年寄りは若い人に昔のことを物語るというのが、古来からの人間社会の伝統でした。一つでも参考になれば幸いです。
アマチュア無線   百科事典   大学受験講座   客用布団   騎馬戦と鼓笛隊
くじら尺   地の塩の箱   ナポレオン   脱脂粉乳   ガリ板刷り

アマチュア無線

先日、知床観光船沈没のことを書いていて、そういえば昔アマチュア無線が流行ったなあと思った。船舶無線や航空無線などの業務用無線とアマチュア無線は違うけれど、半世紀前にはたいへん先進的な技術と思われていたのでした。

当時、通信教育や資格取得というと、必ず出てくるのがアマチュア無線だった。資格を取るためには技術や規則を覚えなければならないし、その上で機械を購入しなければ使えない。頭脳だけでなく資金力も求められる趣味であった。

当時の小中学生の多くはトランシーバーにあこがれ、離れていても話ができるというのは本当に次世代の技術と思っていた。携帯電話どころかほとんどの家に固定電話さえ通じていない時代である。

だから、実際に資格を取って、自宅に無線装置を揃えて送受信できるのは、本当に限られた人達であった。いわゆる、高尚な趣味であった。そういう人達は当然秋葉原も大好きで、電車代を工面して電気街をうろついたはずである。

私はどちらかというと文系なので、秋葉原の電気街よりも神田の書店街の方が好みだったが、その気持ちはたいへんよく分かる。おそらくそういう人達は、受信機・送信機の前で一日過ごし、このコールサインは誰で、どういう奴だなどとリストを作っていたに違いない。

ところが、いまや通信教育やカルチャーセンターでアマチュア無線が注目を集めることはほとんどない。LINEやツイッター、フェイスブックによって、スマホさえあればほぼ同じことができるからである。

だから、いまや無線の資格といえば、職業上の必要による船舶無線や航空無線のことと思われている。アマチュア無線愛好者の多くは、私よりも上の年齢層の人達である。

アマチュア無線の盛衰を思うと、いま最盛期を迎えている技術も、半世紀後にはout of dateになっているかもしれない。今こうして書いているブログも、その候補のひとつだろうと思う。

ただ、希望的観測を込めて言えば、ブログというものは「つながる」ことよりも「自分の考えを伝える」ことに比重を置いている。もし仮に誰も読んでいないとしても、私はブログを書き続けるだろう。(「お客様は神様」というのは、本来そういう意味だと聞いた)

ブログはアマチュア無線というよりも、壁新聞とかガリ版刷りに似た要素が多いのかもしれない。壁新聞やガリ版刷りももちろんout of dateなのだが。

[May 18 , 2022]

受信機・送信機を揃え家にアンテナを立てて、「CQ CQ」なんてかっこいいなあと小さい頃思ったものですが。(写真:無線機歴史博物館)



百科事典

いまから半世紀前、百科事典はたいていの家にあった。「あ-かょ」とか何のことだろうと思っていたのだが、家にも置かれるようになって、五十音のどこからどこまで載っているかを示すことと分かった。

子供達の中には、「世界少年少女文学全集」みたいな本を揃えている家もあったが、どちらかというと教育熱心な家庭であった。基本的に、子供しか読まないからである。百科事典は大人も読むので、文学全集より利用者層が広い。

いまでは図書館でしか見かけないが、置かれている百科事典には昭和40~50年代のものが多い。その頃、図書館とか学校だけでなく各家庭でも購入されたので、出版社も採算に合ったのだろう。いい時代である。

けっこう厚手のいい紙(アート紙)で作られていたのは、項目の多くに写真とか図表が付いていたからだと思う。なるべく汚さないように見るのだが、子供の手だからすぐに黒ずんでしまうのは悲しいことであった。

「そのうち、こんな厚手でかさばる百科事典はいらなくなる」と言われ出したのは、まだ昭和が終わる前のことであった。当時、出始めのパソコン(NECの88、99シリーズとか)が市場に現われ、フロッピーディスクなどの記憶媒体も急速に小型化・高容量化しつつあった。

