2008年、スカイアクセス建設中の印旛沼周辺。


アンと花子の木  アンと花子の木、伐採!!  県道本埜線  風土記の丘から印旛沼
「サンカ本」と千葉ニュー  超大型台風直撃  ひこばえ  コロナ千葉ニューに

アンと花子の木

家の奥さんがご近所の奥様と話していて、「アンと花子」のドラマに出てくる、花子の実家近くのロケ地が千葉ニュータウンだということを聞いてきた。行ってみたいというのでネットで調べてみると、すぐ近くで何度も散歩に行っているところである。私はドラマを見ないし、奥さんは山梨だとばっかり思っていたそうで、二人とも気づかなかったのであった。

この木は樹齢百年を優に超える榎の古木で、水田から丘に上がる交差点にあってすごくよく目立つ木である。枝振りがとてもいいので、私も散歩のたびに目標としていた。家からだと15分も歩けば着くというごくごく近所である。こんなところにNHKのロケが何度も来て、吉高由里子や室井滋が歩いていたとは知らなかった。

遅ればせながら、天気のいい秋の日に行ってみた。このあたりは印旛沼に地続きの水田地帯で、大昔は沼だったようで湧水もあるいい土地なのだが、毎年耕作放棄される水田が増えているのは残念なことである。放棄された土地は雑草交じりの湿地帯となり、イノシシの生息地となっている。イノシシ除けの電線もそこかしこに引かれている。

しばらく歩くと、例の木のところに出た。「なんか、きれいになってる」というのが奥さんの意見である。心なしか雑草の繁っているところが整えられ、道もきれいになっている。周辺の水田の一部はロケ用なのだろうか、砂山が築かれ車を止めるスペースができていた。

改めて周囲を見回す。田圃はあるけれど人家のないところなので、電柱や電線があまりないのが特徴である。カメラのアングルによっては、そうした人工物を全く映さないことも可能であり、戦前の風景として考えるならばいいロケ地である。もっとも、実際に旧・本埜村のこのあたりは戦前とほとんど変わっていないのではないかと思っている。

旧・本埜村にはニュータウン計画以前に2つしか小学校がなく、そのうちの一つはこの木の右の道を上がった500mくらい先にある。500mなら近いと思われるかもしれないが、後方の森は見た目より深く鬱蒼としており、昼でも街灯がついているくらい暗い。引っ越してきた15年前、この森を歩いていて向こうからすごい勢いで小動物が走ってきた。猫かと思ったらウサギだった。ここ40年ほど、野生のウサギを見たのはその時だけである。

私の住んでいるあたりよりさらに奥から、この木の右側を抜けて、毎日2~3km歩いて小学校に行った子供達も大勢いたはずである。私の通った小学校でも、そのくらいの距離を歩いて通う子供達はたくさんいた。いまでは、スクールバスが走っているようだ。

話は戻って「アンと花子の木」、老木だけあって、幹にはうろができて中が傷んでいる。また、根に近い部分はコケで青くなっている。枝振りはすごくいいのだが、一部の枝は枯れかけている。それでも、おそらくは私よりも長生きするであろう。落葉樹なので、これから真冬になると葉が落ちて枝だけになる。枝だけになった姿もまた貫禄がある木なのである。

アンと花子で出てきた木だそうです。私は(朝ドラは)見ていませんが。


近くのあぜ道に置かれた「NHKきねんひ 2013」。コンクリ破片で作られています。


[Nov 1, 2014]

アンと花子の木、伐採!!

