年寄りは若い人に昔のことを物語るというのが、古来からの人間社会の伝統でした。一つでも参考になれば幸いです。
41 ギター
42 エアコンのなかった時代
43 大阪万博と岡本太郎
44 エクソシスト
45 ガラス戸
46 1ドル240円の頃
47 水道のない時代
48 明治百年
49 宿直の先生
50 蚊帳・蠅帳
半世紀前の話41 ギター
半世紀前と現在とで、音楽をめぐる状況は相当変わってきた。YouTubeでも街角のビアノをご自由に使ってくださいというと、必ず誰か演奏している動画を見るが、それに比べるとギターを弾く人はかなり減った。
ギターとピアノの大きな違いは、ピアノが単体で演奏を楽しむことができるのに対し、ギターは歌の伴奏として使われるのが多いことである。だから、みんなで歌うという習慣がなくなった現代、ギターを弾くというモチベーションが失われたのではないかと思っている。
もちろん、ギター単体だって「アルハンブラの想い出」くらい弾ければいいのだけれど、多くの人はそこまで上達できない。主要なキーを覚えて、伴奏できるくらいが当時でも上級者だった。
私のような不器用な中学生でも、みんながギターをやっているので少しさわらせてもらったことがある。Fがどうしてもできなくて、これは無理だと見極めがついた。
小学生の頃はグループサウンズが流行でエレキギターが出てきたけれども、アンプを持つ人はあまりいない。しかし中学生になるとフォークが全盛となる。フォークギターなら中学生でも持つ人は少なくなく、基本のキーさえできれば伴奏には使える。
いまは俳優になった泉谷しげるの「黒いカバン」はこの頃の歌である。流行したというよりも隠れた名曲のような位置づけで、そもそもあの曲をレコードで聞いてもあまり面白くない。
ライブで聞かなければ面白さは半減するし、YouTubeなどないからライブ音源なんてほとんどない。たまにラジオで聞いて驚いたくらいである。
吉田拓郎とか南こうせつが当時メジャーな存在だったが、私がよく覚えているのは「さなえちゃん」という曲である。古井戸というグループが歌っていた。
「さなえ」という名前自体、農業が主要産業でないと出てこない。そして、当時は知り合いにはいないけれどそんなに少なくない名前だった。そういう名前の農業機械(トラクターだったか)があったように覚えている。
中学校で何人か集まって、よくさなえちゃんを歌った。ギター1本あればそれらしくなった(というか、オリジナルもそんな感じである)。中学校までは学区内の同年齢の連中だけなので、いろんな奴がいたのである。
[May 27, 2023]
昔はクラスに何人かギターを弾ける人はいたし、私でも触るくらいはしたことがあるが、いまはどうなのだろう。街角のピアノを弾く人はYouTubeでもよく見るのだが。
半世紀前の話42 エアコンのなかった時代
暑い日が続いている。どうやら東京では、真夏日の過去最高日数を更新しそうな勢いである。
記憶では、昔は最高気温32℃くらいで、35℃を超える日などなかった。統計上もはっきりしていて、昭和時代の猛暑日はせいぜい年間4~5日程度、まったくない年もあった。
ところがここ数年、35℃は当り前、今年など39℃という日もあった。これは全国おしなべての傾向で、札幌や旭川、帯広でも35℃は驚かなくなった。
半世紀前は東京でも、一般家庭でエアコン(当時クーラーといった)のない家の方が普通だった。私が育った家でもクーラーが入ったのは1970年以降で、それも客間だけなので居間も寝室も、もちろん子供部屋も冷房なしだった。
それでも、暑くて気が遠くなるなんてことはなかったし、冷房のない部屋で勉強したり本を読んだり、日中に外に出たりしていたのだからそのくらいの暑さだった。
一般家庭どころか、電車もバスも駅にも冷房なんかなかった。学校だって、職員室にはあったかもしれないが普通の教室にはなかった。デパートに行くと大型のクーラーから涼しい風が出てくるので、うれしくてずっと機械の前にいたものである。
