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勝連城 [Jun 15, 2009]

沖縄といえば、グスクである。「城」と書いて、「ぐすく」と読む。近年、「しろ」「じょう」という呼び方をする例も増えたけれど(例.首里城は、多くの場合しゅりじょう、となる)、本来はグスクである。

そして、グスクが本土の城とイコールなのかというと、これは一概にはいえない。確かに、首里城はじめ、今帰仁(なきじん)城、中城(なかぐすく)城など、沖縄の戦国時代ともいえる三山時代や第一尚氏末期の混乱期に、武将の本拠地として整備されたグスクは、本土の城と同義語といって差し支えない。

しかし、グスクの発祥はどちらかというと本土の神社、特に山岳信仰系の神社に近いもので、その多くは丘の上や、海を臨む高台にある。沖縄全体では大小規模合わせて数百のグスクがあったといわれており、おそらくは豊作、豊漁や天災からの守護を祈った施設ではないかと思われる。

今回訪問した勝連グスクは、世界遺産にも登録されている大規模なグスクである。首里城のある那覇市から北へ約30km、太平洋に突き出した与勝半島にある。コザからこの半島先端の与那城(この地名も、昔は”よなぐすく”と読んだが、現在は”よなしろ”)に続く道路から、見上げるばかりの石垣がそそり立っている。

道路の高さから、ずっと上り坂である。確かに城としては、守りやすく攻めづらいだろうと思われた。グスクの中には井戸もあって、篭城にも耐えられるようになっている。そして、丘の頂上付近にある一の郭(くるわ)、二の郭は、一転して神社としてのグスクを感じさせるものである。

二の郭には正殿の遺構(柱の跡など)が残されているが、規模は小さく、本土の城における天守閣というよりは、神社の本殿のようなイメージである。奥まった一角には木々の生い茂った林があり、その中には洞窟のような岩の割れ目が見えた。

さらに上、一の郭からは全方面に展望が開けている。西をみると、はるか沖に平安座(へんざ)島、伊計島を望むことができる。約10km沖にある平安座島へは海中道路が通っていて、いまや地続きであるこれらの島々がよく見える。また東をみると、湾をはさんで中城(なかぐすく)城方面が展望できる。地元の英雄アマワリが、はるか首里城をめざした道のりである。

勝連グスクを有名にしたのは、第一尚氏時代末期に強大な勢力を誇ったアマワリ(阿麻和利)である。アマワリは一説によると北谷の農民の出身であったが、この勝連を根拠地として勢力を伸ばしたという。貿易を行って上げた利益により、当時の勝連の繁栄は並ぶものがなかった、と沖縄の古歌謡集「おもろそうし」にうたわれている。

混乱する世相の中、アマワリは琉球全土の支配を目指し、中山王・尚泰久(万国津梁の鐘を造らせた王)の首里城を攻めるが失敗。最後はこの勝連グスクも落とされ、生まれ故郷の北谷方面へ逃亡したところを殺されたという。

それでも、この勝連周辺ではアマワリの人気は高く、小中学生による組踊「肝高の阿麻和利」は、沖縄のみならず東京でも公演されたほどの人気ということで、ポスターも数ヵ所に貼られていた。ちなみに「肝高(きむたか)」とは、おもろそうしに出て来る勝連の枕詞であり、豊かなとか気高い、という意味だということである。

[Jun 15, 2009]

世界遺産・勝連グスク。山の中腹から、頂上の一の郭、二の郭を臨む。


二の郭から一の郭。正面、木々の繁っているあたりが聖域。


首里城 [Jan 13, 2010]

注.首里城は2019年10月の火災で全焼しました。写真は、2010年頃。前回の補修前のものです。

先週、奥さんを連れて沖縄に行ってきた。夫婦そろっての旅行は久しぶりである。

最近、私が一人で沖縄に行く機会が多かったため、「いーなー。私も沖縄行きたいなー。首里城見たいなー」と言っていたので、今回は奥さんの意向を重視したのである。最近噂のJALで那覇へ。今年から新聞のサービスがなくなったのは、空間が広くなったようでかえってうれしい。クラスJで奥さんが隣なので、余計に広くてよかった。

