種籾を撒いて、疎放型の大規模農業をするつもりだったのに、干拓してできた土地はヘドロ状で、種籾は深く沈みこんでしまうか、逆に地表にとどまってしまうかで、考えていたようにきちんと稲が成長するというものではなかった。

また、農作業のためにトラクターを農地に入れると、下がヘドロ状なものだからずぶずぶと機械が沈み込んでしまった。自力で脱出できないものだから、他の車に引っ張ってもらうのだけれど、それでもダメでそのまま沈んでしまったトラクターも相当な数に上ったらしい。こうした状況を、「トラクターが亀になった」と称したということである。

結局、地中に排水路を掘って余分な水を除いたり、土壌改良のための土砂や薬剤(炭カル等)を入れて通常の田んぼにした上で、普通に田植えをすることに落ち着いたということである。

いまにしてみれば、そのまま汽水湖にしておいて、しじみを養殖したり観光資源にした方がよかったということになるのかもしれない。ただし当時は高度成長時代の入り口で、技術の向上により干拓が可能なのであれば、国土を増やし、コメが増産できた方がいいという考え方が支配的であったようである。

もともと湖であった土地に大潟村が誕生したのが昭和39年。干拓により入植者が村に入ったのが昭和43年。当時の状況についてタクシーの運転手さんから面白い話を聞くことができた。

大潟村干拓博物館。左がかつての八郎潟の航空写真。右から奥が干拓後のもの。


湖面はもともと国のもので、そこを埋め立てたのも国営事業である。国のやることだからあくまで公平に、入植者は全国に募集をかけて、試験をし研修を行った上で実際に村に入るということになった。そういう経緯だから、かなり先進的な人たちが集まったらしい。

「(ヘリコプターやトラクターを使った農作業が)なかなかうまく行かないものだから、一日が終わるとみんなで集まって、反省会ということになるんですよ。」

と、タクシーの運転手さんが語る。話を聞いていると、初期に入植した方のようであった。東北も秋田・山形周辺になると、年配の人の言葉はかなり違って聞き取るのが難しいくらいなのだけれど、この運転手さんはばりばりの標準語である。

「全国から集まった人たちですし、けっこう弁の立つ人も多くて。自分の家とか集会所でもやりますが、船越まで出ることもありました。」

船越というのは、干拓地の海側の出口である。ここからはJR男鹿線が走っていて、県庁のある秋田まで40分くらいで着く。そしてこの船越、駅前でも商店街でもなく、干拓地への通り道にスナックが林立している。

「ここらあたりは、みんな大潟村の人達が”開拓”したところですね。寿司屋に行って、スナックへ行って、締めはラーメンとかね。よく行ったものでした。」

全国から試験に受かって来て、集合研修を受けた上で入植したので、かなりサラリーマンに近い雰囲気があったらしい。

「でも、いまはもう二世三世の時代でしょう?一日終わってみんなで飲みに行くなんてこと、いまの若い人はあんまりしないから。ここ(空き地)も昔は寿司屋だったんですけどね。」

サラリーマンと同様、大潟村の農家の人達にも、プライベート重視という現代の流れが押し寄せてきているようである。

「大潟の人は目端が利くでしょう?減反で米が作れなくなるとメロンや大豆を作ったり、それも黒大豆とか青大豆とか、付加価値の高いものを契約して作ったりするんですよね。いま、この地域では風力発電が盛んに薦められていて、作ると二千万くらいかかかるんですが、何軒か分の発電量があるらしくて、検討している農家もあるようですよ。」

「なるほど、そういう先進的な雰囲気だと、農家ではきわめて厳しいという若いお嫁さんの来手も結構あるんじゃないですか?」

「そのようですよ。他の村で1軒ようやく来るところを、大潟では何軒も来ているみたいですからね。」

「若いお嫁さんが来るから、ますます外に飲みに出なくなる、という訳ですね。」

そういえば、私の住んでいる千葉ニュータウンにも、スナックとかバーとかの飲食店街がほとんどない。だからおっさん達は、高校生とかと一緒にファミレスで一杯やっていたりする。あと二十年もすると、こちらの方がスタンダードになるのかもしれない。

[Sep 1, 2009]

昔の八郎潟、現在の調整池の海側出口にある防潮水門。ここから上流に海水が上がらないようにしている。海水が入るとしじみが取れたりいいこともあるが、農業用水としては使えなくなってしまうのである。


