三毛別ヒグマ事件跡地    三条競馬場跡    山頭火生家跡    大仁金山跡
関門人道トンネル    沢田マンション    奥行臼廃線跡    横綱大関碑・巨人力士碑


三毛別ヒグマ事件跡地 [Aug 6, 2014]

昨年(2013年)、留萌の近くを走っていて行きそびれたのが、三毛別(さんけべつ)ヒグマ事件の跡地であった。この事件は、史上最大の熊害(ゆうがい)事件とされるもので、調べるとたいへん興味深いものである。今年の夏は旭川を中心に回ったのだけれど、旭川と留萌はそれほど遠い訳ではないので、道央道と留萌道を乗り継いで行ってみることにした。

三毛別は三毛別川に沿って開かれた開拓地で、小学校の名前が「三渓小学校」というから、もともとはアイヌ語(サン・ケ・ペッ)から付けられた地名と思われる。ちなみにアイヌ語の「ペッ」は川という意味で、北海道の地名に「・・・別」が多いのはアイヌ語の地名に「・・・ペッ」が多いことによる。

WEB情報によると、実際に事件があった跡地に行く前に、苫前町(とままえまち)郷土資料館で予備知識を得てから行くのが正解らしい。苫前町は、昨年訪問した道の駅・鰊(にしん)番屋から10kmほど北上したところにある。この先食事をするところはないかもしれないので、道の駅で早いお昼を食べて行く。1年振りだけれど、ほぼ記憶に残っている道である。

郷土資料館の入口にさっそく、「熊害事件再現地周辺では、熊が出没しています。また、アブ・ハチ等が発生していますのでご注意ください」と書いてある。受付のおばさんに聞いたところ、「クマは札幌の方に出かけていて今はいない。アブとかハチはまだこの時期(7月初め)だからそれほどでない」ということであった。

(ちなみにこのおばさん、おそらく歳は私より10くらい上だと思うのだが、おじいさんが三毛別の人で、昔の実家がかつての対策本部だったらしい。)

この資料館には、下の写真のように事件再現展示がある。この展示だけみるとユーモラスなのだが、実際は冬眠しそこねた巨大熊が何度も人里を襲うという凄惨なもので、7人が死亡、3人が重傷を負った。最近の映画「デンデラ」の熊は、この事件をイメージして作られたものだと個人的に確信している。

応接室にはソファと椅子が置かれていて、事件をもとに作られた三国連太郎主演の映画「羆嵐(くまあらし)」が流されている。平日の昼間だというのに先客が6、7人いたから、意外と知名度のある施設のようだ。もっとも、映画では熊の大きさが実感できなくて(中に人間が入っているのだろうから仕方ないが)、それを実感するためには史上最大の熊「北海太郎」のはく製が役に立つ。

北海太郎のはく製は再現展示の対面にあり、400kgといわれる巨体で来館者を威嚇している。ただし、この北海太郎は人を襲った訳ではなく、家畜や農作物だったらしい。この展示を見て以来、私はなぜか「北海太郎」と呼ばれている。

資料館を出て海岸沿いを少し戻った後、内陸部に向けて車を走らせる。左右は水田と牧草地が主で、人家が点々と続いている。10kmほどで古丹別(こたんべつ。また「別」だ)の街で、ガソリンスタンドや商店、学校、病院があるそこそこ大きい街である。ここから進路を南にとって、事件跡地に向かう。何とその名が「ベアーロード」、ところどころに熊のイラストが描かれている。

ベアーロードを進むこと10km、いまは廃校となった三渓小学校跡に着く。校門と校庭、記念碑が残されており、校舎は農家の倉庫か作業場に使われているようだ。記念碑をみると、昭和終わり頃の日付で、開校90周年と書かれている。この碑が建てられて間もなく閉校となり、百周年は迎えられなかったものであろう。

それより驚くのは、この小学校が開校されたのが明治時代ということである。ヒグマ事件当時(大正4年)も、この小学校があったということである。こんな山奥に、なぜ多くの入植者がいたのだろうか、また、寒い北海道でこんな家(下写真)に住んでいるのに、子供達は何kmも歩いて学校に行っていたのだろうかと考えると、興味が尽きない。

小学校からさらに5kmほどで、射止橋(うちどめばし)という橋がある。ここで例のヒグマを銃撃し、手傷を負わせたという場所である。撃たれた後も熊は逃げ続け、最後にとどめをさしたのは映画では三国連太郎が演じた熊撃ち猟師である。

さて、明治時代はかなり多くの開拓農家があったこの地にも、現在はまばらに家が残るくらいである。そしてその人家も、射止橋を過ぎるとさらに減っていき、いよいよ舗装道路がなくなってしまうとその先人家はない。事件跡地までは狭い未舗装の道を進まなければならない。