ホテルに荷物を置いて、さっそく首里城へ。風があってかなり寒く、しかも雨。飛行機が遅れたので辺りはかなり薄暗くなってきた。昨年、玉陵(たまうどぅん)に行った際にこの道を通ったけれど、正殿に行くのは十数年振り。何時まで開いているか自信がなかったので(実際は6時まででかなり余裕があった)、モノレールの首里駅から石垣沿いを急ぐ。

守礼門から正殿へと坂を上っていくと、入場券売場の前の建物で琉球舞踊の公演が行われている最中である。テントの下にパイプ椅子で即席の観客席が置かれ、もちろん無料。風が吹いてきてちょっと寒かったが、私も奥さんもこういうのは好きなので、しばらく見せていただく。

それから入場券を買って正殿へ。以前来たときよりも広くなっていて、書院とその奥の鎖の間(さすのま)は、近年になって整備された場所。清国や薩摩の役人を接待したという部屋である。300円追加すると、ここでお茶(さんぴん茶)と琉球菓子のサービスがある。沖縄名物のさんぴん茶とはもともとジャスミンティーで、清国との交易で入ってきたとのことである。

奥さんが楽しみにしていた首里城正殿は、現在向かって左側の部分が修復工事中。折りしも雨が強くなってきて、ゆっくり見られなかったのはちょっと残念。正殿内部の玉座と「中山世土」の額は以前と同様で、ラスト・エンペラーの縮小版のような造りは、改めて中国と琉球の親密な関係を感じさせた。

もともと尚氏琉球王国は中国の明・清に冊封を受けていた中国傘下の国であったが、1609年に薩摩が侵攻・征服した。その後、清の使節が来れば中国風に、薩摩の使節が来れば日本風に対応し、最終的には明治時代の廃藩置県により明白に日本の一部となるまで、琉球王国は存続したのである(この「琉球処分」事件が、日清戦争の原因の一つとなった)。

そして、第二次世界大戦の沖縄戦で大きな被害を受け、首里城も大部分の施設が焼失した。現在の施設は1972年(大阪万博より後!)の本土復帰後に順次整備されたものである。このように字数の限られた中では説明しきれない事情が沖縄にはあり、昨今の基地問題についても軽々にコメントするのは難しいものの、とにかく沖縄の旅なのであった。

[Jan 13, 2010]

沖縄舞踊、「貫花(ぬちばな)」(だったかな?)。


首里城正殿。現在、修復工事中。


今帰仁城(なきじん・ぐすく) [Feb 15, 2010]

今回の沖縄のメインは、レンタカーで県北部を回ることであった。特に、名護市の近郊にある今帰仁城(なきじん・ぐすく)は、琉球統一以前の三山時代に北山王の拠点となったグスクである。グスクには、神域としての意味と戦略拠点としての意味があるが、戦略拠点としてのグスクとしては代表的なものである。もちろん、世界遺産である。

このグスクが重要な舞台となった戦いとして、1416年、琉球(三山)統一における北山王・攀安知(はん・あち)と中山王・尚巴志(しょう・はし)の戦いと、1609年、薩摩藩による琉球侵攻の戦いの2つが有名である。

1416年の戦いでは、琉球統一を図る中山王・尚巴志がきびしく攻め立てたものの、今帰仁城は微動だにせず、仕方なく謀略により篭城側の裏切りを促し、やっとのことでこの城を落としたとされる。実際、小高い丘全体が城になっており石垣は非常に高く、さらに外側は深い谷になっているので、正面攻撃だけで攻め落とすのは難しそうだ。

