備中高松城    桜島と鹿児島市    本島(ほんじま)    坂の上の雲ミュージアム
大鳴門橋渦の道


備中高松城 [Feb 13, 2006]

昨日の日曜日は、岡山ポーカーオフ参戦のため日帰りで岡山遠征してきたのだが、午前中は近くの史跡めぐりをした。その際、最初に行ったのが空港から下りてきてすぐの備中高松城なのだが、ここがかなりおもしろくて予想外の長居をしてしまった。

備中高松城とは、安土桃山時代、織田信長が明智光秀の謀反に遭った本能寺の変が起きたときに、羽柴秀吉(もちろん、後の太閤豊臣秀吉)が中国進出のため攻撃していた城である。

秀吉は、沼地にあるこの城を落とすにはやみくもに攻撃するのではなく、補給を断って持久戦に持ち込むべきだと考えた。そして、付近に高さ7m長さ3kmにわたる堤防をたった12日間で築き、足守川の水を城側に誘導することによってあたり一面を湖にしてしまった。城主清水宗治は自分ひとりが腹を切ればすむならばと舟の上で切腹、それを見届けた秀吉はその日のうちに退却して明智光秀との決戦に向かったという「中国大返し」の舞台である。

この備中高松城の跡地は現在公園として整備されており、当時の資料を展示した「備中高松城資料館」が無料開放されている。そこに行ってみると、おそらく地元の歴史愛好家のボランティアであろう年配の方々がストーブを囲んで談笑されており、私が行くと親切にいろいろ教えてくださった。そこでまず最初に目を奪われたのは、昭和60年の豪雨の時にこの辺り一面が水没してまさに湖のようになっていた写真である。

現在は、もちろん堤防やダムが整備されており、秀吉が築いたとされる長さ3kmの堤もない。それでも、豪雨が来れば水没してしまうのである。そして、「中国大返し」当時の地面は、いまよりさらに2mほど低かったという。ならば、手間ひまかけてそんな堤防など築く必要があったのかどうか。

説明してくれた方の意見では、現在の土木技術(つまりブルドーザーとか重機をふんだんに使える)をもってしても、秀吉が行ったとされる12日間で高さ7m長さ3kmの堤防工事は無理だということである。上流の堤防をこわして水を流したり、あるいは水の引け口に堤を築く程度はやったとしても、3kmの堤防を築いたというのは嘘だろうとおっしゃっていたが、私も全く同感である。

そして、足守川というのは天井川だそうである。天井川というのは、普段は水量が少なく、流れてきた土砂が沈んでしまって水面が高くなっているのだが、こうした川でひとたび大水が出ると、水害が起こりやすい。つまり、秀吉がこの城を落とせたのは知略とか土木技術ではなくて、たまたま豪雨があって水害が起こり、あたりが水没してしまい城が孤立してしまった、つまり運が良かっただけということになる。

もう一つ気になったのは、本能寺で信長を討った明智勢の使者が、毛利方に第一報を知らせようとして(もちろん、秀吉をここに釘付けにするためである)間違って秀吉側の陣地に行ってしまったという話である。感覚的には、ここより東は秀吉の、西は毛利の勢力圏であり、敵中突破できなかったのは仕方がないと考えていたのだが、実は秀吉と毛利方は足守川を挟んで対峙していて、旧山陽道、つまり昔の主要道はもっと南側、備中国分寺とかに近いところを通っており、そこは毛利の勢力圏だったのである。

だとすれば、この使者はちょっと南に迂回すれば問題なく使命を果たすことができたはずであり、なぜそんな凡ミスを犯したのかよく分からない。単に密書を取られるだけならモラールが低かったのだろうで済むのだが、戦国の世のことだから、当然この使者は首をはねられているのだ。そんなことを考えながら資料を見ていたら、あっという間に時間が経ってしまったのでありました。

[Feb 13, 2006]