苫前町郷土資料館の三毛別熊害事件再現展示。昭和終わり頃に地元老人会が製作したものだそうです。


最寄の市街地である古丹別から15kmほど奥に進むと、「射止橋(うちどめばし)」に到着。この橋で巨大熊に手傷を負わせたことから名付けられた。


現地に向かう残り1kmほどは未舗装。つまりここから先には現在、人家がないということですが、事件当時はもっと奥まで開拓農民達が入植していたとのことです。


未舗装道路を進むこと1km弱、いよいよヒグマ事件跡地に到着した。車の周囲には、さっそく虻やら蜂やらが寄ってくるので、まずは車の中から観察する。大正時代とはとても思えない粗末な小屋に、巨大な熊が襲いかかっている(写真)。

ヒグマは北海道に生息していて、本州のツキノワグマに比べて気性が荒く、人間にも平気で襲いかかってくるといわれている。だが実際にはツキノワグマと同様、ヒグマも基本的には人間を避けたいという気持ちは持っているようだ。でなければ、クマが人間を襲うという事件はもっと多いだろう。

ヒグマの本拠地である日高山脈でも、登山者をヒグマが襲った大事件は1970年の福岡大学事件などがあるものの、それほど多い訳ではない。最近でもヒグマ目撃情報は山ほどあり、実際に写真に撮った人も多くいるにもかかわらず、ヒグマの方が逃げているので大事に至っていない。やはりヒグマにも個体差があり、あまり無謀なのは遺伝子を残せないのかもしれない。

思うに、ヒグマ以上に現実の脅威なのは蜂である。熊はニュースになるが蜂はニュースにならないためあまり知られていないが、熊に襲われて死ぬ人はほとんどいないのに対し、蜂に刺されてアナフィラキシー・ショックによって命を落とす人はけっこういる。北海道の山道を通ると、こうして蜂がぶんぶん飛んでいるのに出くわすことがある。とても車の外には出られない。

資料館のおばさんはまだ大丈夫と言っていたけれど、やっぱり蜂はいるのであった。洞爺湖の近くに虻田という地名が残るように、北海道は虻だの蜂だのが多い土地なのだ。もっとも、雪解けからそれほど経っていない7月初めなのでよく見ると1、2匹しか飛び回っていないようなので、隙を見て車の外に出てみる。

再現展示のヒグマは、資料館の展示熊よりかなり大きい。実際に巨大熊だったのは確かなようである。それより驚いたのは小屋の中で、ほとんど倉庫と変わらない。白老や阿寒湖のポロトコタンにあるアイヌのチセは江戸時代のものを再現しているのだが、そのくらいの時期に作られたように感じる。でも実際は大正時代なのである。開拓農民の生活はそれほど厳しかったのだろう。

現在は舗装道路より奥に人は住んでいないようであるが、事件当時ここよりさらに奥まで人家はあったらしい。なぜこんな山奥に入植したのか考えてみると、当時は鉄道網も高速道路網もない。あまり豊かでない開拓農民が移動してきた手段は、おそらく海路である。だとすると、鰊御殿が建つほどニシン漁が盛んだったこのあたりは、いま考えるほど山奥ではなく、上陸した港から近かったのかもしれない。

草むらの中に、さりげなく熊のオブジェが置かれている。最初から藪の中に置いたのか、それとも作ってから周囲に草が進出してきたのだろうか。「熊出没注意」と書かれているので、ちょっとびっくりする。

再び蜂が寄ってきたので、何枚か写真を撮って早々に車の中に戻る。よく見ると建物わきにはヒグマ事件の概要が書かれている案内板があり、周辺には遊歩道やトイレも整備されているらしい。とはいえ、これだけ虻蜂が多いと外を歩くのは難しいだろう。地域おこしのためがんばって作った施設だろうけれど、歩いて見れるのは雪解けからわずかの間なのかもしれない。

[Aug 6, 2014]

ついに出た!冬眠しそこねた巨大熊が開拓農民の家を襲う!それにしても、大正時代の開拓農民の家が、江戸時代のアイヌのチセとそれほど変わらないのにはちょっと驚く。


さりげなく薮に置かれた熊のオブジェ。「付近に熊が出没します」と書かれているが、これは本物ではない。熊はともかく、虫が多いのであまり長居はできない。


三条競馬場跡 [Aug 11, 2014]

私が社会人になった頃まだ現役だった競馬場で、いまでは廃止されたところが結構ある。北海道では、ばんえい帯広・道営門別に集約されて旭川や岩見沢がなくなってしまったし、上山競馬、紀三井寺競馬、益田競馬も廃止されてしまった。最近では、荒尾競馬も廃止された。おそらく近い将来、JRA以外の競馬場は大都市近郊以外では生き残りが難しくなるだろう。

JRAの札幌、函館、新潟、中京の各競馬場で地方競馬が開催されていたことも、知る人が少なくなった。なにしろ一時期、中京2000m芝のレコードタイムは、地方競馬の開催で出ていたくらいである。そしてかつて新潟県競馬組合が開催を行っていたのが、新潟競馬場とこちら三条競馬場であった。この競馬場は、新幹線の燕三条から少し歩いた信濃川の河川敷にある。