アナログレコードがCDに代わったのも、この時期である。レーザーディスクになると、音だけでなく動画も大量に収納できた。大きくて重くて厚い百科事典でなくても、それらの記憶媒体に記事は収納できるし、検索も容易なのはわかり切ったことであった。

百科事典と同様、今後は紙からソフトに切り替わるだろうと言われていたのが、新聞・雑誌・書籍である。

雑誌はすでにかなりの数廃刊となり、新聞も急激に部数を減らしている。日本の人口が減っているのだから当り前といえば当り前である。書籍もいまのところe-Bookへのシフトは大きくはないけれども、いずれ書籍や書店の役割が薄れていくのは避けられないだろう。

いまでは、百科事典の機能はWikipediaが十分に果たしている。Wikipediaの記事を書いている人のほとんどはボランティアで、原稿料がもらえない代わりに好きなように書くことができる。最新内容への更新もあっという間である(死亡記事だって1日かからない)。

便利である反面、Wikipediaに書かれている内容は誰の文責でもないし、本当のことかどうか保証されない。そうしたことはネットの不備として説明されることが多いのだが、個人的には知識なんてもともとそんなものと思う。

学会や大学教授が支持している通説だからといって、正しいことかどうか分からない。本来、99%の安全性を求められる医療や健康に関する通説にしても、ここ数年でいくつひっくり返されたか分からない。

活字で印刷されて本にするよりも、ネット上のテキストとして現時点の暫定的なものとしてもらった方が、かえっていいような気もする。

[Jun 22, 2022]

高度成長期に各家庭で揃えた書物のひとつに百科事典があった。いまでは、図書館でしか見かけない。



大学受験講座

受験勉強時代も、かれこれ半世紀前のことになる。テキストにどんな問題が出ていたのか全く忘れてしまったけれど、いまだに覚えていることがある。

古文のテキストである。問題に載っていたのは「とりかえばや物語」である。平安時代の王朝文学のひとつで、貴族の姫君がたいへん勇ましく、御曹司が屋敷の奥深くから出てこないというような話である。

平安時代はいまのようにLGBTに対する理解などというものはないし、性別によって定められた道を進む他はなかった。だから「とりかえばや物語」も、結局は姫君は女として、御曹司は男として幸せになりましたという話である。

なぜそれだけが半世紀近く経っても記憶に残っているのかというと、別に当時からLGBTへの理解があった訳ではなく、少女コミックスのたいへんなファンだったからである。「ベルばら」から入って、マーガレットから花とゆめ、別マ、別コミと、読む本はどんどん増えていった。

当時、少女コミックス全盛期で、大島弓子とか萩尾望都、武宮恵子といった人気作家が、そういう系統の作品をよく書いていた。平安時代から、同じような物語があったんだと思った。現代も千年近く前も、考えることも好みも一緒だなあ。

それとは別の話で、どういう脈絡か忘れたけれど、講師の先生が講義の中で言ったことの断片だけを覚えている。それは、「眠らなくても体は休まるから心配するな」ということである。

眠らなくても横になって休んでいれば、手足も体も使わない。目を閉じていれば目も使わない。それだけで体は十分に休まるから、眠れないからといって気に病む必要はないということだった。

集中して講義を受け問題を解いていると、ベッドに入ってからも興奮状態は続いていて、あまり眠くならない。そもそも夜中の2時3時まで勉強しているから、そのまま朝になることもしばしばである。

でも、横になって目を閉じているだけで十分な休養になるのだから心配するなと言われて、なるほどそうかと安心したものであった。その先生が何の教科でどういうことを教えていたのか全然覚えていないのだけれど、それだけを覚えているのは不思議である。

年齢的に、その先生がまだご存命ということはないだろう。しかし、そうやって残した言葉が半世紀経って私の記憶に残っていて、こうして文章にするというのは、なかなかすごいことであると思う。

[Jul 20, 2022]

