2008年、スカイアクセス建設中の印旛沼周辺。

二百十日  ハロウィン  国立歴史民俗博物館  猫ひろしがやってきた  吉植庄亮先生
写真工房  総武カントリー周辺  手賀沼散歩  滝野プラザ  印西市の中世城郭

二百十日

今朝未明、台風11号がちょうどわが家の上空を通過した。幸いに、いまのところ大きな被害が出ていないのは何よりであるが、そういえばそろそろ二百十日である。

いまは9月1日の防災の日というと、関東大震災が起こった日ということで地震を想定して防災意識を高めようという意味合いが強くなっているが、以前は地震予知などそれほど現実的でなかったし、かたや台風は毎年来るものだから、もっと台風を想定したものだったように思う。

二百十日(立春から210日目、大体9月1日)、二百二十日(同220日目、大体9月11日)は昔から台風の来る頃合として用心されてきたからである。

二百十日、二百二十日とも旧暦(太陽太陰暦)でいうところの雑節で、旧暦は農業と密接なつながりがあるから、現在よりもずっと、台風の脅威というものが切実に感じられていたことは想像に難くない。私の子供の頃ちょうど「明治百年」であったから、そうした空気はまだ色濃く残っていた。くじら尺(尺貫法のものさし)もあったし、干支も今よりかなり身近なものだったように思う。

話を戻すと、台風が来そうだという時には、「雨戸を補強してください」とか「飛びそうなもの(植木鉢など)は軒下に」とか、今ではあまり耳にしないようなことがよく言われていた。その中でも特に覚えているのが、「ろうそくを用意してください」ということである。

昔はなにかというとすぐに停電した。台風が直撃すると、ほぼ間違いなく停電した。そして台風が過ぎ去るまで復旧工事はできないので、そのまま停電が続くことが多かった。

だから、ろうそくというのはその頃は必需品であった。停電になるととりあえず懐中電灯をつけてろうそくを探し、ろうそくに火を灯して何時間が過ごすことがしばしばだった。

電気が来ていないのだから、当然TVは見ることができない。だが、ラジオをずっとつけていたという記憶もない。きっと、がたがた鳴る雨戸や吹き付ける風雨の音を聞きながら、早く行ってしまわないかなあ、とぼんやりしていたのだろう。

いつの間にか停電することがほとんどなくなり、仮に停電してもすぐに復旧するのが当たり前になった。ろうそくなど、誕生日にケーキの上に刺す以外の用途で使ったことは二十年以上ない。電気どころかエアコンが効かないだけで困ってしまう今日この頃であるが、そんな昔のことをちょっと思い出した台風であった。

[Aug 26, 2005]

ハロウィン

いわゆる新興住宅地にあるため、わが街ではハロウィンが行われている。 ハロウィンに参加する家は、家の前に定番のかぼちゃの置物などハロウィン・グッズを置く。最近ではホームセンターでもハロウィン用の商品を置くようになったが、それだとどこの家も同じになってしまうため、WEBで海外から入手する家もある。大抵は小さい子供のいる家なのだが、わが家もせっかく街のメインストリートに面しているものだから、参加させてもらっている。

10月31日の夕方になると、仮装した子供達が何組かにわかれてグループでやってくる。幼稚園や小学校低学年の子供達が主だが、けっこう大きい子供達もやってくる。小さい子供達にはおかあさんが何人かついていて、そういうグループは仮装が本格的である。魔女の格好とかしているのだが、どうやらわざわざ縫ったものらしいとか、あれは渋谷の東急ハンズで見たような気がするとか、そういった感じである。

かたや、黒いビニール袋(いわゆるゴミ袋なのだが、いまでは指定のものしか使えなくなってしまったので、わざわざこのために入手したのだろう)を切り張りして着ている子もいる。これもまたかわいらしい。そうした子供達がチャイムを鳴らして、”Tricks or Treets(お菓子をくれないといたずらするぞ)”と口々に言うのである。そこで、お菓子を持って玄関を出て、子供達をもてなす訳である。