2001年に三条競馬が廃止された後、現在まで大井競馬の場外売場として使用されている。しかし、JRAではないので資金が潤沢ではなく、改修もほとんどできない上に雪が多い地域なので、鉄骨は錆びて古色蒼然たる風情である。ついに老朽化によって、今年度いっぱいで場外発売も終了となる予定である。おそらく、このスタンドも来年には取り壊しとなるだろう。

私の育った船橋市には中山競馬場があり、小学校の遠足or現場学習のお昼は中山のスタンドでとることがあった。JRAは土・日開催なので、平日の昼間は地元に使っていただくという趣旨と思われる。昔のことだから全館冷暖房などなくて、4階か5階まで吹きさらしのスタンドだった。

しかし三条競馬場のスタンドをみると、かなり古く見える割にガラス張りの部分が多い。これはおそらく、冬はとてつもなく寒いということであろう。屋根のひさしがかなり長いのも、雪が多いという理由と思われる。そしてスタンド前を歩いていくと、「危険なのでスタンドに上がらないでください」と書いてある。老朽化は深刻なようである。

スタンド前から一段下がって、1周1000mのダートコース跡をひと回りする。いまやJRA新潟には1000m直線コースがあるから、今昔の感がある。JRAを見慣れていると1周は1800~2000mと思うけれど、地方で800mとか1000mは普通だった。それでも、2コーナー奥と思われる地点からだと、スタンドがかなり小さく見える。河川敷という土地柄、コースは平坦である。

競馬場のコースであったあたりは、現在ではスタンドへの進入路と遊歩道になっている。かつての規模ではないのだろうが、乗馬用の厩舎と馬場も残っている。朝6時前に歩いたのだが、すでに馬の世話をする人達が働いていた。

乗馬というとかなりおカネがかかる趣味という気がするけれども、競馬がある以上引退馬の用途として乗馬がある方が望ましい。そうでないと、種牡馬・繁殖牝馬以外はすべて肉にされてしまうからである。

15分ほどで一回りしてしまう。やはり小回りコースである。スタンドの向こう側には信濃川を渡る橋がかかっていて、その向こう側は野球場や陸上競技場のあるグラウンドであった。そちらまで歩いて、燕三条方面に戻る。

私の子供の頃ギャンブルで給食費が払えないなどという話が伝えられていて、当時の美濃部都知事が都営ギャンブルを廃止した。いまは逆に、東京オリンピックに向けてお台場にカジノを作ろうという動きがある。どちらが正しいのかは即断できないけれど、こうして消えゆく競馬場施設をみると、「諸行無常、盛者必滅」を強く感じてしまうのである。歳のせいだろうか。

[Aug 11, 2014]

三条競馬場スタンド。2001年に三条競馬が廃止された後は、大井競馬の場外売り場として使用されている。ただ、2014年度をもって終了となる予定。


2コーナー奥あたりから、スタンド方向。競馬場全体が河川敷で、かつてコースのあったあたりは遊歩道として残っていた。


種田山頭火生家跡 [Jun 13, 2015]

山口県は防府市、防府天満宮へ向かうJR防府駅・天神口には、種田山頭火の銅像が建てられている。いまでこそ文化人として扱われている山頭火だが、伝記によると生前は「ほいと(乞食)坊主」として世間一般からはむしろ嫌がられていたらしい。

少なくとも、郷土出身の偉人と見られていなかったことは間違いなさそうだ。際限なく酒を飲み、ひとにカネをたかり、妻子は見捨て、それでも俳句の世界では大きな顔をしていっぱしの権威を気取っていたのだから、私だってお近付きにはなりたくない。

それでも、芸術的才能(スポーツの才能もそうだ)と人格とはリンクしない。人格破綻者であることは否定できないとしても、彼の作品は100年の時を超えて今日でも通用しており、銅像を建てられるだけの功績は残している。

正確な数を調べた訳ではないが、日本全国で建てられている句碑の数が多いのは、松尾芭蕉を別格とすると山頭火がトップクラスである。明治以降の短歌・俳句であと100年経っても残っているのは、おそらく石川啄木と山頭火だけであろう。文化人としての功績は正岡子規の方が上だろうが、子規の俳句と聞かれて答えられる人がどれだけいるだろうか(私は「柿くへば鐘が鳴るなり法隆寺」しか知らない)。

自由律俳句といえば尾崎放哉と山頭火が両巨頭である。放哉が東京帝国大学卒業から保険会社の幹部職員を経て無一文の乞食坊主、山頭火が早稲田中退から事業に失敗して乞食坊主。ともに大酒飲みかつ酒癖が悪く、経済感覚がなく、妻子を養うつもりもないといった共通点があるが、放哉が内へ内へと向かっていったのに対し、山頭火は外へ外へと向かっていった印象がある。

だから放哉は結局「咳をしてもひとり」が代表作になってしまったのに対し、山頭火は西日本中心に各地を訪れ、名句を残して後の時代に句碑が建てられることとなった。「分け入つても分け入つても青い山」なんてすごい余韻に満ちた句であるが、おそらく当人そんなに深くは考えていなかっただろう。