3月は3日置きに雨が降って、まるで1月の水不足を取り返すような勢いだった。晴れた日にも突風が吹いたりして、出歩くには向かない天気が続いた。山歩きもしばらくおあずけである。

ようやく風がおさまった3月半ば、久しぶりに本埜村を歩いてみた。退職間際に単身赴任があってばたばたして以来歩いていなかったから、かれこれ4年振りくらいになるかもしれない。

家から10分も歩くと一面の田圃である。昔と比べてイノシシ除けの電線が増えているが、それだけ田畑を作っているということでもある。このあたりの田植えはゴールデンウィークで少し先だが、すでに何台かのトラクターが出て代掻きや畦塗りをしている最中であった。

しばらくぶりで歩くので、どこがどう続いているのか忘れてしまった。ずいぶん歩いて旧・村役場の近くまで来たのに、何となく以前の景色と違う。いつも目印にしていた巨木が見当たらないのである。

向こうから下りてくる坂の下にあったはず、とそのあたりを探すと、なんと、すでに地上数十cmのところからばっさり伐られているのであった。しばらく来ない間に、こんなことになっていたとは。

この巨木は2013年のNHKドラマ「アンと花子」のロケに使われた榎の老木で、樹齢100年は優に超えている大木であった。すでに4年前の時点で、「幹にはうろができて中が傷んでいる。また、根に近い部分はコケで青くなっている。枝振りはすごくいいのだが、一部の枝は枯れかけている」と書いているような状態だった。

それでも、「私よりは長生きするであろう」と書いたのだが、強風に耐えられなかったのか、それとも安全上の観点からなのか、伐採されてしまっていた。ありし日の姿を思い、なんともいえない気持ちになる。月日は移ろうのである。

つい最近読んだ本(金副隊長の奥多摩の本)に、「巨木には尊厳死がふさわしい。うろに詰め物などせず、人知れず倒れて朽ちるべきである」と書かれていて、全くそのとおりだと思った。 いつまでもあると思っていたのに、しばらくぶりで行ってみるとなくなっていた、というのは悪くないことではないかと思ったりする。

本埜村のランドマークとなっていた榎の巨木「アンと花子の木」、しばらく行かない間に伐採されていました。


[Apr 17, 2019]

県道本埜線

今年(2016年)の秋は雨が多い。9月に入って涼しくなったのはいいが、毎週台風が来て大変である。おまけに秋雨前線が停滞して、3日と晴れ間が続かない。気が付くと10月は目の前、お遍路の第五回区切り打ちまであと2週間を切っている。

前回の区切り打ちは2月だったので、8ヵ月振りのお遍路である。しかも、春に天城山に行ったきり山歩きもしていない。ジムのトレーニングには週3~4回は通っているものの、実際に地面を歩くのと疲れ方が違うし、CW-Xやウォーキングシューズの感触、GPSの動作も確認しておきたい。

しばらく前から山に行くチャンスをうかがっていたのだけれど、この空模様ではちょっと難しい。かといってあまり日にちが近づいてから試し歩きをするのも疲れが残って不安である。そんなこんなで昨日9月28日、午前中なら天気がもちそうなので本埜村の奥まで歩いてみることにした。目標はとりあえず15km、お遍路で午前中に歩くくらいの距離である。

昔の本埜村役場まで40分ほど。歩き始めはいつもながら体が重い。お遍路で歩くときでも、朝のうちはあまり調子が出ない。湿度が高くて息苦しいのが気になる。この日は湿度が90%以上あって、歩くのにいいコンディションとはいえなかった。それでも、一汗かいて少し体が軽くなってきた。本番もぜひこういう感じでお願いしたいものである。

役場からは印旛沼に向けて直線道路を行く。このあたりは区画整理されているところで、直角に道路が交差して一区画の田んぼも広い。基本的には舗装道路なので、お遍路と同じである。ただ道が狭いので、ときどき自動車が通るときには道路の端に寄って待たなければならない。

本埜村の一番奥は栄町の安食(あじき)というところで、JR成田線の安食駅がある。市町の境界は利根川と印旛沼を結んで流れている長門川で、長門川と並行して通っているのが県道・本埜線である。ここまで旧・本埜村役場から1時間の道のりで、家から7、8kmというところ。ちょうど目標の半分歩いたので、ここから県道・本埜線を通って戻ることにした。