扇風機を回して涼むのがたいそう気持ちよく、扇風機が使えなければ自力でうちわを使うしかなかった。いまでも宣伝でうちわを配ることが多いが、すぐにゴミになる。
当時、子供たちは学校が終わると外で遊んだものだったし、夏休みともなればずっと外である。学校にプールがある時代ではなかったし、ときたま親にプールに連れて行ってもらうとうれしいものだった。いまでは、真昼間に子供が外にいることはほとんどない。
調べてみると、1976年8月、千葉市の最高気温は31.6℃、30℃台の日は13日しかなかった。これだったら何とかエアコンなしで大丈夫だし、外を出歩いても熱中症にならなくてすみそうだ。
結婚したのは1984年(ロサンゼルスオリンピックだ)で、借り上げ社宅のマンションは新しかったけれど(いまも樟葉駅前にある高層マンションである)、エアコンは寝室に一台しかついてなかった。
その年はたいへん暑い年で、せっかくの休みもTVでオリンピックを見て過ごした。それも大画面の前の時代で、14型の小さなTVである。
外に出る気がまったくしなくて、出前で店屋物をとって食べた。いまのようにいろんな種類がある訳ではなく、中華料理とかそのくらいで、中華丼と天津麺で乗っているものが同じなんだなあと思った。
調べてみると、1984年8月、大阪府枚方市の最高気温は30℃以上が27日、33℃以上が16日もあった。しかし、35℃以上の猛暑日は3日だけであった。
今年の7月、佐倉市(千葉ニューにもっとも近い観測点)の最高気温は、30℃以上が28日、33℃以上が17日、35℃以上の猛暑日が11日(30日まで)ある。あの暑かった1984年の大阪より、いまの千葉ニューの方がもっと暑いのである。
[Jul 31, 2023]
気象庁データによる年間猛暑日日数。全国平均だから東京だともっと極端だが、2000年以降異次元の増え方をしているのが分かる。
半世紀前の話43 大阪万博と岡本太郎
また万博をやるからだろうか、岡本太郎が再注目を集めている。
NHKでタローマンの番宣をみて面白そうだと思ったものの、リアルタイムの岡本太郎を知らないいまの人達に受けるものだろうかと半信半疑でもあった。パロディーは、元ネタを知らないといまひとつ面白く感じないからである。
とはいえ、イギリスに住んでいないわれわれでもモンティ・パイソンを見ると面白いから、それほど心配することはないのかもしれない。加えて、岡本太郎自身にすぐれた先見性があったので、半世紀後のいまも古くさくないのである。
テーマ曲の歌詞「うまくあるな、きれいであるな、ここちよくあるな」の「な」は、感嘆の助詞ではなく、否定の助詞である。「芸術は、うまくあってはならない。きれいであってはならない。ここちよくあってはならない」という岡本太郎の言葉を歌詞にしている。
岡本太郎の父は画家、母は文学者で、ともに有名人であった。だから、岡本太郎は二世の芸術家ということになる。いまの著名人でいうと、香川照之とか中井貴一に近いかもしれない。しかし、いまの人達は両親を知らない。岡本太郎自身がインパクトである。
大阪万博の施設はほぼすべて壊されていまは残っていないが、ただひとつ残っているのが太陽の塔である。もちろん、岡本太郎の作品である。太陽の塔には3つ顔があるが、タローマンのマスクは胸にある顔をもとにしている(あとの2つは奇獣になっている)。
TV番組「タローマン」はEテレの深夜枠で放送されたもので、1970年に制作されたという設定である。だから、わざわざ映像も古くさく、4×3で作っている場面もある。登場人物もわざわざ昭和チックな服装・メイクで登場する。
怪獣(奇獣)登場場面も、わざわざ円谷プロ(言わずもがなだが「ウルトラQ」「ウルトラマン」を制作したプロダクションである)と同じように作り込んでいる。ビルも張りぼてで、壁1枚なのですぐ壊れる。
