家まで歩いた話    深夜特急    長い3日間    酔って道端に寝た話
酔って三重県まで乗り過ごす    沖縄で冒険


家まで歩いた話 [Dec 2, 2005]

注.首都圏(関東)道路地図をお持ちの方は、それを見ながらこの記事を読まれるとさらに楽しむことができます。

#1 冒険は始まった 冒険とは何か?それは、予定も立てず先の見通しも確定していない中で行動することである。だから、あらかじめ地図やコンパスを用意し行程を十分検討したものであるならば、それが困難な道のりであろうともそれは冒険ではない。逆に、計画も見通しもないのであれば、それはたとえ都会の中で完結するものであっても、冒険と呼んで差し支えないのではないかと思う。

さて、先週の土曜日はDUKEの呼び物ベガスカップであった。この大会は、半年間の総合成績をチップ量に換算して最後に一発勝負を行い、優勝者はラスベガスにご招待という豪勢なものである。ここ半年は、この大会を目標にがんばってみようと思っており、月例のこの予選にももちろん出場したのであった。

1日2ラウンド行われる予選のうち、第1ラウンドはあっさり敗退、第2ラウンドは残り3人までがんばったが惜しくもここでゲームセットとなり、ポイントが加算される2着以上には残れなかったのだが、さて、問題は、ここまで残ってしまったことにより終電がなくなってしまったことである。

わが家は北総線の印西牧の原という駅にあり、この日は駅に車を停めている。ただし、この路線は終電が早く、遅くとも11時30分にはDUKEを出ないと間に合わない。しかし、最後のオールインに敗れた時点で、時計はすでに真夜中を回っていた。金曜日ではないので、DUKEも終夜営業はしていない。

次善の策としては、並行して走っている京成線(やはり、DUKEの最寄り駅東日本橋から直通で行ける)で近くの駅まで行って、そこからタクシーという手もあるのだが、この日は土曜日で京成線の終電も早くに出てしまっている。

安全策としては、行きつけの錦糸町のカプセルホテルに泊まるか、手頃なサウナかインターネットカフェで始発まで時間をつぶすという手もあるが、真夜中にも拘らずそれほど疲れているわけでもなく、また、この夜の負けっぷりにまたもや納得がいかなかったので、とりあえず、家に近づくところまで近づいてみようと思ってしまったのである。

東日本橋から一駅で浅草橋で下りる。というのは、終点の京成高砂まで行ってしまうとそこから先は全く進める目処が立たないからである。浅草橋で下りて総武線で千葉方面に向かう電車はまだ出ているはずであった。

なぜこんなことが分かるかというと、そもそも6年前にいまのところに引っ越すまでの間、通算すると30年以上、総武線の津田沼に住んでいたからである。それこそバブル華やかなりし頃は、真夜中すぎまで遊ぶのはしょっちゅうであり、12時すぎくらいで終電がなくなっているはずがなかった。案の定、終電1本前の電車に乗ることができた。滅茶苦茶に混んでいた電車が津田沼に着いたのは午前1時5分。

以前は、終電近くに津田沼に着くと、乗合タクシーというものがあった。津田沼から新京成線に乗り換えて行く人たちのために、新京成の終電が出てしまってから4人とか5人乗合で、北習志野とか八千代方面に行ってくれたのである。しかし、土曜日だったせいか、あるいはそういう制度そのものがなくなってしまったのか、駅前にはそういうタクシーは停まっていない。かといって、普通のタクシーではおそらく1万円近くかかってしまい、それだったらホテルに泊まったほうが安い。

考えたのは一瞬で、すでに足は国道296号に向けて歩き始めていた。家からここまで車で1時間弱。信号待ちや渋滞もあるので距離的には多分20kmから25kmといったところだろう。だとすれば、4時間か5時間、夜明けまで歩けば家に着く。それに、疲れたところでタクシーを拾えばその分料金は安くなるし、どうしても歩けなくなったら24時間営業のファミレスくらいありそうだ。幸い、会社帰りでないので鞄もないしスポーツシューズでもある。

そして、冒険は始まった。

#2 午前2時半 JR津田沼駅から7~800m歩くと国道296号、昔の名前で成田街道である。江戸時代は庶民が純粋レジャー目的で遠出などできなかったから、お伊勢参りや成田山参詣は宗教的というよりはレジャーとしての色彩が強かったそうだ。だから、江戸から一日歩いた宿場町である船橋は、そうした人々のおかげで大層賑わったという。ここから前原、薬円台、習志野まで、国道296号は新京成線と並行して進む。このあたりは子供の頃から見慣れた風景である。

歩き始めて30分、もう1時半を回っているが結構ひと通りがある。普通の女の子が自転車に乗って帰って行ったし、3ヵ所で道路工事もあって全然真夜中を感じさせない。もともとスキーウェアであった厚手の上着を着ているせいで汗びっしょりであるが、風が冷たいのでそのまま歩く。

この日負けたポーカーのことや、今後のカシノやポーカーのことを考えていると、それほど眠くならない。仕事帰りではないのでほとんど疲れもなく、お腹もすいていない。つまり、とても快調に歩を進めることができたのである。

約1時間で習志野に達する。右手はわが国最強ともいわれる自衛隊第一空挺団の習志野駐屯地である。ここには、昭和30年代にはすでにパラシュート訓練用の数十メートルの高さの鉄塔があって、当時他に高い建物などないから、相当遠くからでも見えたものである。その後、昭和40年代はじめにUHF千葉テレビの電波塔が建つまで、この地域のランドマークの座を長く保ったのであった。

