大森鳥見神社。石造りの鳥居は近在でもっとも古く、元禄年間の建造。


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大晦日、地元の神様にご挨拶

この図表はカシミール3Dにより作成しています。

年の暮れはあまりいい天気ではなく、山歩きをしたかったのだが適当な日がなかった。大晦日になってようやく晴れて、気温も20℃近くに上がるという予報である。せっかくのいい天気なので、地元の神様に年末のご挨拶をしようと思い立った。

朝方まで残っていた雨が上がり、太陽が顔をのぞかせたのは10時過ぎ。予報通り、日が差したとたんに温かくなった。千葉ニュータウンは東西南北どちらに向かっても里山があり、由緒ある神様も多くいらっしゃるが、この日は北西方向へ。

秋にタイガー・ウッズが来た習志野カントリーをぐるっと回り込んで1時間ほど歩くと、火皇子(ひのおうじ)神社がある。まずそこを目指す。

何年か前にこのあたりを歩いた時には、まだ周辺が未開発で、何もない草原であった。ところが、ここ数年で工業団地の開発が進み、倉庫が次々と建てられた。建てているのはGoodmanという会社で、ホームページを見るとオーストラリアの不動産会社らしい。

建設中の鉄板に描かれた会社説明によると、職住接近で環境重視の会社で、通販の即日配送をサポートするらしいのだがこれだけではよく分からない。でも、建設済の倉庫には多くの車が止まっているので、みんな自動車で通勤しているのだろう。

火皇子(ひのおうじ)神社は、畑の中に神社の周りだけ家が集まっているという妙な立地だったが、現在はすぐ近くまで住宅分譲が進んでいる。祭神はヒコホホデミノミコト、山幸彦としても知られる皇室の祖先神である。

境内には「正一位」の立派な石碑があるが、これは近年になって建てられたものである。氏子さん達が新年の準備をしていた。二礼二柏手一礼で一年の無事にお礼申し上げる。神様にお願いすべきは、いいことが起きることではなく、悪いことが起きないことである。

谷を下ってしばらく西に進み、北に石段を登ると長楽寺がある。こちらのお寺も古く、市の文化財となっている梵鐘は室町時代のもの。長生き観音に健康をお礼して、近くにある大森鳥見神社に向かう。

印西市にはいくつか鳥見神社があるが、「とみじんじゃ」と呼ぶ。「とみ」とは律令時代の郷名である「言美(とみ)」から付けられたものと考えられる。物部氏との関係が深いとされる。印旛沼に近づくと宗像神社が多く、こちらは九州の神様である。

やはり新年の飾りつけの最中で、鳥居前には日の丸の旗が交差して立てられ、鳥居の注連縄も新しくなっている。この鳥居は元禄年間というから綱吉将軍の時代。いま奥の細道を勉強しているのでちょうどその時代である。

大森鳥見神社を過ぎてそのまま北に下ると、すでにそこは広い意味での利根川河川敷である。県境を越えて茨城県側までの眺めが広がる。大森浅間神社はその河川敷を望む高台にある。標高30mほどの小さな山だが、江戸時代の錦絵にも登場するらしい。

現在では、国道建設にあたり北側の山体が削られてしまっているものの、それでも参道の階段からはかつての眺めを彷彿とさせる風景を望むことができる。

このあたりは数年前まで何もない草地だったが、工業団地の倉庫が次々と建っている。


火皇子神社。境内に「正一位火皇子神社」の石碑がある。正一位は享保年代というから、江戸時代中期に宣旨を受けたもののようだ。


大森鳥見神社。鳥居は元禄時代のものというから、かなり古い。


急な階段を数十段、踊り場を3つくらい経由して大森浅間山の頂上に達する。階段上は平らになっていて稲荷神社と社務所があり、さらに高くなっている場所に浅間神社がある。ここまで登るには、階段と逆側からはスロープしかなく、どうやって建設資材を上げたのだろうかと思ってしまう。

祠のある頂上からは360度の展望が開け、かつては富士山も望むことができたという。浅間神社は富士山をご神体として拝む神社なので、当然そうなのだろう。

すでに午後1時を過ぎて、3時間歩き通しである。浅間神社から印西市役所を越えて、ひょうたん池公園でひと休みする。公園から奥に進むと「ふれあいの小径」という遊歩道があり、その先に竹袋稲荷神社の参道に登る階段がある。

拝殿までけっこう歩いたが、裏山に比べて拝殿前はコンパクトだった。すぐそばの脇道に鳥居があり、そこから45度ほど右に谷を下ってもう一つ鳥居が見える。新年の支度をしていた方に教えていただいたところによると、右が表参道ということである。

