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奈良・三条通りの現在 [Sep 9, 2011]

今週末は奈良に出張である。一昨年に全裸の会会長と当麻寺や叡福寺をご一緒したときに書いたように、奈良は大好きで昔から何度となく来ている場所である。昨年はくそ忙しいのと、遷都1300年祭で奈良中のホテルがずっと一杯だったため来られなかったけれど、まだまだ行きたい場所はいっぱいある。

さて、今回は出張の合間に1時間くらいは街中を歩けるだろうと楽しみにしてきたのだけれど、ちょっとびっくりというか、がっかりというか、ショッキングなことがあった。奈良の裏メインストリートともいえる三条通りが、ほとんど昔の面影なく変わっていたからである。

三条通りはJR奈良駅と近鉄奈良駅を結んでいる裏道で、真ん中辺に開化天皇陵がある。宮内庁の立て札を見るのが大好きな古墳フェチの私としてはこたえられないのであるが、それはさておき、しばらく前から通りを整備しているのは気付いていたのだけれど、今回来てみたら、通りの南側の商店街があとかたもなく、なくなっていたのである。

歩道拡幅工事というば聞こえはいいのかもしれないが、有体にいえば昔ながらの古い商店がなくなって、ビルやマンション、駐車場に姿を変えてしまったのであった。もちろん、立ち退いた方々もそれなりに補償があったはずなので市内のどこかに新店舗を構えているのだろうとは思うけれど、私のような他所者にはどこに移転したのかも分からず、なくなったのと変わりがない。

最初に奈良市内を歩いたのはもう三十年以上前になる。それ以来、正倉院展で面白そうな出し物があったり、興福寺の阿修羅像、東大寺の不空羂索観音を見たくなったり、そういう機会を見つけては歩いてきた。この通りにはよく行く奈良漬のお店があって、奈良漬と守口漬を買うと5000円くらいとちょっと高かったのだが、今回来たら見当たらない。そもそも、お店のあったあたりまで道が広くなっているのである。

平屋の古い商店がなくなりみんなビルになって、ファミリーレストランや居酒屋チェーンになるのは、果たして喜ばしいことなのだろうか。確かに、奈良市内に安いビジネスホテルが増えたのはうれしいけれど(以前は、奈良市内にはほとんどこの手のホテルがなかった)、ちょっと考えさせられた。おかげで、最近の出張にしては珍しく、端麗生を2本も飲んでしまったのでありました。

[Sep 9, 2011]

私の大好きだった三条通りは、現在こうなってしまいました。


安曇野・碌山美術館 [Oct 5, 2011]

先週の長野は、十七、八年ぶりの訪問だった。最初に行ったのは定番の大王わさび農園、しかし以前とは全然違って観光バスがたくさん止まる観光地になってしまっていた。雑然とした雰囲気と人込みに疲れてしまって早々に退散し、次に向かったのは碌山(ろくざん)美術館。ここは逆方向で予想に反した静かな雰囲気で、しばし日頃の疲れを忘れたのでした。

碌山美術館は、安曇野出身の彫刻家・荻原碌山こと守衛の作品を所蔵した美術館である。日本の美術というと、江戸時代以前は仏像はじめ浮世絵、襖絵、建築物、庭園などなど近代の西洋美術にも影響を与えた作品が数多くある。ところが明治時代になって西洋美術に影響を受けるようになってからは、逆に優れた作品をあげるのが難しくなる。

それでも絵画の方では、竹久夢二がいて岸田劉生(麗子像)がいて、現代ではCOMICSが海外進出を果たしているのでまだしも、彫刻の方はちょっと困る。もしかしたら”爆発”岡本太郎の「太陽の像」が代表作かと思ってしまうくらいである。(浅野祥雲のコンクリ像という訳にもいかないだろうし)

その意味で、美術の教科書によく載せられているのが高村光太郎と「碌山」荻原守衛であり、近代彫刻の代表選手と言っていいのかもしれない。碌山美術館のメインの作品である碌山の作品「女」は日本近代彫刻の最大傑作とパンフレットに書かれているが、なるほど格調高い作品である。

それ以上に印象深かったのは、美術館全体の静かな雰囲気である。教会建築風の本館の他にもいくつかの建物があり、それらが白樺をはじめとする高い木立に囲まれている。ちょうどいい頃合の場所に深くて大きい木のベンチが置かれていて、座って空を見上げていると時間の過ぎていくのを忘れるほどである。