自衛隊を右手に見ながらしばらく歩くと、新木戸(にいきど)交差点である。まっすぐ進むと勝田台から臼井、佐倉、成田となるが、ここで296号を左手に折れて、印西方面に向かう。ここから先は車では何十回も通っているが歩くのは初めてである。

午前2時半、歩き始めて1時間半で東葉高速鉄道の八千代緑ヶ丘に着いた。もちろん、終電などとっくの昔に出てしまっている。あきらめてタクシーを拾うとすれば、このあたりか、さらに5kmほど行った国道16号との交差点くらいしか思い浮かばない。

2台、3台と空車が通り過ぎるが、なんとなく、まだ歩けそうな気がする。結局はそのまま歩くことにした。さっきかいていた汗は、すっかり引いてしまっている。駅前のビル街を過ぎると、東の空から真っ赤な受け月が昇っているのが見えた。

さて、ここまで歩いてさほど疲れていないのは、この日は土曜日で仕事をしていないことや、毎週2時間のトレーニングで体力がついてきたということもあるが、おそらく最大の理由は、ここまで坂がないということであった。

津田沼から八千代にかけての土地を総称して習志野原という。このあたりは「前原」「薬円台」「習志野台」「八千代台」という地名があるように高台に広がった地域で、水利もなく関東ローム層の赤土でできているためあまり耕作に適さない。せいぜい落花生や人参ができるくらいである。

だから、もともと山林原野が多く、習志野の自衛隊(もともと大日本帝国陸軍第一師団騎兵第二連隊)があったり、ゴルフ場に開発されたりしたのである(ちなみに、ずっと先わが家近くにあるゴルフ場は"習志野"カントリークラブである。昔、ジャンボ尾崎が所属していた)。

しかし、ここから先は印旛沼から流れ出て新川となり、さらに花見川となって東京湾に注ぐ水系とその支流郡の作り出す低い土地が広がっている。こうした低い土地が水田として利用されているわけだが、低い土地というのはいわゆる谷であり、谷があるということは下り坂、上り坂があるということである。

つまり、ここから先の道のりはがぜん厳しくなるのであるが、そのことに気が付かなかったのは、やはり真夜中で脳が眠っていたせいなのかもしれない。

#3 午前3時40分 八千代緑ヶ丘の駅周辺のビル街を抜けると、工場団地である。ここには、食品工場や鉄鋼問屋などさまざまの工場があるのだが、当然一つの敷地ごとの面積がそこそこ広く、歩くと思いのほか距離がある。すでに午前3時近くで、全くひと気がない。時折トラックがすごいスピードで通り過ぎていくのでかえって安心であるが、やはりひとりでこの時間この場所というのは怖いものがある。

工場団地を抜けると、一番目の谷である。下り坂を行くときには大して気にならなかったが、上り坂ではなかなか進まない。ちょうど谷の一番下のあたりで午前3時を回った。

歩き始めて2時間、通り沿いに新聞店があって、すでに何台かのオートバイが配達を始めている。歩いてくる私を見て、警戒するような様子もみえる。このシチュエーションでは私の方が危ない人に見えるのかもしれない。当り前だが。

坂を登りきるとさすがに疲れた。このあたりから国道16号線まではだらだらとしたカーブが続く。道の左は中山カントリークラブのはずだが、その前に住宅が建っているのでゴルフ場は見えない。しかし、このあたり歩いても歩いても国道まで着かない。 のどがかわいてきたので、自動販売機でポカリスエットのボトル150円を買う。その買う間、わずか10秒か15秒立ち止まっただけなのに、歩き出そうとしたら腰やひざ、足全体が疲れて痛くてなかなか歩けないのには驚いた。

ポカリスエットを一気に半分ほど飲む。すると、引いていたはずの汗がどっと沸いて出てきた。あっという間にメガネも曇ってしまう。足も引き続き痛くて、歩きにくくて仕方がない。やはりこういう時に止まってはいけないのだな、と改めて思った。

歩きながら残りのポカリスエットを少しずつ飲む。飲み終わっても、まだ16号には着かない。空いたボトルを捨てたいのだが、道端に自動販売機(=缶とかビンのゴミ箱)が見つからない。2軒あった24時間営業のコンビニも通りから駐車場分、約20mほど下がっている。そこには当然ゴミ箱もあるのだが、その20mを余計に歩くのが辛くて捨てられない、といえば、どの程度疲れていたか分かっていただけるだろうか。

いよいよ国道16号に近づくと、何台かのタクシーとすれ違う。ここまで来れば、4、5千円で家まで着くとは思ったが、疲れたと思って歩いていた15~20分の間に、また足が慣れてきてなんとか歩けるような気がしてきた。

16号の交差点あたりで信号待ちをしている車がいたらさすがに乗っていただろうと思うが、そんなタクシーは止まっていなかった、というか国道16号に車は走っていなかった。片側2車線、合計4車線の道路を、堂々と信号無視で渡る。時間は午前3時40分。歩き始めて2時間半以上が経過している。

#4 午前5時40分 国道16号を渡ると、ほどなく二番目の谷のはずなのだが、やはりなかなかそこまでたどり着かない。道の両側は畑で、朝の早い農家の家々ではすでに起きはじめていてひとの動くのが見える。

あれ、ここはこんなに遠かったっけ、と考えていて気がついた。車だと60kmで飛ばしているからものの2、3分で通り過ぎる距離でも、2、3kmというと歩くと相当である。このあたりは信号も交通量もあまりないので、こんなに遠いとは思わなかった。