備中高松城跡。現在は公園として整備されている。


備中国分寺。田園地帯に突然五重塔が姿を現わす。


桜島と鹿児島市 [Aug 24, 2009]

このところ、プライベートで出かけることがほとんどできなくなってしまった。唯一可能なのは仕事の合い間に周辺をちょこっと回るくらい。先週は鹿児島に行ったついでに、桜島を間近に見ることができた。

鹿児島市の、特に海岸線のどこからでも、桜島を望むことができる。市街地から海をはさんで、成層火山がまっすぐに立ち上がっている姿はとても印象的で、全国の県庁所在地の中でも最高の景色のうちの一つといって間違いないと思う。

鹿児島県は、鹿児島空港のある霧島市より南に進むと、鹿児島湾を真ん中に挟んで、西に薩摩半島、東に大隅半島の2つの半島に分かれる。そして、大隅半島の中心部、鹿屋(かのや)あたりまで行ってしまうと、反対側の薩摩半島にある鹿児島市に戻るのは大変である。

陸伝いに行こうとすると、いったん空港付近まで戻らなければならず、車で3時間近くかかってしまう(ちなみに、かつてあった国鉄は廃止されて大隅半島を走っていない)。そこで、鹿児島湾のほぼ中央にある桜島を通って、フェリーで鹿児島市内に入る経路が使われることが多い。このフェリーは24時間動いているそうだ(と、看板に書いてあった)。

そしてこの桜島、よく噴火するのである。この時も、黒い噴煙が上がっていた。そもそも、桜島と大隅半島が地続きになったのは大正時代の大噴火によるものだそうで、道路の脇にある展望台の周辺には、ちょうど軽井沢の鬼押し出しとか、伊豆大島の三原山のように、流れてきた溶岩がそのまま固まってしまった様子が残されている。

夏のこの時期には、風向きのため噴煙が鹿児島市に向かって飛んでいくことが多いそうで、鹿児島市に入ると、車道にも歩道にも、止まっている車の上にも火山灰が積もっている。風が吹くと、この灰が宙を舞うので、遠くの景色はうす黄色く霞んだように見える。ホテルに着いて荷物を置くと、周囲に灰が落ちたのにもびっくりした。

街中を歩くと、あちこちに市指定の「灰捨て場」があって、指定の灰袋に詰められた火山灰が積んである。生ゴミと違って燃やせないし、どうやって処分するのだろう。気のせいか、眼科医院がかなり目に付く。多分、外に洗濯物を干すのは難しいだろうし、火山が近くにある生活というのもかなり大変そうである。

珍しがって見るのも申し訳なかったけれど、全国いろんな土地があり、いろんな気候風土があるんだなあ、と改めて思ったのでした。

[Aug 24, 2009]

南の山ろくにある展望台から見た桜島。周囲に見えるのは大正噴火の溶岩流だそうです。


本島(ほんじま) [Mar 17, 2010]

なぜか機会というのは続くもので、先日の江田島に次いで瀬戸内海を訪れることになった。いつも瀬戸大橋を通るばかりでは面白くないので、今回は船で四国から本州に渡ってみようというのである。

瀬戸大橋は昔、児島・坂出ルートといっていたくらいで、本州側の児島から四国側の坂出に通じている。このルートは塩飽(しわく)諸島という島々が連なっていて、島の部分は地上に道路や鉄道を引くのと同じだから、建設費の関係から選ばれたものと思われる。

島々が連なっているということは、海路が狭く海流も複雑であることを意味するから、古くから水軍と呼ばれる武装集団が活躍する舞台となった。あるときは海賊となったり、あるときは戦国武将と同盟したりしたのである。こうしたことから、江戸時代も天領(幕府直轄)となり、大名ならぬ人名(にんみょう)により、自治的な支配が認められたのである。

さて、このルートに沿った船便を調べてみると、四国側の丸亀から塩飽諸島の本島(ほんじま)に定期航路があり、ここから本州側の児島に渡ることができるようだ。丸亀にはボートがあるが、ナイターレースであるので見ていたら便がなくなるのが残念である。JRの駅から港までは歩くしかなさそうだ。