偵察機もいまならドローンだが、わざわざ隊員全員で乗って操縦桿を握っている。電話機も車も街の様子も、どこから揃えてきたのか1970年代を再現している。
タローマンは決められた展開になるとやる気をなくすので、乱闘シーンからいきなり遊び始める。それでも、「爆発だ!!」というと、奇獣は七色にはじけて爆発する。なにしろ5分番組だから、あっという間に終わりになる。
YouTubeには過去番組がupされていて、NHKが上げているので宣伝が入らない。やたらと宣伝で中断するYouTubeでは珍しいしありがたいことである。このおかげで今年の夏は岡本太郎美術館は混みあったことだろう。
そして、今年制作の新作題名は「帰ってきた」ではなく、「帰ってくれタローマン」である。今日は、半世紀前というよりも、タローマンの話で終わってしまった。
[Aug 22, 2023]
また万博をやるからだろうか、岡本太郎が再注目を集めている。TAROMANはなかなか面白い。1970年に制作されたという設定で、わざと4×3画面で撮ったりしている。
半世紀前の話44 エクソシスト
いまからちょうど半世紀前の1973年、映画「エクソシスト」が公開された。日本で公開されたのはその何年か後のはずだけれど、もちろん見に行った。
テーマ曲である「Tubular Bells」はビルボードの上位にランクされた。「白い恋人たち」や「メロディ・フェア」が何週間も第1位という日本とは違い、映画のテーマ曲が上位に来ることがほとんどないアメリカでは、大変珍しいことであった。
ちょうどその頃、日本でもユリ・ゲラーとかこっくりさんが流行して、超能力とか心霊現象が本当にあるのだろうかと思った少年少女も多かった。だから少し後に、みんな麻原彰晃に騙されてしまったのである。
オウム真理教の騒ぎがあって以降、超能力や心霊現象が本当にあると言うのはちょっと頭が逝っちゃった人ということになった。あるいは、TRICKの効果かもしれない。
それはともかく、半世紀前はそうしたことを真剣にとらえる人がたいへん多かった。キリスト教徒のほとんどいないわが国において、悪魔憑きが真実味を帯びていたとはいまでは考えにくいが、オカルト的流行と、狐憑き以来の伝統があるためだろう。
ともあれ、「エクソシスト」で悪魔に憑かれた少女が何をするかというと、汚いものを吐き出したり首を360度回したり、男の声でしゃべったりするくらいだから、どこかに隔離しておけばよかったような気もする。しかし、派遣された神父(Fatherとあるからカトリック)さんは命がけで悪魔と戦うのである。
ある意味、自爆テロをしたりハイジャックして高層ビルに飛び込んだりする本当の悪魔憑きが出てきたから、アメリカでもそうした方面への興味は薄れてきているのかもしれない。
映画を見て半世紀経過してみると、悪魔憑きなんてものはないし、もちろん狐憑きもない。超能力や心霊現象もない。神もいないし幽霊もいないということになってしまった。
だから、21世紀の知見からすると、何でそんなものを信じていたんだと、魔女狩り時代や発展途上国のように思ってしまう。
さすがに首を360度回して生きているのは難しそうだが、汚いものを吐き出すのも男の声で話すのも薬品を使えばできないことはない。幻視や幻聴も脳の働きで説明できる。
近い将来、この少し後に大ヒットした「ET」とか「スターウォーズ」も、そんなことある訳ないのにねと思われることになるのだろうか。
日本でユリ・ゲラーやこっくりさんが注目された頃、アメリカでは映画「エクソシスト」が公開された。洋の東西とよく言うけれど、同じようなジャンルが興味を引く時代だったんでしょう。
昨日エクソシストのことを書いていて、やや舌足らずだったと思うので補足。
「超能力はない」と書いたのだけれど、そんなことはないと反論されることがありそうだ。大槻教授のTVタックルみたいになるかもしれないけれど、私は超能力を「すげー能力」という意味で使っていない。