ようやく二番目の谷の下り坂に入る。すると、濃い霧になっていて先があまりよく見えない。その霧の中を歩いていく。ちょうど下り切ったあたりが八千代市と印西市の境である。ここまで来るとようやくはるか彼方に信号が点滅しているのが見えるが、どのくらいの距離があるのか見当もつかない。谷のあたりの距離はせいぜい4、500mと思っていたのだが、とてもそんな短くは感じられない(翌日計ってみたら800mだった)。

このあたりでは、汗で濡れた下着と、ズボンの裏地とで、歩くたびに太ももの裏あたりが擦れてかなり痛かった。それでも、止まってしまうとさっきのように歩き始めがつらくて仕方ないので、一定のリズムで歩き続ける。

しかし、ペースを上げるほど体力は残っていなかった。そして上り坂に入る。これがまた長い。このあたり歩道のないところで、時折通る大型トラックがびっくりしたように道の中央あたりまで避けてくれるのが面白かった。

最後の坂を登りきってしばらく進むと、ようやく千葉ニュータウンの入口、船尾である。時計を見るとすでに午前4時40分。歩き始めてから3時間半余り、国道16号からはほぼ1時間である。ここまで来ればもう着いたも同然と元気を出そうとしたら、家のそばに最近できたショッピングモール「牧の原モア」の案内看板をみて驚く。

そこには「あと5.7km」と書いてある。そう、このあたりはニュータウンだけあって区画が広く、千葉ニュータウン中央から印西牧の原までのひと駅でも約5kmあるのである。「まだ5kmもあるのか」と思ったが、もちろんこんなところにタクシーは流していない。

谷から上ってすでに霧は晴れており、東に低く出ていた月は空高く上がっていてすでに受け月の形ではなくなっている。えらく長い直線道路を延々と歩く。歩いても歩いてもまだ着かない。考えてみたら、24時間営業のコンビニは何軒かあったが、24時間やっているファミレスはなかったなあ。それでも、ここまで歩き続けたのだから、われながらたいしたものだと思い、一歩一歩、ゆっくりゆっくりと自分に言い聞かせながら進んだ。

印西牧の原駅に着いたのは午前5時40分。東京から始発に乗ってくるより、30分くらい早い。まだ夜は明けていないが、東の空の色が変わってきた。駐車場で車に乗ろうとすると、そのわずか30cm足らずの段差に対して足が上がらなかった。腰にも膝にも一気に痛みが走る。そして、総行程4時間半あまりの冒険は終わりを告げたのであった。

[Dec 2, 2005]

深夜特急 [Aug 1, 2006]

といっても、沢木耕太郎の作品ではない。岡山OPPCの帰りに三十年ぶりくらいに乗った、夜行高速バスの話である。前に乗ったのは学生時代、阪神競馬場に行くために大阪まで乗ったドリーム号だから、本当に30年ぶりのことである。

当時は青春18きっぷはなくて、大阪まで一番安く行く手段はドリーム号だった。もちろん左右二人ずつの普通のバスで、東名高速道路を何度か休憩しながら走った。休憩するSAでは、「何時何分に出発しまーす」とかアナウンスがあって、運転手も乗客もみんなバスから下りてリラックスしたものである。

今回乗ったのは岡山→浜松町・品川→お台場の「ルブラン号」。昔と違って豪華ハイデッカーで3列独立シートである。トイレも給茶機もバスの中にあるので、休憩のときもバスから下りることはできない。とはいっても、止まるのはせいぜい4、5分だったようだが。

8時40分に出発したバスは、途中で岡山インターに寄り、ここでは高速に乗らずに津山まで国道を走り、10時過ぎに中国道に入ったようだ。ようだ、というのは窓にも前方にもカーテンが張られていて、外の様子が全く分からないからである。しばらくは本でも読もうと思っていたのだが、車内は暗いし読書灯というのがほとんどろうそく位の明るさしかなくてあきらめた。

仕方なくiPodを聴いているうちにうとうとしてきた。時刻を見るといつのまにか11時を過ぎている。ヘッドホンを外して本格的に眠ることにする。リクライニングすると結構足も伸ばせるし、隣がいないのはかなり楽である。車中をみると結構若い女の子とかもいて、3分の2ほど乗っているだろうか。年寄りが空調が寒いとか言っているが、私は逆に暑くて汗がふきだしてくる。

広さは飛行機でいうとビジネスクラス並みなのだが、車体が高いせいなのか結構がたがた揺れる。高速道路なのになんでこんなに揺れるんだろうと思っていたが、気が付いたら2時、次に気が付いたら5時だったから結構よく眠れたようだ。首都高を通って浜松町に6時半前に到着。定時より15分ほど早い。その足で東京駅地下の東京温泉でひと風呂浴びて、8時過ぎには会社に着いた。

今回夜行高速バスを使ったのは、遅くに東京駅に着いても家に帰れないという事情があったのだが、もう一つ、それほどつらくなければ、これから大阪に行く時とかに使えるのではないかという目論見があったからである。実際、つらいどころか結構快適だったので、また使ってみたくなってしまった。

[Aug 1, 2006]

岡山駅高速バスターミナルとルブラン号。ごらんのとおりカーテンが引かれていて、中から外が見えません。


長い3日間 [Oct 27, 2006]

