2008年、スカイアクセス建設中の印旛沼周辺。
こんなにアンテナを 東横イン日医大は? 印旛歴史資料館・オビシャ行事講演会
こんなにアンテナを増やして・・・
家の近くの里山を歩いていると、電柱や電線がなくて江戸時代にもこの景色だったんだろうなという場所でも、視線のどこかに携帯のアンテナ塔が入ってくる。千葉ニューの戸建て地域は一種住専か市街化調整区域である。高い建物はほとんどない。
1~2時間のお散歩コースの中に、5つ6つはあるだろう。つい最近も、歩いて5分ほどの小林牧場の近くに、新しいアンテナ塔を建てると掲示板が貼られていた。こんなにたくさんあるのに、なぜこれ以上必要なのだろうか。
調べると、どうやら5Gが関係しているらしい。5Gではより多くの情報量を高速で通信しなければならないため、周波数の高い電波を使う必要がある。中波ラジオ放送よりFM放送の方が音質はいいけれども受信エリアが狭くなるのと同じ理屈で、1つのアンテナ塔がカバーできる範囲は狭くなる。
だから、どこにいてもスマホが使えるようにするためには、いままでより多くのアンテナ塔を建てなければならない。Wifiがある家がほとんどだけれど、公衆通信網で個人の電波を使うのは建前上まずい。
アンテナ塔を建てるには地面を買うなり借りるなりしなければならないし、それなりの高さの構造物を建設しなければならない。電気設備・通信設備がセットでついてくるし、メンテナンスもいるだろう。その経費は、通信料に上乗せされる。
そんな負担をしてまで、5Gにする必要があるのだろうかと思う。110番とか緊急連絡はどこででも発信できるのがいいと思うが、別に田圃の真ん中で動画を見る必要なんてない。歩きながら株の売り買いをする人がそんなにいるのだろうか。
会社の理屈からすると、世界標準なのだから準拠しないとマーケットに取り残されるというのだろうが、利用者がそんなことに気を使う必要はないし、いらないと思ったら使わない自由がある。まして、そのための費用負担まで押し付けられるのは論外である。
国の推計によれば、日本の総人口は長期低落傾向にあり、いまから30年後には20%減少して1億人を割る見通しである。人口推計は経済予測と違って変動要因が少なく、移民受け入れ等のドラスチックな改革が図られない限り大きく変わることはない。
そうした中、アンテナを増やしても利用者が増える見通しはなく、いずれキャリア間の価格競争が激化して撤退するところが出てくるだろう。アフターサービスができなくなるじゃないかと文句を言ったところで、製造後7~8年でそもそも部品がない。新製品と交換しますと言われて終わりだし、その費用は通信料に上乗せされるだけである。
最近、YouTubeで限界集落の動画を見るのだけれど、ほとんど誰もいなくなった集落に電柱だけが建てられているのはシュールである。三相三線の電線が伝っていることもあるが、1本の電線だけが寂しく伸びていることもある。
電力会社も、誰かが住んでいる間はメンテナンスしなければならないし、いなくなったからといって家が残っていたらそう簡単に撤去できない。住民がいなくなってしまう集落は山奥であったり道路がなかったりする場所なので、工事するのも大変なのであろう。
携帯のアンテナ塔もそれと同じようなもので、誰も利用しなくなったからといって撤去するにはそれなりの費用がかかる。つながっているのが空中なので電線こそないものの、高さがあるので重機が必要だ。
(千葉の大台山という山の上に昔KDDの電波塔があったが、現在は更地になっている。現地は山の中にもかかわらずそれなりの幅の道路が作られている。)
そして、携帯のアンテナ塔がたくさん建てられたからといって、電電公社のつないだ電話線がいらなくなる訳ではないのが非効率である。あの線や電信柱は、NTTがフレッツ光を通すのに使っている。
便利な世の中はいいのだけれど、どこまで便利にするかちゃんと考えるべきなのかもしれない。マーケットに任せればいいというのが新自由主義の考え方だが、それだと膨大なムダな投資が避けられない。その費用は、結局のところ貧乏人が払うことになる。
家の近所にはたくさん携帯会社のアンテナ塔が建っていますが、また新設するようです。ただ、工期が昨年11月から今年の3月頃までと書いてあるのに、2月半ばで何もしてません。
[Feb 16, 2021]
オリンピック閉幕。東横イン日医大はどうなる?