半世紀前、真夜中に放送していた大学受験講座を視聴していた。何を習ったかほとんど忘れてしまったが、今でも覚えていることがある。



客用布団

今年の春、地元印西市で江戸末期から昭和三十年代まで盛んだった印西大師八十八ヶ所を巡拝した。

その機会にいろいろ聞いたところでは、当時(私の年代が子供の頃である)、その時期になると親戚や知り合いが家に泊まりに来るし、集会所や青年館に泊まる人も多かったので布団や食事・お酒の用意もしたという。

なるほど、旧印西町や旧本埜村にはどこの集落にも集会所や青年館があって、しかもそこそこ大きいのはなぜだろうと思っていたが、そういう歴史があったのである。いまでも行事として続いてはいるものの、大勢が巡拝する訳ではない。

思い出すと、私の子供の頃も家に親戚が泊まりに来ることがあって、客用布団を7セットも8セットも用意していた。家の両親は田舎(東北)から出てきた人達だったので、そういうものだと思っていたけれど、いまでは客用布団などほんど使わない。

そもそも田舎から出てくる親戚などいないし、仮にいたとしてもビジネスホテルに泊まる人が大多数だろう。親子だって一緒にいると気を使うのに、親戚だのに気を使っていられない。ビジネスホテルの方が気が楽だ。

そして、昔は布団は打ち直し(中の綿を入れ替える)して繰り返し使ったけれども、いまや綿を入れ替えて使う人などほとんどいない。買い替えた方が安いし、清潔である。

そんなこんなで、昔だと商店街には布団屋さんは必ずあったものだが、いまではほとんど見ない。洋品店よりもっと少ないかもしれない。ほとんどの人は、通販で買うか、スーパーとかニトリに行く。

おそらく、布団で寝る人はこの先もどんどん減って、ベッドで寝るのが当たり前になるだろう。ワンルームに住む人だって、布団を使わずベッドを置く。押し入れというもの自体、近い将来なくなる可能性が大である。

布団で思い出すのは、山小屋では晴れると屋根とか地べたに布団を広げて干すことである。北岳に登った時、肩の小屋の屋根いっぱいに布団が干してあった。

おそらく、どこの山小屋も晴れた日には布団干しをしているだろう。そして、長らくお客さんを泊めていないにもかかわらず、丹沢の山奥にあるユーシンロッジでは、何年か前まで布団を干していたと聞いたことがある。

ユーシンロッジが休業して15年。丹沢湖方面からの道路が土砂崩れのまま復旧しないので、再開の目途は建たない。建物自体そろそろ無理だが、布団も使えないだろう。おそらく田舎の廃屋にも、同じように放置された布団がたくさんあるんだろうと思う。

[Aug 18, 2022]

半世紀前は田舎から東京に出てきた家族が親戚を泊めるのは当り前だったので、どこの家にも客用布団の用意はあったものでした。現代では、ほとんどみられません。



騎馬戦と鼓笛隊

夏休みが終わって新学期になると、多くの学校は秋の運動会を行う。いまでも多くの父兄が見に行くけれども、半世紀前には朝から父兄以外にも地域の人達が大勢集まって、1日中盛り上がったものである。

しばらく前から父兄以外はご遠慮くださいということになり、コロナで父兄すらも見ることは難しくなった。もともと学校行事だから、生徒以外はいなくても構わない。安全面からも、誰だか分からない人達が学校に入って来ることは好ましくない。時代の流れである。

そして、運動会になくてはならないものが、騎馬戦と鼓笛隊であった。組み体操という意見も少なくないだろうが、私自身組み体操をした記憶がない。それほどポピュラーなものではなかったのである。

騎馬戦をしたことのない人が多くなっているが、三人が手と肩で組んで馬を作り、一人が上に乗って戦う競技である。体の大きい奴は前の馬になるので、私はたいていそこだった。上に乗った記憶はない。

