年寄りは若い人に昔のことを物語るというのが、古来からの人間社会の伝統でした。一つでも参考になれば幸いです。
はんだ付け   電話金融   月 賦   習字教室   夜行列車と駅寝
ひょっこりひょうたん島   都営ギャンブル廃止   深夜放送黄金時代   計算尺   編み機

はんだ付け

半世紀前には家に普通にあったのに、いまはほとんど見ることがないものの一つが「はんだごて」である。

家にあるどころか、いまから50年前に中学生だった私は、技術家庭の授業ではんだ付けをやった記憶がある。多分、いまの中学生はやらないだろう。当時だって、男しかやらされなかった。男女平等にうるさくなかった時代である。

はんだ付けが必要とされるのは、金属と金属の接続である。当時はすでに真空管はほとんど見なくなっていたが、トランジスタが全盛期で、男の子はみんな鉱石ラジオを作って聞いていた。原始的な構造だが、結構聞こえたものである。

電気製品も単純なもので、故障の原因の多くは配線が途中で切れることだった。だから、切れた部分をはんだ付けでつなげると直ることが多かった。だからほとんどの家には、はんだとはんだごて、小さな缶に入った松脂があったのである。

いまの時代に置き換えると、おそらくプログラミングの授業に相当するのだろう。私がフローチャートを習ったのは高校に入ってから、BASICのプログラミングは大学だから、それに比べると現代の子供たちは進んでいる。

とはいえ、私の年代でも、社会に出る頃にはトランジスタの時代ではなくなっていた。トランジスタはICに代わり、配線はプリント基板になった。製造現場でも、はんだごてで作業する場面は多くなかったはずである。

「トランジスタ・グラマー」なんていう言葉もあった。背が低いけれどもグラマーな女の子のことだと説明されなくても見当はつくだろうけれど、トランジスタを見たことがないと感覚がつかめないかもしれない。

はんだ付けが一般的だった時代には、電機製品は月賦で買う高いものであり、修理して使うのが当り前だった。いまでは、修理するなどということは一般人にはとても無理である。買い替えるしかない。もっとも、最近のものは簡単には壊れなくなったが。

修理といえば思い出すのは、サラリーマン時代にシステムの運用をやっていた時、コンピュータが動かなくなった時どうするかというと、ほとんど「再起動」なのである。

少し前にWordPressが動かなくなった時書いたように、再起動でダメなら初期化である。システム運用などと大層な名前はついているけれど、やることはバックアップとエラーメッセージの解読、あとは再起動と初期化くらいしかない。

電機製品で、コンセントを1回抜いて入れ直すのと同じことである。それで直らなければメーカ(富士通)の仕事である。授業でフローチャートを勉強しようが、プログラミングを勉強しようが、ほとんど関係ないのであった。

いまの中高年は中学校の授業ではんだ付けをやった経験があるけれど、いまはやってないだろうなあ。危ないし。


[Aug 24, 2021]


電話金融

電話金融と聞くと、おそらくいまの人は電話をかけて借金を申し込むことだと思うだろう。おカネを借りるのだから、店に行くか、ネットで申し込むか、電話をかけるかどれかだろうと考えるかもしれない。

しかし、半世紀前には電話金融といえば、電話加入権を担保にした借金ということであった。電話加入権とは、文字通り電話に加入する権利である。

当時は電話サービスを提供しているのは電電公社だけであり、電話番号をもらって電話を引くためには、約8万円の電話加入権を購入する必要があった。これは電電公社の加入者に対する債務ではなく、単に電話番号を得るために電電公社に払う寄付金のようなものであった。

その頃、電電公社は電話交換を機械化するため多大な資金を必要としており、そうやって資金を調達していたのである(その意味では、入学時に学校に払う寄付金とよく似ている)。庶民も電話を引くようになって、交換手の手作業では追い付かなかったのである。

ちなみに、そうした設備投資を受注していたのが当時「電電ファミリー」と呼ばれた企業群で、電電公社に張り付いていさえすれば仕事に困ることはなかった。NTT民営化前後からそうした商売が難しくなったので、富士通やNECはコンピュータに進出したのである。