#1 朝一番で岡山へ 先週の日曜日は朝一番の飛行機で「岡山ポーカープレイヤーズクラブ(OPPC)」月例トーナメント参加のため岡山へ。

朝一番の飛行機に乗るためには、当然のことながら始発電車に乗らなければならない。4:30起床、15分で仕度して奥さんに駅まで送ってもらう。5:02発の羽田空港行き。乗り換えなしで行くのだが、1時間半かかる。あとから聞いたところでは、この時間、前夜祭組はまだ飲んでいたそうである。

6:30すぎに羽田空港着。荷物を預けて手ぶらで荷物検査へ。普段は機内持込にするのだが、この日はスーツを持ってきているのと、到着後それほど急ぐ訳ではないので預けたのである。

そう、今回のミッションは翌朝一番で岡山を出て、定時に会社に出てしまおうというかなり無理目の計画なのである。前回は夜行バスで東京に戻って、時間的には十分間に合ったのだがさすがに疲れた。今回は時間ぎりぎり、もしかしたら遅刻する可能性もあるが、普通に寝ればそれほど疲れないはずである。

前に書いたことがあったかもしれないが、私は移動中の電車や飛行機の中でほとんど眠ることができない。この朝もかなり寝不足だったが結局そのまま機内へ。朝一番の飛行機はがらがらで、横1列3席にひとりしかいない。だから真ん中に陣取って、エコノミーなのにビジネス気分である。ただし、香港に行く訳ではないので、のんびりする間もなくあっという間に到着してしまった。

この日岡山入りを決めたのにはいくつか理由があるのだが、その2日前の金曜日、DUKEのウィークリートーナメントで手ひどい負けを食らったのが大きい。

この日、ファーストトーナメントでは序盤かなりチップを減らしながら、粘ってファイナルテーブルまで残って7位。セカンドトーナメントでは序盤から好調でチップを倍にして、これは久々に優勝戦線に残れるかなと思っていたら、中盤でkopaさんに1周の間にポケットペア4回(JJ、QQ、JJ、QQ)という離れ技を食らって平均チップ以上持っているところから一気に飛ばされてしまった。岡山でなんとか上位に残って、久しぶりに優勝争いというものをしてみたかったのである。

岡山空港からバスで市内へ。いったんホテルに荷物を置いてから、駅前のネットカフェへ。最近は全国どこに行ってもネットカフェがあるのはうれしい。朝はぎりぎりだったのでできなかったメールチェック。昨晩OPPCの掲示板に参加表明をしていたのだが、主催者のtagamanさんは飲みに行ってしまい見ていないかもしれない。

案の定彼からのレスはついていなかったのだが、代わりに東京からkopa兄さんのレスがついていた。この日はゴルフだと聞いていたが、真夜中に書き込みがあったところをみると、うきうきして眠れないらしい(kopa兄さんには”うきうき病”という持病があるらしい)。噂どおりの方である。

#2 午後一番でOPPCへ 午後1時に会場到着。・・・ん?なんだか人が多くて入れない。お前ら250円やるから、じゃなくて、主催者のtagamanさんに聞くと、予想以上に集まって2テーブルになるようだ。江戸の仇を岡山で作戦が早くも困難になる。10人以上も集まると、なかなか勝ち残れるものではないからだ。

初級者講習を頼まれたので、「片方のカードが弱いとキッカー負けすることがあるので注意しましょう」とか「同じストレートドローでも、リャンメン待ちとカンチャン待ちは上がれる可能性が異なるので注意しましょう」「アクションは正しくても運が悪いとマクられるので慎重に」とか、それなりに微妙に自分に有利になるようなことをレクチャーしたのに、開始第一局でsharkさん(この方は初級者ではない、テニアン優勝者)がフロップ後オールインで早くも構想が音を立てて崩れだした。私の苦手とする打ち合いのパターンである。

ポーカーはあまりやったことがなくても、カシノゲームの経験を積んだ方々は勝負どころをつかむのがうまい。まさに自分自身が、「アクションは正しくても運が悪いとマクられる」パターンである。おまけに手が来ない。ペアは全く来ないし、せっかくAKが来てもAQに負けたりする。でも自分で配っているのだから仕方がない。一回目のトーナメントで上がれたのは、BBで93が来てフロップ2ペアとなった1回くらいで、ようやく来た99でオールインして玉砕してしまった。

2回目のトーナメントでも手がこない。7か8のポケットペアでA持ちとのオールイン対決を勝ってファイナルテーブルには残ったものの、ただ一度のハイペアKKはショートオールインとの勝負で実入りは少なく、最後はAQでオールインしたらあけみんさんにAQsで受けられ、案の定フラッシュを作られたうえにAもQも落ちずにサイドポットもペア持ちの人に持って行かれてしまい、あえなくゲームセットとなった。

いったい何をしに岡山まで行ったんだろうという感じであるが、sharkさんに岡山駅まで送ってもらいホテルへ。9時すぎにはふて寝する(というより、当日朝早かったし、翌日も早いので隠密行動をとりました。すみません)。

翌朝は5時に目覚ましをかけたのだが、早く寝たので4時半前には目がさめた。シャワーを浴びて用意をして、5時にはホテルを出る。空港行きのバスはぎりぎり6:15で間に合う。それまでネットカフェで、NFL(アメリカンフットボール)のサイトを見ようというのである。

15分ほどで前の日と同じネットカフェへ。あいにくの雨降りである。さすがに月曜日の早朝でほとんど人がいないが、それでもいくつかのブースには電気が点いていたので泊り込みの人もいたのだろう。早速NFL.comのサイトへ。