小学校だと危ないので組み合うことはせず、帽子を取り合うだけである。中学生になると肉弾戦となり、上が落ちるか馬が壊れるまで続ける。制限時間が終わって残っている馬が多い組が勝ちである。

いまから考えると、馬にしても上にしても体がでかくて腕っぷしの強い方が絶対有利なので、フェアな争いとはいえない。馬は手が使えないけれども、肩でぶつかったりすることはできる。弱そうな馬の側面を狙えば一発である。

当時の観客、つまり大人達の多くは戦争に行った経験がある。だから戦争を思い出させるものは嫌いなはずなのに、騎馬戦とか棒倒しとか、体を使って争うことが大好きであった。神社の奉納相撲も、私の子供の頃はまだあった。

いまはそういう時代ではないし、見る方もやる方も体の大きい方が絶対有利な取っ組み合いなどしたくないから、防衛大学でもなければ運動会で騎馬戦があるところなどないかもしれない。

もう一つ、戦争の名残りが強く残っていたのが鼓笛隊である。もともと鼓笛隊とか行進曲とかは軍隊の行進のためにあったもので、普通の人が歩くのにそんなものはいらない。

でも、運動部に入っていない生徒は半強制的に鼓笛隊に参加させられた。大太鼓とかシンバルとか重いものを持たなければならない奴もいたが、半分以上は笛隊である。

「錨をあげて」とかそんな曲を演奏しながら、決められたルートを行進する。北朝鮮のマスゲームと基本的に一緒である。GHQがよく許可したものだと思う。あんなもの、一歩間違えば(間違えなくても)軍事教練である。

こちらの方は、軍隊を連想させるとかそういう理由ではなく、真昼間からうるさいという近隣からのクレームが原因で、いまではほとんど見ない。やらされる生徒にしてみれば、炎天下何度も練習させられなくて済むのは何よりのことである。

そもそも、授業にせよ運動にせよ、やりたい奴がやりたいことをすればいいのであって、みんなで一緒になって団体行動というのは気持ちが悪い。部活が下火になっているのは教師の負担が大きいという理由だけれど、あんなものなくてもいいのである。

明治時代とか昭和初めとか、日本が貧しくて生徒が教育に触れる機会が少なかった時代ならともかく、いまの時代はそれぞれが自分の適性に合ったことができる。もともと欧米では、部活などというものはない。授業が終われば学校は施錠して無人になるのである。

[Sep 15, 2022]

おそらくいま小中学校の運動会で騎馬戦をやるところはほとんどないのではないでしょうか。昔は、小学校は帽子の取り合い、中学校は馬から落とすまでやったものです。



くじら尺

私の子供の頃、日本古来の単位である「尺貫法」は今後使ってはいけないということになった。

昭和26年(1951年)に施行された旧・計量法により定められたもので、公的書類や証明などに使うのはメートル法だけということになった。とはいえ自粛警察のお国柄であり、私的に使うものについても絶対に使うなという人が現れるのは悲しいことであった。

いまでも「一升瓶」というけれど、中に入っている日本酒の量は1800mlで、1803.9mlではない。「一坪」と表記されるのは3.3㎡のことで、3.3058㎡ではない。まあ、たいした違いはないと言えなくもないが。

NFL中継を見ていると、選手の体格を表示するのに、身長6フィート4インチ、体重240ポンドなどと平気で放送しているし、視聴者もメートルで表記しろとは言わない。してみると、尺貫法が使われなくなったのはわが国が敗戦直後のため過剰反応したのだろう。アメリカはヤード・ポンドだし。

少なくとも私が子供の頃には「百貫デブ」という言葉は現役で使われていたし、尺貫法のものさしであるくじら尺も世の中に普通にあった。「アルプス1万尺」の歌詞はそのままだが、よく「アルプス3000m」にならなかったものだ。

いまだに、和装では尺貫法が使われているから、くじら尺は専門店には置かれているが、当然、文房具店には置かれていない。世の中でほとんど見かけないことも確かである。

釣りの世界では、魚の大きさを表現するのに「尺」を使うことが多いようだ。私は釣りをしたことがないので分からないが、1尺(約30cm)を超えると、手ごたえも釣り上げる困難さもかなり違って、「30cm超え」ではニュアンスが異なるらしい。