江田島海軍兵学校 [Mar 3, 2010]

なぜか、これまであまり瀬戸内海に行ったことがないのである。瀬戸大橋を行き来したり、児島競艇でスタンドから瀬戸内海を望んだり、海岸沿いを走る電車から海を見たりすることはあっても、島に行くことはなかった。何年か前、車で瀬戸大橋を渡る時に、途中の与島で下りたくらいである。

それで今回、ちょっと足を伸ばしてみることにした。たまたまその日に江田島の話になり、広島市内からそれほど遠くないということが分かった。そういえばインターネットでもいろいろな記事があったことを思い出して、せっかくの機会なので行ってみようと決めたのである。しかし、急に決めたものだから、見学時間がどのくらいなのか、帰りの飛行機に間に合うのか、まったく調べていないのであった。

江田島には、旧・海軍兵学校がある。戦前の大日本帝国海軍のトップエリート養成所であり、海軍ファン、軍艦ファンにはたまらないスポットであるらしい。かの男塾塾長・江田島平八の名前の由来も、この海軍兵学校であると思われる。現在でも海上自衛隊の現役施設として使用されているが、見学者が引きも切らない状況と言われている。

江田島に行くには、宇品港から行く方法と呉港からの方法があるらしい。そして、江田島の港も2つあって、違う港に付けてしまうと目的地まで相当の距離になるそうである。そうした間違いを避けるためには、「係の人に聞くのが一番いい」ということである。広島市内からだったので、市電で終点の宇品まで。駅の前が、宇品港のビルディングである。

松山行きをはじめたくさんの目的地があって、10~20分置きに船が出ているようだ。ビル内をうろうろして江田島行きの会社の窓口を見付け、「海軍兵学校に行きたいんですけど」と尋ねると、小用(こよう)行きの切符を売ってくれた。次の便は12時20分発、これに乗ると1時の一般見学にちょうど間に合うようである。

ビル1階のうどん店でお昼をそそくさとすませ、船に乗り込む。結構大きな船だが、あまり人は乗っていない。左の窓際を確保すると、まもなく出航。江田島まで20分の船旅である。海に出たといっても右も左も陸地で、頭の中の日本地図に間違いがなければ、左に見える海岸線は広島から呉にかけて、右手に見えてきたのが江田島のはずである。

ほどなく、小用港着。おそらく入港に合わせてバスがいるはずと見当を付けていたら、やっぱり止まっていた。旧海軍兵学校、現在の海上自衛隊・術科学校は、小用から山一つ越えたところにある。そしてバスが「術科学校前」に着いたのは10分前くらい。バス停前にそれらしい建物がないのでちょっとあせったが、そのまま進行方向に坂を下りると大きな建物が見えた。

受付の自衛官に「見学お願いします」と申し込むと、住所・氏名・入場時間を書かされてバッジを渡される。「正面のレンガの建物でお待ちください」とのことである。その正面の建物が、近くに見えて結構距離がある。さすが自衛隊である。建物に入るとちょうど1時。この建物は待合室になっていて椅子があり、売店と、奥には食堂もあるようだ。すぐに女性自衛官が登場、いよいよ施設見学である。

正門から施設内。正門とはいいつつ、本当の表玄関は艦船の停泊する海側ということです。正面のレンガの建物まで、結構距離がある。


大講堂内部。さすがにそれらしいです。


旧・海軍兵学校は現在でも海上自衛隊第1術科学校(幹部候補生学校)として使用されている施設であるため、見学者は必ずルールを守るようにとの注意が行われる。勝手に集団から離れて個人行動をしないこと、飲食喫煙禁止、大声で話をしたりせず整然と行動すること、といった点である。また、写真撮影は自由だが、戦死者の遺品などが陳列されている教育参考館では撮影禁止、また脱帽のことであった。

当り前の注意なのだが、見学者の大部分が年配者であるためみんな分かっているのかちょっと心配である。実際、好きな方角に行ってしまいそうになる見学者や、講堂の椅子に勝手に腰掛けてしまうお年寄りもいる。

女性自衛官の案内により、構内の主だった施設を見学。まず最初に各種式典が行われる講堂。この講堂は戦前から使われているもので、正面の彫刻は知恵の象徴であるフクロウ、頭上のシャンデリアは船のハンドル、操舵輪の形ということである。壇上には、日の丸と旭日旗が掲げられ、奥には皇族方の来場に備えた玉座がある。