さて、この電話加入権は、借金の担保とすることが可能であった。もし借金返済ができなければ、電話加入権を処分して希望者に売ることにより、買った人が電話を引くことができたのである。

いまのように、auでもCATV会社でも固定電話が引ける時代ではなく、電話番号がほしければ電電公社から買う以外に方法がなかったのである。不自由な時代である。

かつてはどこの田舎に行っても(というか、田舎ほど)「電話の金融 マルフク」の看板があった。家の近所の農家の納屋にも貼られている(いた)のだが、長い時間の経過とともに錆びてしまって、字の輪郭のみかすかに残っている。

会社自体はとっくの昔にない。電話加入権に値段がついて売買されていたのは昭和時代だけで、その後は実質的に無価値になってしまった。加入権を買わなくても電話が引けるようになったからである。

私も、いつか8万円が帰ってくるかと楽しみにしていたのだが、結局なしのつぶてだった。担保にとっていた金融会社も、同じような目に遭ったのだろうか。

マルフクのことを思い出すたびに、産業構造の変化によって業種そのものがなくなってしまう場合があることを再認識する。いま、質屋がそれに近い状況である。AIの普及、CO₂排出規制によって、あと50年後に同じようになくなってしまう会社が、きっとあるはずである。

電話金融マルフクの看板。家のすぐ近くにもあり、「マルフク 電話の金融」の字だけがかすかに見えている。会社自体はとっくの昔になくなっている。

[Sep 16, 2021]


月 賦

前回、電話金融のことを書いていて、そういえば月賦というのも死語になったと思った。私自身、月賦でものを買ったことはないけれど、親の世代に月賦で買ったことがない人はむしろ少なかっただろうし、私の若い時代にはまだ残っていた。月賦がなくなったのは、クレジットカードが普及してからである。

月賦というのは商品の代金を分割払いする販売方法である。そんなの当り前と思われるかもしれないが、現在の分割販売はクレジット会社が行っているもので、カード同様銀行口座から引き落としになる。昔の月賦販売は電機店や月賦専門店が行うもので、毎月集金に来たり払いに行ったりしていたのである。

だから、現在は支払いが遅れるとクレジット会社から督促が来るし、ある程度以上遅れると信用情報機関に通知される。しかし昔は、電機店や販売店が回収しなければならず、最終的には品物を引き上げることになるのだった。

自動車も自動車販売会社と購入者の直取引だったし、ミシンとか編み機も月賦販売で売られていた。私が社会人になった頃は車の購入者が販売会社に専用の手形を切って(36枚とか60枚)、それを担保に銀行が自動車販売会社に融資をする「マル専」という制度もあった。

ちょうどその頃から大蔵省の規制がゆるくなって、自動車販売業者も電機製品製造業者も自社の子会社としてクレジット会社を作れるようになった。正確に言うと昔から作れることは作れたのだが、銀行からそうしたクレジット会社への融資が規制されていたので、作ってもあまり意味がなかったのである。

だから現在では、消費者対販売者の二者間契約ではなく、クレジット会社が中に入った三者契約が主流となっている。そうなると、支払いが遅延したら現物を回収するなどというのは手間もかかり面倒なので、契約上はともかく、実質的にはクレジット会社が消費者に現金を貸付したのと同じことになり、昔の形での月賦販売はほとんど残っていない。

クレジット普及前には、「月賦専門店」(当時は月賦百貨店といったが、「百貨」という名称は業態を正確に表わしていない)という形態があり、関東だとマルイやマルコーといった店が拠点駅の駅前に店舗展開していた。全国的には他に、緑屋とか大丸百貨店(デパートの大丸ではない)という店があった。

私の若い頃にもそうした店は残っていたけれども、何か買うと必ずカードを作らされる点が違うのと、食品や生活用品が売っていないだけで、ヨーカドーやダイエーとそれほど違った記憶はない。