米国時間で日曜午後のゲームは大体日本時間の5時すぎに決着するのだが、予想した5ゲームのうち、3ゲームが午後である。ニューイングランドは予想通り勝っていて、不利と言われていたタンパベイも勝っている。早くも2勝である。もう1試合のピッツバーグ対アトランタは同点で残り15:00と表示がある。どうやら、オーバータイム(延長戦)にもつれ込んだらしい。このゲーム、実はリゾカジマスターが見に行っている試合なのであった。

#3 翌朝一番で仕事へ さて、延長戦はアトランタの攻撃で始まった。ハンデはアトランタに+2.5。延長戦はサドンデスでフィールドゴールでも3点入るので、ハンデ関係なく純粋に勝ち負けの勝負である。このゲームの予想はアトランタ。このまま敵陣30ヤードラインまで進んでフィールドゴールを決めれば、勝ちである。

しばらくは自陣での攻撃が続く。ディスプレイを見ながら力が入る。一度3rdダウン9(あと1回の攻撃で9ヤード進まなければならない。かなり不利)まで追い詰められるが、ここをなんとかしのいで敵陣へ進む。30ヤードラインを越え、20ヤードラインも越える。

ここまで来ればフィールドゴールはほぼ確実に決まる。あとはアトランタのQBヴィックが余計なことをして敵にボールを渡さないだけだ。1プレイ、2プレイと見守る。まだ蹴らない。しばらくして(おそらくピッツバーグがタイムアウトを取ったのだろう)、アトランタの点数に3点が追加される。これで3勝である。日曜夕方のデンバーにも賭けているが、これは楽勝だろう。時間はそろそろ6時。出発する時間である。

6;15のバスで駅を出て、6:45に空港に到着。すばやくドムドムバーガーで朝ごはんを調達して、すぐに荷物検査。そのまま機内に入る。7;15に出発。水平飛行に移ってからようやくハンバーガーの包みを開ける。

帰りの東京行きは時間がぎりぎりなのでJシートをとったのだが、これが大成功で一番前の席である。おそらく後ろの席と2、3分は違うはずだ。ここまで来たらじたばたしても仕方がない。足をゆったり伸ばして、テリヤキバーガーとポテトを楽しむ。

ほどなく再びシートベルト着用のサインが点灯して着陸態勢へ。そしてあっけなく着陸してすぐに空港ビルに横付けされる。やはり成田とは大分違う。放送がある前に後ろのほうからどんどん人が押し寄せてくるが、なんといっても一番前だから余裕である。

出入り口が開いてビルに入った時に時間をみると6:32。恐るべき定時運行である。そのまま空港ビルを走って6:36の浜松町行きのモノレールに乗り、さらにJR、地下鉄と乗り継いで会社に着いたら、定時2分前であった。ミッション成功である。

午前中の仕事をなんとか片付けてネットをみると、案の定デンバーは勝っている。これで4勝。そして翌日のマンデーナイト(日本時間で火曜日午前)、ニューヨーク・ジャイアンツがダラスに快勝して、とうとう5連勝。このブログで予想を始めて以来はじめてのパーフェクト予想を達成した。

プライベートでも岡山往復しつつ、仕事も月・火とこなしながらのパーフェクト達成は正直なところすごくうれしい。長い3日間ではあったが、それなりに報われたのかなあ、とちょっとだけ思っている。

[Oct 27, 2006]

酔って道端に寝た話 [Jun 5, 2008]

最近はあまりお酒を飲まないので急激に弱くなってしまったが、昔は際限なくお酒が飲めた。この季節になると思い出すのは、酔って道端で寝たことである。

いまから22年前の1986年、3年間の大阪勤務から東京に戻ってすぐのことだった。当時は、一軒目ニュートーキョーで飲み、二軒目銀座のはずれにあるカラオケスナックで歌いつつ飲み、最後にラーメン屋で食べつつ飲むという三段活用で終電あるいはタクシー帰りという日が週に何回かあった。その日は金曜日あたりで、おそらく翌日が休みということでがんがん飲んだものと思われる。

最後の店がどんな店だったかよく覚えていないが、時間はとっくに真夜中を過ぎて終電も行ってしまっていた。場所は東銀座のあたりで、なぜか他のみんなとはぐれて一人になってしまったのである。財布をみると何千円かしか残っておらず、タクシーで帰るには現金が足りない。それでも飲んでいたのは、当時大阪ではタクシーの精算がクレジットカードでできたから、当然東京もそうだろうと思って安心していたのである。

車があまり通っていなかったので銀座通りに出て、タクシーを止めた。そして、「クレジットカードで」というと、どのタクシーも「うちはチケットしか使えません」というのである。十台くらい聞いてみんなそう言われて、ようやく気がついた。東京ではクレジットカードでタクシーに乗れないのだ。

それでも何か方法があったはずなのだが、なにせ酔っ払っているもんだからどうしていいか分からない。時計をみると午前3時近くである。4時半くらいになれば、国電(まだJRになる前である)も動き出すだろう。それまでどうするかと考えていたら、そこに地下鉄駅に下りていく階段があった(おそらく銀座駅か、銀座一丁目駅)。

階段の途中からはシャッターが閉まっていて行き止まりであるが、風よけにもなるし一休みするにはちょうどいいように思われた。シャッターの前まで下りて行き、階段に腰をおろす。頭の下に枕がわりにかばんを置き、足をシャッター近くまで伸ばすと、階段の傾斜がちょうどいいあんばいでなんとなく寝られるような気がする。もうこれ以上動くのは面倒くさい。そして、そのまま眠ってしまったのである。