初めて来たというと、親切にいろいろ教えてくださった。

「こちらの稲荷神社は、八犬伝の里見家から寄進を受けて社殿を作った古い神社で、利根川を運んできた材木が陸揚げされた場所ということで木下(きおろし)の名前が付きました。江戸時代に鮮魚を江戸に運んだことで木下が有名になりましたが、竹袋の方が古くから開けているのです。」

「このあたりは竹袋村という村で、いま市役所のあるあたりまでが村でした。でも、ニュータウン計画に反対して行政によく思われていないことから、開発の面では取り残されています。昔からうるさい人が多かったようで、成田線の線路を通す時も、家の田圃に行けないということで踏切をたくさん作らせました。だからこの区間にはやたらと踏切が多いのです。」

「拝殿前にある灯篭はお女郎さん灯篭といって、昔、年期の明けたお女郎さんが郷里に帰れず、途中の木下で下働きをして暮らしたということがあって、その人が寄進したのでその名前となったのです。」

他にも、この地域のいろいろな祭りのこととか、利根川から水道局まで車が通れるほど太い取水管が通っていることとか、このあたりが風の通り道になっていることとか、いろいろお話をお伺いした。たいへん勉強になった。

帰り道では、別所熊野神社にお参りする。天台宗の寺院である金龍山宝泉院地蔵堂と並んで建っている。千葉ニュー地域には天台宗のお寺さんが多く、他には禅宗系があるくらいである。

熊野神社というくらいだから、もともとは修験道系の熊野信仰が出発点であるが、後の時代には神仏習合してそれぞれの土地を鎮守する神様となっている。建物は新しくきれいで、千葉ニュータウンの建設に伴って整備されたもののようである。

ここから約1時間、亀成川沿いのあぜ道を通って帰った。夕方に近づくと風が強くなって、翌朝はかなり冷え込んだ。

この日の経過
自宅 10:25
11:55 火皇子神社 12:00
12:35 長楽寺・大森鳥見神社 12:45
13:05 大森浅間神社 13:15
14:00 竹袋稲荷神社 14:15
14:30 別所熊野神社 14:35
15:35 自宅
[GPS測定距離 16.9km]

大森浅間神社。国道建設のため北側(左)の山体が崩されたが、かつては利根川を望む景勝地だった。


竹袋稲荷神社。ひょうたん池公園からふれあいの小径経由の参道にある鳥居。近年整備されたもの。


金龍山地蔵堂と別所熊野神社(奥)。社屋は千葉ニュータウン建設の際に整備された。


[Jan 7, 2020]

3密を避けて、年末に地元神社にお参り

市の広報車が「年末年始は不要不急の外出はしないでください」と回ってくるし、TVでも初詣は自粛しましょうと言っている。言われなくても人混みは好むところでないので、年内のうちに地元の神様にご挨拶をすませておくことにした。

昨年は大森を中心にいくつかお参りしたが、今回は小林を回らせていただくことにした。例年元旦に、小林の鳥見神社にお参りしているからである。神社参りが不要不急とは思わないけれど、空いているうちに行った方がいいだろう。

小林の鳥見神社は小林牧場と小林駅の間にあり、いつものお散歩コースでもある。境内には誰もいなかったが、新年の支度を終えてきれいに掃き清められていた。参道に台が置かれているのは、消毒液を置くためだろうか。

本殿前には、スーパーのレジのように黄色テープが貼られていて、間隔を開けて並ぶよう注意書きがある。そういえば、途中で通った近くのお寺でも、「コロナのため今年の除夜の鐘突きは行いません」と書いてあった。

元旦に来ると参道の小屋でお札を売っていたり、お焚き上げの大きな火の周りで甘酒をいただけるのだが、さすがにこの日は何もやっていなかった。二礼二拍手一礼でお参りする。今年もありがとうございました。

次は平岡の鳥見神社へ向かう。小林牧場の方向に戻り、平岡斎場の外周を歩いていくと平岡の鳥見神社である。小林より小さいが、ここの獅子舞は県の無形文化財になっている。

鳥見神社は「とみじんじゃ」と読み、祭神であるニギハヤヒノミコトがいらっしゃる「鳥見の里」に由来する。鳥見の里とはよく富んだ土地という意味で、神武東征以前の河内・大和一帯のこととされるが、なぜ印旛沼の西に鳥見神社が多くあるのかはよく分からない。

こちらにもお参りして、今年一年の感謝をお伝えする。獅子舞が伝えられるくらいだから昔は多くの氏子がいたはずだが、いまでは周囲に住宅は数戸しかない。平岡斎場があるため石材店があるけれども、開店休業状態である。