もともとこのグスクは、代々の有力者が百年以上の年月をかけて作り上げてきたものであるらしい。丘の頂上からは遠く海が見渡せるので、おそらく最初は神事の場として施設が作られ、次第に権力者の本拠地として、住居や倉庫、敵の攻撃に備えての石垣が整備されてきたものと思われる。

一方、1609年の薩摩藩侵攻に際しては、難攻不落のはずのこの城が、ほとんど1日で攻め落とされてしまった。これは、この時代の沖縄には大きな戦いがなく、守備兵にほとんど実戦経験がなかったのに対し、薩摩藩は関ヶ原直後であり、多くの鉄砲と歴戦の古強者が相手では持ちこたえられなかったということである。

それでも、地理的な優位性から考えて少しは抵抗できたはずであるが、三山時代や第一尚氏~第二尚氏間の激動期にも沖縄では鉄砲などという武器は使われなかったから、薩摩藩の使う火縄銃の一斉射撃の前に、抵抗する気も起きないくらい縮み上がってしまったのであろう。この後薩摩藩は、ほぼ無抵抗のまま首里城まで占領してしまうのである。

薩摩藩侵攻の際に城が炎上し、それ以降城下町は海岸線へと移ったため、今帰仁城は歴史の表舞台から去ることになった。現在、正門から階段を上がって本土の本丸にあたる主郭まで城址公園として整備されているが、最盛期の規模はこれよりもずっと大きく、現在も整備が続けられている。

そして、21世紀の現在、沖縄北部で最大の集客施設である「美ら海(ちゅらうみ)水族館」(海洋博記念公園)は、今帰仁村の隣、本部町(もとぶまち)にあり、車で15分ほどである。1416年の戦いで北山王を裏切った人物は本部大原(もとぶ・てーはら)といって、この地方の豪族であったらしい。ちなみに、今帰仁城の入場料が400円、美ら海水族館は1800円である。

今帰仁と本部が、時代を超えて対抗しているようで興味深い。

[Feb 15, 2010]

今帰仁グスクは、現在も修復作業が続けられている。主郭(本土の城の本丸にあたる)から修復中の外郭部を見下ろす。


今帰仁城から海洋博記念公園までは、車で15分ほど。美ら海水族館は平日でも結構いっぱいです。


与論島 [Feb 15, 2015]

先日のブログで書いたように、先週、沖縄と与論島に行ってきた。沖縄は仕事とプライベート合わせて7~8回目になるけれど、与論島は初めてであった。

那覇空港に下りて思ったのは、とにかく暖かいということである。出発した日の朝は1℃しかなかったのに、飛行機に乗って下りただけで15℃以上。厚手のシャツにユニクロの暖パンとダウンで行ったのだが、これでは暑すぎた。宿に送ってあった薄手のシャツと夏用ズボンで過ごした。風が強かったので、ダウンは着たり脱いだりした。

那覇空港から与論空港まで、飛行時間は30分ほど。いまどき珍しいプロペラ機で、40人乗りと小さく、2月の平日なので乗客は10人ほどであった。何年か前に乗った伊丹・但馬もこの位だったが、サイパン・テニアンのセスナよりかなり大きい。ただ、ちょうどこの日のほぼ同時刻に台湾で墜落事故があったので、夜のニュースを見てちょっとびびった。

3日間与論島にいて、合計で20~30km歩いた。行く前にはレンタサイクルを使う計画だったけれど、連日10m以上の強い北風が吹いて、少し危ないかなと思って歩きにした。周囲20kmほどの島なので単純計算では1周以上したことになる。高いところに登ると3方向くらいに海が見える。

泊まったのはハマダことヨロン島ビレッジ。映画に出てくるのはペンション棟と呼ばれる長期滞在用の宿泊棟で、ホテル棟は敷地の上の方にあって敷地内の階段を登って行く。映画では、ホテル棟を映さないようなアングルから撮影していた。ホテル棟の部屋からは、海岸から海、遠くに伊平屋島・伊是名島あたりの島影を臨むことができる。