お菓子自体はたいしたものではないのだが、そんなお菓子でも、遠慮しながら一つだけ取る子もいれば、違う種類のものを一つずつ取る子もいれば、ぐわしっとわしづかみで取れるだけ取る子もいて、おもしろい。こんなに小さくてもみんなそれぞれ個性があるのだなあ、と思ったりする。

昔はキリスト教由来の行事というとクリスマスくらいで、これがキリスト教かという議論はさておきバレンタインデーさえなかった(もしかしたら、私だけかもしれない)。ハロウィンなど、影も形もなかった。

今や日本中でハロウィンをやっている街は相当あると思うが、日本古来の盆踊りや秋祭りが急速にすたれつつある現在、こうした形で新しい「お祭り」が定着していくことは決して悪いことではないと思う。たぶん今日は残業で、子供達を見ることができないのがちょっと残念だ。

ハロウィンで「Trick or treets!」の子供達に配るお菓子。


[Oct 31, 2005]

国立歴史民俗博物館

4月30日の日曜日、国立歴史民俗博物館に行ってきた。この博物館はわが家から印旛沼を越えて20分ほど、幕末の老中堀田正睦(ほった・まさよし)が出たことでも知られる佐倉城址にある。

博物館には縄文時代から近代までの歴史と民俗に関する展示が第1から第5展示室に分かれて配置されている(第3展示室は現在改装中)。以前来たときより、タッチパネル式のパソコン画面等が増えて、さらに見やすくなった。さて、この5月までの企画展示は「神社とは何か」である。先週訪れた出雲大社の他、伊勢神宮、厳島神社、八坂神社の計四社に関する展示が行われている。そんなの誰も行かないだろうと思ったら、結構混んでいた。

この四社の中で、他の神社と性格がやや異なっているのは厳島神社である。というのは、厳島神社と常にセットで語られており、今回の企画展示の目玉でもあった国宝・平家納経にみられるように、神社自体というよりもあっけなく滅亡してしまった平家の記念碑的な位置づけにあるからである(その意味で、平泉の中尊寺金色堂と同様であり、宇治の平等院鳳凰堂、京都の鹿苑寺金閣、日光東照宮にも共通の要素がある)。

他の三社は、いずれも異なる神々をお祀りしてあるのだが、共通項がある。これは日本の神道、というよりわが国の宗教観ともいえるものなのだが、「八百万の神」「さわらぬ神にたたりなし」の信念の下、創られてきたものなのである。「八百万(やおよろず)の神」というのは、神様というのは一柱ではなく数えられないくらいたくさんいるのだから、それぞれ尊重しましょうよ、という考え方である。

ちなみに、伊勢神宮は皇室のご先祖にあたる天照大神(アマテラスオオミカミ)を、出雲大社はそのアマテラス一族に国譲りをした(従ってそれ以前の支配者だった)大国主命(オオクニヌシノミコト)を、八坂神社は朝廷をさんざん悩ませた御霊(災害・疫病・飢饉等を招く怨霊)をそれぞれお祀りしたもので、祭神に共通項はない。にもかかわらず、それぞれの神社の初詣をはしごしても、ほとんどの人は違和感を感じないはずである。

併せて、「さわらぬ神にたたりなし」という考え方がある。つまり、単に存在を認めるだけでなく、それぞれの霊威を畏れるということである。このあたり、中国の道教の考え方とは近いようでかなり異なる。というのは、道教もそれこそ関帝とか媽祖とかいろいろな神を信仰するのだが、「現実の世界における自分の願いをかなえたい(現世利益)」ことから、効き目のある神は尊重するが他の神はどうでもいい、という側面があるからである。

一方わが国においては、現世利益を求めるというよりは、さまざまの災い(災害・疫病・飢饉等)を回避したいという側面が強く、だからある神をないがしろにしてその恨み(たたり)を買いたくないという気持ちがある。現代においては、そうした自然の脅威が薄れていることから、現世利益、つまり中国の信仰的な方向に行きつつあるのではないか、などと考えながら展示を見てきた。

