鈴木忠平「嫌われた監督」    アダム・ハート「目的に合わない進化」
福田千鶴「女と男の大奥」    角田文衛「待賢門院璋子の生涯」
ビル・パーキンス「DIE WITH ZERO」    月本洋「日本人の脳に主語はいらない」


鈴木忠平「嫌われた監督」

2020年から21年に週刊文春に連載されたシリーズ。著者はnumber(文芸春秋発行)等に記事を掲載するフリーライターだが、その前は日刊スポーツ(朝日新聞系列)で16年間プロ野球記者をしていた。

個人的には、若い頃だけで長いこと野球は見ていない。プロ野球だけでなく、高校野球も大学野球も見ない。私の年代だと2つ上に江川がいて1つ下に原がいて、野球を見ないという人間はあまりいない。

だから、落合の現役時代はともかく、監督になってからのことはよく知らない。だから、話題になっているこの本を読んでも、あまり内容は分からないかもしれないと心配していた。

ところが実際に読んでみると、木村政彦の本以来、久しぶりに読んだノンフィクションの傑作であった。この本は野球の技術論でも戦術論でもなく、実は日本企業の組織論なのである。

落合が監督になるにあたって重んじたのは、ファンサービスでもなければ球団の将来でもなく、契約書に書かれたことを着実に実行することだった。それ以外のことは自分の職分ではない。親分子分もなければ貸し借りもない。

「好き嫌いで野球やったら、損するよ」というのは著者が登場人物の一人に言わせていることだが、それは落合自身がおそらく考えていることだし、著者がそう受け取っていることである。しかし日本の組織は、その当り前のことができないのだ。

落合は監督在任中の9年間、一度もAクラス(3位以内)から落ちていない。そして4度のセリーグ優勝、日本シリーズ5回登場、日本シリーズ優勝1回である。落合解任後は11年でAクラス2回、リーグ優勝も日本シリーズもない。

これは、落合は星野時代の遺産である選手たちで戦っていたからとよく言われるが、9年間もベテラン選手だけで優勝を争えるはずがない。ここまで結果が違うのは、他の監督と何かが違うからだ。

読んでいて、落合がNFLの監督だったら、選手より上の年俸でも、ゲームがつまらないと言われても、何の問題もなかっただろうと思う。実際にそうやって、ベリチックもマイク・トムリンも長期政権を築いている。

そして、それだけの実績をあげている監督を契約満了で事実上解任したのも、日本の組織にありがちな派閥争いであった。中日新聞社内の派閥争いの場外戦が、落合続投を認めるかどうかに波及したのである。その時点で2年連続日本シリーズを争っているのに。

観客が不入りなのは監督のファンサービスがよくないからだというのはとってつけた理由で、おそらく、トップのご機嫌をとらない落合が嫌われただけなのだ。

そして、優勝争いを左右するとみられた巨人戦を敗れて、アンチ落合の球団オーナーはガッツポーズをとったと伝えられた。これを聞いた選手が奮起、翌日から9割近い勝率をあげて逆転優勝を果たすのである。

木村政彦以来、久しぶりに読んだノンフィクションの傑作。落合論というよりも日本の組織論で、これだけの文章が書ける記者が末席に甘んじなければならなかった某新聞社にも、将来はないということでしょう。


落合監督もたいへん興味深いキャラクターだが、著者の鈴木氏もまた相当に興味深い人物である。 中日担当の記者となるまで、鈴木氏はほとんど使い走りのような存在だったという。すでに記者歴10年に近く、若手というより中堅に近いにもかかわらず、記者席の末席にいたのだという。

中日担当とされたのも、デスクが「星野監督を”仙さん”と呼び、落合監督は”オチアイ”と呼ぶ」ような記者だったから、落合監督に取材できるような腹心がいなかったのがおそらく真相である。(だから、落合解任と同時に異動になった)

本人によれば、固有名詞を誤って記事にすることが多かったというが、そういう時のために校正係やデスクがいる。1度でもケアレスミスをした記者であれば、上司としてきちんとマークしなければならないはずだ。