県道・本埜線はいわゆる尾根道のようなところを通っている。とはいっても標高差は10mもないくらいなのだが、右を見ても左を見ても水田に向かって切れ落ちている。ところどころに池や沼が残っているのは、江戸時代に田沼意次が印旛沼を干拓した名残りだろうか。しばらくすると、遅い稲刈りをしている田んぼを見つけてうれしくなる。

このあたりの田んぼにはハクチョウが何百羽も来て越冬するので、白鳥米というブランドで売り出している。冬になると、わざわざ長方形の田んぼ1枚に水を張って、ハクチョウが滞在しやすいようにしているのである。上から見ると印旛沼もあるし他に池もあるのに、わざわざ人工の池に来るのはなぜだろうか。やっぱり餌付けかなあ。

さて、県道・本埜線をわが家の方向へと戻ってくるが、行きは直線道路だったのに帰りは曲がりくねった道でなかなか距離が出ない。そして朝の内は曇りだったのに、日が出てきて日差しが強烈である。もう10月間近だというのに、気温は30度近い。今日はあくまで試し歩きなので無理することはない。旧・本埜村役場まで奥さんに迎えに来てもらって40分ほど短縮した。

あとからGPSを確認したところ、この日歩いたのは3時間8分で13.3km。時速は4.2kmほどだから、まずまずのペースであった。それでもウェアは汗だく、CW-Xを脱ぐときに腹筋やらふくらはぎが軽く痙攣してしまったのだから、試し歩きは大正解であった。そして、少しだけでもお遍路本番に向けて不安要素が減ったのは何よりであった。なにせ、今回は9日連続という長丁場なのである。

印旛沼に近づくと、どこまでも真っ平らな直線道路が続く。


もう10月が目前ですが、遅い稲刈りをしている田んぼがありました。


[Sep 29, 2016]

房総風土記の丘から印旛沼

四国お遍路を控えて、前回は本埜村役場から県道本埜線まで13km歩いた。1日置いて、家の周りを8km歩いた。日程的にこれ以上は難しいと思っていたのだが、10月2日の日曜日は30%の降水確率の予報だったのに、朝から青空がのぞいている。この日は買い物を予定していたのだけれど、予定変更して歩くことにした。

前回は本埜村と栄町の境界あたりまで歩いたので、今回はそこから先を歩いてみることにした。JR成田線で安食(あじき)まで行って、安食から房総風土記の丘、下総松崎駅で成田線を突っ切って印旛沼に向かい、甚兵衛渡しから印旛村に入って、印旛村役場まで歩くとほぼ20kmになる。全部は難しいとしても、本番に向けてできれば15kmくらいは歩いておきたい。

安食の駅からしばらく県道を進み、「房総のむら」の標識にしたがって左折し跨線橋を渡る。北総栄病院で今度は右折し、酒直台という住宅地を進む。北総栄病院はこんな田舎にあるのに、スポーツリハビリで有名なんだそうだ。住宅地を過ぎて坂を登り、廃校になった酒直小学校のあたりで右の細い道に入ると、道なりに房総風土記の丘となる。

房総風土記の丘は龍角寺古墳群を整備した県立公園で、大小114の古墳がある。大部分は長径十数m程度の円墳・前方後円墳で、堀はなく、古墳の境目も明確でない。いまは林の中で見通しはきかないが、時々木の切れ間から印旛沼が見える高台にある。印旛沼周辺を拠点とした古代の豪族が墳墓とするにふさわしい土地であっただろう。

説明板によると、造られたのは5世紀から8世紀という。近畿圏と比較すると二、三百年遅い。確かに、最も大きい岩屋古墳は一辺約80mの方墳なので古墳というイメージだが、それ以外はやや大きめの土饅頭という感じである。印旛村には松虫姫が転地療養に訪れたという伝説があり、松虫姫とは聖武天皇の皇女不破内親王とされるから、奈良時代末にある程度開けていた地域であることは間違いない。

