老荘思想と道教    道教と関羽(関帝)    モンゴルの中国支配と道教    ギャンブラーと道教


#1 老荘思想と道教

香港・マカオに何度か行っているうちに気になったのは、現地における道教寺院の多さである。日本にもいたるところに神社や寺、小さな祠、お地蔵さんがあるが、華僑の人たち(華僑は英語で言うとOverseas Chineseで本土以外の中国人という意味)も必ずといっていいほど関帝廟や天后(媽祖)廟をお祀りする。共産革命により建前上無宗教になったはずの中国本土に対し、台湾と香港・マカオはおそらく道教の伝統を引き継いでいる最大の地域ということができるのではないだろうか。

さて、その道教寺院であるが、行ったり見たりするたびに疑問に思うことがあった。いま話題の世界史や倫理社会で習ったところによると、道教の始祖は老子や荘子のはずである。「無為自然」の老子や「胡蝶の夢」の荘子がなぜ宗教になるのか。また、老荘よりかなり時代が新しいはずの関羽がなぜ道教で重要視されるのか、さらにもともと権威や財力を否定する(重視しない)考え方である老荘思想でなぜ現世利益、商売繁盛が祈られるのか、正直なところよく分からなかった。分からないなりにいろいろ調べてきて、今回の旅行で観音堂にも行ってひとまずの結論に達したので、ご批判は承知の上でまとめてみたいと思う。

さて、最初に押さえておくべきなのは、「老荘思想(道家)と道教とは違う」ということである(できれば学校ではこういうことを教えてほしいものである)。実はこれはよく考えれば分かることで、老荘思想は紀元前3~4世紀には少なくとも成立しており、いわゆる諸子百家としてお互いに論争したりときの政権に登用されたりしていたが、諸子百家が宗教かというとそんなことはなくて、法家とか墨家とか兵家とかは知識であり思想であって宗教ではない(儒家は儒学となり儒教になったが)。これが道教となったのは、それから500年以上後の2世紀に張角というひとが「太平道」、張陵というひとが「天師道」という教団を作ってからで、これらの教団が道教と呼ばれるようになるのである。

これらの教団は、教典として老子や荘子の著作を採用した。だから老荘から道教が生まれたのではなくて、道教が昔の思想の中から特に老荘に注目したというのがより正確な言い方になる。さらに、この時代の中国におけるこうした組織というのは、いわゆる反体制の組織であり秘密結社的な要素も強かったと考えられる。だから、こうした教団に属する人たちにとっては信仰の対象となったとしても、多くの人たちに受け入れられたということはなかったはずである。

そして、ここでもまだ2世紀である。関羽は三国志(魏・呉・蜀)時代の蜀の武将であるから、世に出るのはもう少し後だし、そもそも関羽は張飛とともに劉備玄徳の部下の武将であって皇帝ではない(ちなみに諸葛孔明はこの時の軍師)。道教教団と商売繁盛も、どうもイメージ的に結びつかない。道教が現在の形になるには、さらにパラダイムの転換が必要なのである。


#2 道教と関羽(関帝)

こうして生まれた道教教団は、もともとの老荘思想が権力・権威の否定という側面をもっていたこともあり、ときの統一政権である後漢王朝ではそれほど好意的にとらえられていなかった。しかし、その後の三国時代、南北朝時代、さらに隋(581-618)、唐(618-907)といった統一政権の中で、道教は政権に近い位置を保つことができた。

これは、老荘思想を評価したからでも道教教団の実力を認めたからでもなく、ときの権力者が道教のもつひとつの側面である煉丹術に注目したから、つまり不老不死の妙薬を入手するためであった。老荘思想は神仙思想と非常に近く、神仙から不老不死への距離も非常に近い。そのため道家はかなり古い時期から不老不死を求めるため煉丹術に通じており、権力者も同様の発想から道家を近くに置き、その研究に当たらせたのである。

ヨーロッパにおいて錬金術が科学技術の進歩を促した面があったのと同じように、煉丹術もさまざまの副産物を産んだ(錬金術は基本的に鉱物だが、煉丹術は動物・植物・鉱物の別を問わないので、より応用範囲が広い)。火薬もその一つだし、豆腐もそうである。ただし、主原料は「丹」つまり水銀だから、唐の時代には多くの皇帝が不老長寿の妙薬と信じて服用した水銀による中毒で逆に命を縮めたとされている。それでも、唐から北宋の時代にかけて、道教は隆盛を誇り国教的な位置を占めることとなった。

道教寺院が現在のように人格神を祀るようになったのは、どうやらこの頃からのことらしい。というのは、もともと蜀の武将である関羽が神格化されて、関聖帝君と呼ばれるようになったのは北宋期(960-1127)なのである。他国に捕らえられても主君である劉備玄徳を裏切らず、最後には殺されてしまう関羽は、義に篤い人物として民衆に支持されていたと思われるが、同時に計算にも明るかったという伝説があり、いつのまにか算盤の発明者、さらに商売の神様ということになってしまった。このあたり、わが国における菅原道真(もともと怨霊神であるが、学問の神様になってしまった)に近いといえなくもない。

また、関帝と並ぶもう一柱のスター神である天后も、もともと海難除けや無病息災の呪いをしていた媽さんという人(一説によると漁師の娘さんだったそうである)が媽祖として信仰を集め、さらに海の神様の要素も加わって天后という人格神となったようだ。わが国で近い人物像を探すとすれば、やはり卑弥呼だろうか。こうして、老荘思想(道家)とはそもそも別に生まれた道教が、さらにその一部分を取り出した形でときの政権に国教化され、それを受けて人格神が整備されたということである。