講堂から奥に進むと、江田島のシンボルともいうべき、旧海軍兵学校生徒館、通称赤レンガである。こちらは、現在も幹部候補生学校としてわが国の防衛を担うエリートの養成に当たっている。この生徒館の庭に「同期の桜」のモデルになったといわれる桜の古樹がある(中には入れないので見られない)。

だが、案内役の自衛官もうちの子供くらいの年なので、「俺とお前でしたっけ?」というくらい。それよりも先だっての「坂の上の雲」でもっくんが走った廊下の方が、いまの世代には印象的だった様子でした。

岸壁には、戦艦「陸奥」の砲台が設置されており、ここから実弾を撃つと10km以上先の岩国まで届くという説明があったが、今回は遠くから見るだけ。そして最終目的地である教育参考館に到着する。

教育参考館は、かつての海軍人の偉業を今日の幹部候補生達の教育に役立ててもらおうという趣旨で、有志の寄付により作られた建物だそうである。最上階には東郷平八郎元帥の遺髪が収められた部屋があり、そこから下に、太平洋戦争の展開説明、艦艇の部品、海軍兵学校卒業生の名簿や写真とともに、かつての将軍達の書とか、海軍軍人の遺品・遺書などが展示されている。

ここには、とても短時間では全部見終わらないくらい展示品があり、また外にも、真珠湾の海底から引き上げられたという特殊潜行艇や砲弾が置かれている。「2時40分の船で帰られる方は早めに出た方がいいですよ」ということなので、名残惜しいものの早足で見て回り、帰り道にお土産のTシャツも買って江田島を後にする。

小用港から宇品港に着いたのは3時過ぎ。ここからタクシーで広島駅に戻れば何とか間に合うという計算だったのだが、この時間に空港連絡バスは出ていなくて、結局予定していた飛行機には乗れなかったのは、やはり準備不足が響いたということでした。でも、海軍ファンでなくても興味深い見所が多いので、お近くに行かれた際にはお勧めのスポットです。

[Mar 3, 2010]

江田島のシンボル、旧海軍兵学校生徒館。通称赤レンガ。建築後100年余を経過したいまでも、幹部候補生学校庁舎として現役。


真珠湾攻撃に使用された特殊潜航艇。説明書きによると、昭和35年に米軍により海底から引き上げられ、ハワイから日本までは自衛隊艦艇により輸送運ばれたそうです。後方は学生館(宿舎)。こちらは見学できません。


国際館の恐怖 [Mar 8, 2011]

(昔、豊水すすきの東にありましたが、現在はありません。というか、普通の東横インになってます。)

さて、先日まで北の方の地方都市に出張してきたのだけれど、その時あった恐ろしい話をひとつ。営業妨害になるといけないので、とあるビジネスホテルチェーンの国際館とだけ書いておく。

そもそも、「なんで国際館というのだろうか?」という疑問があった。私がここを予約したのは、そのチェーンの他のホテルが一杯だったからである。基本的に全国どこへ行っても同じ水準のサービスが提供されるホテルであるので、その点では安心していたのだが、そこに落とし穴があったのである。

(そういえば、そのチェーンにはJR△△駅前というホテルがあって、泊った際えらく室内設備が古くて驚いたことがある。室内の表示をよく調べてみると、ここは経営難のホテルをそのチェーンが買い取ったもので、JRというのは--駅前に付くのではなく、そのチェーンの水準に達していないため「ジュニア(Jr.)」の意味で付けたとのことであった。紛らわしいことである。)

今回の出張は4泊。北の国ではこの時期冬季割引という制度がある上、このホテルの宿代はそもそも安くて、ちゃんとしたホテルの4分の1、都内ビジネスホテルの半分ほどである。つまり、4泊してもちゃんとしたホテル(KOプラザとか)の1泊分くらいにしかならないので、出張費が削減されている昨今ではなんとも魅力的であるのだ。

ホテルに着いたら、フロントに「歓迎光臨」の手書きの看板が掲げられている。なるほど国際館とは外国人向けの宿であったのかと納得。エレベーターには中国語の案内が所せましと貼られ、室内には長期滞在に備えて流し台とか整理ダンスが置かれている。