月賦販売の衰退とともにそれらの月賦販売店は業態転換を余儀なくされ、多くの店は閉店し、あるいは合併して昔のままでは残っていない。唯一の例外は丸井で、「0101」としてイメージ転換に成功、渋谷や錦糸町に大型店舗がいまだ健在である。

丸井は昔、普通の百貨店とは違い月賦販売に特化した月賦専門店大手であった。関東の月賦専門店では、マルコーとマルイが拠点駅前に多く店舗展開していた。


[Oct 7, 2021]


習字教室

いまから30年前、私が子育てしたころの習いごとといえば、学習塾とスイミングスクールが二大巨頭だったので、現在とあまり変わらない。ところが私の子供の頃、1960年代は全く様相が違った。

学習塾などは東京都内にはあったけれど、郊外都市には皆無であった。スイミングスクールのような巨大な屋内施設を作る余力も、日本にはまだなかった。公文式も、創業はしていたけれど私は見たことがなかった。

にもかかわらず、高度成長期に入りかけていたこの時期、習い事をする子供も徐々に出始めていた。私も、習字を習わされた。習字教室は子供でいっぱいで、時間で区切らないと入り切れず教えきれないくらいだった。

他に習い事というと、カワイやヤマハのピアノ・オルガン教室、そろばん教室などが代表的だった。英語を習っている友達もいた。先生がどこかの全国組織に属して、自宅を使って個人でやっているところが多かったと思う。

少し後の時代だと墨汁があったし、当時だってあったはずなのだけれど、私の場合は硯で墨をするところから始めさせられた。そこからが習字の稽古だと言われた覚えがある。

必然的に、制限時間の半分以上は墨をすることに使われてしまい、半紙に筆で字を書くのは数枚、十枚までいかなかったと思う。書いたものを先生に持って行って朱色の墨でお手本を示してもらい、それを見てまた練習するのだった。

例の「天鳳」と同様、段位級位が認定される。いま思うと、少なくとも一級くらいまでは当該教室の先生の匙加減で決まったのだろう。本部がすべて見られる訳がないのである。

月に一度機関紙が発行され、「△級」というところに自分の名前が印刷される。アート紙かコート紙のちゃんとした印刷物で、そこに名前が載ることは子供たちの励みとなった。

おそらくそのあたりはそろばん教室も同じであったろう。ただ、そろばんの場合は昇級試験があって、制限時間内に定められた正答率をクリアしなければならなかっただろうから、習字よりも厳密だったと思われる。

習字もそろばんも、社会に出た時に必要となると考えられたから習わせたのだろうが、いずれも私が社会に出る頃には必要あるものではなくなっていた。

私が就職した時はまだ通帳や証書は手書きだった(就職したのは銀行である)が、2年くらいでシステムで印刷されるようになった。「常磐矢田部日鋪鹿島戸田JV」なんて長くて込み入った字を書かなくて済むようになったのである。

いまでも「習字教室」と書いてある看板を目にすることがあるが、子供に教えている教室はほとんどないのではないかと思う。

子供は勉強するのに忙しいし、毛筆で字が書けたからといって使い道がある訳ではない。水墨画教室(あるのだろうか)と同じように、現役を退いたシニア御用達みたいな位置づけになっているのではないかと思う。

昔は多くの子供が通っていた習字教室ですが、現在ではシニアが主たる顧客層なのではないでしょうか。


[Oct 28, 2021]


夜行列車と駅寝

この間、山登り関係のブログを見ていたら、駅で夜明かしすることをステーションビバークというようだ。ビバーク(Bivac)とは登山用語で、緊急避難的に山中で宿泊することを指し、ツェルト(簡易テント)や雪洞、岩陰などで明るくなるのを待つのである。

最近は夜になると駅が閉鎖されてしまい、ステーションビバークが難しくなっているらしい。昔は、シャッターなど装備されていないので物理的に閉鎖することが難しい上、夜行列車も多く夜中でも乗降客がいたのである。