だとすると疑問なのは、すでに日本書紀も書かれている時期に造られた古墳にもかかわらず、施主が誰だかよく分からないということである。そもそもこの地域が開けて中央の記録に残るのは平将門以降であり、千葉氏(将門と同様、桓武平氏である)以前の支配者がどの一族であったのかは定かでない。とはいえ、これだけ大規模な古墳群を残すだけの力を持っていたのである。

風土記の丘を抜け、坂田ヶ池という小さな沼を過ぎ、再び成田線の線路を渡ると、ほぼ真っ平な道となる。このあたり、もともとはすべて印旛沼で、古くは田沼意次の時代、近年では戦後の土地改良により、沼地を干拓して水田になった地域である。一区画が相当に広く、まっすぐな道に首都圏自然歩道(関東ふれあいの道)の標識が続く。

関東ふれあいの道は、房総半島に行くと整備してくれて本当にありがたいと思う登山道なのだが、このあたりではスカイアクセス&千葉北道路の工事により進路が分断されている。「ふれあいの道迂回路」という小さな標識はあるのだけれど、どこにどうつながっているのかは勘に頼る他ない。まあ、甚兵衛渡しの方向は印旛沼を左回りに進めばいいので迷うことはない。

甚兵衛渡しは印旛沼に橋がかかるまで渡し船があったところだというのは知っていたが、甚兵衛さんが誰かというのは知らなかった。もともと渡し船のあったところは松林のきれいな公園になっていて、そこに掲げられていた説明板によると、甚兵衛さんとはあの佐倉宗吾の話に出てくる登場人物なのだそうだ。

佐倉宗吾については、京成線に「宗吾参道」という駅もあり、その近くに宗吾霊堂というお堂もあるけれども、年貢軽減を将軍に直訴した義民というのは江戸時代末期に作られたお話だそうだ。実際に年貢軽減を訴えて処刑されたことは確かなようだが、時の藩主である堀田正信が不祥事により改易され、それが「惣五郎の祟り」とされてお堂を建てお祀りしたのが発端らしい。

安食から房総風土記の丘経由成田線の線路まで約6km、そこから甚兵衛渡しまでやはり約6km、もうすでに12kmは歩いている。そろそろ撤収に移ろう。印旛沼を渡って印旛村に向かう道は国道464号1本なのに、片側1車線でしかも歩道がない。それで現在、千葉北道路を作っているのだが、スカイアクセスが通ってもう6、7年経つのに工事はなかなか進まない。

ときどき立ち止まって車の過ぎるのを待たなければならないくらい道幅が狭く、加えて雑草が伸び放題なのでさらに狭く感じられる。国道なのにこの状況はひどいが、車の方も歩く人がいるとよけなければならないので大変そうである。なんとか渡りきって、ここからは国道を離れて自転車専用道を歩く。

時刻は正午過ぎ。それほど暑くならない予報だったし降水確率が30%もあったのに、空は青空、さえぎるもののない強烈な日差しである。しかも、印旛村の奥地は自動販売機空白地域である。手持ちの水でがまんするしかないが、朝買ったペットボトルはすでに温かくなってしまった。

吉高の大桜のあたりであきらめて、奥さんにメールして迎えに来てもらうことにした。このあたりの目印は印旛中央公園。大桜の入口から5分ほど戻ったところである。ここから家まで歩き通すと1時間以上かかる。本番が近いのに無理をすることはない。歩いている間は気付かなかったが、長袖から出ている手の甲が日差しで真っ赤に焼けている。このあたりが潮時だったようだ。

帰ってからGPSからデータを落としてみると、4時間20分で16.7km歩いていた。20分くらい休憩したので、時速にすると4.2km、まずまずである。そして、16kmというのはお遍路で午前中に歩く距離だから、まずまずの準備ができたと思う。あとは、荷物とか着替え、携帯品の準備と、コンディションを整えて当日を迎えるだけである。