安曇野には昔から美術館が多く、最近さらに増えていることから、一ヶ所にあまり人が集中しないのがいい。美術館と通りを隔てたすぐ前にはおいしい蕎麦処があり、大盛りざるそばは大鳥居・セガ前のそば屋さんの「富士山盛り」を彷彿とさせるが、こちらは手打ちなのでさらに食べ応えがある。

さらに美術館から500mほど国道方向に戻ったところには、わさび漬の名店「花岡本店」がある。こちらのわさび漬も、酒粕・わさびとも他で食べるものとは一味二味違う。北アルプスの山々を望みながらお散歩するにはいいコースである。

[Oct 5, 2011]

安曇野のシンボルと呼ばれる碌山美術館本館。1958年の開館だというから、半世紀を少々超えたことになる。


美術館前の蕎麦処・寿々喜(喜は七3つ)の大盛ざるそば。手打ちです。わさびはもちろん土地のものです。


川中島古戦場 [Oct 19, 2011]

先月安曇野に出かけた際、ちょっと足を伸ばして川中島古戦場に行ってきた。もともとこの秋の旅行では2泊目を善光寺の宿坊と考えていたのが、休みがとれずに1泊にした経緯にある。だから川中島までは行くつもりだったのだけれど、松本から長野までは結構な距離があって、思った以上に時間がかかってしまった。

川中島の戦いは戦国時代の代表的合戦の一つであり、甲斐の武田信玄と越後の上杉謙信が信濃の領有権をめぐって争った戦いである。信玄の本拠である甲府・躑躅ヶ崎(つつじがさき)から長野までは約100km、謙信の本拠・上越市春日山城から長野までは約50km。距離的には謙信が近いが、山越えの難路である。

五次にわたる川中島の合戦のうち、もっとも激戦となったのは1561年に行われた第四次の合戦である。

上杉謙信は周知のように、越後の戦国大名である長尾景虎が関東管領・上杉家を継承したことから上杉を名乗った。関東管領であるから、関東公方を滅ぼして勢力を拡大した後北条氏(北条早雲に始まる戦国大名。鎌倉執権の北条と区別するため、「後北条氏」と呼ばれる)が最大の宿敵であり、謙信も何度か関東に遠征し小田原城を攻めている。

その後北条氏と同盟関係にあったのが武田氏で、古くは今川氏も加えて武田・北条・今川の三者同盟で関東・東海を席巻していた。後にこの三氏は、織田信長・豊臣秀吉に各個撃破され滅ぼされるが、それ以前にこの同盟軍に対抗していたのが上杉であった。

上杉が関東に攻め入るたびに、後北条と同盟している武田が背後の信濃を攻撃する。これに業を煮やした上杉が、一気に雌雄を決するため勝負をかけたのが第四次の川中島合戦であった。大乱戦となったこの戦いでは、謙信が単騎、武田本陣に切り込み、信玄に三太刀七太刀を浴びせたとされる。

結局謙信は信玄に致命傷を加えることができず、武田軍の追撃により謙信は退却を余儀なくされる。そして、これ以降の合戦は鉄砲隊が大きな役割を果たすのに対し、源平合戦の時代のようなほとんど最後の大将同士の一騎打ちであったことから、いまも名勝負と伝えられるのである。

この像のある八幡原史跡公園は高速の長野ICからすぐ近くにある。どちらを向いても山に囲まれる中に大きな河川敷があって、やはり古戦場である関が原とよく似た地勢である。長野といえば今ではオリンピック関連施設や野麦峠関連施設が観光資源となっているが、両軍合計で3~4万人のうち、6~7千人が戦死したと伝えられるこの激戦地も、一度は訪れたいところである。

[Oct 19, 2011]

川中島名物、上杉謙信vs武田信玄。


北ノ庄城址 [Oct 3, 2012]

先日福井に出張した際、ちょっと時間があったので北ノ庄城址に行ってみた。ここは、JR福井駅から歩いて10分ほどのところにある。

織田信長の筆頭家老であった柴田勝家が、本能寺後に豊臣秀吉と後継争いとなり、敗れて北ノ庄城で滅ぼされたことはもちろん知っていたが、北ノ庄が現在の福井ということは不勉強で知らなかった。もっとも、ここ福井は北陸道から畿内への要路にあり、だからこそ柴田勝家が配置されたのである。柴田滅亡後は、結城秀康(家康の次男)以降、越前松平家の領有するところとなった。