1年以上にわたり、やるのやらないのと大騒ぎしていたオリンピックが閉幕した。これからパラリンピックはあるけれども、何はともあれ一段落。これ以上大騒ぎが続かないのは、何よりのことである。
一昨年のラグビーワールドカップで羽田空港が大混雑しているのに遭遇して、オリンピックはこれ以上の騒ぎになるのかとうんざりした。コロナ感染爆発で2020年の開催が延期になり、2021年もフルスペックではやらなかった(海外観客は入れなかった)ので、その点では恵まれた。
マラソンのテスト大会後の北海道のようにならないかと心配した首都圏のコロナ感染状況だが、案の定たいへんなことになっている。東京都で4千人、神奈川千葉埼玉も千人超えで、死者・重症者が増えていないことを勘案しても感染爆発である。
例によってマスコミはきちんと報道しないけれど、入院したくてもできない人や、ワクチンの副作用で苦しんでいる人は相当出ているはずである。さすがに、オリ・パラが一段落すれば検証せざるを得ないだろう。これからである。
オリ・パラを機に一儲けをたくらんでいた人達にとっては散々な2年間であっただろうが、静かな日々を送っている年金生活者にとって、騒ぎの種は少ないほどいい。外国人観光客も減って、場所を選べば静かに過ごすことができる。
オリンピックを誘致した人達は、外国から観光客が山ほど来て、カシノも作って、バブルの再来をもくろんでいただろう。官民あげた大騒ぎで、統合型リゾート法まで大急ぎで作ったのに、まさにご愁傷様である。
わが印西市でも、カシノまでは計画されなかったが東横インが新築された。建物ができたのは昨年だが、オリ・パラが今年にずれ込んで内装工事は行われず、そのまま放置プレイである。
駐車場は舗装までされているのにチェーンを張られて立入禁止。内装未完成の建物内は使う前から廃墟のようである。近くに救命救急の日本医大があるのだから、いくらでも使いようはあるような気がするが。
その昔、オイルショック後もバブルの後も、新規需要を見込んで建てられたショッピングセンターやファミレスが林立したけれども、その少なくない数が使われないまま放棄された。時代は繰り返すのである。
普通に考えれば、資本主義は終わらなくても経済成長が終わることは確実で、移民などで人口が増加に転じない限り成長の可能性はない。人の口が少なくなれば、食糧も住居も衣料品もいらなくなる。経済が拡大する訳がない。
拡大しないことは常識で分かるはずなのに、自分だけは儲かると思うからムダな投資になる。100人のうち1人くらいは孫だか柳井だかになるかもしれないが残り99人は身ぐるみ剥がされることになる。
昨年にはほぼ出来上がっていた東横イン日医大駅前。内装工事をしないままオリンピックも終わり、駐車場にはむなしく立入禁止チェーンが張られているのでした。
[Aug 10, 2021]
印旛歴史資料館・オビシャ行事講演会
土曜日は、印旛歴史民俗資料館主催の講演会に行ってきた。テーマは「オビシャ行事」、千葉・茨城県を中心に関東一円に分布している民俗行事である。
現在印西市となった旧印旛郡印旛村は、印西市や本埜村とはやや色合いが異なる。印西市・本埜村の氏神が鳥見(とみ)神社であるのに対し印旛村は宗像(むなかた)神社で、九州との地縁を窺わせる。印西市は江戸時代の天領・印西牧から発展したが、印旛村は松虫姫伝説はじめ、古代にさかのぼる伝承が多い。
だから、旧印旛村にあった歴史資料館は印西市印旛歴史民俗資料館となり、資料館もそのままだし定期的に講演会を実施している。私も、印西大師八十八ヶ所を回る際には話を聞きに行ったことがあり、講演会も都合がつけば参加させていただいている。
今回のテーマ「オビシャ行事」、400年以上前から続くムラの年頭儀礼である。オビシャは「御奉射」「御奉社」などの漢字を当てることから、もともと矢を射てその年の作柄を占ったのが起源と考えられ、日本書紀や延喜式などにも記載がある。
しかし、関東一円におけるオビシャは、千葉氏における儀礼がもととなったらしい。というのは千葉氏の伝承である「千学集」「千集記」にみられる神仏に射礼を奉納した際の供物や行事の手順が、今日のオビシャにそのまま残っているからである。
千葉氏は桓武平氏、源頼朝の鎌倉幕府設立時の御家人である。千葉荘に住んだので千葉を名乗ったのは、足利に住んだ清和源氏・足利一族と同じである。鎌倉以来の名家であるから多数の分家があり、東北の相馬氏も分家のひとつである。
戦国時代末には後北条氏に味方したので、秀吉の小田原攻めによって敗れ、支配者から滑り落ちることとなった。家臣には検地・刀狩の際そのまま帰農した者も多い(「其時城を開け百姓となりたまうなり」という資料も残っている)。
オビシャは前述のとおり千葉氏における射礼奉納神事を原型とするが、現在に残るオビシャは戦国末から江戸時代初期に始まった。そのことは「オビシャ文書」と呼ばれる引継ぎ書類により確認できる。
そして、オビシャの本質は射礼奉納から、「お日記」と呼ばれる文書引継ぎと、トウ(当番ないし頭屋の「トウ」)の地域内での回り持ちに代わっていく。現在、射礼を儀式として残しているオビシャは半分ほどになっているとのことである。
本質が「当番の回り持ち」というのは、南太平洋のクラ交易を思い出させる話だし、質疑応答で出た話では、現在でも市内各地でオビシャ行事は残っているとのことである。
江戸時代以前には、士農工商の身分制度も明確でなく、ムラの範囲や構成メンバーも固定していなかった。それが固定化するのは秀吉・家康による中央集権確立以後のことで、それ以前は農園主も武装しなければ危なくてやっていられなかったはずである。
身分が固定化し、村落の範囲も限定され、支配・被支配関係も明確化された。そうした新たな状況の下、とうやって村落の秩序を形作り、共同体としての機能を果たしていくか。そうした観点からオビシャという行事が位置づけられてきたようである。だから初期のオビシャには「地頭」という名目で、殿様や代官を名誉的に戴く例もあったそうである。
[Sep 23, 2024]
当日の配布資料から。関東一円のオビシャは千葉氏による射礼の寺社奉納が原型であるが、それが村落に広がったのは秀吉の小田原攻めと検地・刀狩が契機であるようだ。
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