目を覚ましたらもう5時で、2時間近くはそのまま眠っていたことになる。あたりはまだ暗かったが、後は電車に乗ってしまえば家に帰れる。そして二日酔いのもうろうとした頭で、有楽町の駅へと向かったのであった。

後から調べてみると、当時東京ではクレジットカード会社がタクシーチケットをカードとは別に出していて、それを使わなければタクシーに乗れないということが分かった。さっそくそれを取り寄せたのはいうまでもない。ちなみに、当時も個人タクシーのチケットはあったが、私はほとんど見たことがなく、会社を変わってからみんながばんばん使っているのを見て相当驚いた。

いま考えると、寝ている間に身ぐるみはがされるおそれもあったわけで、相当に危ないことであった。そしてその後はそうなる前に家に向かったのでそんなことはなかったのだが、今から5、6年前にもう一度そういう目にあってしまった。それはまた別の機会に書くとして、私が酔っ払って道端に寝たのは、この2回がすべてである。

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さて、あと一度だけ道端に寝たことがあって、それはかれこれ7、8年前のことになる。場所はJR錦糸町の駅前である。

錦糸町は私にとって特別な場所である。船橋市に住んでいた私が大学まで通ったのは総武線の黄色い電車であった。総武線沿線で、東京都に属する最後の盛り場が錦糸町であり、ちょうど東急線沿線に住む人が渋谷に感じるイメージが、私が錦糸町に感じるものであるといってもいいかもしれない。

ここには、中央競馬(JRA)の場外馬券売場がある。総武線で東京と千葉の境は小岩になるが、小岩にはなにしろ場外売場がない(江戸川競艇は近いが)ので、東京といえば錦糸町だった。社会人3年生の頃まで、ほとんど毎週来ていたのではなかろうか。

そうしたことから、なぜか錦糸町には愛着があって、東京都心で前後不覚になると、タクシーで錦糸町に来るという癖が昔からあった。錦糸町は帰り道だが、これ以上乗ってしまうとタクシー代が高い。そこでカプセルホテルに泊まってしまおうという訳である。

かなり以前から錦糸町の駅の近くにはカプセルホテルがあって、どんな真夜中に行っても満室であったことがない。3500円くらいでサウナつきのカプセルホテルに泊まり、翌朝家に帰ったり再び会社に向かうのであった。

そんな訳で、この夜も酔っ払って錦糸町までタクシーでたどり着いたのだが、その時に限ってどうにもこれ以上歩けなくなってしまったのである。わずか300mばかりのカプセルホテルへの道にどうしても進めない。結局そのまま駅前で座り込んでしまった。

足は動かないのだが、意識はちゃんとある。すでに終電が出て駅のシャッターは閉まっている。その前に座って足を伸ばし、シャッターに寄りかかると大分と楽になった。楽にはなったが、再び立ち上がることがどうしてもできない。

結局、そのままそこで寝てしまった。真夜中だというのにタクシーがたくさん止まっていてたいへん明るく、それほど怖いとは感じなかった。ただ、時々東南アジア系のお姉さま方が来て、「マッサージいかが?」と営業されるのには困った。「もう歩けない・・・」と半分寝ながら断った。

そのままおよそ2時間、4時頃になるとシャッターの開く音がして目が覚めた。その時にはなんとか歩けるくらいに回復していたので、立ち上がって家に向かったのであるが、これが今のところ道端で寝た最後である。

[Jun 5, 2008]

酔って三重県まで乗り過ごす [May 5, 2009]

大阪予選の翌日は、第1回全日本ポーカー選手権者にして、今回も予選を通過して3大会連続のAJPCメイン出場を決めた全裸の会会長にご一緒していただき、古代の大和~難波間の主要道である竹内街道をめぐる、寺社と古墳めぐり。このご報告はまたいずれさせていただくとして、その夜に予想外の事態となったので、その話を。

会長地元の居心地のいい飲み屋で、ワインをぐいぐいやり始めたのが6時半頃。9時半過ぎに、「じゃあ、そろそろ」「これを空けたら引き上げましょうか」、などと話していたのは頭の片隅に残っている。次に気が付いた時には、そこは真っ暗な駅のホームだった(後から調べたところ、そこは青山町という駅だった。電車の中で少なくとも40分以上は寝ていた計算になる)。

おそらく、終点で下ろされたのであろう。時計は11時半。まだ大丈夫な時間のはずなのに、ひと気が全くない。はるか遠くに見える駅の事務室まで、なんとか歩いていく。

「あの、奈良市内に行くつもりが乗り過ごしまして」と駅員さんに尋ねると、「奈良市内?この時間からじゃ無理だな。ここには何にもないから、次に来る最終電車で名張まで戻って。名張まで行けばタクシーもホテルもあるから」とのお答え。言われたとおり、次の電車に乗って名張まで戻る。

名張と言われても、こちらには全く土地勘がない。とりあえず駅から出て、タクシーの人に奈良駅までいくらぐらいかかるか聞くと、「まあ、2万円くらいかな」。これでは、タクシーという選択肢はない。ビジネスホテルの場所を聞き、予約してある宿をキャンセルしてここに一泊することにした。

泥酔している時に50m100mでも歩くのは相当しんどい。ようやくホテルに着いて、チェックインしようとするが今度は手がふるえて字が書けない。かろうじて口はきけるのだけれど。なぜかパソコンのレンタルありと書いてあるのを見つけて、借りる。よく借りたし、よく貸してくれたものである。