幕末には四賢侯の一人松平春嶽が藩主を務め、それなりに豊かな地域であったようだが、現在の福井はシャッターの閉まった商店も多く、お世辞にも繁栄している地方都市とはいえないようだ。それでも北ノ庄城址の一角は、昨年の大河ドラマ「江」の影響もあって柴田時代の城の復元模型なども展示され、新しい銅像なども置かれている。

この銅像達、見た目で製作時期に違いがある。新しいのが三姉妹像で、これはおそらく大河ドラマの際に作られたものだろう。三姉妹は北の庄落城の際に脱出し、その後数奇な運命をたどることとなる。それより古いのがお市の方の像。お市の方は浅井氏滅亡の際には脱出したが、北ノ庄では柴田勝家とともに自害したのである。

そしてもっとも古く見えるのが柴田勝家像。こちらは4人の女性とはちょっと離れて、床几に腰かけ前方を見据えている。この勝家を祭神とする柴田神社も、この一角にある。この柴田神社、建立は比較的新しく明治時代に入ってから。上にあげた福井藩最後の藩主松平春嶽らの発意によるものである。

ここで妙なのは、なぜ明治時代に入ってからこの柴田神社を作ることができたかということである。江戸時代は豊臣家崇拝はタブーで、その意味で淀君の育った北ノ庄というのは微妙な立場にあるものの、柴田勝家は有名なアンチ秀吉派であり、お市の方も秀吉を嫌っていたのだから、徳川時代に復権できていてもおかしくはなかったように思うのである。

考えてみると1ヵ月ほど前には、やはり出張の合い間に京都・高台寺に行った。高台寺が北政所ゆかりの寺なら、北ノ庄城は淀君ゆかりの城。短期間に秀吉関係の史跡を訪ねるというのも、何かの縁だろうか。

[Oct 3, 2012]

ビルの谷間に鎮座する柴田勝家像。ここ北ノ庄城址には、柴田神社が祀られています。


お市の方(後方)と三姉妹像。三姉妹の方は比較的新しく、おそらく大河ドラマの際に作られたのではないでしょうか。


立山黒部アルペンルート [Sep 26, 2012]

この間北陸に出張があった。初日は移動日というやつで、その日の夜までに富山に入ればいい。普通は空路もしくは新幹線と特急で向かうのだが、せっかくだから新幹線で長野まで行って、山を越えて富山に行ってみることにした。いわゆる立山黒部アルペンルートである。交通費は倍以上かかるが、当然自己負担である。

朝の新幹線で長野に着いたのは9時少し前。ここを9時発の特急バスに乗ってアルペンルートの起点である扇沢に向かう。この経路をとれば、あずさで信濃大町に入るより若干早く扇沢に入ることができる。バスに乗ったのは6人。長野からアルペンルート方面はオリンピックの際に道路が整備されたが、それでも2時間弱かかる。

アルペンルートは非常に人気のあるルートで、土日であれば時間待ちが必至といわれる。ところがこの日は平日だったので、観光バスで来ている団体客(個人客とは違って増発されるようだ)が何組かあるのを除けば、時間待ちをするほどの混雑とはなっていなかった。うれしいことである。

特大の車両基地のような扇沢駅で、まず室堂までの乗車券を購入、5700円とかなりお高い。黒部ダムまで後立山連峰(うしろたてやまれんぽう)直下を通るトンネルは、もともとダム建設のために造られたもので、途中、破砕帯と呼ばれる砕けた岩石の層を掘るのには大変な苦労があったとのことである。難工事の要因となった破砕帯から出る地下水は、いまでは扇沢駅の用水として使われている。

このトンネルを通るトロリーバスは15分ほどで黒部ダム駅へ。駅からは二百数十段(ということは標高で100mほど)の階段を登って、ダム展望台へ。展望台から黒部ダムと黒部湖を眼下にする。この時期は観光放水を行っているので、下の写真のように豪快な放水を見ることができる。

次のケーブルカー黒部湖駅までは、ダム上を向こう側に渡るため10分ほど歩く。ダムの向こうもこちらも、景色は素晴らしい。後立山連峰を越えると富山県になり、前方には立山連峰が切り立った岩肌と所々に雪渓を見せている。後方の後立山連峰側にコンクリートが多く見えるのは、こちらが工事の中心だったからだろうか。