夜行列車そのものがほとんどなくなり、夜中に乗降客がいる駅もない。だから、終電が出て始発電車までは駅もシャッターを下ろして閉鎖されるのが普通だという。時代の流れで仕方ないとはいえ、ちょっと寂しい。

私が北海道を旅行したのは大学生の頃で、いまから半世紀近く前のことになる。東北方面にはまだ新幹線は走っておらず、東北線にも上越線にも夜行列車が何本かあった。加えて、青函連絡船が運航されていたので、青森駅・函館駅は24時間オープンであった。

いまでも、成田空港の第3ターミナルは朝早くからLCCが飛ぶので、前日の夜に空港に着いたお客さんが朝まで待つことがあるが、成田空港にはある空調が当時の駅にはなく、暑かろうが寒かろうが雨が降ろうが外気の入る駅構内で過ごさなければならなかった。

私の場合は、ダイヤ上の必要性というよりも宿泊費節約の観点から駅で夜明かししたのだけれど、そういう人はいっぱいいた。泊まったことがあるのは青森、函館、札幌だけれども、道内のターミナル駅のほとんどは駅寝が想定されていた。(いまでも、シャッターのない駅や無人駅は野宿に利用されると聞くが、それはまた別の話である)

夜行列車も何回か乗った。札幌を夜出て函館に朝着く夜行列車があって、半分以上の席が埋っていた。ちょうど有珠山噴火直後で、走っている列車の窓ガラスに火山灰が大量に付いたことと、長万部かどこか、真っ暗なのに駅弁を売りに来たことを覚えている。

いまでも、上に書いた成田空港の待合室があるけれども、夜行バスにも夜間の乗降客はないし、鉄道で夜移動しなければならないというニーズも少ない(東武鉄道の尾瀬号くらいか?)。

まだ外国からの観光客もほとんどいない時期だったし、見ず知らずの人達とはいえそれほどこわいことはないだろうと思っていた。いま考えるとそれは若い男だからそうなのであって、女の子の駅寝はあまり見たことはなかった。

夜が更けてから不特定多数が集まるというのは保安上あまり好ましいことではないし、管理する駅員さんだって24時間勤務は気の毒である。だから、あの時代に戻ればいいとは決して思わないが、もう二度と経験することがないと思うと寂しいのも事実である。

でも、上野発の夜行列車がすでになくなって、それがどういうものなのかイメージを持たない人が「津軽海峡冬景色」を歌えるのかなと思わずにはいられないのである。

いつ撮影したか不明ながら、アナログ写真をスキャンした昔の函館駅。「れんらく船のりば」のライトがついているので、昭和時代のものと思われます。われらカニ族は、連絡船待ちと称して駅でビバークしたものでした。


[Nov 11, 2021]


ひょっこりひょうたん島

昨年5月に始めた「半世紀前の話」シリーズ、1年半で26話に達した。改めて、なぜこの連載をしているのか書いておきたい。

日本全国の人口を年齢の高い方から並べると、自分も年寄りから2割に入るだろう。何か特別のことをしている訳ではない。年上の人達が当たり籤を引いて退場していくからである。

うちの家族にしても、親は4人ともいない。平均寿命を80代として、残すところあと20年ほど。団塊世代の人口が多いのでピラミッドの形は崩れているとはいえ、そろそろ自分が退場することを考えなくてはならない年代である。

昔から、年寄りの大切な努めとして、若い人達に彼ら彼女らが生まれていない昔のことを物語ることがあった。いまや、本もあればWEBもあるのでそうした知識が簡単に手に入る世の中になったけれど、情報が多すぎて望む内容が簡単に手に入らないのが実情だと思う。

だから、微力ではあるが、自分が覚えている五十年前のことをつぶやいてみたいのである。私の視点は私でしか持たないので、他の人や本やコンピュータとは違う要素をピックアップするだろう。それこそが、文字もなく記録媒体もない頃から、社会が脈々と受け継いできたことだと考えるのである。
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さて、今回は半世紀前にNHKで放送していた人形劇、ひょっこりひょうたん島について書いてみたい。