とはいえ、朝食(免費小餐)に行くと例によっておにぎりとパンで、饅頭とか焼きビーフンが出されている訳ではなかった。食べているのも日本人とおぼしき連中である。国際館とはいっても普通のところと変わらないなぁと思って仕事に出かけたのだが、ことはそう簡単ではなかったのであった。

土曜日の午後10時過ぎ。朝8時からほとんど休みなしの14時間勤務でくたくたになってホテルに帰り着く。この日は最後の手持ちワイシャツを着て仕事し、残りはホテルからクリーニングに出していた。フロントで受取証を渡すと、何やら困ったような顔。「クリーニングの戻り、ありません。」たどたどしい日本語。なんとフロント女性が国際館なのであった。

これは意表を突かれてしまった。日本でしかもこの時間に、香港状態になるとは思わなかった。受取証を見ながら、「日曜・祭日休みと書いてあります。」ととんちんかんなことをいうので、「今日は土曜日だけど?」と返すと、うーんと考え込んでしまう。しばらく調べた末に、「出すの忘れていて、まだ置いてありました。」

「忘れたってどゆこと?」と思わず大きな声が出てしまうが、あちらは「すみませーん」と言うばかりでさっぱり要領を得ない。夜遅いのであまり人はいなかったが、そのうちに日本語に不自由な外国人留学生をいじめているクレイマーみたいに、こちらが無理難題を言っているように見えやしないかと何だか心配になってきた。

フロントにはもう一人女性がいて、こちらは日本名の名札をしていたので仕方なくそちらに話したところ、こちらの方も日本語がたどたどしい。しまった国際館とはそういう意味であったかと後悔しても後の祭りである。なんとか、いつものクリーニング店は休みだが当日可能なクリーニング店を探して、明日の晩には出来上がりますということになったが、ちゃんと意思が疎通したかどうか非常に不安である。

そして、この日着ていたのは最後のワイシャツである。外は雪なので汗をかいた訳ではないが、長時間勤務の後なので明日もそのまま着るのは気が進まない。仕方なく、ホテル備え付けのコインランドリーで洗濯を始める。洗って、乾燥機にかけるともう12時。フロントにアイロンを借りに行くと、件のチャイニーズ・フロント女性がうれしそうに、「アイロンございます。持てきます。」

結局寝るのは1時近くになった。翌朝も早い。普段8時間睡眠の私にとって、難儀なことである。

翌日には無事ワイシャツが出来てきて、再び洗濯をする羽目には陥らずに済んだ。クリーニング代は払うと言ったのに、「こちらのミスなので、結構です」とのこと。それを言うなら、「こちらのミスで遅れたので」とか「こちらのミスでご不便をおかけしたので」だろうと思ったが、国際館なので仕方がない。それに、コインランドリーで余計な支出があったので、この位は持ってもらってもバチは当たらないだろう。

まあ、最初に書いたようにきわめて安いのであまり文句はいえないが、安いには安いだけの理由があると言うべきだろうか。4泊ともなるとあまり高いところに泊る訳にもいかないが、今度はもう少しちゃんとした値段のところを選ぶべきだろうかと思ったりもしたのであった。

[Mar 8, 2011]

地図と測量の科学館(つくば国土地理院) [May 10, 2013]

家からつくば研究学園都市までは、一般道路を使っても1時間くらいで着く。前々から行ってみたかった地図と測量の科学館を目指して、ゴールデンウィーク中の平日休みに車を走らせた。

研究学園都市は相当の広さがあり、街に入ってからまた畑が出てきたりする。加えて一区画が広く、200~300m先の信号まで一つの機関というケースも少なくない。ここには国の研究機関が数多く所在しており、筑波大学も昔は東京教育大学といった。教育大付属とか教育大駒場といえば4、50年前には進学校の代名詞だったが、いまはどうなのだろうか。

さて、地図と測量の科学館は国土地理院の敷地内に建てられた博物館で、伊能忠敬はじめ歴史的な地図や、三角点の模型、測量の仕組みなどの掲示物がある。併せて、ここには古い地図のデータベースがあって、昭和初期のどこどこの1/25000といえば有料でプリントアウトしてもらえる。今回はそれが目当てであった。

私の住む千葉ニュータウン地区は昭和40年代以降に開発がすすめられたところで、それまでは森と林と田圃の世界だった。成田新幹線構想と並行して土地買収が進められ、愛国党の赤尾敏氏も地主の一人だったという。地図バックナンバーの受付に行くと、年配の男性が話を聞いてくれた。