立山への中腹には、これからケーブルカー、ロープウェイで登る大観峰の駅が見える。黒部ダムがおよそ海抜1450m、大観峰は2350m、この900mの標高差を、ケーブルカー、ロープウェイ合計10分ほどで登ってしまう。自然破壊とかいろいろ言われるけれど、やっぱり機械文明というものは素晴らしいものなのである。

立山黒部アルペンルートの長野側拠点・扇沢。ここからトロリーバスで後立山連峰直下のトンネルをくぐり、黒部ダムに向かいます。


観光放水中の黒部ダム。ここらあたりで海抜1450m。小さく人の見えているダム上の道路を向こう側に歩いて、ケーブルカーでさらに山の上に向かいます。


黒部ダムの上を富山寄りに歩いていくと、ケーブルカーの黒部湖駅。気のせいかすごく湿気がある。傾斜はすごい角度で、ぐんぐんと高度を稼いでいく。なお、黒部ダムまでのトンネルはもともとダム建設のために作られたため関西電力の運営だが、黒部湖から先は観光路線なので立山黒部貫光株式会社(観光ではないのがミソ?)が運営している。

ケーブルカーで登った先の黒部平から今度はロープウェイ。大観峰まで支柱なしのロープだけでゴンドラが谷を越える。このロープウェイに乗っている時、工事用資材を運ぶと思われるヘリコプターが山中の鉄塔付近でホバリングしており、吊ってあった荷物を降ろして再び上昇する場面がみられた。一瞬、遭難者かと思ったら資材運搬であった。

ロープウェイの上側、大観峰駅からは、いま登ってきた黒部ダムまでの景色がはるか下に望むことができる。ここは海抜2300m、黒部ダムは1450m。はるか下に見える。また向かい側にそびえている後立山連峰は、黒部ダム真上の赤沢岳が2670m、南に続く針ノ木岳が2820m。ほぼ目の高さである。

以前よりブログに書いているように最近は山登りを始めているところだけれど、あの山々に登るのはまだまだちょっと無理っぽい。それでも景色だけでも楽しめるのは、アルペンルートならではであろう。

下の写真を撮っていたら、「室堂に行かれる方はトロリーバスの発車になりますのでそろそろご準備ください」と構内放送が流れた。親切である。階段を下りてトロリーバスの行列に並ぶ。待っている人のほとんどがリュック持ちの登山靴で、立山から剣岳方面を目指すものと思われた。長野からの観光客は、おそらくここ大観峰までで引き返すのであろう。

室堂へのトロリーバスは全行程がトンネルである。昔は途中に立山への登山道入口となる駅があったそうだが、登山道が崩壊して現在はなくなっている。特に説明もなかったので、このまま閉鎖になるのかもしれない。何ヵ所かでトンネルが枝分れしていたから、その奥が駅だったのかもしれない。

約10分で室堂着。ここは海抜2450m、アルペンルートの最高地点となる。

黒部平から大観峰へのロープウェイ。右の建物から、山の中腹へ谷を越えて行きます。支柱は一本もありません。


大観峰駅からこれまで通ってきた後立山連峰を見る。中央やや左が赤沢岳、右の高いのが針ノ木岳。大観峰の標高は約2350m。谷間に見える水面は黒部湖で、約900m下。


室堂までのトロリーバスは駅も含めてすべてトンネルの中であり、立山の主峰・雄山の地下を通っている。駅に着くと、なんとなくグラウンドレベルのような気がするのだけれど、地上までは階段を上がっていく。海抜2450mの地下駅というのは、どことなくシュールである。

屋上に登った感覚で、地上に立つ。下の写真の風景が広がる。駅の前に立山の湧き水を引いた立山玉殿の湧水がある。さっそく飲んでみると、とても冷たい。通常、山の上にはほとんど水源はないのだけれど、ここはおいしい水が潤沢にある。わざわざミネラルウォーターを用意しなくてもいいのは素晴らしい。

トロリーバス内でホテルの宣伝をしていたのだが、室堂駅がそのままホテル立山となっている。他にもこの一帯には立山室堂山荘はじめ、登山者・観光客向けの宿泊施設が充実している。ただし、いずれもそれほど安くはないようである。とはいえ、これだけの標高の土地に、ほとんど苦もなく来ることができて、下界とほとんど同様のサービスを受けることができる。