細い道を行くので不安だが、まあ海の方に歩けば問題なかろうと思っていたら、7、8分で着いた。鉄筋の立派なビルで、本島だけでなく離島便がいろいろ出ているようだが、あまり利用者がいないのかひと気がない。待合室には自動販売機が置いてあるだけで切符売り場も乗船20分前くらいにならないと開かない。

待合室でしばらく待つ。時間になったので切符を買って乗り込むと、200人以上は乗れそうな立派な船である。ただし、乗客は10人くらいしかいない。大音量でNHKのテレビを放映しているので国会中継が非常にうるさいが、デッキに出るとまだまだ海風は冷たい。仕方なく、船室内に入る。

いよいよ出航。本島まではわずか20分足らずの船旅である。船が大きいので、ほとんど揺れない。丸亀ボートの沖合いを通り、瀬戸大橋を遠目に見ながら瀬戸内海を進む。瀬戸大橋の上から見ると、遠くの島まで見えてすばらしい展望なのだが、海の上からだとそれほど多くの島は見えない。

本島は江戸時代には番所が置かれた塩飽諸島の中心で、丸亀から進むとまず手前の牛島が見えて、牛島を回り込むように進んで本島となる。暖かくて風がなければデッキに出て景色を楽しめるのだけれど、まだ2月。国会のおじさん達のあまり上手くないプレゼンを聞かされるのも辛いものがある。

やがて本島港到着。船から見る限り、あまり建物がない様子である。

丸亀から本島に就航している「ほんじま丸」。利用客に比べて船が大きいのは、本島が丸亀市に属するため、非常時の輸送手段を兼ねているためかもしれない。


進行方向を望む。手前に見えるのが牛島、背後に見えるのが本島である。

船を下りて待合所に入ってみる。やはり、乗船直前でないと切符売り場は開かない。そして、自動販売機以外に何もない。待合所から出てみたけれど、公衆トイレと公園があるだけで、売店もなければ案内所もないのであった。

同じ船で来た人達はみなさん島民のようで、停めてあった自家用車に乗ってみんな行ってしまった。来る前に見た地図によると、この近くには本島温泉という温泉があるらしいのだが、歩ける距離にそのような建物は見えないし、港の先は山になっていて大きな建物は山の上の方に見える。あそこまで行けば何かあるのかもしれないが、体力的に登り切れる高さではなさそうである。

当初の計画では、安い民宿でもあれば一泊してみるのもいいなと思っていたのだが、案内所も看板もなかったのであった。港を歩いてみても、近くでブルドーザーが工事しているくらいである。考えてみれば、島は島民にとって生活の場なのである。海が見えて景色がよければ観光地と思い込む方があさはかであった。

残念ながら、次の便で児島に向かうことにする。出航15分前に開いた窓口で児島行の切符を買い、乗船場に向かう。今度の船はすごく小さい。おそらく30人乗りくらいであろう。そして、乗ったのは私一人。この日の定期船ムクジマルホープ号は、私の貸切り船になってしまった。

船は小さいのだが、出航すると結構なスピードで飛ばしていく。感覚的には本島までの船より速度は上のようだ。何しろ貸切り状態だから、右左景色のいい方に移動し放題である。そしてこの児島行き定期船の航路は、瀬戸大橋の下を横切っていくという魅力的なコースを取るのである。

橋脚などの構造物が島をおおって見える岩黒島を間近に見て、櫃石島(ひついしじま)橋をくぐって高松側に出る。児島の突端、鷲羽山を大きく巻き、児島競艇場のすぐ沖合いを通る。競艇場内は写真撮影禁止だが、海の上からでは誰も文句を言わない。曇っている上にそろそろ日の入りで暗くなってきてはいるものの、絶景であることは間違いない。