「坪」というのも尺貫法の単位で、いまでも土地取引に使われるように思えるが、正式に取引書類に使えるのはあくまで㎡で、坪はカッコ付き、しかも1坪=3.3㎡で換算した概算値が書いてあるだけで、正確な坪ではない。

たたみ2畳が1坪で6尺が1間というのも、規格製品だとメートル法しか使えないから、厳密には昔の1畳、昔の1間とは違う。そもそも、団地サイズができた時に畳の大きさは変わってしまった。

身近な使われ方でもっともポピュラーなのは体積で、「1升瓶」「1斗缶」などは現役で使われている。ただし、「1升瓶」に入っている酒は1800mlで、1803.906mlではない。

想像するに、終戦後間もなくのことだから、負けたんだから昔からのものは使えないという思いがあったのではないかと思う。もちろん「皇紀」などは使えないだろうが、民間で慣例的に使っている単位まで細かく規定しようという意図は、GHQにもなかったように思う。

皇紀といえば、今日われわれが「ゼロ戦」と呼んでいる戦闘機は、皇紀2600年に開発されたことから「00(零)式」と名付けられたもので、日本での呼び方は「れい式戦闘機」であったという。米軍が"Zero Fighter"と呼んだことから、戦後はそれと合わせて「ゼロ戦」になったということである。

[Oct 19, 2022]

昔の家には、ミシン、編み機とくじら尺は必ずあった。くじら尺は、長さの単位であるとともに「ものさし」そのものを指した。プラスチックではなく、竹で作られていた。



地の塩の箱

子供の頃、最寄り駅が新京成線の前原という駅だったので、改札のすぐ横に置かれていた黄色い鳥の巣箱のような募金箱は見慣れていた。学生になって総武線から通学するようになり、総武線の駅に置かれていたことにも驚かなかった。

きっと、全国的に行われている社会活動なんだろうと思っていた。募金箱には、「小銭にお困りの方はどうぞお持ちください」と書いてあった。余裕のある人が5円10円と募金して、それを電車賃が足りない人が活用するという趣旨であった。

募金箱には「地の塩の箱」という機関紙(広報誌)が置かれていて、この活動で社会をより住みよいものにしていこうみたいな記事が書かれていた。

いまにして考えれば、まさしく宗教であり、公共交通機関がよくぞ施設使用させたものだと驚くけれども、当時は宗教ではなく社会活動と考えられていた。総武線・新京成線に多くあったのは、提唱者が近くの公団に住んでいたかららしい。

私の住んでいた周辺では見慣れた箱だったが、手を広げ過ぎたのが一つの要因となってこの運動は破綻した。持ち出す人ばかりで募金する人がいなかったからである。

結局のところ、機関紙の制作費用だけが積み上がっていき、箱にはゴミが捨てられた。こうなると駅も美観がそこなわれるし、そもそもそういう活動に施設を利用させるのは好ましくない。地の塩の箱は、次々と撤去された。

提唱者は、この活動が広がると本気で考えていたんだろうかと時々考える。募金する人は少ないけれどいるだろう。問題は、使う方が善意で、いま現在足りないおカネだけを持ち出すだろうかということである。

使っていいと書いてあるのだから、遠慮なく持っていくという人間は必ずいる。そういう人間が一人いるだけで、この運動は破綻する。いくら趣旨を説明して賛同を得て、募金を増やしても悪意の一人がいればおしまいである。

そして、その人間にとってみれば、どうぞと書いてあるのだから何の遠慮もない。そもそも、他に必要な人がいるかもしれないと躊躇するような人は、はじめから募金箱のカネは当てにしない。

いまにしてみると、そんなの当り前じゃないかと思われるかもしれない。でも、世界の恵まれない子供達とか、ウクライナを支援しましょうとか、ほとんどすべての募金が基本的にはすべて同じことなのである。