モーニング娘。のおかげで、「超」が「すごく」と同じ意味になったと前に書いた。「チョーチョーいい感じ」がいい感じの強調でもまったく構わないのだが、超能力がすげー能力という意味で使われるとしたらちょっと違う。
藤井くんの読みの能力は群を抜いているけれども、別に「超能力」を使っている訳ではない。井上尚弥のボクシングも100年間で最もすごいが、拳以外を使っている訳ではない。超能力ではなく、能力が図抜けているのである。
彼らは別として、例えば現場の看護婦さんの中には、死期の近い患者を見分ける能力を持つ人がいる。これは超能力かというと、やっぱり違うだろう。(医者ではダメなようだ)
理由が説明できないことをもって超能力ということはできない。単に現在の知識や科学で説明できないというだけで、おそらく空気やかすかな匂いや、体や手足のわずかな動きによってシミュレーションされた職業的能力なのだろう。
男の場合も、姿勢を見ただけ、あるいは肌に少し触れただけで、骨格のずれや筋肉・神経の不具合を見分ける接骨医やマッサージ師がいる(カフカのナカタさんとか)。これも、超能力ではなく職業的能力というべきだろう。
本来の意味の超能力は、未来を予知するとか宙に浮くとか、物理的に人間に不可能なことができることだったはずである。未来予知は競馬の予想以上の精度では当たらない。もし翌日の株式市況を正確に予知できれば、すぐに大金持ちである。
「空中浮遊」はオウム真理教で有名になったが、座禅からジャンプするのはそんなに難しくない。磁力とか気圧とか使えば不可能ではないが、それは超能力ではなくTRICKである。
その意味で、もしかしたらあるかもしれないと思うのが「千里眼」である。もちろん、耳の中に受信機を入れればいくらでもできるのだが、そうでなくてもいま現在起こっていることを「見る」のは、物理原則に反する訳ではない。
いまだに覚えているのは、TV番組で超能力者(外国人)が、千葉県の山倉ダムに死体が見えると言って、本当に死体が見つかったことである。
実はTVの演出だったのかもしれないが(あの当時、TVはそのくらいのことを平気でやった)、もしかすると本当に見えたのかもしれない。いま説明できないからといって、将来も説明できないとは限らない。
[Sep 23, 2023]
半世紀前の話45 ガラス戸
子供の頃、家庭や学校の窓はガラス戸だった。
その頃のガラスはすぐ割れた。石でも当たれば粉々になったし、ちょっとぶつかったくらいでもすぐ欠けた。学校では多少の傷は放っておかれたし、紙を貼り付けて応急措置している家も多かったが、粉砕されてしまうとそうもいかない。
そこでガラス屋さんの登場となる。枠に合わせてガラスを寸法通りに切断し、それをうまいこと入れ替えるのだ。おそらく、建具とか小規模な大工工事とかを兼業でやっていたのだろうが、結構仕事があったように記憶している。
アルミサッシが普及したのは、鉄筋コンクリートの建物が増えた1970年代以降である。その頃から学校は鉄筋となり、木造校舎は次々建て替えられた。と同時に、かつてのガラス戸はアルミサッシとなった。
一般家庭においては、大規模公団が多く建てられるようになってアルミサッシが主流となった。当時の公団はエレベータなしの4~5階建てがほとんどだったが、建具は大量生産の規格品が便利なので、ほぼアルミサッシであった。
当時のアルミサッシはいかにも安物の窓枠という外見で、耐久性にも保温性にも問題があった。それでも木枠のガラス窓より密閉されているし、なにより現代風であるので、窓だけサッシに付け替える一戸建ても少なくなかった。
その後、サッシの窓枠はアルミから合金、ステンレス、樹脂製に、ガラスもコーティングや強化ガラスとなり、さらに二重ガラスが一般的となったため、かつてのように頻繁に取り替えられることはなくなった。
わが家のサッシも築後二十年以上経つが、破損したのは雹による被害があった時だけで(保険が下りた)、それ以外に割れたことはない。これは使う方にはたいへんありがたいことだが、製造者にとって痛しかゆしで、サッシ会社の景気はあまりよくない。