ムクジマルホープ号は、徐々に速度を落として児島観光港に到着。わずか20分であったが、瀬戸内海を大いに堪能することができた。児島観光港から歩いてすぐJR児島駅。何しろ前回は児島競艇場から歩いたぐらいだから、楽ちんに着いて短い海の旅はめでたく終了したのでありました。

[Mar 17, 2010]

本島発児島行、ムクジマルホープ号。この日は私の貸切りとなった。


船は瀬戸大橋の下を横切って児島へ。絶景です。


坂の上の雲ミュージアム [Jul 26, 2011]

このところどこにも行けなくて、遠出をするのは出張ばかり。仕方がないので松山で時間が空いた時に、坂の上の雲ミュージアムに行ってきた。

松山は夏目漱石の「坊っちゃん」の舞台となった場所であるため、坊っちゃん列車や坊っちゃん団子、坊っちゃん球場や坊っちゃん空港などなど、そこら中が坊っちゃんである。ただし坊っちゃんはもともと幕臣の子孫で、最後は東京に戻ってしまうことから、松山市としては坊っちゃんだけで町おこしをするには限界があったのだろう。

そこで司馬遼太郎「坂の上の雲」の登場である。いまや、街中に「坂の上の雲」と書いてある。こちらは1970年代の作品であるが(もともと産経新聞の連載)、NHKのドラマ化を契機に人気上昇した。舞台は坊っちゃん同様に明治である。正岡子規も両方に関係するので、まさに松山市にとって市民文学といってもいい作品である。

NHKのドラマでは、昨年行った江田島海軍兵学校で、秋山真之(さねゆき・弟)役のもっくんがロケをしたことは前に書いた。ちなみに正岡子規役は”丹下段平”香川照之、秋山兄は”TRICK”阿部寛である。(いま調べたら、今年の年末にも第三部をやるそうだ。)

ミュージアムは下の写真のように、コンクリート打ちっ放し・ガラス張りの前衛的な建物である。建物内部も変わっていて、「空中階段」という支えのない階段が構造の中間を突っ切っていて、順路に沿って展示をみて最後に空中階段を通って下りると、同じ場所を通らないで元に戻るようになっている。

展示されているのは、司馬遼太郎の生原稿や連載時の新聞、作品の舞台となった明治時代の歴史、主人公である正岡子規と秋山兄弟のバックグラウンド、そして日露戦争に関する資料などで、豊富な視聴覚資料を使って説明されている。

小説のさわりだけ書くと、江戸時代に身分の高かった正岡子規は予備門(後の一高)から東大へ進むが、秋山弟は藩士(武士)とはいえ身分が低かったため経済的余裕がなく、志半ばで子規と別れて学資のいらない海軍兵学校に進む。もともと頭が良かったため、そこで頭角をあらわすのである。小説とはいえ、基本的に実在の人物と歴史について書かれている(この点、坊っちゃんとは少し違う)。

(ちなみに、子規は「柿食えば鐘が鳴るなり法隆寺」以外の作品を知る人はあまりいないが、秋山弟の「本日天気晴朗なれども波高し」「皇国の興廃この一戦にあり」は作者は知らなくても耳にした人は多いと思われる。)

しばらく前まで「反戦」というのが誰も逆らえない共通認識のようになっていて、日露戦争も「反戦」という軸足で語られることが多かったように思う。こうした展示を見ると、少しずつではあるけれど、戦前の歴史について是は是、非は非として語られるようになってきたのを感じる。

少し前にテニアンに行っていた頃、まだ現地の人で日本語を話す人がたくさんいるのに、日本国内でそれを知る人は決して多くはなく、たとえば南洋興発の資料一つにしても探してもあまり残っていないということを残念に思った。

ショーグンの下で鎖国をしていた国がわずか一、二世代のうちに世界の先進国に追いついてしまったことは、やっぱりすごいことだと思う。その意味で、戦前期の日本はもっとニュートラルに研究されるべきだし、おそらくこれからそうなるのではないかと期待している。