映画ではコージという名前だった犬のケンが現在もいて、もう一匹のマーゴと一緒に宿の入口の道路でたそがれている。近づいて行っても、全く吠えないのは映画と同様である。

夏はマリンレジャーに多くの人が集まるだろうと思われるくらい、島中いたるところにきれいなビーチがある。日本では珍しくサンゴ礁に囲まれた島なので、ダイビングスポットもたくさんある。逆に冬に来てもあまりすることはない。映画でも、「この島に観光するところなんて、ありませんよ。」と言っていたくらいである。ロケ地めぐりが定番らしく、行く先々で同年配の旅行者や修学旅行の高校生と会った。

初日はまず、宿近くの海岸、メーラビビーチに行く。人家の軒先を抜けて、細い道を200mくらい進むと海が見えてくる。青緑色の、なんともいえないきれいな色の海である。砂浜もきれいで、まるで小麦粉のように細かくてさらさらの砂である。あいにくの強風で、「たそがれる」ことはできなかった。歩いて30分ほどの町へ向かう。

町の中心には町役場や漁港、ホームセンター、薬局、コンビニと小さな魚屋さんが何軒かある。そして映画で小林聡美が毛糸を買ったAコープがいちばん大きい店舗である。小さな町なのに飲食店が結構多いのは、観光客が主な客層なのだろうか。あるいは、港町には酒場が多いと昔から言うくらいで、漁師さんの拠点なのだろうか。

宿から町に行く途中に、数十頭の肉牛を飼育している畜産農家があった。与論牛というブランドはあまり聞かないが、石垣牛と同様に子牛を大きくして本土に出荷する肥育が主のようだ。全国のブランド牛の何割かは、子牛の頃こうして気候が温暖な南の島で育てられることもあるらしい。だからこの中には、将来ブランド牛になる者もいるのかもしれない。

牛の他に、道端にヤギが飼われているいるのも南の島ならではである。宿の近くにいるのが黒ヤギ、次の日に島の向こう側で白ヤギが飼われていた。本当に白ヤギさんと黒ヤギさんがいたんだなあとおもしろく思った。あたりに生えている草を食べて、丸々と太っていた(ヤギは紙も食べてしまうが、本当はヤギにとって良くないらしい)。

ヨロン島ビレッジ。手前が「めがね」で使われたいわゆるハマダ。後方、丘の上がホテル棟。


細い道を抜けて海岸へ。与論島はいたるところに砂浜があります。海の色が何とも言えません。


翌日も風が強かったが、歩いて島の海岸めぐりをした。宿から20分くらい歩くと、宇勝海岸。ここは小さな漁港になっていて、防波堤のところで光石研や加瀬亮が釣りをしていた。さらに30分、ちょっと中に入ってサトウキビ畑の中を歩いていくと「めがね」の主要ロケ地である寺崎海岸に着く。

映画でもたいまさこが氷売りの小屋を建てて、メルシー体操をやっていた場所である。両側を岩で区切られた、手頃な大きさの砂浜である。とにかく砂がきれいで、沖合にサンゴ礁があるため強風の割に波打ち際は静かである。夏は若い人達がたくさん来るのだろうが、冬だけにほとんど人は来ない。来るのはロケ地めぐりの中高年がぽつりぽつりとである。

翌日も出発までの時間にもう一度ここへ来たのだが、その時は町役場の軽トラックが止まっていて、職員の人が三人、砂浜の清掃をしていた。ずいぶんきれいになっていると思ったら、陰でそういうご苦労もなさっていた訳である。この時期、人はあまり来ないのだけれど、海から中国語やハングルのペットボトルが結構流れて来ているのであった。

寺崎海岸からは、与論マラソンのコースを4~5km歩いて島の東側に向かう。マラソンコースには1kmごとに立派なキロポストが置かれていて、道がわかりやすい。えらく立派だなと思ってよく見ると、横にJALのロゴが入っていた。経営破たん前に手当てしたものだろうか。