房総風土記の丘は、竜角寺古墳群を公園として整備したもので、100以上の古墳がある。


風土記の丘から印旛沼までは、首都圏自然歩道(関東ふれあいの道)として整備されている。印旛沼に近づくと、干拓地に作られた水田がどこまでも続く。


甚兵衛渡し付近から北印旛沼を望む。まだまだ自然が残っている風景とはいえ、現在ではカミツキガメの巣となっている。


[Oct 6, 2016]

筒井功「サンカ本」に登場する千葉ニュータウン

先日、筒井功の「全国の地名」という本をご紹介したが、氏の著作は何冊か読んでいる。氏は、江戸時代以前から最近に至るまで定住せず河原や山中を転々としていた「サンカ」を研究しており(実は「サンカ」というより「箕直し」集団なのだが)、その中の一つ「漂泊の民サンカを追って」を読んでたいへんに驚いた部分があった。

生粋のセブリ者(注.「セブリ」とは彼らが住むところのテント様の仮設住宅のことである)と言われたU氏は、茨城南部から千葉北西部のセブリを転々としていたという。そして、こういう話が載っている。

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そのひとつに、千葉県印旛郡印旛村鎌苅のシミズカシラ(注)も含まれていたと思われる。そこは雑木林の中の小さな空地で、昭和三十年ごろまで「ミーヤさん」が三、四家族、季節を限ってやってきて篠竹で葺いたような小屋を建てて住んでいた。いま日本医大病院の裏手にあたるへんで、かすかながら往時の面影を残している。

U一族はどうやらここらあたりを縄張りにしていたようで、U氏はすぐ先の印西市草深(そうふけ)にもいたことがわかっている。

(注)シミズカシラは「清水頭」の意味で、いわゆる水場のこと。
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日本医大病院も印西市草深も、わが家の近所である。歩き始めると半日かかってしまうが、年に何回かは散歩するコースでもある。そして、私がこちらに越してきて間もなく、散歩をしていたところ、まさに「篠竹で葺いたような小屋を建てて住んで」いる人を見たことがあるのだ。

まだ20世紀、平成11年か12年のことである。いまでこそ民間委託で開発が急ピッチで進んでいる千葉ニュータウンであるが、当時は住宅都市整備公団(現・UR都市機構)による開発が行き詰まり、公団が買い占めた土地が開発もされないまま放置されていた。おそらく、買収が行われた昭和三十~四十年代のままの姿であったのではないかと思う。

まだ引っ越して来て間もない頃だったので、半日かけて家の近くを歩いてみたのだが、公団買収地の奥まったところ、まだ造成もしておらず丘や窪地がそのままの形で残っている草むらの中に、その小屋は建っていた。

第一印象は、公団の土地なのに黙って住んでいいのかな、ということであった。当時すでに上野や隅田川沿いにはホームレスの集落があったから、そういう小屋があること自体にはそれほど驚かなかった。

しかし、よく考えると妙である。上野や隅田川であれば、近くに繁華街もあれば住宅・道路もあるので、飲食店の残り物を持ってくることもできるし、アルミ缶などの有価物も集めることができる。ところが、小屋のあったのは山の中である。その当時でもコンビニまで歩くと30分以上は楽にかかったし、車も置いてなかった。そもそも車の入れるような場所ではない。

場所的には、筒井本に書いてあった印旛村鎌苅(現在、救命救急ヘリで有名な日本医大北総病院がある)から谷をはさんで西側にあたり、地番は変わっているものの、ニュータウン開発以前には草深(そうふけ)であった場所である。本に書かれている地域とほぼ一致するのである。

実はもう一組、ニュータウン地域で妙な人達を見かけている。こちらは印旛村鎌刈から北にあたる旧・本埜村地域である。やはり散歩で歩いていると、車を止めて所帯道具を広げている家族(?)を見た。

こちらは国道464号からそれほど距離がある場所ではなく、車も入れるくらいだからそれなりの道も通っていたのだけれど、やはり草むらの中で、ニュータウン区域内、つまり公団の持ち物である。景色も開けておらず、わざわざキャンプに来るようなところではない。それなのに、少なくとも何日間かはここで過ごしているような様子に見えた。