先日、何の脈絡もなく「だけど僕らはくじけない。泣くのは嫌だ笑っちゃおう」のメロディーが頭に浮かんできた。小さい頃に記憶に残ったことは、何かのはずみでこうやって出てくることがある。

「ひょっこりひょうたん島」はNHKで放送された子供向けの人形劇である。当時、いまのように国産のアニメというものはほとんどなく、鉄腕アトムも鉄人28号もまだアニメ化されていなかった。あるのはポパイとかディズニーとか、アメリカ製の日本語吹き替え版だけであった。

いま思うと、人形劇というのは今日のアニメなのである。デフォルメされた登場人物、現実にはありえない世界、荒唐無稽なアクションも、アニメなら違和感なく受け入れられる。人形劇についても同様である。

現実の政治経済に関する風刺も、アニメや人形劇なら大きな抵抗がない。そもそも、「仮名手本忠臣蔵」は江戸時代の人形浄瑠璃で、幕府の規制により上演できなかった赤穂事件を時代を変えて演じて大人気を得た。

「ひょっこりひょうたん島」も、そうした江戸時代以来の人形浄瑠璃の伝統を受け継いだものだったのかもしれない。とすると、文楽の補助金を打ち切った橋下維新は、今日ならばアニメの世界展開を応援しないのと同じことになる。

NHKには他にも「ちろりん村とくるみの木」という人形劇があり、子供達は夢中になって見たものである。当時はアニメもなかったけれど、着ぐるみというものもほとんどなかった。円谷プロがウルトラQで怪獣を出したのは、アトムや鉄人のアニメが登場した後の1966年である。

1964-69年放送、NHK史に残るヒット作品でした。脚本井上ひさし、声優には中山千夏も参加していた。


[Dec 1, 2021]


都営ギャンブル廃止

家から10分ほど歩くと小林牧場がある。近在の桜の名所として名高いが、ここには大井競馬場のトレセンがある。というと、最近だとトレセンといえばJRAの美浦とか栗東を想像するかもしれないが、ここができたのはJRAよりずっと古い。

公式には、八王子競馬場が八王子牧場になり、それが小林に移ったということだが、背景にあったのは間違いなく美濃部都知事による都営ギャンブル廃止である。美濃部都知事は1967年から79年に在任、小林にトレセンができたのは1975年。時期的にみて、最悪の場合大井で競馬ができなくなることを想定していたと思われる。

いまでこそ、競馬場や競輪場の廃止は赤字によるものと決まっているが、当時は開催すれば大儲けという時代である。何しろ、中央競馬(JRA)より競輪の売上の方が大きかった時代なのである。

なのになぜ廃止されるかもしれなかったかというと、美濃部都知事が、ギャンブルで得た収益で地方自治体を運営するなど、あってはならないことと考えていたからである。

多発する八百長事件や暴力団との関係、給食費まで競馬に注ぎ込んでしまう依存症の親父など、ギャンブルの社会的悪影響はひろく報道されていた。だから、いくら儲かるものだとしても、公営ギャンブルはやめるべきだというのが美濃部都知事の信念であった。

IR法ができたからカジノを作ろうという昨今の政治家と比べるとはるかに高い志というべきであるが、関係者は困った。大井競馬が廃止されれば、多くの馬主、厩舎関係者、開催関係者、食堂・売店や馬の飼料の納入業者、牧場だって困る。

いまの人達からすると大井競馬がなくなるなんてありえないし、東京都がやらなくたって他の自治体(特別区競馬組合とか)が代わりに開催するだろうと思うだろうが、実際に後楽園競輪も大井オートレースもその時廃止されているのである。

そして、まさにその時期に開設された小林牧場が、1周1,100mという地方競馬の水準であるダート走路を持つというのは、万一のときここで競馬をするかもしれないという思惑があったからだと推測している。