自分が手助けできるのは、自分の手が届く範囲の人達だけである。それ以上に範囲を広げようとしても、結果的に誰か悪意の人に利用されるだけである。それよりは、お賽銭として神様に納めた方がストレスが少ない。

[Nov 16, 2022]

私が育った新京成線前原駅には、「地の塩の箱」という黄色い募金箱が置かれていた。一時は首都圏の駅百ヶ所以上に置かれたそうだが、やがて誰も入れなくなり20世紀末には撤去された。



ナポレオン

半世紀前の高校生の頃、昼休みや放課後にナポレオンというカードゲームを毎日のようにやっていた。

その頃から麻雀が流行ったのでその影響かもしれないが、さすがに学校で麻雀はまずいので(カードでやる麻雀もあったがいまいち面白くない)、せいぜいトランプゲームというのが相場だったろうと思う。

麻雀との違いは、女子も参加していたことであった。当時の女子には文学少女が多かったので、欧米の小説によく出てくる週末に集まってブリッジで楽しむという場面に似ていたせいかもしれない。

4~5人でやる「戦争」のようなもので、ナポレオンになったプレーヤーがどれだけ札を集められるかというゲームである。ナポレオンを助けるプレーヤーが「副官」で、指定されたカードを持つプレーヤーが自動的に「副官」となる。

ゲームのキモがまさに副官で、副官はナポレオンに敵対するふりをしながら、実はナポレオンに札を集める役割なのである。だから、プレーヤーは誰が副官なのか推理する必要があり、副官はできるだけバレないようにしなければならない。

いまにしてみると、何も賭けていないしゲームとしてそれほど面白いとも思えないのに、なぜあれだけ毎日やっていたのか分からない。麻雀であれば、勝ち負けもあるし役満をあがる楽しみもあるのに、ナポレオンにそんなものはないのである。

高校生だから、女の子と一緒にゲームをできるのが面白かったのかもしれない。とはいえ、高校も2年になると大学受験が近づくので、そんなことをして遊んでいる訳にはいかない。1年生の時が最盛期だった。

とはいえ、休みの日に男4人集まって麻雀というのは受験直前までやっていたから、それだけが理由ではないのだろう。

いまから思うと、ゲームをするというのはあくまで「言い訳」であって、実はゲームを通じた推理や会話のやりとりを楽しんでいた人が多かったのではないかと思う。

そうしたことに長けているのは、男子よりも女子である。いってみれば一種の「社交」で、勝っても負けてもたいして意味はないのである。ゲームの勝ち負けに主な関心のある男子連中が次第に遠ざかるのも、無理からぬことであった。

[Dec 21, 2022]

半世紀前の高校生の頃、昼休みや放課後にナポレオンというカードゲームを毎日のようにやっていた。



脱脂粉乳

3つ歳下の家の奥さんによると、埼玉では給食に脱脂粉乳は出ていなかったそうであるが、私の育った千葉県では小学校の給食にアルマイトのポットに入った脱脂粉乳が必ずついていた。

私自身はそれほど苦にならなかったが、クラスに何人か「まずくて飲めない」と隠れて捨てている子がいた。給食は残さず全部食べることが強制されていた時代である。

いまにしてみると、健康にいいことは間違いないし、牛乳を消化できない子は一定割合で必ずいるのだから親切でもあるのだが、当時はなんでわざわざまずいものを出すんだろうと思っていた。

よく知られるように脱脂粉乳はもともと米国からの支援物資で、敗戦で荒廃した日本を援助するための人道支援であった。もちろん、米国のマーケットであまり売れない商品を消化する側面もあっただろう。

ララ(Licensed Agencies for Relief in Asia)と呼ばれるこの人道支援は1952年(昭和27年)まで行われ、その後は国内で食糧生産が間に合ったのだが、なぜか私の小学校時代も脱脂粉乳は残っていた。すでにオリンピック後である。