広げている所帯道具も、キャンプ用のテーブルやBBQセットのような「いかにも」なものではなくて、言葉は悪いがリサイクル品のようなテーブルや椅子で、しかも地面には何か敷物のようなものを敷いていた。こんなところでキャンプでもなかろうにと思う一方で、公団に見つかったら何か言われないかなあと同じように思ったものであった。

あれから15年以上が経過し、前者の場所はきれいに整地されて住宅地となり、後者については工業団地に衣替えして大分たつ。したがって、その時見かけて以降その人達を見ることはなかった。(後日談になるが、そのあたりの場所で映画「インスタント沼」のロケをやったらしい。ウィンクの頭に泥が落ちてくる場面である。)

もしかしたら誰かが奇特にもキャンプをしていただけなのかもしれない。しかし、この本を読むと、非定住の「ミナオシ」の人達がかつて暮らしていた土地をなつかしくて訪れたか、あるいは毎年のローテーションで来て生活していたのかもしれないと考えてしまうのである。

[Mar 21, 2017]

台風15号直撃、千葉県に被害

9月9日月曜日の朝、真夜中を過ぎて急に風雨が強くなった。木々の揺れる音も外壁に打ち付ける雨音も尋常でなかったので、5時前には起きてコンピュータの部屋に行った。

机に置いてある気圧計を見ると、見たこともない角度に針が振れていた。その時点の気圧は970hpa、千葉ニュータウンでは聞いたことのない数字である。TVをつけてみると、午前5時に台風15号は千葉市に上陸したという。千葉市?貨物船でもあるまいに、今回の台風は東京湾を北上して来たのである。

すでにその時点で、千葉市で観測史上最強の最大瞬間風速57mを記録したというニュースは入っていた。沖縄ならともかく、本州の、しかも千葉市である。通常のコースなら、房総丘陵や北総台地、東京湾を隔てた丹沢あたりが風除けになって、そこまでの強風は吹かないはずなのである。

5時を過ぎてしばらくすると、風雨が急に収まった。盛大に揺れていた電線も、ぴくりともしない。ただ空模様はというと、白い雲と黒い雲が妙にまだらになっていて、たいへん気味悪い空であった。午前6時の推定位置は竜ヶ崎ということだから、この時間に台風の目が上空を通過したのである。

台風が関東に上陸することは年間4~5回あるものの、これほど近くを通過したのは越してきて20年で初めてのことである。6時頃になると、再び風雨が強まったものの真夜中のような強烈なものではなくなり、気圧計も980から990hpaと見慣れた角度に戻ってきた。台風自体も急にスライスして東向きに進路を変え、ほどなく鹿島灘に抜けた。

わが家についてはそういう状況であったものの、停電になったり水道が止まったりということはなかったが、その日の午後あたりから役場の防災放送がたびたび入るようになった。千葉ニュータウンの中でも何ヵ所か停電しているらしい。避難所や給水所の案内放送が繰り返されている。

房総で数十mの送電鉄塔が倒れたというから、その影響もあるのだろう。だが、一系統の送電線がダメになったくらいなら、復旧までそれほどの時間はかからないだろうと思った。別系統の送電線を経由することにより、電気を送ることは可能だからである。

しかしながら、台風通過から2日経った11日になっても、千葉県内で40万戸以上の停電が復旧していない。ということは、おおどころの送電線だけでなく、中小系統の電線もいたるところで寸断されている可能性が大きい。

これほど大きな被害になっていると知らずに千葉ニューあたりを車で走った際に、付近の樹木がひどい状況になっていて、根こそぎ倒れている木もあった。当然、倒れた木が電柱や電線に当たって断線したりショートしたり、機器が故障している箇所もたいへんな数になるだろう。そうなると復旧は人海戦術ということになり、短時間で終わらせることはきわめて困難である。