道の両側はたいていはサトウキビ畑である。すでに刈り取られて土色になっている畑もある。今まさに刈り取ったサトウキビの茎を細断する機械を動かしているところもあり、その近くでは余分な葉や枝の破片が盛大に飛び散って、またそれが強風にあおられて飛んでくるのでよけながら歩かなければならない。

見渡す限り2、3軒の家しか見えない場所が多いのだが、基本的に平坦な島なので、構造物が全く視界に入らないという場所はない。映画では半日歩いて何もないという設定なので、うまく撮影したものである。よく出てくるのは牛小屋で、建物を見付けるより早く匂いがただよってくる。1棟に10頭とか20頭くらいを飼っているようで、あまり規模は大きくはないのかもしれない。

島の東側には沖に砂浜が浮かんでいるという南太平洋的な海岸、百合ヶ浜があって夏には人出があるのだろうが、冬なのでほとんど人と出会わない。キャンプ場も民宿も開店休業状態であった。

さて、島の南側まで歩くと、「マリンパレス」こと民宿・星砂荘がある。ここもぜひ見ようと思って楽しみにしていた。映画では宗教の人(薬師丸ひろ子)がやっているあやしい宿だが、もちろん普通の民宿である。あと、映画では畑の中の狭い道を奥に入ってくることになっていたけれど、実際には舗装道路(マラソンコース)に面した便利な場所にあった。

さて、星砂荘を出ると途端に風が強くなったような気がした。それもそのはず、この日の風向きは北ないし北西の風であり、宿からここまでは東向きと南向きに歩いてきたのでほぼ追い風だったのである。ここから帰りは向かい風。10km以上歩いて疲れているのに加え、10mを超す強風に向かって歩かなければならないので大変だった。

この日最後の目的地は島でいちばん標高の高い(それでも100mくらい)与論城跡である。ここにはサザンクロスセンターという資料館があって、5階が4方向ガラス張りの展望台である。何しろ、この日はじめて風の当たらない建物の中に入ったので、うれしくて長居してしまった。サザンクロスというくらいだからこの島からは南十字星が見えるそうで、センターの中には南十字星を撮影した写真も展示されていた。

ここからは島内循環バスに乗って町に戻り、30分歩いて宿に戻った。そして、この日歩いた歩数は29,234歩。山に行った時でもめったにない歩数を記録したのでありました。

[Feb 15, 2015]

みんながメルシー体操をした、寺崎海岸。町役場の若い人たちが清掃していました。


マリンパレスこと、民宿・星砂荘。実際には通りに面していて、映画のように不便な場所にある訳ではありません。


与論島のさとうきび畑 [Feb 17, 2015]

与論島を歩いていて目立つのは、サトウキビ畑と牛である。特にサトウキビはいまの時期が刈入れなので、手作業で刈入れている農家の人達や、刈入れたサトウキビを細断する機械、大きなネットに入って工場に向かうトラックをたびたび見かけた。町役場の近くには製糖工場があって、煙突から白い煙が強風にあおられて真横に流れていた。

そういえばテニアンも、戦前は全島サトウキビ畑だったということである。港近くには国策会社・南洋興発の製糖工場があり、高い煙突が写っている古い写真が名鉄フレミングホテルかどこかにあった。牛の牧場もある。海の色とかも、すごくよく似ている。与論島を歩いていて、戦前のテニアンもこんな風だったのかなあと思った。

さて、現実の問題として、サトウキビの生産だけで農家の生活が成り立つかという今日的な課題がある。江戸時代以前であれば砂糖というだけで貴重品であり、米の代わりに年貢として納められたくらいであった。ところが現在では、黒糖を料理に使う人はそれほど多くはないし、精製糖(上白糖や三温糖)の原料として考えた場合、国内生産のサトウキビはかなり不利である。