部屋に着いて最初に、パソコンで宿泊予定の宿の電話番号を調べて、キャンセルの電話をしたのが発信記録によると0時22分。駅に電車が着いてから30分後である。一体なぜこんな時間がかかったのか、謎だ。(きっと、タクシーの運転手さんに話しかけられなくてうろうろしていたんだろう)

次に記録が残っているのが、ブログのコメント欄で1時18分。この56分間何をしていたかというと、まず駅前のコンビニに行って水と食料を仕入れ(!)、宿に戻ってフロントの人に「ここはどこですか。明日は伊丹から飛行機で帰るのですが、どうすれば行けますか?」と質問をし、部屋に戻ってパソコンでブログのコメントを見ていたのである。

泥酔していたにしてはかなり精力的に活動しているが、翌朝になってなかなかベッドから立ち上がることができず、「なんでブログチェックなどせずに、早く寝てしまわなかったんだろう」と反省することになった。

名張は上本町まで急行で1時間と少し、そんなに遠くはなかった。今年になって来たことのある室生口大野からちょっと先の駅で、帰り道では、案外近かったんだなあと思った。おまけに飛行機の時間を1時間勘違いしていて、ぎりぎり間に合ったと思ったら1時間先の便だったのは、二日酔の頭に相当響いたのでありました。

ふるえるほど寒かったので、野宿とか夜通し歩く気はさらさらなかったのだけれど、久しぶりに冒険をしてしまった夜でした。

[May 5, 2009]

近鉄名張駅。なぜこんなところに・・・。


沖縄で冒険 [Jun 10, 2009]

日本時間では今朝、WSOPレディースが開幕しているはずである。おそらく先週末あたりから遠征している方々もいらっしゃるという中で、私はというと、今年の夏は、いまのところ全く長期休みの目処が立たない。何ヵ月前に安い値段で押さえていたラスベガスのホテルも泣く泣くキャンセル、3年連続のWSOP出場はならなかった。

かれこれ十四、五年も前のことになるが、パソコン通信時代のniftyにMCNフォーラムというところがあって、ここで競輪とオートレースの会議室を共通でやっていた。当時デビューした森クンの記事などをupしていたものだが、その頃、管理者兼常連ライターにiriさんという方がいて、この人が書いた記事で、いまでも記憶に残っているのが以下の内容である。

KEIRINグランプリに出場する選手には厳しい選考基準があるが、参加する方にも厳しい条件がある。それは、XXXX年12月30日に以下の基準を充たしていることである。①生きていること。②娑婆にいること(引用者注.刑務所にいたりしないこと)。③学生・生徒・未成年者でないこと。④立川競輪場に来ることができること。⑤車券を買うカネを持っていること。

この条件からすると、WSOPシニアの開催される6月第4週にラスベガス、リオ・ホテル&カシノに行くことができないのだから、私には出場資格がない。悲しいことである。なにしろ、来週から4週連続で出張が入っていて、さらに先に伸びる可能性はきわめて大きいのだ。

というわけで、ほとんど唯一連休が取れそうな先週末、沖縄に行って来た。たまにはカシノ絡みでない観光も入れておかないと懐具合が厳しくなるし、新型インフルはやや下火とはいえ海外へ行くのは若干ではあるが気が差す。不要不急の海外旅行は控えるようにという空気は、世の中にまだまだ根強くあるのである。

6月4日木曜日に現地入りして、翌日は金曜日。朝方まで夕べの雨が残って、どんよりとした曇り空。無料サービスの朝食を食べて、さてどうしようか考える。バスを使うかレンタカーにするか。ETCカードとJAFの会員証は持ってきたのだが、フロントで聞いてみるとレンタカーの受付は9時からで、それから車をここまで持ってくるということである。

となると、出発できるのは10時を過ぎてからになりそうだ。時刻はまだ8時、せっかくの休みにホテルの部屋でいらいらしながら待っているのも生産的でないような気がしたので、バスを使うことにする。行き先は、勝連グスクのある沖縄中部のうるま市。以前は勝連町・与那城町といったあたりである。

那覇市内。国際通りから牧志公設市場に入ったあたりの街並み。


ところで、沖縄にプライベートで行くのは初めてである。大体の地理は理解しているつもりだけれど、ひとに連れて行ってもらってばかりなので土地勘はほとんどなく、地図も持たないで歩き回ろうというのはかなり無謀である。それはそれとして、事件(?)は勝連から次の目的地である北谷(ちゃたん)に向かうところで起きた。

勝連は沖縄中部の東海岸、北谷は西海岸である。沖縄のバスはたいてい那覇との往復路線なので、中部を横断する路線バスはない。バス停の路線図をみると、那覇行きに乗ってコザで下りると、そこから北谷に向かうバスがあるようだ。1時間に1本くらいしかないバスがちょうど来たので、とりあえずコザまで移動する。

コザのバス停で下りたけれども、はて、北谷行きの路線など見当たらない。もしかすると違う停留所があるのかもしれないと思って、手前の十字路に戻って探すと、案の定違う方向に別の停留所があった。そこまで行って時刻表をみると、なんと、北谷行きのバスは朝と夕方しか出ていないのであった。

次のバスは3時半、いまの時刻は1時過ぎ、まだ2時間以上ある。困ったなあと思っているうちに、違う行先のバスが来て、私を見てドアを開けた。仕方がない。分岐点まで乗って、後のことはそれから考えよう。