21世紀に入り、かつてのサッシ大手であるトステム、新日軽などが合併して合理化を図らなければならなくなった。建設会社もコスト削減に血眼になっているから、これから先もV字回復は難しそうだ。
さて、昔のマンガ(おそまつ君とか)には、野球をしていた子供達のボールが近所の家に飛んでいき、ガラス戸を割って親父が「こらー」と飛び出してくる場面があったが、いまの時代にはあまり出てこないだろう。
家の周囲には塀や生垣があるのが普通だし、いまのサッシは軟球ではなかなか割れない。子供が近所で野球をするなんてこともないし、そもそも子供が外でボールで遊ぶこと自体がなくなっている。
学校ではときどき、深夜にガラスを片っ端から割られたというニュースがあるが、おそらく金属バットとかで意図的に割ろうとしなければ割れるものではない。
一面ガラス張りの建物も見かけるようになってきたけれど、強風で何か飛んできて割れたという話も聞かない。ガラスが割れてガラス屋さんに来てもらわないと隙間風が吹いてやってられないというのも、われわれが最後の世代かもしれない。
[Nov 29, 2023]
子供の頃は家庭でも学校でもガラス戸が一般的で、すぐに割れてガラス屋さんを呼ばなければならなかった。サッシの普及以来、ガラスが割れて取り替えるという話はほとんど聞かなくなった。
半世紀前の話46 1ドル240円の頃
今年の建国記念日で、結婚40周年となった。あと10年で金婚式である。はるか先だと思っていたら、もうすぐである。
結婚当時のことはいまでもよく覚えているが、そのひとつが、新婚旅行がたいへんシャビーだったことである。とはいっても、交通公社のツアーで1人40~50万円したから決して安い買い物ではない。
その値段にもかかわらずシャビーだったのは、当時の為替レートが1ドル240円だったからである。いま円安とはいっても140~150円だから、比較すると円は3分の2の価値しかない。
現在価値にして1人25~30万円で5泊だから、まあ贅沢はできないにせよそれなりの水準のツアーであっておかしくない。ビジネスクラスに乗せろと言っている訳ではない。
とはいえ、新婚旅行なのに夫婦で隣の席にならない人達もいたから、大手旅行会社の新婚旅行パックというより学生の節約旅行レベルのツアーであった。
あと10年ほど時期が後であれは、ツアーなどにせず自分で手配できたが、当時はインターネットもなく航空機のネット予約もなく、特に海外ホテルの手配は旅行代理店を経由するしかなかった。
だから、単価40~50万円の半分くらいは旅行代理店の利益だったと思われ、エアの原価10万そこそこではキャンセル待ちの席しか取れなかっただろう。だったら、新婚旅行パックにするなという話であった。
またホテルは、たいしたグレードでもないのに素泊まりで(まあ、これは今でも変わらない)、食事代はレストランまで連れて行って費用は自分持ちだった。当時はJCBカードが国内しか使えず、T/Cで支払ったものである。
当時、われわれだけではないが利用客が怒ったのは、ロサンゼルス着のはずがサンフランシスコ着で、乗り継ぎに半日要した結果予定していたヨセミテ観光ができなかったことである。
天候悪化とか空港閉鎖なら仕方ないが、おそらくキャンセル待ちをした結果で、そういう旅行日程を提示して客を集めるとは何事かという話である。1ヶ月後くらいに、お詫びに果物詰め合わせが送られてきた(パパイヤやマンゴーだった。西海岸とどういう関係か不明だが)。
それから約1年半後、1985年9月のプラザ合意により円高ドル安が容認され、円/ドルは1年かからず250円から150円、さらに円高が進んでピーク時には80円台になった。
80円と比べると現在のレート約150円は倍であり、円の購買力はピーク時の半分になったということだが、われわれが結婚した当時の240円と比べればまだまだ円高。いま40~50万円出せば安売りビジネスくらい楽に取れる。