周辺を歩いて気が付くのが、硫黄の強い匂いである。ここから約30分のところにある地獄谷は、火山ガスの影響で現在は立入禁止となっている。すぐ目の前に3000m峰があり、かたや温泉が沸いていて火山ガスも出ているというのも、この地ならではといえるだろう。

ここから先は立山道路をバスで下っていく。このバス、決して安い値段ではないが、路線バスや団体貸切バス以外は入れない道路であるので仕方がない。定員以上は乗せないようなので、必ず座れるのは安心。ただし、この1時間は長い。結構右左にワインディングするため、すごく眠気を誘う道路なのである。

途中に湿原地帯や滝があったようなのだが、ほとんど寝ていたのでしっかり見ることはできなかった。この立山道路で標高を1500mほど下げてケーブル駅の美女平へ、さらにケーブルカーで富山地方鉄道の立山駅、標高475mまで下る。ここから先は富山まで、普通の電車となる。

早く起きたためなのか、3000m近くまで上がったためなのか、この電車の1時間強もかなり長かった。立山駅では観光客と登山客が多かった乗客も、途中駅から通学する高校生がたくさん乗ってきて地方都市によくある風景になる。富山に着くともうあたりは暗かった。さすがに、平日にアルペンルートを突っ切るのはなかなか厳しいのでありました。

[Sep 26, 2012]

アルペンルートの最高地点である室堂。正面は立山。


富山側のケーブルカー美女平駅。ここを下ると立山地方鉄道・立山駅。


大正池から明神 [Oct 16, 2012]

めぐり合わせというのだろうか、長野県までは何度も来ているのに、上高地に入ったことがなかった。昔から上高地は交通規制が厳しかったから、避けるところがあったのかもしれない。今年は何とか平日に休みが取れたので、出かけてみることにした。

家を5時に出て松本インターに着いたのが9時。ここから駐車場のある沢渡(さわんど)までが長くて、さらに1時間かかった。沢渡からはマイカー規制のため、バスかタクシーでしか入れない。ちょうど駐車場に待機していたタクシーを使う。奥さんと2人なので、バスを使うより若干高くなるだけである。

車中、運転手さんがいろいろ説明してくれる。この日の予定は大正池から明神までだが、遠くに見える山並みのいちばん奥が明神岳で、その麓が明神になるらしい。ずいぶんと遠くに見える。年季の入ったトンネルが続くが、上高地に入る最後のトンネルだけが新しい。このトンネルができるまでは時間毎の片側通行で、さらに時間がかかったとのことだ。

20分ほどで大正池へ。昔は、上高地の代名詞が大正池であったように思うのだが、いまや大正池の周りにはそれほど人は多くない。道東のトドワラと同様、立ち枯れの木がほとんど倒れてしまったこともあるだろうか。それでも、大正池ができる原因となった活火山・焼岳を間近に見る景色は雄大である。

遊歩道を約1時間歩いて、河童橋へ。思ったより人が多くない上に、「2日前に熊の目撃がありました。」という貼り紙があって、ちょっと緊張する。最近はどこに行っても熊情報が出ているので、クマ避け鈴は常備する必要がある。

それにしても、梓川をはさんで穂高連峰の景色はすばらしい。TVではよく映る場所であるが、実際に見るのは初めて。頂上の方は雲に隠れて見えないが、何というか、登れるもんなら登ってみなさいと山が言っているようで、圧倒される。さすが日本を代表する景勝地である。

河童橋の近くまで来ると、いよいよ山並みが目前に迫ってくる。正面の雪渓沿い、標高差で数百m上に屋根のようなものが見える。岳沢小屋という山小屋のようだ。あそこまで登ってみたいと思うけれど、もうお昼なので登ったら下りて来れないだろう。

河童橋の上は写真を撮る観光客でごった返していたが、明神に向けてちょっと歩き出しただけで人通りは全然少なくなった。せっかく上高地まで来て、バスターミナルのまわりをうろうろしただけではあまり意味がないように思うのだけれど、それは人それぞれ楽しみ方が違うということだろう。