私の生まれた頃の地図(もちろん、区画整理前である)をお願いすると、「もっと古いものもありますよ」と調べてくれる。一番古いのは大正時代のもので、百年近く昔だ。せっかくなのでこれもお願いする。売店に行って収入印紙を買ってこなければならないが、最近歩くのは苦にならない。

バックナンバーの他にも、最新版の1/25000図も置いてある。山の地図をいくつか買う。館内の掲示も一通り見る。三角点の地下に基準点を示す石材が置かれているのだが、その模型もある。なるほどこんなものを持っては、剱岳に登れなかったはずである。

日本最古の地図とされるのは行基が作ったとされる地図(行基図)で、これがかなり長い間日本地図のスタンダードだったようだ。行基は「火の鳥」にも登場する奈良時代の僧で、全国を回って仏教を広めたとされている。各地の温泉には弘法大師と同じくらい行基が開いたとされるものがある。温泉の好きな坊さんだったのだろうか。

現在の(というか実際の)海岸線に近い地図が出てくるのは、やはり伊能忠敬からである。忠敬のすごいところは、隠居までは庄屋として家の仕事をして蔵もいくつも建てて、50過ぎてから測量の勉強をしに江戸に出て、全国を測量し始めたのは50代も半ばを過ぎてからというところである。現代であれば、定年過ぎてから活躍を始めたということになる。

佐原の伊能忠敬と利根町の柳田国男は、近在の有名人の中でも格別で、おそらくあと100年経っても名前は残るだろう(船橋市初の総理大臣である野田佳彦はちょっと厳しい)。

科学館の前庭には、地球縮尺の日本列島がある。これをみると、沖ノ鳥島や南鳥島がどんな遠くにあるかが分かる。入場料は無料で休日も入れるし(ただし食堂は職員と共通なので平日のみ)、あまりひと気もないので、ゆっくりできるお薦めの施設である。

[May 10, 2013]

「地図と測量の科学館」内部。1階のフロアに広がっているのは、3D日本地図。私は3Dメガネが苦手なので、2Dでいいです。


月形樺戸博物館 [Aug 14, 2013]

今年の北海道は、これまで行ったことのない石狩から留萌にかけて走ってみようという計画である。新千歳空港に下りて札幌に1泊し、翌朝レンタカーを借りて出発した。

札幌市内を出るまではちょっと渋滞する。私が最初に来た38年前にはすでに札幌は百万都市だったが、いまや百九十万都市である。当時より倍近く人口が増えた結果、市街地も様変わりしていて、昔何もなかったところ(例えば、札幌競馬場周辺とか)にもマンションが建ち、イオンやヨーカドーが並んでいる。サッポロビール園の周りも、再開発されて当時の面影はほとんどない。

最初の目的地は、月形(つきがた)町にある樺戸集治監(かばとしゅうちかん)の遺構、月形樺戸博物館である。ここは、かの網走刑務所より前の明治14年、全国で3番目、北海道で最初に設置された明治政府の監獄である。JR札沼線に沿って、国道275号を北上する。しだいに街並みがまばらになり、水田地帯、さらに原野を進む。

とはいっても、当時はこれらの線路も道路もなく、囚人達は石狩河口から船で石狩川を上ってきたそうだ。付近は原生林と湿地帯で、もともとアイヌの人たちの狩り場であったという。そんな土地だから、川を下る以外に逃げ道はない。周囲はすべて原生林であった。狩り場ということは、もちろんクマもいた。そんな中で送られてきた囚人達は、道路建設や開墾に従事しなければならなかったのである。

館内には、当時の建物配置や服装、食器類、囚人達が数km先の山から引いてきた水道の木管、懲罰として付けられた鉄丸(足につけられた鎖と重し)など、また、内陸部の幌延まで作った囚人道路の様子などが展示されている。シアターで流された映像がCGを駆使してやけに本格的だなぁと思っていたら、乃村工藝社の製作だった。

展示物の中に、当時の大臣の談話がある。「彼らは凶悪犯であり、過酷な労働で倒れたとしてもやむを得ない。むしろ監獄の経費が浮く。」と言っていたそうだからずいぶんな話である。とはいっても、実際に囚人の多くは凶悪犯だったようである(五寸釘寅吉とか)。展示には、氏族の反乱や自由民権運動などで政治犯が多いと書いてはあったが。