その山頭火の生家跡が駅から10分ほど歩いた場所にある。公園ともいえないような狭いスペースだが、それは山頭火が貧しく小さな家の出身だからではない。実はこのあたり一帯の大地主の惣領息子であったのに、父親の事業が失敗したことで(カネ遣いも荒かったらしい)破産し、家財のすべてが人手に渡ってしまった。最近になって、その一角を有志が整備した公園なのである。

「雨ふるふるさとははだしであるく」「ふるさとはちしやもみがうまいふるさとにゐる」「うまれた家はあとかたもないほうたる」等々、山頭火の故郷を詠んだ句は多い。破産し一家離散し、自らも各地を放浪する行乞の身。故郷に帰ったからといって晴れやかに迎えられる訳ではないものの、温暖な瀬戸内の気候は山頭火もなつかしかったようだ。

生家跡から学校のあったあたりまでの路地裏が、「山頭火の小径」として整備されている。ほとんど車も通れない狭い道が、萩往還(毛利の殿様が萩城と防府を往復した道。天満宮の先には毛利家庭園がある)と並行して通っている。何ヵ所かでカギ型に曲がるので方向感覚を失いそうになるが、時折きれいな川が流れている趣きのある道である。

山頭火の頃は、ちしゃもみ(レタスの味噌和え)が庶民の味だったらしいが、平成の世には、防府に来たら瀬戸内、日本海、豊後灘の海の幸と獺祭(だっさい・岩国の酒)が当地の名物である。名物にうまいものなしという定評があるが、ここの名物は酒飲みにはたまらない。

参考:「放浪の俳人山頭火」村上護、「どうしやうもない私 わが山頭火伝」岩川隆、「山頭火の妻」山田啓世

[Jun 13, 2015]

防府駅から10分ほど歩くと、山頭火生家跡がある。種田家は大地主で、山頭火が生まれた頃はこのあたり一帯種田家だったが、その後破産して人手に渡った。


生家跡から学校に通った(であろう)路地は、「山頭火の小径」として整備されている。


大仁金山跡 [May 20, 2016]

伊豆は、江戸時代には佐渡と並ぶ産金地だったそうである。

有名なのは土肥金山で、テーマパークのようになっているそうであるが、現在、私の住んでいる狩野川流域の大仁(おおひと)にも金山があった。実はこの金山、採掘時よりも閉山後の方がむしろ有名で、廃墟マニアにはよく知られた廃鉱施設として、比較的最近までいろいろな機械設備類が野ざらしになっていたということである。

電子国土ポータルにも、「廃鉱山」としっかり書かれていることもあるので、行ってみることにした。ところがこの廃鉱山に行ってみたところ、私が週3~4回のペースで通っているスポーツジム・温泉施設のすぐ裏なのであった。行くのは夜ばかりなので、暗くて気づかなかったのだけれど、駐車場の向こうに「大仁金山」の巨大な看板が見えているのであった。

伊豆の金鉱が開発されたのは天正年間、安土桃山時代というから比較的新しい。江戸時代に入って、有名な金山奉行である大久保長安の下で最盛期を迎えた。当時から、金を掘っている最中に温泉が噴き出したというから、もともと金鉱としてよりも、温泉として向いていたようである。

あまり採掘が容易な金鉱ではなかったようで、大久保長安の時代以降は縮小傾向にあったようだ。それが再び脚光を浴びたのは昭和に入ってからで、おそらく機械を入れて深くまで掘れるようになったという技術的な発展によるものと思われる。第二次世界大戦前にはかなりの規模で採掘されていたようで、つい最近まで残っていた廃鉱施設はその頃に建設されたものである。

戦後は金鉱として採掘が続けられる一方で、坑道の一部が鋳物工場に転用されていたようだが、昭和33年の狩野川台風によって大きな被害を受け、鉱山としての役割を終えた。一方で、当時から豊富な湧出量があった温泉は、大仁地域に配湯することにより大仁温泉街を形成し、北にある伊豆長岡温泉、南の修善寺温泉とともに、伊豆半島の観光収入増加に役立ったのである。

さて、この廃鉱施設、1990年代までは全面ガラス窓がすべて割れてしまい、使われなくなった機械設備が放置された状態にあったようで、いまでもWEBを見るとその写真が残されている(その意味では、個人が撮影した写真を全世界で見ることができるというのは、すばらしいことである)。

現在では廃屋や機械設備は撤去され、すぐそばまで温泉施設「百笑の湯」の駐車場となっている。当時をしのぶよすがとなるのは、コンクリート製のひな壇と「大仁金山」の看板だけである(坑口は閉鎖されている)。現在、この温泉施設の周りには、ホテルやレストラン、スポーツジム、石窯パン屋などがあって、一大レジャー施設となっている。

温泉施設には10以上もの浴槽があり、大仁金山跡から湧出する金山温泉の源泉かけ流しもある。ただ、規模が大きいので足し湯や沸かし湯も多いと思われる。わたしが気に入ってよく入るのは炭酸泉。ちょっとぬるめながら、温まっていると炭酸の水泡が体中に付いてすべすべになる。夜は虫が気になるので、露天には行かずもっぱら屋内のお風呂である。