実際に、いま小林分場として厩舎や職員宿舎、施設として使われている敷地はおそらく半分以下であり、周囲には広大な山林・遊休地がある。仮に、いま大井にある厩舎全部を移転させるとしても、工事さえすればスペース的には問題ない。

厩舎はともかく競馬場として使うにはスタンドとか駐車場が必要だが、直線に面した広い敷地が使われていないし、道路を隔てた地区はつい最近斎場を作ったくらいで、いまでも探せばいくらでも空き地がある。

このあたりは私のお散歩コースなので、当時の関係者はそんなことを考えながら買収したんだろうなと考える。馬場と厩舎施設の間にある道路は大井競馬がここを買う前から公道であったらしく、普通の車も通るし歩くのも問題ないのである。

2010年に、JRAの真似をして地方競馬で初めて坂路調教コースを作った。グランドレベルから中空に向かって伸びていく馬場は見た目面白いが、横からみるとコンテナを2つ重ねた上にコースを作ったように見える。

周囲の施設の老朽度をみると、それほど資金は潤沢ではなさそうだ。だから、実際に中古コンテナを使って工事したのかもしれない。

かつては、大儲けしたのに政治的な信念で廃止すら懸念され、いまは逆に採算をとるのに四苦八苦しているとすれば、まさに半世紀の時代の流れを感じざるを得ないのであった。

小林牧場はJRAの栗東トレセンより前に開設された大井競馬のトレーニングセンター。1周1,100mの本コースの他、2010年に坂路コースが整備された。道路左手、柵の向こう側がコースになる。


[Dec 21, 2021]


深夜放送黄金時代

この間図書館で徳光さんの本を読んでいたら、土居まさるとは立教大学放送部以来の付き合いと書いてあった。土居まさるはその後TVアナウンサーとしても人気を博したが、もともと文化放送(ラジオ)のアナウンサーで、深夜放送「セイ!ヤング」の司会(パーソナリティ)をやっていたのである。

私が深夜放送を盛んに聞いていたのは中学の頃から大学受験までの5~6年間で、その頃深夜放送は最初の黄金期を迎えていた。TBSの「パック・イン・ミュージック」、文化放送の「セイ!ヤング」、ニッポン放送の「オールナイト・ニッポン」はそれぞれ多くの固定ファンがいて、たいへん盛り上がったものであった。

当時いちばん人気があったのは、レモンちゃんこと「セイ!ヤング」の落合恵子で、土居まさるとか「オールナイト・ニッポン」の亀渕昭信は玄人好みの渋い内容だった。亀渕昭信はのちにニッポン放送社長に出世し、ライブドア事件で再び注目された。

私が好んで聴いていたのは、谷村新司・ばんばひろふみの「セイ!ヤング」と野沢那智・白石冬美の「金曜パック」。他にも、後に大御所となるみのもんたとか、お笑いで人気を集めるせんだみつおも、その頃真夜中に生放送をしていたのである。

内容は、いまのラジオと大きく違うことはない。司会者が出した「お題」について、翌週までに視聴者が回答して好きな曲をリクエストする。出来が(運が)良ければ名前を読んでくれる。もちろん、ほとんどは偽名の「ラジオ・ネーム」である。ハンドルネームという言葉が発明されるのは、10年後であった。

私がよく聞いていた谷村・バンバンや那智チャコ(野沢那智は、もともとアラン・ドロンの日本語吹き替えの声優)はこのお題と回答の掛け合いが秀逸で、まだ若かった私は世の中にはセンスのある人が大勢いるのだなあと思ったものである。

(そういえば、金曜パックのエンディングテーマはレイモン・ルフェーブルの「シバの女王」でした。なつかしいなあ。)

回答はいまのようにメールではなくハガキである。だから深夜放送のローテーションは1週間ごとで、翌週の同じ曜日までに視聴者はリクエストはがきを出す。いま考えると、どの曲を流すかはプロデューサと大手事務所が決めるのだろうけれど、すばらしい回答を書けば流行していなくても自分のリクエストが流れるとみんな信じていたのである。