サトウキビもイネ科の植物だが、イネのようにまっすぐ伸びないし、茎も竹のように太いので、刈入れはほとんど手作業で行われている(機械もあるらしいが、見かけなかった)。刈るのも力仕事だし、余分な葉や枝を切って茎だけにするのも手間である。しかも、苗を植えて収穫まで1年以上かかる。

これだけの労力をかけて、1a(10mⅩ10m)あたりの収穫量は約0.6t。tあたりの金額はWEBによると約2万円だから、1aでは約12,000円分の収穫にしかならない。私がやったら1日1a収穫するなんてとても無理だし、仮にできたとしても売上が1日分の人件費くらいにしかならない。植え付けから収穫までの手間を考えたらとても採算に合うとは思えない。

それでは、サトウキビを仕入れる側の製糖工場が不当に安く仕入れているのかというと、そういう訳でもない。サトウキビをそのまま船で運ぶのはかさばるばかりなので、ほとんどの島には製糖工場があって、粗糖に精製して運搬している。そして粗糖は国際商品市場で取り引きされる商品であるため、どこで作ろうが何が原料だろうが、価格は大きくは変わらない。工場としても採算を確保するために、仕入れ価格を抑える必要があるのである。

まずサトウキビを絞る。重さにして半分以上は絞りかすである。絞って出てきた汁を濾過した後に延々と煮詰めていく。最初はうす茶色のさらさらした液だったものを、飴状になるまで水分を蒸発させる。こうして黒糖ができる。それから遠心分離機にかけて糖蜜分を分離して、ようやく粗糖になってさまざまな加工が可能となる。つまり、歩留まりがきわめて悪い。

サトウキビの主な生産地は熱帯地域であり、人件費も日本に比べて格段に安い。そこで生産された粗糖と競わなければならないのだから、大変である。そして、サトウキビと同様に砂糖の原料となるテンサイは、別名サトウダイコンと呼ばれるようにダイコン状の作物であり、サトウキビのように堅い茎を絞る必要がない。つまり、作る手間も製糖する手間も少ないのである。

こうした現状を受けて国内のサトウキビ生産は減少傾向にあり、与論島においても平成初めと比べて、サトウキビ生産は半分に減り、逆に畜産出荷額は3倍に増えている。あと何年かしてまた与論島に行ったとしたら、サトウキビ畑が減って牧草地が増えているなんてことがあるのかもしれない。

[Feb 17, 2015]

与論島はいたるところサトウキビ畑が広がっている。この時期がちょうど収穫期で、刈入れ中の畑やサトウキビを運ぶトラックをよく見かけた。


手作業で刈り取られたサトウキビ。ここまでするに、相当な労力が必要なはず。


この写真は沖縄・読谷町にある沖縄黒糖の工場。手前の圧搾機でサトウキビを絞り、タンクに集めた液を濾過した後に煮詰めていく。


那覇・識名園 [Mar 6, 2015]

那覇空港を下りると、足しげく通ったテニアンやマカオを思い出す。寒い成田から出発して2時間余り、まったく気候が違うのは同じ日本とは思えないほどだし、町の雰囲気が違うように感じられる。特にテニアンは、昔沖縄の人達が大規模に移住した島なので、そう感じるのも無理はないかもしれない。

また、ちょっと裏通りを歩くとマカオの下町とそっくりに思えるところもある。マカオと同様に天后伝説が残っているのは、かつて海の民だった名残りだろうか。特にここ数年の傾向なのか街中に中国人観光客が目立つので、そう思うのかもしれない。さかのぼれば琉球王国は、明に冊封を受け中山王(ちゅうざんおう)に任じられていたので、昔に戻ったといえなくもない。

さて、那覇市内で行ったことのない世界遺産は識名園である。沖縄における世界遺産は、斎場御嶽など一部の例外を除き第二次世界大戦で壊滅的な被害を受け、ほとんどが戦後になって再建・改修されたものである。レプリカなのに世界遺産とはいかがなものかと思わないでもないけれど、世界中を見渡せばそれほど珍しいことでもないのかもしれない。