ここのジムに、そうとは知らずに入会していたことは最初に書いたとおり。ジムに入ると温泉にもフリーパスとなるのでお得である(実際に「風呂だけ会員」もいるらしい)。石窯パン屋でその日売れ残った商品は、閉店後の8時を過ぎると温泉の受付で安売りするので(100円均一)、たびたび私の翌日の昼食になっている。

[May 20, 2016]

大仁金山跡。かつてはひな壇のそれぞれに鉱山施設が残っていて、廃墟ファン注目の的だった。


上の地点からふり返ると、間近に「百笑の湯」の建物が迫る。源泉は金山温泉といい、まさに大仁金山の中から湧いているそうだ。


関門人道トンネル [Aug 4, 2016]

本州・九州間を歩いて行ける手段があると知ったのは、太川・蛭子の路線バスの旅によってであった。関門トンネルに並行して、人が通るためのトンネルがあり、しかもそこは国道だという。これはぜひ通ってみなければと思っていた。せっかく赤間神宮・安徳天皇陵まで来たので、そこから先そんなに距離はないはずである。

と思ったら、それほど短くもなかった。何しろ出張中なものだからバッグが重かったのが一つ、もう一つは7月の炎天下、午後3時というたいへん暑く激しい日差しの中だったということが原因である。

トンネル入口は頭の上に見えている関門橋のあたりだろうと思って海に沿って歩いたのだが、15分ほど歩いたのにそれらしき施設は見えない。とうとう橋の真下を通り過ぎてしまった。仕方なく、向こうから自転車に乗ってきたお年寄りに手を挙げて、「海の下を通るトンネルの入り口はどこですか」と尋ねなければならなかった。

「向こうに見える信号の手前で横断歩道を渡ると入口だよ」と親切に教えていただく。帽子を取って御礼を申し上げる。その間にも激しい日差しが遠慮なく真上から照りつける。頭も首も背中もすでに汗びっしょりである。

やがて海側の歩道は広くなり、芝生の植わっている公園になった。「みもすそ川公園」というようだ。そういえば路線バスの旅で、蛭子さんが「みもすそ川?」と運転手に聞き直している場面があったことを思い出した。

ちょうど公園の前あたりが壇ノ浦の戦いの主戦場であったらしく、大きな石碑が立てられている。また、芝生の上では錨を持って相討ちを狙う平知盛と、八艘跳びで窮地を脱する源義経の銅像が睨みあっている。

壇ノ浦の戦いはご存じのとおり平家が全滅したのだが、よく考えると平家方は女連れ・子供連れで動きが制約されるのに対し、源氏方は100%兵士であり、しかも舟の漕ぎ手を狙うという当時の常識からは外れた奇襲作戦を取った。関門海峡の速い潮の流れも加わって、ひとたび形勢が源氏方に傾くと、あとは一方的になってしまったのではなかろうか。

さて、そんな感傷にひたっている暇はないくらい、遠慮なく太陽は照りつけてくる。信号を渡り、「関門トンネル人道」の建物へと急ぐ。それでも、もしかしたら地下には自動販売機がないかもしれないと思って、入口近くの自動販売機でペットボトルの水を買ったのは正解だった。心配したとおり、エレベーターから先には全く自動販売機はなかったからである。

建物の入口には2基のエレベーターが地下まで通っている。その深さは50mほどあるようだから、ほぼ地下10階くらいに相当する。エレベーターを下りてもそれほど涼しくはなかったが、それでも日が差さない分、地上とはずいぶん違う。とりあえず、ベンチに座って汗を拭く。目の前には、九州側へと延びる歩道がはるか遠くまでまっすぐ続いている。

関門橋の下、壇ノ浦海戦の銅像の立つ「みもすそ川公園」前の横断歩道を渡ると、人道トンネルの入口。


エレベーターを下りると、門司側へと続くトンネル歩道がまっすぐ続く。右上に標識があるように、ここは国道2号線になる。そのためか、歩行者は通行料はかからない。


しばらく座って汗を拭いた後、いよいよ人道トンネルに向かう。気のせいか、トンネルの奥から涼しげな風が吹いているような感触がある。この道の上には車道が通っているというが、歩道なので幅はかなり狭い。その中を、時折自転車やオートバイを押して歩く人がいるのは、国道ならではというところか。

地下までエレベーターで降りなければならないので、使用時間は午前6時から午後10時までに限られている。それでも、観光客だけでなく、地元買い物客と思われる人や、ジョギングしている人もいるのは、国道ならではといったところだろうか。

4~500m歩くと、山口県と福岡県の県境となる。県境とはいっても、歩道に線が引いてあって壁に下関市・北九州市のマークが書かれているだけだが、観光客のみなさんはここで記念写真を撮っている。

そしてこの歩道、門司側のすぐ近くまでは下り坂が続き、平らになった頃には向こうに門司側のロビーが見える。門司側まで歩いて10分かからないくらい。今回は重い荷物を持っているので2、3回休んだが、身軽なら楽ちんで往復できるだろう。