放送時間は局によってばらつきがあったが、だいたい午前1時から3時までがコアタイム。「パック」は3時から5時が第2部で司会者が代わり、「オールナイト」は1時から5時まで通しだったと記憶している。

3時まで聴いたとしても、翌日は学校があるから7時には起きなければならず、4時間しか睡眠がとれない。その頃まじめだったので、足りない睡眠時間を授業中にカバーするなんて芸当はできなかった。

じゃあどうするのかというと、夕飯の後8時くらいに寝て、11時くらいに起きるのである。その時間から文化放送で「百万人の英語」(早見優も出ていた)と「大学受験講座」を放送していたので、それを聞いて勉強し、そのまま深夜放送まで突入するのであった。

いま思うと、あまり集中しているように思えないのだけれど、それでも夜中の勉強は効果があって、塾とかに行くのは夏休み・冬休みだけで済んだ。もともと、学習塾自体、その頃はあまり多くはなかったけれど。

深夜放送を聴きながら過去問を解き、間違った問題を参考書で見直し、「でる単・でる熟」で英語のボキャブラリーを増やす。いま思うとオーソドックス極まりない勉強法だけれど、勉強する人の方が少なかったのでそれくらいで済んだ。勉強自体は嫌いではなかったが、試験勉強はできれば繰り返したくない。

深夜放送を聴かなくなったのは、大学に入り社会人になって、いま書いたような生活パターンで夜中に起きていることができなくなったからである。ちょうどその頃、第1期の深夜放送黄金時代が終わり、人気パーソナリティが次々と離脱する。

そして、その少し後になるとオウムがロシアとか朝鮮半島方面のラジオ局を買収して、夜中に「わーたーしーはやってない、けーっぱくだー」とか「そそそそそそそ、そーんしー」とかが流れるようになる。いまだに、そちらも耳について離れない。

後に出演料が千万単位・億単位になるみのもんたも、文化放送の局アナ時代は給料の範囲内で午前1時から3時の生放送をしていた。徳光さんと立教同期の土居まさるものちにブレイク。カメさんはニッポン放送の社長となり、ホリエモンに対抗したのでした。


[Jan 25, 2022]


計算尺

小さい頃便利だなあと思ったものの中で、いまではまったく使われなくなったものの一つに計算尺がある。

半世紀前は電卓などというものはなかったので、計算は手でやるしかなかった。足し算引き算はソロバンでやるのが普通で、私が社会人になった当時の銀行ではソロバンを使う人が珍しくなかった。

もちろんソロバンでも掛け算割り算ができるのだが、足し算引き算と違って九九ができないと計算できない。九九を使うのであれば筆算でも手間はたいして変わらないから、わざわざソロバンで掛け算をやるのは有段者だけである。

九九ができなくても掛け算割り算を素早く計算するための道具として、計算尺があった。当時、計算尺の使い方は授業でも教わったくらいで、特に技術系に進む人達にとって必須のアイテムだった。

使い方はいたって簡単で、数字と目盛りをバーに合わせて、指定された場所の目盛りを読むだけである。目盛りは物差しのように均等に付けられているのではなく、対数目盛りなので数が大きくなるほど間隔が小さくなる。

答えを得るのに目盛りを読むのだが、目盛りぴったりになるとは限らない。それが、そもそも最初に合わせた目盛りがずれていたのか、それとも答えが目盛りと外れているためなのか、すぐに分からないというのが困ったところであった。

それでも、ぴったりの答えでなくても概算で分かればいいというケースは少なくないので、電卓のない時代には計算尺で十分という分野も少なくなかった。私も、当時は面白くてかなり使ったものである。

ところが、ちょうど大学に入る頃、電卓というものが世の中に現れた。私もさっそくカシオの関数電卓を買った。計算尺ではできないsinとかcos、何の何乗とかいう計算が瞬時にできて、しかもあいまいな答えにならない。これは便利であった。