境内に誰もいなかったが、こちらも新年を前に掃き清められていた。特に注意書きもなくテープも貼られていないのは、それほど混雑しないということなのだろう。

次は昨年と同様に竹袋稲荷神社に向かう。こちらは全国的にメジャーなお稲荷さん系列で、木下への舟運が盛んになって以降の開創なので、鳥見神社より新しいと考えられる。

こちらも私一人の参拝であったが、テープこそなかったものの「間隔をあけてご参拝ください」「マスク着用をお願いします」と注意書きがあった。

これら三社がある小林、平岡、竹袋は、いまではすべて印西市だが、明治時代は小林村、平岡村、竹袋村であった。それぞれの村の一ノ宮であったかもしれない。三社の通り道にある、八坂神社と熊野神社、皇大神宮(伊勢神宮)にもお参りした。

熊野神社では、新年の支度中であった。ご近所の方々だろうか、それぞれ境内の掃除をしたり飾りつけをしたりされていた。予報では翌日から大寒波が到来するとのことであり、この日が年内最後の天気かもしれない。

千葉県では昔から、近所の人達が回り持ちで、神社の管理保全や年末年始などの手助けを行うことになっていた。現在では自治会が市町村の下請けのようになってしまったが、もともと自治会とは、そうした祭祀を分担する集まりだったのである。

そういえば、小さい頃子供神輿というのもあって、大きな農家に担いで行きそこでご祝儀をいただくなんてこともあった。子供達にはお菓子であったが、きっと神社には現金を包んだのだろう。

宗教というと、いまではあまり深入りすべきでないものになってしまったが、古い時代には収穫への感謝、家内安全のお礼、病魔退散のお願いと一体のもので、いわば生活の一部分、不可欠なものであった。少なくとも、年末年始のご挨拶くらいは行うべきであろうと思う。

近くのお寺の除夜の鐘突きは、コロナの影響で中止になりました。


[Dec 31, 2020]

2021年の年末も地元の神様にお参り

今年の年末年始も、3密を避けて地元の神様にお参りした。これで3年連続になる。

大晦日・元日は強い冬型で寒気団も下りてくるという予報だったが、大晦日の午前中は風もなく暖かだった。昨年、一昨年に続いて、地元の神社まで歩いた。

最初に向かったのは家から歩いて1時間の別所熊野神社、前回とは逆回りになる。熊野神社は紀州熊野が本宮で全国に末社があるが、こちらも江戸時代に勧請された。金龍山地蔵堂との神仏習合である。

おそらく、別所集落の鎮守・菩提寺として守られてきたもので、本殿の裏に墓地がある。千葉ニュータウン建設時に社殿を改装しており、別所のすぐそばが千葉ニュータウン区域になるからその関係かと思われる。

二礼二拍手一礼で2021年も無事に終わったことに御礼申し上げる。前回来た時には掃除中であったが、今回はすでに仕度は済んでいたようで、境内はきれいに掃き清められていた。

熊野神社から木下に向かって歩くと、20分ほどで竹袋稲荷神社である。前回はここで宮司さんにいろいろお話が聞けてためになったが、今回はどなたもいらっしゃらなかった。

同様に、一年間の感謝をして、来る年も引き続きお見守りいただけるようお願いする。この頃から予報通り風が吹き出した。どうしようかと思って先に進むと、竹袋調整池の向こうに鳥居がある。近所のほとんどの神社にはお参りしているが、ここは来たことがない。

鳥居の先が山になっていて、参道はそこを登るように付けられている。コンクリートの階段を登って行くと、頂上にお社があった。お神輿ほどの大きさの祠が建てられているが、銘板などは見当たらない。鳥居も木製だったので、特に名前は見えなかった。

この山の裏が社会福祉センターで、その上にあるのが天神幼稚園だから、おそらくこのお宮は天神様なのだろう。よく見ると、比較的新しいもので、金属部分もさびておらず金色である。二礼二拍手一礼でご挨拶する。この日はここまでお参りして、風が強くなる前に家に帰った。

翌元旦はすごい強風で、車に乗って初詣でする。お参りしたのは平岡鳥見神社と宗甫皇大神宮。皇大神宮は伊勢神宮を勧請したお宮だから、ご近所に伊勢、稲荷、熊野、天神とメジャー神社の末社がそれぞれあることになる。

鳥見神社はこの地区に多い神社で、場所によって「とみ」とも「とりみ」とも読むようだ。「とみがおか」というのがもともとこのあたりの地名で、メジャー神社が勧請される前からこの地にいらした古い神様である。