エレベーターで地上に上がるのは下関側と同じである。私の通った時たまたまだったのかもしれないが、門司側は下関側よりも人が多くて、その人達のほとんどは待っていた観光バスに乗り込んで駅方面に走り去って行った。私はというと重い鞄を何とか持って路線バスのバス停に着くと、なんと、バスは1日に数本しかないのであった。

そういえば、太川・蛭子もここから駅まで歩いたんだっけ、と思い出し、再び歩き始める。今度は右手に関門海峡を望み、向こう岸は本州である。景色はいいのだが、登り坂である。そして、トンネルの中ではないので、再び激しい日差しが真上から照りつける。一度引いていた汗が再び吹き出してくる。

あまりにつらいので、横を走っている線路に列車が通らないかとはかない期待をいだく。ようやく登場した駅の時刻表を見るのだが、悲しいことに休日しか運行していない。再び重い鞄を下げて、門司港駅に向かってとぼとぼと歩を進める。

このあたりは昔来たことがあって、「メディカルセンター」と書いてある大きなビルまで行けば駅はすぐのような気がしていたのだが、それは大きな勘違いで、そこから先さらに1km近く歩かなければならなかった。帰ってからGoogle Mapで調べてみると、トンネル出口から門司港駅までは2.5kmもあった。小一時間かかったのも無理はないのであった。

幸いに、門司港駅には折り返し電車が止まっており、すぐに涼しい車内に入ることができた。その頃には、ワイシャツからズボンからびしょびしょに濡れてしまっていて、ホテルに着いて全部着替えなければならなかった。おまけに、このホテルにはコインランドリーが見当たらなくて、仕方なくバスルームで洗濯しなければならなかったのは、たいへん悲しいことでありました。

[Aug 4, 2016]

門司に向け、ひたすらまっすぐ続く人道トンネル。門司の直前まで、ゆるい下り坂になっている。


人道トンネル門司側出口。ここまで海底を1km弱。長かったのはむしろこれからで、炎天下をJR門司港駅まで2.5km!


沢田マンション [Nov 14, 2016]

今回の四国お遍路で、高知市街を歩くにあたり楽しみにしていたのは、沢田マンションであった。

沢田マンションは「日本の九龍城」と呼ばれるが、本家本元の九龍城が取り壊されてしまったので、いまやこちらが本家ということになる。ただ、実際行ってみると、屋上のクレーンなど少し違和感のある建物ではあるが、一見して分かるようなディープ・スポットではない。むしろデザインに凝った、きれいな建物という印象である。

はじめ、高台から薊野(あぞうの)方面を遠望すると、コンクリに黒く苔が生えた建物が見えたので、あれが沢田マンションに違いないと思って近づくと全く別のビルだった。ただし、方向としては一緒なので、そのまま西に進むと沢田マンションになる。思ったよりも街中にある。すぐそばに片側2車線の県道が通り、洋服の青山やヤマダ電機、ファミレスなどロードサイド店が間近にある。

東から近づくと、細い柱を継いだ上に物見やぐらのような構造物が乗っかっていて、そこに「沢田マンション」と書いてあるのが見える。建物全体が抜けるような白でペイントされている。古いコンクリの建物だと、大抵カビとか苔が生えてうす汚くなっていることが多いのだが、こちらはきちんと手入れされているのだろう。

入口付近には、テナントであるのか、合気道教室や雑貨店のような案内掲示があるものの、基本的には一般の住宅である。となると、あまり近くで写真を撮るのもはばかられる。生活の場だから洗濯物や掃除用具が置かれているのは当り前で、むやみに立ち入ればプライバシーの侵害である。

外から見る限り、建物が傾いている訳ではないし、狭い部屋がひしめいているようでもない。上の階に上がるスロープはショッピングセンターのようだし、どの階もオープンスペースが広々としていて緑があり、風通しもよさそうである。お掃除もきちんとされていて、ゴミが放置されているということもない。

なのになぜ、ここがディープスポットと呼ばれているかというと、この建物はオーナー夫婦が独力で建てたもので、設計図面も建築確認もない、お手製のビルだからである。WEBによると、オーナー夫婦に建設業や不動産業の経験があり、自ら地盤を深く掘って基礎工事をして、家族総出でコンクリを打ち、徐々に増築して現在の姿になったという。

さて、日本の法律は大原則では財産の私有を認めているから、自分の土地にどのような建物を作ろうが本来は自由である。建築基準法等々は、公の権威によって私有財産に規制をかけるものであるから、最低限にすべきという考え方がありうる。とはいえ、地震とかで崩壊して住民や近くの人に迷惑をかけるといけないから、最低限の規制は必要とはいえる。

だから、土地の持ち主が自分の土地に、設計図面がなく、建築確認もとれていない建物を作ること自体は妨げられないし、現実的にそういう建物はない訳ではない(山小屋とか忍者屋敷とか)が、これだけ大きな規模となると、おそらく他にほとんど例がないと思われる。これだけの建物を作る技術やノウハウがないということが一つと、借金をせずに作ることが難しいからである。