たまたま奥さんが免許書き換えの講習があって、ニュータウン区域外の公共施設に行ったのだが、なんと停電および断水の真っ最中で、外気温35℃のうだるような暑さの中、冷房もなくトイレも使えないのに時間いっぱい講習したそうである。直線距離で家から2kmと離れていない場所である。わが家もすんでのところで被害が及ぶところだった。

ニュースを見ると、ゴルフ練習場の鉄柱が倒れて民家を真っ二つなんて事故も起こっている。幸いなことにわが家周辺ではなかったものの、つい先日ブログで上げたように、いざという時のために最低限の保険は必要ということを如実に示した事故であった。

などと書いていたら、お向かいの奥さんが蜂に刺されて救急病院に行って手当てを受けてきたんだそうだ。なんでも、台風でハチの巣が吹っ飛んでしまい、帰るところをなくしたハチが飛び回っているとのことで、救急病院には刺された人達が結構行っているらしい。住宅街からすぐ里山になる千葉ニューらしいといえばそれまでだが、思いも寄らない台風の被害である。

[Sep 12, 2019]

ひこばえ

あの短時間集中豪雨から10日経った。ようやく外を歩ける体調に戻ってきたので、体を慣らしながら家の近くを歩いてみる。

私の住む千葉ニュータウンは北総台地にあり、印旛沼と手賀沼の分水嶺にあたる。分水嶺ということは周りと比べて高い土地にあるということなので、集中豪雨や川の氾濫には比較的強い土地ということである。

そして、印旛沼も手賀沼も歩いて1~2時間なので、流域面積が比較的小さい。流域面積は別名を集水面積というくらいで、広ければ多くの雨水が集まるけれども、広くなければ集中することがない。この日も、手賀沼に向かう亀成川の水量は普段とあまり変わらないように見えた。

しかしよく見ると、斜面になっている場所からいまだに水が流れていて、路面に水たまりを作っている。道路を横切って川が流れているのは、丹沢や奥多摩の山でよく見るのだけれど、同じようなことが起こるんだなあと思った。

すでに9月中に刈り取りが終わった水田にも、まるで田植えの時期のように水が張られている。もちろん、水路から人為的に水を張っているのではなく、10日前の豪雨によって自然に水が溜まっているのだ。

刈り取られた稲からは、ひこばえの茎が伸びている。普段の年ならせいぜい10cmほどいくつかの株から出ている程度なのだが、今年は倍以上高く、ほとんどの株からひこばえが出ている。

そして、日当たりのいい場所からは稲穂が出ていて、その黄金色の穂がまるでこれから刈り取り時期のようである。よく見ると穂も実も細く小さいのだが、鳥たちにとっては十分な食糧になるだろう。

道なりに高台に登る。近くの市町村では水没した畑も多いのだが、このあたりは大きな被害はなく、キャベツも大根もほうれん草も、そこそこ大きくなっているようで何よりのことであった。だが、よく見ると畑の一部は黒く水たまりの跡が残っているし、耕作していない荒れ地の中には、いまだに水が溜まっているところもある。

むしろこのあたりで被害が大きかったのは9月の台風15号の強風で、この近くで多くのビニールハウスが飛んだと聞いた。分水嶺ということは山の稜線と同じことで、風が吹く時は周囲よりも強い風が吹く。

わが家でも20年前、新築して半年で突然ひょうが降って、保険を使って修理するほどの被害を受けた。その時のひょうの大きさは野球ボールほどあって、北向きの部屋のガラスは割れ、車は雪平鍋のようにボコボコになった。その後、ニュース映像でもあれほど大きなひょうは見たことがない。

WEBによると隣の佐倉市ではまだ復旧していない道路はあるようだし、奥多摩や丹沢はまだ被害の全容がつかめていない状況である。すでに北アルプスや尾瀬は小屋閉めで、冬はもうすぐ。被害を受けた地域が早く復旧し、無事に正月を迎えられるよう祈るばかりである。