明神まではほぼ平坦な道。キャンプ場の横を通り、樹林帯を通り、梓川が大きく曲がっているところを通りしていると、明神館が見えてくる。ここから対岸に向けて少し歩くと明神橋、橋を渡ると穂高神社と明神池となる。

梓川の河原、ちょっと高くなったところに座る場所を見つけて休憩。休んでいるグループも2、3組で、ずいぶんと静かである。川の右岸も左岸も、山が間近に迫って何ともいえないいい景色である。来た甲斐があったなあ、また来たいなあと思いながら、川の反対側をバスターミナルに戻る。午前中の雨も上がって、晩秋の涼しい午後を過ごしたのでした。

[Oct 16, 2012]

大正池から穂高方面を望む。さすが上高地という素晴らしい風景。


この日の最上流到達地、明神橋。後方は明神岳。大正池からははるか遠くに見えたのに、目の前です。


川上村・白木屋旅館 [Jul 8, 2015]

行ってみるまでは、川上村ってどんな田舎だろうと思っていた。何しろ、JRで行くと小淵沢まであずさに乗るのはいいとして、2時間に1本の小海線に乗り換えて30分。信濃川上から村営バスに乗ってさらに30分である。とても日帰り圏とはいえない。

ところが、JR最高地点の野辺山駅で折れて県道に入るあたり、ちょうど電車の時間にあたるらしく大勢の高校生が駅に向かっている。川上村に入ると、今度はランドセルを背負った小学生の集団と何度もすれ違う。予想していたような、過疎の村ではないようなのだ。

これだけ若い人達がいるということは、何か産業があるのだろうかと思っていたら、その疑問は走っているうちに解消されることとなった。道の両側に、広大な野菜畑が広がっているのである。ところどころに「高原野菜の川上村」という巨大な看板も建てられている。そう、ここ川上村は高原野菜の栽培が非常に盛んなのである。

壮大な野菜畑は、甲武信ヶ岳の登山口である毛木平(もうきだいら)駐車場の直前まで続く。トラクターなどの農業機械も、道端に数多く駐められている。そして、子供が多いことにも驚かされたが、新築の家が目立つのである。もちろん、戦前から残っているような古びた建物もあるのだが、それ以上にここ数年で建てられたと思しき新築家屋が目立つ。

新築家屋と小さな子供が多いということは、この村には若い夫婦が多いということである。最寄りの高速ICから1時間、JR駅から30分奥、近くにはセブンイレブンもローソンもファミマもミニストップもなく、自動販売機すらローカルブランドが数台しか見当たらないにもかかわらず、若い人達が生活の場としているというのは、すばらしいことである。

川上村の中でも奥まった所、登山口に近い集落である梓山にある白木屋旅館も、 その意味ではちょっとびっくりした宿である。明治時代創業で、百名山の深田久弥も泊まった宿であり、昭和時代の山行記にもよく出てくる旅館なので、年代物の黒く磨きこまれた廊下があったりするのかなあと想像していたのだが、全くそういうことはなかった。

建物自体、ここ数年で建て替えたらしく非常に新しい。食堂、浴室、洗面・トイレが共同というあたりは旅館というよりも民宿という雰囲気だが、すべての施設が新しくてきれいである。昭和時代から使われているものといえば、おそらく食堂にかかっていた暖簾くらいしかないのではないだろうか。

客室は階段を上がって2階にある。私が泊まったのは上がってすぐの「白樺」で、6畳間。畳が新しいので、山から下りてきた姿で入るのにちょっと戸惑ってしまう。窓からは千曲川をはさんで反対側にお椀を伏せたような山が見える。奥秩父を越えて信州に来たという感じである。

浴室は5、6人は入れそうな広さでタイル張り、やはり新しい。側面から小さな泡のようなものが出ているのは、なんとか石とかいう人工温泉だろう。もちろん、ボディソープとシャンプーは備え付けである。洗面所は1人ずつの個別で、トイレにはウォシュレットが付いている。山の中に来ているという気がしない。布団も改築に合わせて新調したらしく、新しい。かけ布団は羽毛だった。

そして、受付をしてくれたご主人、早朝から朝ごはんを作ってくれた大女将の老夫婦と若夫婦が家族経営で営む宿なのである。奥からは、遊具で遊んでいるらしく小さな孫の声も聞こえる。川上村全体と同様に、これから若い人達が生活の基盤とするべく、新たな設備投資をしたということなのである。