建築確認がないということは建物の登記もできないから、必然的に土地・建物を担保にして借金をすることもできない。だから、ほとんどすべての再開発案件は、建築確認なしですますということができない。ところが、この沢田マンションは、もともとオーナー夫婦の不動産業の一環としてやっていたものだから、借金なしですべて賄えてしまったものと思われる。

とはいえ、現実にこうして建物が建っていて中に賃借人もいる訳であるから、行政が全くタッチしていないということはないだろう。登記はないけれども、現地を確認して固定資産税や都市計画税の対象にはしているはずである。あるいは、立入検査くらいしているかもしれない(設計図面がないので構造計算はできないが)。そのあたりは、田舎だから微妙なバランスをとっているものと思われる。

そうしたことも含めて考えると、日本の九龍城というよりも、私有財産制と公的規制のはざまにある物件ということもできそうである。すでに建築に携わったオーナーは亡くなっており、いずれは取り壊されることになるのだろうが、長い目でみると建築確認があろうがなかろうが、すべての建物はいずれ取り壊されるのである。

[Nov 14, 2016]

JR薊野駅から歩いてすぐ、大通りからも見える立地に日本の九龍城は屹立している。


上の階に向かうスロープは、まるで郊外のショッピングセンターのよう。ただし、設計図面及び建築確認なし。


大通りからみた沢田マンション。片側2車線の県道のすぐ近くなので、資産価値は高そうだ。


奥行臼廃線跡 [Sep 18, 2018]

今回、道東に行ってみたくなったのは、NHKでやっている六角精児の番組「呑み鉄」を見たからである。以前書いたことがあるが北海道には旅行・出張あわせて四、五十回は行っており、離島以外はほとんど足を運んだことがある。

そんな中で、まだ行ったことがないのが霧多布であった。あのあたりでは釧路、根室、別海、知床は何度も訪問しているのだが、国道44号線をわずかに入っただけの霧多布に行ったことがなかったのである。

その番組では、「鉄ちゃん」である六角精児が奥行臼の廃線跡を訪ねていた。奥行臼はJR標津線も走っていたのだが、それとは別に北海道開拓以来の歴史を持つ殖民軌道も通っていたのである。

殖民軌道とは聞き慣れない言葉だが、北海道開拓当時、道路の建設がままならない時期に線路を敷き、その上を馬で荷車を引かせて人員や貨物の輸送に用いたものである。道路を作るより線路を敷く方が難しいような気もするが、地盤とか幅員の関係もあったのかもしれない。

現地に置かれている説明板によると、駅はあったもののそれ以外の場所でも乗り降りができ、ダイヤもあってなきが如きだったというから、まさに鉄道というより道路に近い存在であった。今回訪れた霧多布周辺の別海・浜中地域は、道内でも最も殖民軌道が多い土地であった。

その後、道路網の整備により役割を終え、廃止となったのが昭和40年代というから、私が初めて北海道に行った昭和51年の直前である。そういえば、小学校で「パイロットファーム」は習ったし、まだまだ北海道は開拓途上だったということである。

厚床で国道44号線を左折し、国道243号線に入る。周囲は牧場であるか原野であるかどちらかだ。時折、路肩に幅1m余りの平坦な小道が続いているのは、JRの線路跡だろうか。10kmほど走ると駐車場とトイレがあり、「奥行臼歴史の里」の立て看板がある。

JR奥行臼駅跡と村営軌道跡はここに車を止めて歩く。線路がいまだに残っていて、砂利と枕木を踏みながら5分くらいで奥行臼駅跡に着く。ホームや駅舎、駅名板は当時のまま残されている。当時といってもJR北海道になってからなので、「歴史の里」というほど古くはない。

意外と広くてきちんと手入れがされていて、雰囲気のいい場所である。駅舎は現在、保存のための工事中ということで中には入れないが、外から見ることができる。ちょうど、「明日萌駅」のようである。50mほど離れたところに小屋があって、どうやら風呂小屋のようだ。せっかく温まっても、外に出たら冷えてしまいそうだ。

手許にある昭和46年の国鉄時刻表によると、当時の標津線は1日5往復であった。現在、国道243号を走っているバス便は1日4本だったので、廃線当時のまま代替バスが運用されているらしい。ちょうど車を止めている時に1台走り抜けて行った。

村営軌道跡は最初は分からなくて、いったん駐車場に戻って側道を延々と牧場まで走って、あきらめて戻ってきたら奥行臼駅跡のすぐ先であった。もともとも奥行臼駅のホームで乗り換えたというから、近くにあるのは当り前なのであった。

こちらの方は、線路やホームこそ残っていないものの、当時使われた機関車と客車、ミルクゴンドラ車が展示されている。隣の建物は当時の待合所兼事務室であったようで、古いガラスの入っている和室は宿直の職員が泊まったものだろうか。