その間、一緒に行った家の奥さんは、「何でここに来る人達は、みんな襟のあるシャツを着ているのだろう」と考えていたそうである。

国立歴史民俗博物館。あんまりよく撮れてませんが。


[May 10, 2006]

猫ひろしがやってきた

前にも書いたことがあるが、わが家は北総線の印西牧の原というところにある。将来、あと10km延長して成田空港までつながる予定の線であるが、印旛沼に橋をかけなければならないのであと何年かかるか分からない。

とはいっても、実現はいつのことかと言われた常磐新線(つくばエクスプレス)が開通したくらいだからいつかは通るのだろうが、まあ私が通勤している間は無理であろう。その方が座れていいし。

さて、そんな千葉の奥深くに、今をときめく猫ひろしが来るというのである。家の近くに有名人が来るのは、昔くずはにいた時にくずはモール街(いまでもあるショッピングセンター)に「バレンタインデイ・キッス」のキャンペーンで国生さゆりが来て以来である。

この日(7月1日)は上野ストラドル杯で、岡山のあけみん姐さんのお出迎えという用事があったが、1回目の公演11:30の回(11;30、1:30の1日2回)ならなんとかなりそうなので、行くことにした。開演15分前には会場のショッピングセンター"牧の原モア"に到着するように家を出る。

そんなに混むわけないだろうと思っていたのだが、車で向かう途中(このショッピングセンターには2000台収容の駐車場がある)自転車に乗った小中学生を何人も見た。なんとなく、みんな見に行きそうな気配である。案の定会場に着くと、すでにビニールシートの敷かれた座れる場所は満杯。なんとかそのすぐ後ろの立見席(場所?)を確保することができた。目の子で約200名は開演を待っている。やはり、子供連れの親子が多い。それと、中高生のグループも多かった。

定刻の11:30になった。今回のライブはこのショッピングセンターのサマーセールのアトラクションなので、まずそのサマーセールの案内をキャンギャルが3分ほど。そして、前座(ではないと自分は言っていたが)の原田16才に続き、いよいよ猫ひろしの登場である。「猫ひろし!猫ひろし!」の大合唱とともに現れた猫ひろしは、もちろん「猫魂」のTシャツを着ている。

私も着て行きたかったのだが、奥さんが絶対ダメというのであきらめたのだ。そして噂の「ギャグ百連発」。理解不能というよりは、何を言っているのかよく聞き取れないという感じだったけれど、ほぼ15分間全く休みなしに動きまくりしゃべりまくった体力はさすがであった。

ライブの中で言っていたのだが、猫ひろしも千葉県出身だそうである(市原)。そうすると芸能界では、ゆうこりん、浜幸に続くわが郷土の星ということになる。もちろん、ステージの袖のところには、これも噂のマネージャー「じじぶぅ」がいた。なんといってもタダだから、非常にお得なライブでありました。[猫ひろしのブログ(7/1)を見ると、この日のことがしっかり書いてあったりします。]

牧の原モア、このゲートの奥が会場。大きな声ではいえませんが、後姿がうちの奥さん。


スター扱いの猫ひろし。


猫ひろしがやってきた。 らっせーらーらっせーらー。


ポーツマスポーツマス。ギャグ百連発!


[Jul 3, 2006]

菜の花と吉植庄亮先生

いまの時期、わが北総地域は菜の花が旬である。産直に行くと、取れたてで生きのいい菜の花がたっぷりで100円である。だから、毎日おひたしにして食べている。菜の花だけでも、鶏肉(ささみとか胸肉)と和えてもおいしい。

菜の花は小松菜、からし菜、キャベツ、ブロッコリーなどと同じアブラナ科の野菜なので、基本的に煮ても焼いても茹でても食べられるけれど、あまり熱を加えないのがおいしい。とても生きがいいので、さっと湯がくだけですぐやわらかくなる。味付けはからし醤油。季節のものなので、ここしばらくだけの味である。