新婚旅行でT/Cが余ったので、1ヶ月後ぐらいに有馬温泉に行った。新婚旅行のホテルよりよっぽど贅沢なホテルであり食事であった。部屋のTVでひょうきん族を見た。今は亡きウガンダが、マイケル・ジャクソンの真似をしたのを覚えている。
[Feb 13, 2024]
今年結婚40周年だが、新婚旅行当時の円ドルレートは240円台で、相当にシャビーだったことを思い出す。いまならツアーなど使わず自分で手配したのだが、そういうツールがない時代だった。
半世紀前の話47 水道のない時代
2月に我孫子市新春マラソンを走った時、5kmとゴール後の給水は我孫子市水道局謹製「あび水」だった。
マラソンコース近くの湖北台浄水場で採取された水で、市内の上水道に送られているのと同じである。「あび水」はこの水を浄水処理してペットボトルに詰めたもので、水道局のPR用として使われている。(ラベルを見ると、わざわざ秩父まで運んで処理するらしい)
日本の水道水がミネラルウォーター並みだということは昔から言われていて、それは海外に出るとよく分かる。米国でも香港でも水道水はそのまま飲めないし、飲料用にはミネラルウォーターや蒸留水を買わなければならない。
しかし、上水道が全国に普及したのは日本でもそれほど古いことではなく、特に千葉県は上水道の普及率が全国的にみても低い地域である。私の子供の頃、まだ水道はすべての家庭に通っていなかった。
小学生の頃だから半世紀以上前のことになるが、引っ越した先の家は近所で共同で掘った井戸水を配水していた。見た目は普通の新興住宅街だがその中に貯水タンクがあり、そこで井戸を掘っていたのである。
いま思うと、住宅が立ち並び道路もある地下に流れている水が飲めたのだろうかと首をひねるが、水道管を通ってきたにもかかわらず夏場はひんやりしていて、なるほど井戸水と思ったものである。
いまでも山を歩くと、沢の上流になると黒い塩ビのパイプが川に沿って引かれていて、近くの集落の水源となっているのを見ることがある。いわばその都市版で、関東平野では井戸を掘って水源にしていたのである。
その後ほどなくして千葉県水道局が各戸まで上水を引いたので、家の台所には水道の蛇口が2つあった。地元の井戸水はときどき不安定になったので、ガス湯沸かし器を使うには県の水道でなければならなかった。
我孫子の「あび水」も、水源の8割方は利根川から引いた水だが、残りの2割は市内の井戸水から取水したものらしい。いずれも浄水場で塩素処理されて配水されるが、塩素を加えず高度浄水処理されたものが「あび水」になる。
実際飲んだ感想は、走った後に飲むにはどんな水でもおいしいけれども、南アルプスとか日光で取水されたミネラルウォーターと比べると、少し味気ないと感じる。
マグネシウムとかカリウムとか、微量な元素を味わうほどの感覚があるのが不思議である。
[Mar 16, 2024]
私の子供の頃、まだすべての上水道は普及していなかった。住宅地で近隣に井戸を掘って、各家庭に配水していた。だから県の水道が通じた時、台所に蛇口が2つあった。千葉県では、まだそういう地域は多く残っている。
半世紀前の話48 明治百年
4月29日は、もともと昭和天皇の誕生日である。昭和から平成になって平日にするのはどうかということで、みどりの日になった。森林や樹木を大切にしようという理由なら分かるが、昭和の日ってそもそも何を祝うんだろう。
そして、昭和元年が1926年だから、来年は昭和百年である。子供の頃、明治百年というのでかなり盛り上がったことを覚えている。新聞やTVが、明治百年だと大騒ぎしていた。
もっとも明治元年は1868年だから、そこから数えれば明治百年は1967年となるべきところ、明治百年記念行事は1968年に行われたから、明治百年というより改元百周年というのが正確である。昭和百年もそうなるのだろうか。