わが家の近くの、かつて稲作や畑作で生活してきた農家をみると、新築している家の多くは行政や不動産会社に土地を売って、莫大な金額を手にした家が多い。だから家は新築しても、その代わりに畑が区画整理されて住宅地になったり、かつて森や林であった場所の木々が切り倒され、ブルドーザーが入っていたりする。つまり、農地としてはもう利用できないのである。

ところが川上村の姿をみると、いままでの生活を保ちながら新たな世代に引き継がれていて、すばらしいことだと思った。本当は、家とか家族はこうやって引き継がれていくべきで、みんながみんな都会に出てカネ儲けしなくてもいいのだと思う。明治創業の古い歴史を持つ白木屋旅館も、次世代に向けて面目を一新した。何よりのことである。

[Jul 8, 2013]

建て替えたばかりの白木屋旅館エントランス。古旅館という感じは全くなく、イメージと違って新しい。


食堂、浴室、洗面所は共用だが、どれもみんな新しい。明治時代創業、深田久弥の泊まった宿というイメージでいると、かなりのギャップがある。


京都の思い出 [Jul 8, 2020]

WEBを巡回していて、「京言葉で学ぶ英会話」というページがあった。「ぶぶ漬けでもどうどす?」を英訳すると"Get out of here."、「考えとくわ」が"No thank you."、「みんな怒ってはる」が"I'm angry."などなど、確かに英訳するとそのとおりになるので結構笑える。

若い頃は京都・奈良によく出かけた。その後に大阪勤務になった時は忙しくてそれどころではなかったのだけれど、学生時代から社会人なり立ての頃は、夏は北海道、冬は京都奈良というのが定番だった。

今から四十数年前、京都市内・奈良市内にはほとんどビジネスホテルなどというものはなかった。特に奈良市内には修学旅行生以外の宿はないと言っていいほどで、現在のようにビジネスホテルが何軒もあるような時代ではなかった。

京都市内も同様で、お寺や観光地回りに便のいい烏丸、河原町あたりには皆無といっていいほどだった。唯一、京都駅前にタワーホテルの第一・第二と法華ホテルがあるくらいで、あとはよく分からない小さなホテルだけだった。

そんな具合だったから、京都というのは観光都市というけれども、ひどくよそよそしい街だと思ったものである。確かに、修学旅行生など団体客向けの宿はたくさんあるし、観光バスで回れば不便は感じないけれど、個人客が路線バスで回ろうとするとたいへん不便だったことを覚えている。

当時は地下鉄もなく、京都駅前に目立つのは定期観光バスの発着所だけで、いまのように分かりやすい路線図などなかった。まして、路線バスのターミナルはJR京都駅ではなく三条京阪(京阪の三条駅)だったのである。

東京だって皇居前から上野に行って原宿や渋谷まで遠出するのは大変だが、それでも山手線があるし、銀座線や丸の内線など古くから地下鉄がある。しかし京都では、JRは市内移動には使えないし、京阪も阪急も近鉄も直接乗り継ぎできなかった。

JR京都駅付近から東山なり嵐山なり金閣寺に行くのはまあいいとして、東山から嵐山や金閣寺に向かうのはひと苦労なのである。おそらく、四条烏丸や河原町に泊まっていれば難しくないだろうけれど、そこには宿がないときている。

だから、方向が違うと移動に2時間も3時間もかかるのは当り前で、どこに行った時か忘れてしまったが、JR駅を横切って南下し、かなり大回りして東山に行ったことがあった。

値段の高い店などには行けなかったので「一見さんお断わり」なんてところは無縁だったが、一人でふらっと食べ物屋に立ち寄るような雰囲気ではなかった。夕食というと、近鉄京都駅のレストラン街で定食を食べたものである。

地下鉄が通った時期に様変わりして、JR京都駅はホテルやデパート付の高層ビルになったし、市内を移動するのに路線バスだけに頼ることもなくなった。四条烏丸にも河原町にも、いまでは全国チェーンのビジネスホテルがたくさんある。

いまでは、「一見さんお断わり」とばかり言っていられなくなったかもしれない。それが全国標準と言うのが一般的な感想だが、何となく寂しいような気もする。

[Jul 8, 2020]

どこかのサイトで見つけた京都イングリッシュ。「ぶぶ漬け」が"Get out of here."、「考えとくわ」が"No thank you." 笑っちゃいます。


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