話はいきなり飛んで、土曜日の読売新聞一面の「編集手帳」に吉植庄亮(よしうえ しょうりょう)という人の話が載っている。明治生まれの歌人だそうである。ほとんど読んだことがない欄なのにこの日はなぜか目について、吉植という名前にも何か見覚えがあるようなした。もしかしたら、わが本埜村の奥に行くと何ヵ所かに書いてある「吉植先生」のことかもしれない。

調べてみたら、やっぱりそうだった。吉植庄亮氏は明治7年生まれの歌人・政治家で、昭和11年に政友会から衆議院議員に当選(3回)。印旛沼の開墾をするかたわら、農村生活を歌った作品を発表したということだが、この開墾を行った場所というのが、わが本埜村なのである。

以前から村の印旛沼沿いの方を歩くとよく「吉植先生」と書いてあるので、おそらく新田開発か治水に功績があった人なんだろうとは思っていたが、歌人とは予想外であった。北原白秋とも親交が深かったらしい。読売新聞には、次の歌が引用してあった。

豊葦原瑞穂の国の国民(くにたみ)に生まれて楽しわれは百姓(たづくり)

本埜村は利根川と印旛沼に挟まれた低地にあるため、土地が肥えていておいしいお米ができるのだが、ひとたび利根川が増水すると村ごと水面下に沈んでしまう。そのため古い農家の土蔵は2階建で作ってあるくらいである。だから「楽し」などと歌ってはいるものの、豊作と水害が紙一重で楽しんでいる余裕はなかったはずである。

だから、北海道の開拓地に転居してしまった人達も多かったという。新十津川の北、暑寒別岳のふもとにある北竜町へ移住して行ったのだが、その中心であった人も吉植という苗字らしいので、あるいは血縁なのかもしれない。それで、本埜村と北竜町は姉妹町村ということになっていたのだが、今後はどうなるのだろうか。

最近では利根川が堤防を越えて増水することなど数十年間なく、秋になるとおいしいお米がたくさんできる村である。もしかすると、この吉植氏は村が生んだ唯一の国会議員だったのかもしれない。さ来週くらいに「閉村式」が行われるそうなので、空前にして絶後ということになる。

100円の菜の花。今日は2束買いました。


[Mar 10, 2010]

写真工房のカレンダー

注.写真工房は2017年以降、「子犬」「子猫」カレンダーを作っていません。残念です。

そろそろ年末、来年のカレンダーを用意する時期である。家ではここ数年、写真工房というメーカのカレンダーを使っている。

もともとはお店で選んでいたのだが、いつも同じになるので最近では通信販売で購入している。生き物を飼ったのは、子供が小さい頃金魚を飼っていただけである。金魚すくいで取ってきたのに、最後の1匹は10年近く生きていた。金魚でも相当大変だったので、生き物を飼うことはもうないだろう。せいぜい、カレンダーを見て楽しむくらいである。

「子犬」シリーズと「子猫」シリーズがあって、私と奥さんの好みは「子犬」の方である。チワワやミニチュア・ブルドックもかわいいけれど、日本古来の柴犬の子犬もいい。舶来の子犬は室内が似合うが、柴犬は外が似合う。今年もそうだったが、来年も2月の雪の中が柴犬である。

もとを正せば、犬はオオカミで、猫はトラである。犬は狩猟犬や番犬だったし、猫はネズミを獲るところから品種改良されて今日に至っている。ペット用として品種改良される中で、いずれも体に対して目が大きくなった。いわゆる「少女マンガの理論」である。いずれにしても、忙しくて殺伐とした中で、このカレンダーは心がなごむのである。

通信販売といえば、今年に入ってはまってしまったのがドライフルーツである。私がお願いしているのはYam Yam Honpoというお店で、埼玉にあるらしい。最初は梨木香歩の作品に影響されて、毎朝食べているコーンフレークにドライフルーツを入れるために購入したのだが(「りかさん」という本に載っている話)、次第に品数が増え、最近の定番はカシューナッツとかぼちゃの種である。

このところ出張が多いので、出張先には着替えとともにカシューナッツとかぼちゃの種をジプロックに詰めて送ることにしている。仕事が遅くなって夕飯を用意できない時は、宿でビールを買って、これらを夕飯代わりにすることもある。結構空腹感が収まるのが不思議である。