印旛沼に近い旧印旛村地域になると、今度は宗像(むなかた)神社が多い。宗像神社の本宮は九州で、奥宮は海の正倉院、沖ノ島にある。最初に印旛沼周辺に入った人々は、九州との地縁があったらしい。

同じく旧印旛村の松虫寺には松虫姫(不破内親王)の伝説がある。不破内親王は奈良時代末の人物だから、東大寺や正倉院ができた時代に生きていたことになる。松虫寺については、またいつか書いてみたい。

別所にある天龍山地蔵尊と奥が熊野神社。裏手にこの地域の墓地がある。千葉ニュータウン開発時に新しく整備された。


竹袋稲荷神社社殿。木下(きおろし)の町が開かれる頃からあるお稲荷さんで、遊女が寄進した「お女郎さん灯籠」があるという。


竹袋稲荷神社の隣の山に鳥居を見つけたのでお参りした。この裏手の幼稚園が「天神幼稚園」というので、おそらく天神様だろう。お神輿のような社殿があるが、説明書きは見当たらない。


[Jan 11, 2022]

松虫寺

印旛日本医大の駅から歩いて10分ほどの里山に、松虫寺がある。

北総線の計画段階では、いま印旛日本医大という名前になっている駅は、「印旛松虫」という仮称であった。現在あるところの日本医大北総病院(救命救急ヘリ)もなければニュータウン住宅地もなく、もっとも近い集落が松虫寺のある松虫集落だったのである。

なぜ松虫寺という名前かというと、ここには聖武天皇の皇女である松虫姫が転地療養したという伝説があり、ご本尊である薬師如来は国の重要文化財に指定されている由緒正しいものなのである。

伝説によると、松虫姫はらい病(ハンセン氏病)に罹り、霊験あらたかといわれる当地の薬師如来を頼って都から遠い印旛沼までやってきた。ここで療養し、日々お薬師様にお祈りしたところ、病が快癒して都に戻ることができたという。

ハンセン氏病が自然治癒することはあまりなさそうなので、もともと姫の病気はアトピー性皮膚炎だったのかもしれない。それなら、年齢を重ねることでよくなったのかもしれないし、雑菌たっぷりの地方の食事が功を奏したのかもしれない(寄生虫が体に入ることでアトピーが顕著に改善することが少なくない)。

松虫姫は都に戻って不破内親王となったが、父は同じ聖武天皇でも母が違う孝謙(称徳)天皇にうとまれ、謀反の疑いをうけて流罪になる。奈良時代末のこの時期、孝謙(称徳)天皇は皇位継承候補を次々と死罪や流罪にしている。

(2つの諡号があるのは2回皇位に就いたからで、中継ぎの天皇も流罪にしている。その天皇は明治になるまで淳仁天皇という諡号がなく、単に廃帝と呼ばれていた)

とはいえ、同母の姉である井上内親王が夫である光仁天皇を呪詛したとして捕えられ、息子(他戸親王)ともども殺されたことに比べると、流罪で済んだだけよかったかもしれない。井上内親王(皇后)は、後に太平記にも登場する怨霊となった。

今日の松虫寺は仁王門の正面奥に本堂があり、向かって左に松虫姫神社、右に瑠璃光殿(薬師堂)がある。瑠璃光殿には重文の薬師如来像が納められており、国の補助で近年建て替えられた新しいものである。

瑠璃光殿の傍らに大木の立った塚があり、小さな祠が建てられている。「松虫姫御陵」と説明版がある。周囲の石柱をみると明治以降のもので、宮内庁の立札は立っていない。姫の遺言で分骨されたものというから、そこまで厳密ではないのだろう。

転地療養でひとつ気になることがある。松虫寺があるのは旧印旛村だが、隣の旧本埜村役場があるのは「笠神」という集落であり、近くに笠神と呼ばれる神社がある。この神様はもともと「瘡神」ではなかっただろうか。

古代に「瘡」といえば天然痘のことだが、医師もいない時代に病名の正確な診断は困難である。天然痘に限らず皮膚に重い症状の出た病気は瘡であり、他に治療法もないので瘡神にお参りしたと思われる。

重文の薬師如来は平安時代のものとされるから、奈良時代の松虫姫とは時代的にも違う。薬師如来(仏教)より早く、瘡神(神道)の信仰があったのかもしれない。もともとこのあたりは、物部氏(神道)の影響の濃い地域である。

松虫姫が病気療養のためこの地に下ったことから建てられた松虫寺。周辺の集落も松虫という。松虫姫は病気が治って都に戻ったものの、政争に巻き込まれて波乱の生涯を送った。

[Mar 29, 2022]




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