北海道の開発というとまっさきに「屯田兵」という言葉が浮かぶが、屯田兵の入植に先立って主要道路を整備したのは彼ら囚人であったという。そして、囚人や看守の生活用品、食糧、建設資材などが大量に必要とされ、それに伴って出入りの商人達も集まったことから、監獄城下町ともいうべき市街地が作られた。これが現在の月形町のはじまりである。

だから、月形という町名は、この樺戸集治監の初代典獄(所長)・月形潔からとられている。月形潔は福岡藩出身、薩長同盟の起案者の一人月形洗蔵の親戚である。ところが博物館内の説明書きでは、土佐の武市半平太と親戚と書いてあったような気がする。それも、「月形半平太」と書いてあったような。

ちなみに、月形半平太は月形洗蔵と武市半平太をモデルにしたといわれるフィクションの世界の人である。ここの施設は館内撮影禁止なので、記憶だけなのが悲しいところである。この記事を見て、どなたか確認していただければ幸いである。

[Aug 14, 2013]

当時の樺戸集治監の建物を移築した、月形樺戸博物館。なぜか内部撮影禁止。


熱海赤線地帯跡 [Jun 20, 2014]

その昔、赤線という風俗地帯があったらしい。らしい、というのは売春防止法によって赤線が廃止されたのが1958年であるから、まだ私が生まれてすぐくらいのことで確かにはわからない。 その赤線の遺構が熱海にあるということを知ったのは、B級スポット情報に詳しい雑誌「ワンダーJAPAN」の2012年1月号である。

そもそも熱海に途中下車すること自体がほとんどない。過去の記憶をたどると、子供が小さい頃に勤め先の保養所に泊まってMOA美術館に行ったのと、伊豆大島に飛行機で行くつもりが欠航になり、あわてて東海汽船の熱海発に乗ったくらいである。今回は出張の合間、ちょうど1時間くらいぽっかり空いてしまったことから、思いついて行ってみたのであった。

熱海駅前から適当な通りを市役所方面に向かう。どの通りも旅館街や飲食店街となっているものの、残念ながら人通りがあまりない。海に向かって下って行くので、曲がりくねっていて意外と距離がある。また、道路の幅があまりないのに、車だけがひっきりなしに通るので歩くには不便である。

通りを15分ほど進むと、大きな消防自動車が止まっている消防署につきあたる。右に折れれば市役所に行く。左に折れて下れば海岸沿いの道である。さてここからはよく分からないが、川沿いに海岸方向に下りて行く路地に飲み屋の店名が数多く掲げられている一画があったので、そこを入ってみる。

昼日中なので誰も通っていない。だが夜になればにぎやかになるかというと、おそらくそういうこともないような気がする。典型的な地方都市の飲み屋街である。社内旅行や官官接待がなくなって、寂れたまま今日に至っているようだ。左右を見ながら進むと、モルタルに昔の遊郭の名前(つたや)が薄く残っている例の写真の建物に出た。

「ワンダーJAPAN」には一般住宅になっていると書かれていたが、あたりが飲み屋街、それもおば(あ)さんママが一人でやっているような店の雰囲気なので、少なくとも普通の住宅には見えない。掃除機の音が聞こえるところをみると人は住んでいるようだ。あるいは、格安家賃でボンビーガールが住んでいるのだろうか。

ひと通りがないので、写真は気兼ねせずに撮ることができた。モルタルに浮彫りになっている「千笑」、字が消えかけている「つたや」など、ワンダーJAPANに載っていた遺構はごくごく近くの一角にある。ただしよく見ると、新しくモルタルを吹き直している建物も多く、かつてはそれらしい装飾だったのではないかと思われた。

ものの5分も経たないうちに見学終了。かつては数十軒もの遊郭がひしめいていたということだが、いまでは歴史の中に忘れ去られかけている地域である。もう一度バブルが来るならば、間違いなく再開発されてしまうだろう。しかし、しばらくはバブルは来ないし、日本の人口は減少しつつある。あるいはこのまま朽ちていくのかもしれないと思うと、ちょっと寂しかったりする。

[Jun 20, 2014]

名高い熱海赤線跡の「千笑」。建築後60年以上を経過し、いまでは飲食店の経営も行っていないようです。


右のスナック亜(つたや跡)の家紋や、左ピンクの建物のレリーフも、当時のものということです。


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