大雨の後で水田に行ってみると、ひこばえの稲が普段の年より盛大に実っていて、まるで刈り取り前のような景色だった。


[Nov 14, 2019]

コロナウィルス、とうとう千葉ニューに

週明けのご近所に激震が走った。印西牧の原地区で一番のスーパーである「ヤオコー」が、従業員が検査陽性とのことで臨時休業してしまったのである。

すぐそばの東京都で毎日200人以上の陽性者が出ているのだから、成田空港と東京の間にある千葉ニュータウンが無事で済むとは思っていなかった。そして、千葉市でも市川市でもすでにクラスタが発生しているから、検査を増やせば当然そうなるとは思っていた。

とはいえ、いつも行くスーパーから陽性者が出たというのは、我が身に差し迫った危険という意味で、改めて怖い。もちろん陽性になった従業員には責任はない。海外旅行にも、3密のライブハウスにも行っていないだろう。

おそらく感染ルートは、来店した客である。千葉ニュー住民の大多数は都内への通勤者である。非常事態宣言の直後はご近所でも在宅勤務という人がたいへん多かったが、非常事態が解除になって通勤電車も混雑が戻ったと聞く。何千何万と毎日都内と往復していれば、当然ウィルスを持ち帰るリスクは大きくなる。

世界でも、感染封じ込めを優先するか経済活動再開を優先するか、国により地域によりさまざまである。それほど重症者が出ていない国で引き続き感染防止優先なところもあれば、トランプのように感染者も死者も歯止めがかからないのにマスクすらしない為政者もいる。

日本では、マスコミがきちんと報道しないものだから、第2波がすでに来ているかもしれないのに旅行推進キャンペーンをやめるつもりはなさそうだ。じゃあ検査体制や人工呼吸器はちゃんと準備しているかというと、これも二の次にしている。

コロナになってもたいしたことはないのだから、みんな通勤通学して旅行もして経済を動かしましょう。責任は私がとりますというなら男らしいが、責任を取りたくないものだからそれも言わない。自粛と言いつつ旅行推進、コロナになって治療を受けられなくても、自粛で仕事が立ち行かなくても、すべて自己責任と言うのである。

話を戻すと、ヤオコー印西牧の原店の店頭に掲示された「臨時閉店のお知らせ」(!!閉店じゃなくて休業だろう。お知らせ文も主語と述語がなってないし、店長かなりあわてていたようだ)によると、従業員から陽性者が出たので休みますということ以外分からない。

詳しくはヤオコーホームページを見てくれということなので見てみると、感染が判明したのは7月19日。直ちに営業を休止し、全商品を廃棄(!!)、専門業者による店内の消毒を実施した。同日から臨時休業とし、濃厚接触者を確認中で、現時点での再開時期は不明ということである。

ヤオコーにしてみれば、全商品を廃棄したところで経費で落とせるから税金がまかるだけで、仕方がないことだけれどもったいない。検査を増やせばこういうケースが出てくるのはやむを得ないことで、調べると全国各地で起こっているらしい。

経済活動が大事とはいっても、実際に感染者が出るとこのようにただではすまない。宿泊業者は陽性者をホテルに泊めているくらいだからあまり警戒感はないようだが、いろんな施設にせよ物販店にせよ、感染者が来たとはっきりすればこうなるのである。

ワクチンや治療薬ができるか、コロナは大丈夫という認識が世界的に共有されない限り、経済活動に舵を切るのは考えものである。ごく身近でこういう事態が起こると、改めてそう思う。

牧の原地区で一番のスーパー「ヤオコー」で、とうとうコロナウィルスが出てしまいました。店長よほど慌てたのか、臨時閉店じゃなくて臨時休業でしょう。


追記(2020/7/24)

ヤオコーホームページによると、当該従業員と濃厚接触の疑いのある従業員を検査した結果、全員陰性であることを確認したので、7月24日からの営業再開を決定したということです。とりあえずひと安心。

[Jul 22, 2020]


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