バス停を3つか4つ行く間に、次の交差点を右に折れると北谷という表示が見えた。バスはどうやら直進するようだ。あわてて下りる。北谷まで何kmという表示がないのが気がかりだが、とりあえず方向は合っているようなので歩くことにする。みるとタクシーもそこそこ走っているので、いざとなったらタクシーという手もある。

交差点から標識どおりに右に折れる。おそらく北方向に向きを変えたと思われた。衣料品を扱っているお店が続く通りで、米軍基地が近いためかラージサイズが多い。何軒か行くと、”48 POLAMALU”とか”18 MANNING”とかNFLユニフォームを飾ってある店をみつけた。中に入って値段を見てみると、”US$300”と貼ってある。おお、$建てですか。

しばらく行くと大きな通りにぶつかった。標識によれば、北谷は左、西方向である。さらに歩く。すると、大きな道路は高速につながっていて、沖縄南インターというらしい。このあたりまで来るとタクシーはほとんど見当たらず、自家用車かトラックである。もしや、車でしか移動できない距離を歩いているのではないか、と不安になる。

ちょうど目の前に「沖縄そば」の店がある。まだ歩き始めて20分くらいだから、引き返すなら今のうちである。そーきそばとオリオンビールを注文して、さっきデジカメで写したバスの路線図を拡大して見てみる。

沖縄南インターから北谷まで、バス停で5つか6つのように見える。そのくらいであれば、なんとか歩けるはず。沖縄そば屋を出る頃には雲が開け、外はまぶしいばかりの日差しである。チャージャースCapとサングラス、日焼け止めもつけて紫外線対策をとってはいるものの、相手が真上から照らす亜熱帯の太陽ではかなり心細い。

高速の脇を抜け、運動公園の横を延々と歩く。さっき飲んだビールはすぐ汗になって出てしまった。運動公園を過ぎたあたりで、米軍・カデナエアベースの正門が見える。そして、気がついた。人の住んでいないところにはバス停はない。周囲が基地の敷地ということは、バス停の間隔は非常に長くなっているのではないか。

U.S.Air Force Kadena Air Base.この青空と、真上から照らす太陽(自動車の影)は、さすが沖縄。


カデナ・エアベース正門を過ぎて、米軍基地を右手に見ながらゆるゆると坂を登って行く。「アジアパー伝」に、沖縄の米軍といってもいろいろあるって書いてあったけど、コザ近辺はあまりこわくない方だったよなー、などと思いながらひたすら歩く。私以外に歩いている人など一人もいない午後である。

坂を登りきったあたり、道路の上方に待望の「北谷町」の表示が現れた。沖縄市と北谷町の境界である。ともかく、方角だけは間違いなかったようで、うれしい。ただ、めざすのは海岸沿いである。ここまでですでに1時間近く歩いているのに、行く手に海らしきものは全く見えない。

ところで、なぜ北谷(ちゃたん)を目指したのかというと、前の晩に見たパンフレットにたまたま北谷が載っていて、ジャスコ北谷がかなり規模の大きなショッピングセンターのようなので行ってみようと思ったからなのである。今回の沖縄での目的の一つが「チャンプルー塩」なるものを探すことだったのに、那覇で探したときには見つからなかったのである。

カデナ・エアベースから20分ほど歩くと、やたら英語が目立つエリアになった。「外国人向け貸家求む」「English Speaking Stuff Available」などの看板、英語しか書いてない店、そして沖縄便などないはずのノースウェストの代理店。どうやら、米軍関係者の居住区のようである。とはいっても、本当の軍関係は基地にいるだろうから、取引業者とかそういった方々であろう。

北谷というのはおそらく、こういった日米混住の地区だと思われた(後からジャスコに行ったら、外人ばっかし)。通りの看板だけ見ているとまるでサイパンのようである。思わずデジカメを取り出して記念撮影。ほどなく、「北谷高校前」というバス停が見えた。

高校があるということは市街地も近いのではないかと期待したのだけれど、間もなく再び建物がなくなり、両側が米軍所有地となってしまう。亜熱帯の炎天下、ひたすら西に向かって歩く。もはや、ひざがまっすぐ伸びていないのを感じる。かかともほとんど上がっていない。やっぱり沖縄はレンタカーがないと無理と分かったけれど、後の祭りである。

歩き始めたのは1時過ぎ、北谷町に入ったのは2時半すぎ。それでも海などとても見えない。結局、海岸沿いの国道に出るまでそれから30分、さらにそこからジャスコまで15分ほど歩き、ようやく冷房の利いた店内に入ったのは、そもそも最初コザで見たバスの時間、3時半であった。

着く前には、ジャスコの近くにあるはずの観覧車に乗って、沖縄の海をながめようと思っていたのだけれど、余分な距離を歩くだけの体力は残っていなかった。ようやくみつけた「チャンプルーの素」とスポーツドリンク、それになぜか安かった3Lのシャツとトランクスを買っただけで、那覇行きのバス停へそそくさと向かったのでありました。

家に帰ってから地図をみると、コザから北谷までせいぜい7、8kmといったところで、歩いて歩けない距離ではない。それに実際にかかった時間はというと2時間程度であり、まあ大したことはない。それでも半日は歩き続けたと思ったくらいに疲れたのは、地図も持たないで土地勘のない場所という、相当に緊張した状況のせいではなかったかと思う。

考えてみれば、たった2時間とはいえ続けて歩いたのは久々のことである。遠い沖縄で、ひさびさに冒険してしまった一日でした。

[Jun 10, 2009]

なんとなくサイパンを思わせる、北谷のロードサイドショップ。日本語は「キャピタル」だけ。


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