  マカオ最古の道教寺院、観音堂


#3 モンゴルの中国支配と道教

つまり、本来商売繁盛や現世利益とはほとんどかけ離れた位置にある老荘思想と道教が今日のような形に落ち着くに至ったのは、「2~3世紀」と「唐・北宋時代」の二度のパラダイム転換を経ているのである。だから、道教寺院というから老荘と考えてしまう方が厳密に言えば間違いで、それらは老荘思想とは別の中国人独特の世界観を反映しているもの、とみる方がよさそうだ。

もう一点注目しなくてはならないのは、中国は北宋期以降、異民族による漢民族支配の時代に入ることである。北宋は女真族(金)の侵入により滅び(1127年)、いまの華南地域で南宋が成立するが、この王朝も常に圧迫を受け続け、遂には1279年モンゴルの侵入により中国全土が異民族の支配下におかれることになる。当然のことながら、それまで国教としての地位を占めていた道教は、逆に迫害されることになるのである。

モンゴル民族による中華政権である元の世祖フビライ・ハーンは、仏教を国教として道教教典の大部分について破棄を命じた。この時代のモンゴル帝国は元と4つのハーン国によりアジアの大部分のヨーロッパの一部地域を版図に収めたのであるが、この中で元が首都として建設したのが大都、現在の北京である。

フビライとその一族は大都に宮殿を築いたが生活様式はモンゴル時代と変化なく、城壁の中に草原部分を残し、そこにパオを作って住んだとも伝えられる。だが、子孫の時代になるとそうもいかず、宮殿に暮らし生活も漢民族と変わらないものとなり、それにつれて帝国自体が弱体化していく。

しかしながら漢民族にとっては、中国全土を異民族に支配されたのは初めてのことである。こうした中で道教寺院はいわば漢民族のアイデンティティとして残存した。政治的には異民族の支配下にあっても、精神的文化的には民族の独自性を保ったという訳である。おそらく、道教が中国の民族宗教として確立したのはこの頃のことではないだろうか。実際、マカオで最も古い寺院とされる観音堂は元の時代に創設されているのである。

また、最初に触れたように道教自体は老荘と直接の関係なく成立したものであるので、宗教に必要である儀式・儀礼の点でそれまでの既存教団である仏教や儒教の要素をかなり大幅に取り入れたものとして確立してきた。つまり、老荘思想を根拠におきつつも、仏陀も否定しないし孔子も尊重する、というある意味節操のない、よく言えば融通無碍な体系として成立してきた。

このあたり日本人にはさほど抵抗はない(日本もそうだから)けれども、一神教のアングロサクソンやイスラムからみるとおそらくとんでもない話なのである。だから前述のマカオ観音堂でも、儒教のフロア、仏教のフロア、道教のフロアとそれぞれ独立していながら、真ん中には天后と関帝が来るという道教寺院としての体裁が整えられているのである。


#4 ギャンブラーと道教

さて、こうして現在の道教寺院が残ったと考えられるが、この宗教はわれわれギャンブラーにも貴重な教訓を残してくれている。例えば荘子にこういう一節がある。

瓦(が)を以って注する者は巧みに、鉤(こう)を以って注する者は憚(はばか)り、黄金を以って注する者は眩(くら)む。
[荘子・達生編五]

意味はなんとなくお分かりいただけると思う。つまらないもの(瓦)を賭けると巧くできるが、ちょっとしたもの(鉤は飾りのついた帯止め金具)を賭けると躊躇する、懼(おそ)れる。そして価値のあるものを賭けると冷静さを失ってしまう、ということである(「眩む」の字は正しくは違うのだが、IMEでは出てこない)。ここから得られる教訓は、「なくなって困るものを賭けると、リスクがあるだけでなく普段の実力を発揮できない」ということであろう。

さらに議論を進めると、「同じテーブルで戦っている限り、金持ちの方が絶対に強い」ということである。それでは零細ギャンブラーには勝ち目がないかというと、そんなことはない。一つの方法は、自分の勝ち負けと他人の勝ち負けを決して比べない、自分の物差しでプレイするということであり、もう一つは、同じ条件でプレイできるゲームを選ぶ、ということである。

前者は、いくら同じテーブルでブラックチップ($100)が乱れ飛んでいても、自分はレッドチップ($5)、グリーンチップ($25)で淡々と打ち、目標額に達したらにっこり笑って席を立つというクールなゲーム運びをしなければいけない、ということだし、後者は、懐に差のある相手と戦うのに最も適しているのは、リバイなしのポーカー・トーナメントということになる。

実はこの一節、この台詞を言ったことになっているのは孔子なのだが、孔子は「荘子」の重要登場人物で、しかも「論語」では決して言わないようなことを言わされている。つまり、荘子の創作なのである。道教はこれまで述べたように儒教の要素をかなり取り入れているのだが、荘子のこうした内容もかなり関係していると思われる。この「達生(たっせい)編」には、相撲の大横綱双葉山で有名な「木鶏」の話も入っている。

そして、老子のあまりにも有名なこの一節も、ギャンブラーにとって含蓄のある言葉である。

道の道とすべきは、常の道にあらず。名の名とすべきは、常の名にあらず。
[老子・道徳経第一章]

私はこの意味を必勝法などない。勝ち続けることはできないし、永遠に負け続けるということもない、という意味にとらえている。老子も荘子と同様いろいろなところで使われているのだが、最近では「上善は水の若し」が日本酒の名前になっている(若しが如しになっていますが)。

[Dec 28, 2006]

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