当時は子供の数が一番多いし、学校給食は学校ごとに給食室で作られていた時代だから、牛乳を学校ごとに輸送する手段や、保存する設備がなかったのかもしれない。何しろ、その頃牛乳は毎朝宅配されるのがデフォルトであった。

そして、夏でも脱脂粉乳はお湯で溶くので熱いのである。もちろん教室に持ってくる頃には熱湯という訳ではないが、むっとする温度なので嫌いな人にはたまらない匂いだっただろう。

いまもそうだが脱脂粉乳(スキムミルク)を好きと言う人はあまり多くないから、溶かしてコーヒー牛乳にできる粉が付いている時はうれしかった。溶いてしまえば、牛乳も脱脂粉乳もたいして変わらない。

コーヒー牛乳とフルーツ牛乳は当時清涼飲料水的に飲まれていた。お風呂屋さんにあったのもたいていそれで、コーラとかファンタはまだなかった。なんたって自販機が数少なかったのである。

小学校の終わり頃には脱脂粉乳から180ccの牛乳になった。まだ紙パックはなく、すべて牛乳瓶の時代だった。だから、1クラス分集まると結構重い。男子生徒が2人がかりで教室まで運んだものである。

[Jan 25, 2023]

当時の食器はもっと黄色かったし、スプーンの先は割れていた。(出典:(公財)学校給食研究改善協会)



ガリ版刷りとわら半紙

私が小学校高学年くらいまで、学校には必ずガリ板刷りの器具(機械とはいえない)が置いてあった。

原理はいたって原始的なもので、セロハン紙に蝋を塗った原稿を置き、上からローラーでインクを付けて、下にある紙に文字やイラストが写るというものであった。もともとエジソンが発明したらしい。

なぜガリ板というかというと、原稿を鉄筆で書かなければならず、ヤスリのような下敷きの上でガリガリ書いたからである。正式には、謄写印刷という。

学校では生徒にいろいろな通知をしなければならないので、ガリ板刷りはどうしても必要なものであった。コピー機が普及するのは1970年代なので、それまで学校にコピー機はない。大学ならともかく、ベビーブームで膨れ上がった小学校に置くことはできない。

翌日持ってくるものなどは先生が生徒に一斉にメモをとらせていたが、1ヶ月の給食献立表とか学期ごとの行事予定などは、メモでは追いつかない。渡す人数も多いので、どうしても印刷しなければならなかった。

昔の学校は学級新聞というものを作っていたので、それもガリ板だった。当時学級新聞の係になることが多くて、結構原稿書きをやらされた。高学年になる頃にはいい原稿用紙ができて、青い蝋を塗った紙にボールペンで書くようになったのはありがたかった。

いまは書類といえばA4がほとんどだが、その当時はB4がデフォルトだった。おそらく、中央で2つに折って重ねて綴じたからだと思う。ガリ板もB4で、学校には印刷するB4のわら半紙が大量に置いてあった。

現代の子供達は、ガリ板やわら半紙といってもほとんど見たことがないだろう。われわれ世代だって、中学ではすでにコピー機が入っていた。コピー機でもわら半紙は使えないこともないだろうが、紙づまりのもとになるだけである。

ガリ板刷りがなくなってしばらくした頃、プリントゴッコという装置がはやったことがあった。B4ではなくハガキサイズで、子供が年賀状を刷るのに使っていた。これも、パソコン(最初はワープロ)の普及でほどなく時代遅れになった。

いまやペーパーレスの時代で、必要なら必要な人がプリントアウトするようになっている。多量の紙ゴミを学校や各家庭で燃して処理することもできなくなっているので、当然そうあるべきだろう。

いまは学級新聞なんてものを作っているのだろうか。名簿も作らなくなっているくらいだから、やらない学校の方がおそらく多いのではないだろうか。

[Mar 1, 2023]

写真はWikipediaに載っていた外国の古い印刷装置ですが、小学校の頃のガリ板もこんな感じでした。インクが手や服に付いて汚れたものです。
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