年とともに、いろいろ買うものが決まってくるのが面白い。いろいろ迷うことがなくて、その意味ではストレスがたまらないのがいい。

写真工房のカレンダー。家はいぬシリーズですが、ねこシリーズもあります。


Yam Yam Honpoのドライフルーツと豆。左からかぼちゃの種、ミックスフルーツ、カシューナッツ。びんはフォーションのジャム瓶を再利用。下の袋詰めで送られてきます。この袋で500g。


[Nov 7, 2011]

総武カントリー周辺

私が千葉県に越してきたのは50年前のことになるが、その頃津田沼駅の駅前には総武カントリークラブの事務所(案内所)があった。現在パルコの建っているあたりだから、本当に駅前の一等地である。このゴルフ場、毎年秋にサントリーオープンという大会が開かれることでも結構有名である。

当時は自家用車の普及率が低かったから、津田沼から送迎バスを出していたのかもしれない。まだ成田街道(国道296号)が砂利道だった時代で、津田沼からゴルフ場まで1時間以上はかかったのではないか。もっとも今では渋滞でそのくらい楽にかかるけれど。

さて、私の方は十数年ぶりに山歩きを復活させようと思い立って、先日養老渓谷に行ってみたものの、後半バテバテになり体力の衰えを痛感してしまった。とりあえず長時間歩くことから始めようと思って、最近の週末は4時間ほど家の近くを歩くことにしている。千葉ニュータウンは住宅地から一歩入ると昔ながらの田園地帯で、舗装していない道も結構残っているのである。

先週は家から南に、総武カントリークラブの方向に歩いてみた。ようやく窓の結露がなくなったと思ったら、もう田植えの季節で、このあたりはゴールデンウィークに一斉に田植えをする。その準備で、田んぼに水を入れて下を耕す代掻き(しろかき)が行われるのがこの時期になる。

方々でトラクターが入って、盛大に水が引かれていた。私の住んでいるあたりがちょうど印旛沼と手賀沼の分水嶺にあたり、総武カントリー方面は印旛沼に向かって川が流れている。ニュータウン計画の一環なのか、川の両岸はしっかりと護岸工事が行われているが、その外側は舗装されておらず、昔ながらのあぜ道である。アスファルトと違い、足の当たりがソフトである。

いったん谷から坂を上がり、畑や果樹園のあるあたりを進んで行くと、一般道路がなぜかゴルフ場に入ってしまう。バックティーからの谷越えコースの谷部分なので、球が飛んでくることはプロのトーナメントでない限りなさそうだが、思わず急ぎ足になる。若い頃月に一度はコースに出ていたことを思い出した。ムダ使いのようだけれど、あれはあれで必要だったのだろう。

このまま進むと印旛沼まで行ってしまうので、2時間進んだあたりで引き返した。ところが帰りは向かい風でそのうち小雨もぱらついて、余裕残しで家に戻るつもりがつらい道のりになってしまった。こんな調子ではまだまだ本格的な復帰は難しい。果たして、再び山に行ける日は戻ってくるのだろうか(トレッキングシューズは新しく買ってしまったのだが)。

田んぼに水の入る季節になりました。このあたりは、ゴールデンウィークに田植えをする家が多いです。


こんな感じで、用水路沿いに格好の散歩道があります。ここからだと、左の森を越えると総武カントリー。それなりにアップダウンもあって、4時間歩くと結構バテます。


[Apr 25, 2012]

手賀沼散歩

私が住んでいる千葉ニュータウンのあたりは、ちょうど印旛沼と手賀沼の分水嶺にあたる。印旛沼まで行くことは多いのだけれど、手賀沼にはあまり行ったことがないので、桜もちらほら咲いているし、ちょっと行ってみることにした。

千葉県の大きな湖沼というと印旛沼、手賀沼というのが定番で、小学校の社会の時間に習った。その頃、印旛沼は「W型」、手賀沼は「釣り針型」をしていたのだが、いずれも水門・水路で区切られて現在ではいくつかの部分に分かれて埋め立てられてしまった。手賀沼は、上手賀沼・下手賀沼に分かれている。