いま家で普段飲んでいる牛乳は、根室・釧路産限定の「北海道牛乳」である。考えてみれば、低温貯蔵・低温輸送の手段が少なかった昔は、牛乳は消費地の近くで生産するものだった。私がかつて住んでいた船橋では、市川(明治乳業)か八千代(興信牛乳)で瓶詰めされた牛乳が、毎朝家まで配達されたものである。

いまのように、すぐに冷蔵庫に入れられたのではない。そもそも、電気冷蔵庫が普及する前だから、玄関先の配達箱に入れられていたのである。留守をして1日取り出さないでいると、味が変わってしまうことも少なくなかった。そんな時代だから、生産地と消費地が離れることは考えられなかったのである。

当時も、根釧地域には多くの牧場があり乳牛が飼われていたが、毎日絞られた牛乳は牛乳缶に入れられて工場に送られ、近い距離であれば牛乳として消費され、多くはバターやチーズに加工された。今日では、こちらで搾乳された牛乳が1000km以上離れた首都圏まで運ばれてくる。私の生きている60年余りでも、時代が変わったのであった。

そうして昔のことをいろいろ考えたり思い出したりする1日でした。

[Oct 10, 2018]

標津線・奥行臼駅。JR北海道になってから廃線となりました。


昭和中頃まで奥行臼駅から営業されていた村営軌道風連線。いまでは冷蔵倉庫やトラックが使われている牛乳の輸送に大いに役立ったそうです。


横綱碑・大関碑・巨人力士碑 [Apr 28, 2019]

富岡八幡宮に行ったのは、あらかじめ予定していたことではなかった。

芭蕉記念館で展示を見て、深川図書館で芭蕉に関する本を調べて、清澄公園から門前仲町の駅に出た。そこから富岡八幡宮までは目と鼻の先である。ホテルのチェックインまで時間があったので、せっかくだから行ってみようと思った。

深川八幡宮は江戸でも指折りの八幡様であり、例祭には御神輿が出て多くの人でにぎわうということはニュースで知っていたが、勧進相撲の拠点で、江戸時代はここで大相撲が行われていたことは知らなかった。

だから、境内に横綱力士碑、大関力士碑があり、歴代横綱、大関、強豪関脇(力道山とか)のしこ名が刻まれているのは、今回初めて知ったことである。

大鳥居横のよく目立つ位置にあるのが大関力士碑と巨人力士碑である。横綱になるには大関になっていなければならないし、本来横綱は大関を兼ねるから横綱名も載っていておかしくないのだが、ここに刻まれるのは大関止まりだった力士である。

最近そういうケースがないけれども、大関が1人だけしかいない場合は、横綱の一人が「横綱大関」として番付に載る。大関は必ず二人以上番付に載らなければならない決まりだからである。

だから、横綱は昇進後速やかに名前が刻まれるが(稀勢の里も載っている)、大関は引退後にようやく名前が載る。歳とって急に強くなって横綱になるケースがなくはないからである。記憶に残っている中では琴桜とか。

大関碑の隣に建つのは巨人力士碑である。最初見た時この石碑は等身大かと思って、さすがにこれは伝説だろうと疑ったのだが、下の写真の「巨」と「人」の間くらいの高さにそれぞれの力士の身長に線が刻んである。

巨人碑にも刻まれ傍らに等身大の石碑も建っている釈迦ヶ嶽は身長226cmという巨漢力士であった。アンドレ・ザ・ジャイアントが223cmだから彼よりさらに高いということになる。猪木が卍固めできたのだから(w)全く勝負にならない訳ではないだろうが、江戸時代の力士は猪木ほどの体格はないので勝負にならなかっただろう。

ちなみに、ニコライ・ワルーエフは213cm、ジャイアント馬場は209cm、大相撲にいれば巨人力士碑に刻まれていただろう。バスケットボールでは230cm台が何人かいるけれども、格闘技系ではアンドレ、ワルーエフ、馬場が代表選手である。

横綱力士碑は本殿を横に入った目立たない場所にある。wikipediaによると、現在も使われている横綱の代数はこの石碑から採用されたということである。大相撲の歴史は相撲協会より古いからそういうことになるが、初代から三代までは番付上で横綱とは呼ばれなかったという。

横綱碑の前の石柱には、「魚がし」と刻まれている。スポンサーが魚河岸関係者だったのだろうか。そして、すぐ前に出羽の海一門の記念碑も建っている。他の一門から文句が出ないものかと思ったが、われわれの世代には春日野理事長(栃錦)の存在感が群を抜いていたので、誰も逆らえなかったのかもしれない。

[Jun 7, 2019]

普段から大勢の参拝客が訪れる富岡八幡宮の一画にそれらの石碑がある。


本殿奥に横綱力士碑。歴代横綱のしこ名が刻まれている。双羽黒、朝青龍はもちろん最新横綱・稀勢の里もある。


大鳥居からすぐの場所に大関力士碑と巨人力士碑。巨人碑は等身大ではなく、「巨」と「人」の間くらい、それぞれの力士の身長に合わせて線が刻まれている。


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