識名園はモノレールの駅からかなり離れたところにある。今回は赤十字病院のあたりから歩いて行ったのだけれど、識名方向は市街地より高い場所にあるので、かなりの登り坂を上って行かなければならない。片側2車線の道路がまっすぐに、標高差で50m近くも上っているのですごい圧迫感である。かなり上ってから脇道にそれる。引き続ききつい登り坂である。

氷点下の成田から半日で、大汗をかきながら坂道を登るとは思わなかった。うっそうとツタの絡まる病院の横を抜け、ようやく峠にさしかかると、そこからは市営墓地である。見渡す限り沖縄独特の破風墓が広がっており、道端には「売墓」の広告もみられる。墓の前面は法事を行うスペースがあるので、ひとつの墓だけで相当の面積が必要である。だから墓地全体も広大になる。

ようやく墓地が終わって住宅地になる。はて識名園はどこだろうと探すと、さらに通りをひとつ渡ったところに駐車場があった。

入場券売場に行くといきなり、「いま御殿は修理中ですが、よろしいですか?」と尋ねられる。よろしいですかと言われても、ここまで来て引き返す訳にもいかない。入場料400円Ⅹ2人分を払って中に入る。これまでの風景から一転してあたりはガジュマルの森。そして森を抜けると、みごとな庭園が広がっている。

まず目に入るのは大きな池である。離島であって近年まで水不足が大きな問題となっていた沖縄に自然の湖はないし、池もたいへんな贅沢であっただろう。しかしこの識名園は琉球王国の迎賓館であり、明国や薩摩の使節を迎える際にはある程度のやせがまんも必要だっただろう。修理中の正殿前から庭園を前に、しばらくの間いにしえの使節接待の場面を想像する。

正殿に来るまでのエントランスは南国の自然を象徴するガジュマル、そして庭園は和風とも中国風ともつかない微妙なしつらえである。池の中の島に作られた六角形のお堂では、使節接待の際には三線で演奏が行われたのだろうか。そして宴たけなわともなれば、池に舟を浮かべて一献ということになったかもしれない。

当地では最高のグルメといわれた尚順男爵の随筆「古酒の話」によると、薩摩の使節接待の際には百年物ともいわれる最高の古酒が提供されたとのことである。第二尚氏の成立は16世紀、南方からの米輸入により現在の泡盛が作られ始めたのはそれより約100年前とされるから、泡盛発祥以来の古酒が提供されたのかもしれない。

以前、尚順男爵の遺稿集を読んで、私も古酒を作ってみたいものだと一瞬思ったのだけれど、仕次ぎの手間や貯蔵の場所はともかく、いまからやっても20~30年、白梅香かざやトーフナビーかざは出ないだろうなーと思うと二の足を踏み、そうこうしている間にますます残り時間が少なくなるということになったのでした。

[Mar 6, 2015]

識名園の正殿から池の方向。かつて琉球王国の迎賓館として使われたすばらしい庭園。


ところが逆方向からみるとこんな感じで、現在正殿を修理中でした。4年前に来た時は首里城の修理中だったし、こういうめぐり合わせ?


読谷・座喜味城 [Mar 11, 2015]

今回の沖縄では、はじめて読谷(よみたん)村に行った。読谷のグスクを座喜味(ざきみ)城といい、首里城、勝連城、今帰仁城などとともに世界遺産として登録されている。本州の城の石垣は基本的にまっすぐ建てられているのに対し、沖縄のグスクの石垣はなめらかな曲線となっているが、中でもこちら座喜味グスクは、エレガントな曲線と内郭と外郭をつなぐアーチに特色がある。

座喜味グスクを築城したのは、第一尚氏時代の有力按司(あじ=地方の豪族)である護佐丸とされている。護佐丸のライバルが勝連城のアマワリ(阿麻和利)で、この両者の攻防はいってみれば川中島の戦いのような実力伯仲の戦いであったらしい。結果的には第一尚氏の中山王・尚泰久により両者とも滅ぼされ、第二尚氏成立までの内戦につながるのであった。