今回めざしたのは上手賀沼。まず電車で千葉ニュータウン中央まで出て(このあたりでは「千葉ニュー」という)、ここからコミュニティバスに乗って、ちょうど釣り針のヘアピンカーブにあたるあたりで下りる。ここまでは印西市、ここから上手賀沼への道は我孫子(あびこ)市になる。

(全然話は変わるが、いまの若い人たちは我孫子が読めるのだろうか。われわれの子供の頃は、藤子不二雄のおひとりが我孫子さんというので、それで覚えたものだが)

ここから上手賀沼に向かう川を手賀川という。川自体は、この先で千葉・茨城県境を流れる利根川に合流する。ほとんど平地を流れているので、流れがほとんど分からない。風が吹くと逆に流れているようにも見える。このあたりはもともと利根川のデルタ地帯であり、私の家の近くでも、1階が水没しても大丈夫な2階建ての土蔵などが残されている。

6、7kmの川沿いの道はサイクリング道路になっていて、ときどき自転車の人達が飛ばしていく。ほとんどの人はサイクリングウェアとスポーツタイツで決めており、おそらくバイクも10万円以上するのではないだろうか。しかしお顔を拝見すると私と似たような年齢か、上であろうと思われるおじさん達である。

残念ながら桜はほとんどつぼみであったが、堤防にはタンポポやナズナをはじめ、青や赤の春の野草が咲いている。遠くの山には、ところどころでコブシの白い花が見える。まだ暖房を使う朝もあるが、季節は早くも春から夏に近づきつつあるようだ。雑草があっという間に膝のあたりまで伸びてしまうのも、もうすぐである。

2時間ほど歩いて、手賀曙橋に到着。ここには水門があって、水門の上流が上手賀沼である。この水門では手賀川に流す水量を調節している。近くに書いてあった建設日をみると昭和42年だった。私が小学生の頃だ。

その頃はまだ二毛作という言葉があったように、米の増産が主要な政策課題となっていた。手賀沼を干拓して、湿地帯を水田にしたのだろう。ここから手賀沼の水質悪化が始まり、現在では日本で水質の最も悪い湖沼とされている。一転して減反政策が始まったのは、中学生の時である。結局、開かれた水田のかなりの部分が耕作放棄地となった。

ちょうどベンチやテーブルが置かれていたので、手賀沼を見ながらお昼にする。奥さんが作ってくれたおはぎ(春だからぼた餅というべきか)とお茶である。結構歩いたので、甘いおはぎがおいしかった。帰りは風が出て曇ってしまう中、コミュニティバスと時間が合わず家の近くまで4時間近く歩くこととなった。疲れてこの日は6時半に寝た。

桜はまだ三分咲きといったところ。


湖畔を走るサイクリングロード。時折走る自転車を交わしながら歩く。


[Mar 25, 2013]

「噂の東京マガジン」にご近所の滝野プラザが

日曜日の「噂の東京マガジン」で、近所(歩いて3分)の滝野プラザのことを放送していた。TVと実際の話とではかなり違うので奥さんは憤慨していたようだが、まあ私としてはTVなんてあんなものだと思っている。

TVでは、「千葉ニュータウンは計画どおりに入居者が増えなかったため、暫定的に商業施設を誘致した。それが住民には説明されておらず、突然の閉鎖・取り壊しに住民の怒りが爆発している」という筋なのだが、事実はかなり違っている。

まず、笑瓶氏の訪れた滝野プラザは何度もスーパーが撤退して代替わりしており、ここ2~3年はテナントもほとんどなくゴースト施設化していたのである。

注.その後再開発されて、スーパー「マルエツ」、ドラッグストア「福太郎」、百均「Seria」を含むショッピングモールとなり、2020年には平和に運営されてそれなりに繁盛しています。