明治というのは、徳川幕府から明治新政府に代わった時期で、政治形態が大きく変わったから記念しましょうというのは理解できる。明治天皇誕生日は、いまの文化の日である。文明開化も明治だから、理由付けできている。
昭和天皇誕生日はもともと「みどりの日」という祝日で、これは昭和天皇が植樹祭はじめ国土の緑化に大きな役割を果たされたことが理由付けになっていた。(その前に、戦争で国土を焼け野原にしたのだけれど)
ところが、何年か前に4月29日は「昭和の日」となった。「激動の時代を経て復興を果たした昭和に思いをいたす」のだそうだ。それを言い出したら「信長の日」や「徳川の日」だってあってもいいことになる。少なくとも「平成の日」がないとおかしい。
「みどりの日」を5月4日にしたのも3連休を確定させたかったからで、3連休にした方が儲かる人が多いからである。海の日も山の日も同じことだし、第何月曜日祝日も経済効果が理由である。祝日に何かを祝うのではなく、おカネを使う日になった。
話を最初に戻すと、1968年の明治百年記念行事では、全国に百年記念の建造物がたくさん作られた。ちょうど高度経済成長期だったので、日本中に余裕があったのである。
そのうちのひとつが札幌近郊にあった開拓記念塔であった(正確には北海道百年記念だが、蝦夷地が北海道になったのも同じ1868年である)。
札幌というとランドマークが時計台で、これは近くで見るとあまりたいした建物ではない。北大ポプラ並木は何年か前台風で壊滅したし、クラーク博士像は時計台より小さい。網走刑務所という訳にはいかないし。
だから開拓記念塔はそれなりにインパクトのある建造物だった。個人的にはデザイン的にあまり美しくないと感じた(PLタワーみたい?)けれど、北海道にはあまり高い建物がないのである。
しかし、この開拓記念塔も、老朽化により数年前に取り壊された。ただでさえ北海道には炭坑はじめ使われなくなった産業遺物が多く、いまだに伸ばし続ける高速道路も「熊が通るんですか」と言われるくらいである。
それ以前ちょんまげ頭だったことを思えば、明治は長く記念する意義のある時代だと思うが、時代が移ればなつかしく感じる人もいなくなる。もし近々昭和百年記念行事が行われたとしても、半世紀後にはほとんどの人の記憶に残っていないだろう。
[Apr 29, 2024]
明治改元から百周年となる1968年には北海道開拓記念塔が作られたが、いまはない。もうすぐ昭和百年だが、半世紀過ぎれば昭和をなつかしく感じる人もいないだろう。
半世紀前の話49 宿直の先生
もしかすると半世紀というより60年前ということになるのかもしれないが、その頃学校には宿直の先生がいた。
小学校には畳敷の宿直室があり、男の先生が交替交替で宿直当番をしていた。台所など付いてなかったので、おそらく食事は店屋物をとっていたんだろう(出前してくれるおそば屋さんはいっぱいあった)。
中学高校になる頃はなかったので、昭和30年代には姿を消した風習かもしれない。なぜ学校に泊まり込まなければならなかったのか、いま考えると時代が違ったということだろう。
学校には生徒の個人情報がたくさんあるが、当時そんなものに誰も関心を持たない。職員室にはテスト問題もあっただろうが、わざわざ忍び込んで盗むほど誰も気にしていない。
むしろ懸案だったのは、木造校舎で戸締りも不十分なのに、テレビなどの電気製品や事務用品、給食に使う食材などがあったことだと思う。いまでも畑から収穫前の野菜を盗む手合いは絶えないが、当時はまだそうしたものが盗まれる時代だったのである。
昭和40年代になって、校舎が鉄筋になり戸締りも厳重にできるようになったのと、経済成長でわざわざそんなものを盗む人がいなくなった。あわせて民間警備会社ができたので、夜間の警備を外注するようになったのである。
もう一つ、あるいはこちらが重要だったと思えるのが、当時はまだ固定電話すら十分に普及しておらず、緊急時に連絡をとることがたいへん難しかったことがあったと思われる。