他の多くのグスクと同様、かつてあったであろう建物は残されていない。なにしろ台風で秒速50mなどという暴風が吹く土地柄だから、やむを得ないことである。そういえば、こちらで神域とされる場所の多くは、洞穴であったり、石で囲まれた場所だったりする。かつて暴風で建物も食べ物も根こそぎ持って行かれた時に、そうした場所で命拾いしたことが起源なのかもしれない。

グスクの多くには、御嶽(うたき)と呼ばれる霊場がある。座喜味グスクもそうした霊場の名残があるのだろうか、私と奥さんが行った時に、外郭外側の石垣に向かって、何やら唱えながら母娘と思われる二人組が礼拝をしていたのである。黒い炭のようなものを何本かずつまとめて袋に入れたものを、何十袋も石垣の前に並べている。

その後、四角く切った紙に、お櫃からまぜご飯(ジューシイ?)、煮付けのようなものを乗せて石垣に供え、再び何やら唱え始めたのである。最初は黒い炭の袋を売っているのかと思ったのだけれど、一心に壁の方を向いて唱えているのでそうでもなさそうだ。母親の方はかなり年配のおばあさんで、娘の方も中年の上の方になりつつある年齢と思われた。

沖縄の墓地では、こうした年恰好の女性が法事を主催しているのをときどき見かける。現地ではノロとかユタとか呼ばれていて、ノロが坊さんや神主、ユタが祈祷師・占い師にあたるらしいが、微妙なニュアンスの違いはよく分からない。ともかく、私自身沖縄を歩いていて、破風墓や亀甲墓の前で坊さんがお経を唱えている場面には出会ったことはない。

坊さんを見ないのも道理、沖縄には寺自体少ない。もちろん有力宗派の寺は市内を歩くといくつか見かけるのだが、本土によくある禅宗様式の木造のお堂ではなくて、いかにも最近になって作られたような、言ってみれば香港・マカオの道教寺院のような雰囲気なのである。つまり、われわれが葬式といえばお寺さんでお経と思うのは江戸時代の寺請制度の名残りであって、本来その土地ごとに葬送の仕方が違っていたのである。

他のグスクと比べるとそれほど規模は大きくない。読谷のすぐ先は残波岬であり、物資輸送上の戦略的な位置づけとしてそれほど重要ではなかったのかもしれない。このグスクを築いたとされる護佐丸も、のちに拠点を首里・勝連間に位置する中城(なかぐすく)に移している。

石垣の一部には階段が付けられていて登ることができる。北西に読谷市街、南東に見えるのは嘉手納米軍基地の施設だろうか。石垣には手すりがないので、行き過ぎると十数メートルまっさかさまである。そのため石垣の上には、「いっちぇーならんどー」と書かれた標識が立っている。

20分くらい内郭を見学して再びアーチのところに戻ってくると、お祈りが終わったのだろう、段ボール箱に荷物を片付けている最中であった。そして、さきほどお祈りをしていたのは母娘二人だったが、一人加わって3人になっていた。年恰好からすると、おばあさんの孫のように見える若い子であった。

「あの子、さっきまであっちの方でスマホやってた子だ」と奥さんが言う。
「お祈りは参加しなかったけど、片付けは手伝うんだね」

ノロもユタも、女性司祭者は女系で世襲されると聞いたことがある。スマホやってた若い子も、もしあのおばあさんの孫なのだとすれば、いつかはお母さんと一緒に石垣に向かって祈ることもあるのだろうか。

[Mar 11, 2015]

本丸の石垣上からみた外郭と門。微妙な曲線に特徴がある。背後に読谷町の市街地が見える。写真のアーチの外に石垣を拝んでいる母娘がいた。


立入禁止の標示。すぐ奥は高さ10mの石垣の上。手すりなし。意味が分からないと、行っちゃいそうだ。


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