それに、通報者のおばさんは自転車で駅前まで10分行くのが嫌だと言っている。TVでは全く触れていなかったが、取り壊された商業施設と道路をはさんで反対側には、昔からセブンイレブンがあって、当座の買い物には不自由しない。また、駅まではバスが160円という低価格で提供されており、自転車しか交通手段がない訳ではない。

実は、住宅地内にも以前はバス路線が通っていたが、乗る人がなく廃止された(その後、コミュニティバスとして朝晩だけ復活)。入っては撤退するスーパーも、原因は売上げが伸びないことであった。基本的に住民のほとんどは車を持っているので、駅までの送り迎えも車なら、買い物に行くのも車なのである。

いちいち説明されなくても、売上げが確保できなければ商店が撤退するのは当り前である。採算が取れなくても営業しろと強制する権利は誰にもない。仮に歩いて3分の商店がなくなったとしても、自転車で10分かければ大規模なスーパーがあり、高いけど近くにセブンイレブンがあるならば、全国的にみてむしろ恵まれた部類だと思われる。

最近の風潮として、「そんな説明は受けていない」と主張すれば通るというクレーマーさながらの人達が増えているが、家という非常に高い買い物をするのに、そこまで考えなかったならばうかつとしか言いようがない。そういう人達の言うことを真に受けて番組を作ってしまうのだから、TBSもかなりうかつである。

家の販売者に主張すべきなのは、地盤が傾いたとか、家が水漏りしたとかいう製造物責任に関するものであって、それに関して千葉ニュータウンはかなり高品質の商品を提供してくれたと思う。マンション以外の集合住宅の建設を認めていないので、住環境も相当に整備されている。静かだし、農産物は安くて新鮮だし、都心まで電車で1本で行ける。

いいところを見ずに、ちゃんと考えれば予測がついたことを後からぐずぐず言うのは、罰が当たると思う。

[Apr 2, 2013]

印西市の中世城郭

わが印西市では多くの地域イベントが開催されている。今回は、「あじさい通りと中世の城跡を訪ねて」というテーマで、旧・印旛村役場から歩くという企画があったので参加してみた。

印西市は以前にブログでも触れたように、旧・印西市・本埜村・印旛村が最近合併してできた。市の西部は手賀沼と接し、北部の木下(きおろし)は利根川に沿った港であり、銚子から魚を運んできて水揚げしここから陸路をたどったという。さらに東部は印旛沼と接しているから、まさに千葉県北西部を横断して成り立っている大きな市である。

今回歩くのは印旛沼地区。印旛沼はもともとW型であったのに現在ではあらかた埋め立てられてしまった。もちろん中世には埋め立てられていないから、船で行き来していた。「いざ鎌倉」というくらいで、関東平野は命令一下鎌倉まではせ参じるくらい武士の移動が容易な地域であり、天然の要塞である沼があるこのあたりは多くの城が作られたという。

集合時間は9時、旧・印旛村役場にはすでに多くの中高年参加者が集まっている。われわれはかなり若い部類に入る。主催者である印西市ふるさと案内人協会の会長さんからご挨拶の後、おもむろに歩き始める。

旧・村役場から印旛沼に向けて、あじさい通りを歩く。この通りは平成の初め頃、ニュータウンの開発によって増えたゴミの不法投棄を防ぐため、あじさいを植えたのが始まりというから、最近できたものである。残念ながら剪定のし過ぎで、咲き具合は今一つである。途中、宗像(むなかた)神社に寄って、ここで神社の由来について説明。

宗像神社の本宮は九州の宗像大社で、あちらではかなりポピュラーなお社だが、全国に90ほどある末社のうち、20近くが印旛沼周辺にあるのだそうだ。厳島神社はもともと宗像神社と同じであり、厳島神社系を合わせると千単位になるとのことであった。古代史ファンには、宗像神社といえば沖ノ島だけれども、残念ながらそこまで説明はなかった。

説明が足りないので、自分でいろいろ考える(顰蹙を買うのでひとに話したりはしない)。この地域はかなり早くから開けたところで、スカイアクセスの停車駅・印旛日本医大は、計画時の仮称を印旛松虫駅という。これは、駅の近くにある松虫寺からとったもので、松虫寺には、聖武天皇の皇女・松虫姫(不破内親王)が病気治療のため転地療養したという伝説がある。