校長先生くらいになると家に電話はあっただろうが、仮に校長先生に連絡がとれたとして、そこから先どうするという話である。
まだ公共施設すら十分になく、台風ともなれば学校が避難所になることもあった。他にも地震やその他の災害、伝染病など、役所や教育委員会が学校に連絡をとらなければならないケースが多々あった。
生徒の親も何かあれば学校に連絡したり問い合わせたし、先生方も緊急の要件は学校に連絡したはずである。常に誰かいることが必要だったのである。
現代では、親が学校に連絡するのはクレームばかりだから、終業後はかえって誰もいない(あるいは電話に出ない)のが当り前になった。先生方もラインでつながっているから、すぐに連絡がとれる。しかし昔はそんなものはなかった。
学校がハブになって連絡の中心にならないと、収拾がつかなかったのである。当時は体罰が当り前でいじめもあり、不良もいるし正体不明な人が学校に入り込むこともあった。今考えるとたいへんな状況だった訳だが、それでもあの頃の方がいまより平和に思えるのはなぜだろう。
[Jun 19, 2024]
昔の学校では、男の先生が交代で宿直をしていた。その頃は警備会社がなかったし、固定電話すら普及してなかったから誰かいる必要があったのだろう。
半世紀前の話50 蚊帳(かや)・蠅帳(はいちょう)
もしかすると今でも地域によって使っているのかもしれないが、子供の頃にあっていまほとんど見なくなったのが蚊帳(かや)である。
親の実家が農家だったので、お盆とかに行くと寝る時蚊帳を吊っていた。そうしないと蚊とか虫が入ってきて刺されるからだが、蚊帳を吊ると結構暑かったのを覚えている。
蚊帳(かや)。昔の家は気密性がよくなかったので、寝ている間に虫が来ないようにするには、蚊帳を吊らなければならなかった。
なぜ蚊帳を吊るのかというと、雨戸はもちろんガラス戸さえ閉めずに開けっ放しにするからで、半世紀前の農家はそれが当り前だった。いまは、農家であっても気密性もあるし断熱材も入っているので、シャッターも網戸もあるし冷房をかけて寝る家も多いだろう。
その頃の農家は畳敷きの部屋のふすまの外に縁側があって、その外にガラス戸と雨戸があった。気密性はほとんどなく、天井付近には隙間があったし、蚊でも虫でもどこかからやってくる。縁側には蚊取り線香を置いてあったけれど、外に置いてあるのと同じである。
蚊帳がなくなったのはベープマットの効果も大きい。蚊取り線香もベープマットも作っているのは同じ会社(大日本除虫菊=金鳥)で、ベープができたから蚊取り線香の会社がつぶれた訳ではない。戦後まもなく米軍占領下でDDTが撒かれてシラミが少なくなったのはよく知られるが、高度成長期のベープマットとバルサンの効果も大きい。
もうひとつ、昭和30年代はまだまだ火災に対する脅威が大きくて、街中には防火用水が多く置かれていた。虫が寄ってくる場所に水が置いてあるものだから、そこに卵を産んでボウフラになって蚊の成虫になる。蚊もいまよりずっと多かった。
もちろんいまでも貯水池はたくさんあって、公園に行くとヤブ蚊が群れをなしているけれども、住宅街の中に防火用水があることはほとんどない。下水も汚水もすぐ地下だし、庭に池がある家も少数派になった。昔は錦鯉だの何だの飼っている家は結構あった。
蚊帳と同じで昔あっていま見ないのは、食事の際にお膳に置いてある蠅帳(はいちょう)。昭和時代の北海道はいまよりずっと涼しく冷房普及率が50%なかったので、旅館や民宿でも30年くらい前まで使っていたように記憶している。
蠅はいまでもどこからかやってくるのだが、昔に比べるとずいぶん少なくなった。蠅帳の少し前には、食堂の天井から蠅取り紙が下がっているところもあった。食べ物を扱っていれば蠅は来てしまうということだが、いま思うとかなり不衛生である。
[Jul 30, 2024]
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