これさえあれば計算がすぐにできるぞと張り切ったとたん、授業でやるのは行列とか代数ばかりになって、関数電卓があるから計算の手間が楽になることはなかった。せっかく買ったのに。

話を計算尺に戻すと、関数電卓以降計算尺を使うことはまったくなくなった。以来約半世紀、持っていたはずの計算尺もどこかに行ってしまった。いまや電卓さえ、スマホや携帯の機能のひとつになっている。

その頃、ソロバンを習うと暗算が早くなると宣伝されていて、確かにソロバンの早い人は計算も早いように思うが、計算尺を使いこなせるからといって何かに有利になるということはなさそうだ。

その点は電卓も一緒であるが、そもそも日常生活で計算が必須である場面などそれほど多くはない。おカネがない時にスーパーで買い物をする時くらいだが、もちろん計算尺やソロバンは使わない。

電卓ができて以降、ほとんど使われることがなくなった計算尺、昔は授業でも習ったものでした。


[Mar 16, 2022]


編み機

私が使っているプリンタはブラザー製である。電気店でもパソコンショップでも、エプソン、キャノンとともにプリンタ大手の一角を占めており、インクカートリッジの補充に不便を感じることはない。ところがこのブラザー、もともとはミシンとか編み機のメーカだったのである。

半世紀前には、一般家庭の多くに編み機が置かれていた。どちらかというと、金持ちの家よりもそうでない家に多かった気がする。というのは、まだ日本は貧しくて、毛糸で編んだセーターとかマフラーはほどいて編み直し、また次の年も着るのが普通だったからである。

だから、毛糸をほどいて玉にしたものはその頃の子供にとって見慣れたものだったし、いまのようにサイズが合わなくなれば処分して新しいものを買うことが一般的ではなかった。そして、編み直すには編み機がたいへん便利だったのである。

当時の家庭は専業主婦が多く、それだけ時間に余裕があったこともあるだろうが、まだ着られるものを捨ててしまうことが、終戦後間もない時期には抵抗が大きかったのだろうと思われる。

そして、日本は古くからリサイクルを徹底する社会でもあった。和服はたいていは古着を買い、着古した後も布切れに割いていろいろな用途に使用するというのが、江戸時代から終戦後しばらくまで続いた生活様式だったのである。

いまでも、地方に行くと商店街の一角に洋品店があり、こんな小さな店で服を買う人がいるのだろうかと思うけれど、半世紀前にはヨーカドーもジャスコもなく、シマムラやサンキもなく、ユニクロだって当然なかった。個人商店かさもなければデパートしか、服を買える場所はなかったのである。

それと、当時の既製服にはすでに化学繊維が使われていたものの、いまほど品質もよくないし傷むのも早かった。毛糸と違って、破れてしまった化繊はツギを当てるしかなく、それは子供にとってもかなり見てくれがよくなかったのである。

だから、肌着のすぐ上には化繊の服で、その上に毛糸のセーターを着ることが多かった。なにしろ、毛糸は暖かい。当時の子供は家でテレビゲームをすることはなく、寒くても風が強くても外で遊ばなければならなかったのである。

とはいえ、中学生になるとたいていの男は放課後でも学生服だし、破れてツギが当たっていてもいちいち気にすることはなかった。だから子供が中学生になると編み機の出番は少なくなり、その頃になると日本も豊かになって、直すより新しい服を買うようになった。

考えてみると、電気製品の修理をしなくなった時期と、毛糸をほどいて編み直さなくなった時期は同じ頃のような気がする。私が子育てをする時期には編み機を持っているのはそういう趣味の人だけになった。ミシンすら、壊れたら買い直さなくなったくらいである。

だから、ブラザーとかシルバーとかといった編み機メーカは、たいへん儲かって笑いの止まらない時代があったのである。ブラザーは設立当初から海外にミシンを輸出しており、タイプライターも作っていたので業態転換がスムーズにできたのである。

ブラザーは1990年に生産中止、シルバーは倒産してしまいました。メルカリやリサイクルショップで、それなりに取り引きされているようです。


[Apr 20, 2022]

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