[Jul 26, 2011]

坂の上の雲ミュージアム。県庁通りを少しお城側に入ったところに建てられている。コンクリート打ちっ放しで、内部構造は珍しいそうである。


旧藩主・久松伯爵の別荘であった萬翠荘。ミュージアム3階からの眺めがすばらしい。


大鳴門橋・渦の道 [Oct 27, 2011]

ロングラン出張の前半8泊9日は、何とか体調をくずさずに乗り切ることができた。さて、東京に戻る日の午前中、飛行機まで若干の空き時間ができたので、鳴門公園まで足を伸ばしてみた。さすがに、遊び人の血が騒いだというか、9日間も仕事だけで過ごす訳にはいかないのである。

宿泊していた徳島市から、バスで徳島阿波おどり空港まで。荷物を預けて、鳴門公園までは時間がないのでタクシーを使う。片道4500円の出費は痛いけれど、今日を逃すとまたいつ来られるか分からない。帰りはちょうど飛行機の時間にバスがある

鳴門のうず潮は、淡路島と四国を隔てる鳴門海峡に発生する。鳴門海峡は幅が狭く、また海底の地形が複雑であるため、潮の満干により複雑な潮の流れが発生し、それが渦をまくのである。大鳴門橋はちょうど鳴門海峡をまたいでかかっているので、車道の下に歩道があってうず潮観覧ができる。

うず潮は一日中できる訳ではなく、満潮時と干潮時を中心に発生する。また、干満の差が大きくなる大潮の時は大きくなる。前日まで夜が明ける前に仕事に出ていた時、東の空に逆さ三日月が出ていたので、そろそろ新月のはずで、そうなると大潮である。NHKのニュースでは干潮が午前11時とのこと。10時頃まではいられるので、何とかぎりぎり見られるかもしれない。

大鳴門橋の下の歩道は「渦の道」といって、徳島県立の施設である。平日の午前中というのに、それなりに人がいる。ただ、歩道は金網が張ってあるだけで海の上の吹き抜けなので、結構風が強い。ほとんど風をよける場所もないので、私以外の人は長居せずに引き上げている。

展望室のベンチに座って、しばし床に開かれたガラス窓から海面を見る。こうやって海を定点観測するのは初めてのことであるが、見ていると潮の流れが非常に速いことがよく分かる。干潮までまだ1時間以上あるのに、まるで川が流れているようだ。この流れは、満潮時には太平洋から瀬戸内海へ、干潮時には瀬戸内海から太平洋に向かう。だから干潮時には、鳴門海峡の太平洋側(水の出口)にうず潮が発生する。

次第に、巨大なうず巻きができつつあった。これは、海底の地形が複雑なためで、ちょうど海が巨大な滝つぼ状態になっているからである。小さな漁船はうず潮を避けて遠くにいるが、大きな観覧船やジャンク船(産廃でも運んでいるのか)はうず潮関係なく海峡に入ってくる。

うず潮といっても時速20km程度の潮流により発生しているものだから、洗濯機の渦のように強力ではない。大型船の軌跡でせっかくの渦が消されてしまった。確かに海は船の通り道だし、観光客のために船を通さない訳にもいかないのだけれど、何とも興ざめしたのであった。

空中50mの高さから、できあがっては消えていくうず潮を見ているうちに時間になった。巨大なうず潮とはいえ、何ともせつなくはかないもののように思えた。それでも、鳴門海峡の雄大な景色を見て、月の引力の影響を目の当たりにできただけでも、来た甲斐はあったというものである。

[Oct 27, 2011]

橋上展望室へ向かう遊歩道。風が吹き抜けるため結構寒く、また上が車道なのでかなりうるさい。入場料は500円。


展望室の床面は、海が見えるようにガラス張りとなっている部分がある。近くのベンチに座って見ていると、潮の流れが非常によく分かる。


ページ先頭へ    中部近畿 ←    → 沖 縄    国内紀行目次