つまり、奈良時代にはすでに中央と関わりがあったということである(「都鳥」の在原業平よりおよそ百年前)。聖武天皇は天武系で、天武天皇はもともと東国・九州を地盤としていたから、このあたりに九州の神社が多いというのはそのあたりに理由があるのかもしれない。となると、これから訪れる中世の城跡より神社の方が何百年も古いということになる。

師戸(もろと)城跡のある印旛沼公園まで、1時間ほどかけて農村部を歩く。師戸城は、鎌倉時代から戦国時代にかけて千葉県一帯に勢力のあった桓武平氏・千葉氏の城の一つである。

印旛沼周辺は水田地帯。この時期は稲が伸びてきて壮観です。この中を、イベント参加者は約6時間歩きます。


お昼は師戸(もろと)城址の印旛沼公園で。そんなに暑くなくてすごしやすい日でした。


鎌倉幕府ができたとき頼朝に味方した桓武平氏といえば、上総介広常(かずさのすけひろつね)が有名だが、千葉介常胤(つねたね)も有力御家人の一人であった。もちろん本姓は「平」なのだが、一般には本拠地の地名をとって千葉常胤と呼ばれる。源尊氏が足利尊氏と呼ばれるのと同じことである。千葉というのは下総国千葉郡からきていて、現在は県の名前となっている。

千葉氏は鎌倉・室町時代を通じて現在の千葉県一帯を支配した。室町期には本佐倉城に拠点を置き、志津、臼井、そして今回訪問する師戸(もろと)に支城を置いて補給体制を整えたのであった。しかしながらお家騒動により次第に勢力が弱まり、新興勢力である里見氏にも押され、最終的には後北条氏にこの地域を奪われることとなった。

その衰退期には、本来はそれぞれの支城が味方同士として救援し合わなければならないところ、すべて千葉一族にもかかわらずお互い争ったという。まさに下剋上である。後北条氏に支配が移った後も、関東管領を引き継いだ上杉謙信が遠路はるばる越後から攻めてきたり、豊臣秀吉の小田原攻めがあったりして、ようやく平穏になったのは江戸時代になってからである。

さて、そんな歴史の舞台である師戸城跡は、現在千葉県立印旛沼公園となっている。県立公園だから県の管理かというとそんなことはなくて、旧・印旛村(現・印西市)が管理している(グランド利用届とか清掃とか)。このことをちょっと疑問に思っていたのだが、今回説明を聞いて合点がいった。高度成長期にディベロッパーが開発しようとして中世の遺跡が出てきたものだから、村から県にお願いしてこの一帯を買収してもらったそうである。

印旛沼公園でお昼休みの後は、再び緑の田圃の中を30分ほど歩いて歴史民俗博物館へ。ここには、中世城郭のジオラマや、工事中に掘り出されたという信楽焼きの大きな壷が展示されている。資料館のすぐ近くには国の重要文化財である泉福寺薬師堂があり、小さいながらみごとな茅葺きのお堂である。

博物館と薬師堂を見た後は、再び田圃道に戻って役場までの帰り道となる。昼過ぎで暑くなり、ちょっと疲れた。途中、小高くなった森か林にしか見えない一帯も城郭で、高田山城といったそうだ。ただし文献等の裏付けに乏しく、いつ築城されたのか、いつまで置かれていたのかは定かでない。もしかすると、単に武士の館跡ではないかと思ったのであった。

結局この日は約6時間歩いた。主催者発表では約12kmということであったが、私の携帯の距離表示をみると14kmになっている。どちらかというと、こちらの方が実感に近い。わが郷土について多くの考えるヒントをいただいたいい企画でしたが、参加者の平均年齢はおそらく60代と思われたので、ちょっと厳しめのイベントではありました。

国の重要文化財である泉福寺薬師堂。室町時代の創建とか。


丘にしか見えませんが、これも中世の城跡である高田山城跡。城というより砦だったようです。


[Jul 4, 2013]


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