私が考えるに、おそらく真相はそうではない。鈴木氏も落合と同様、組織に嫌われていたのである。その理由はおそらく、記事を書く力が優れていたからである。

氏の属していた日刊スポーツは、朝日新聞系列のスポーツ紙である。朝日新聞は、「人材の墓場」として知れ渡っている。一流大学卒を山のように採用し競争させる。勝ち残った人は出世街道を走るが、そうでない大多数は日の当たらないサラリーマン生活を送る。

そういう人達が寄稿するから、朝日新聞の社内報はとてつもなく高いレベルなのだそうである。しかし、どこの社内報でもそうだが誰も読まない。一流大学卒で能力があるにもかかわらず、そうした境遇に甘んじなければならない。

とはいえ、一般社会に比べると格段に高い給料と福利厚生があるので、生活に苦労することはない。一戸建てを買って高い車に乗り、周囲からみればエリートである。ただ、本人の能力に見合った待遇であるとはいえない。

そういう風土の組織にあって、鈴木氏の出身大学は有名大学ではない。おそらく、スポーツ界の有名人との共通項(同じ学校、同じスポーツなど)もない。そういう人間は末席に置かれるのが、悲しいかな日本の体育会系組織なのである。

おそらく彼のかかわった誤報もかなり意図的なもので、言葉は悪いがみんなグルなのである。(例えば、「それだったらやまちゃんだよ」「やまちゃんって誰ですか」「やまちゃんはやまちゃんだよ」みたいな)

この本を読むと、構成にせよ話題の展開の仕方にせよ、前に示された謎の回答が忘れた頃に示されるような起承転結の妙にしても、並みの才能でないことは分かる。ただ、もともとスポーツ記者として基本的な訓練を受けているので、カバーできる範囲が狭いのはやむを得ない。

落合も、選手として監督として大成功し、それに見合う処遇を勝ち取ったのだが、もともと体育会系組織と肌が合わず、高校も大学も野球部員としての活躍はほとんどない。プロ入り前にいた東芝府中も、初めは季節工として入ったという。

日本の組織で能力や努力、実績に見合う待遇を得るのは、至難の技なのである。まして、組織の中で生き抜くコネやノウハウ、適性を持たない者は、そこに行くまで潰されるのが大部分だろう。

ただ、少なくとも確かなのは、中日ドラゴンズは落合解任以降低迷したままだし、中日新聞も朝日新聞も(もちろん読売新聞も)、業績悪化に歯止めがかからないということである。

[Jan 18, 2023]


アダム・ハート「目的に合わない進化」

目的に合わない進化とは、作者の言葉を借りれば「危機的な事態に対処するために進化してきた生理学的反応と、現代のライフスタイルがもたらしている健康上の問題の間に、明らかな不適合が存在する」ことである。

それだけ聞くと、飢饉に備えるため進化してきた脂肪を貯め込む生理学的反応が、現代では肥満や糖尿病、心疾患、さまざまな疾病の原因となっていることだろうと早合点してしまうが、作者はそれもタブロイド的(日本だとワイドショー的)発想だと言う。

というのは、そもそも飢饉で死亡率が上がったという証拠はないし、進化に影響するほど頻繁に起こった事象ともいえない。そして、農業発生により飢饉のおそれが激減して以降約1万年の間に、進化がまったくなかったという前提でいいのかという。

確かに、人間の寿命と繁殖期間からいえば100年で3~4世代。1万年あれば300~400世代になる。全人口に広がるほどの変化は起きなかったかもしれないが、それなりに遺伝上の影響が出てもおかしくない。

著者が例にあげるように、中国では欧米に比べて乳製品の消費量が少ない。これは、中国人の多くは乳糖を消化する酵素を持たないからである。しかし、酪農が始まったのは農業と同じ時期なので、それ以来の影響だとすると約1万年のレベルなのである(乳糖の消化は酪農により進化したと考えられる)。

そして、われわれが自分の体質だと考えているものは、例えば上にあげた乳糖の消化とかアルコールの消化、ストレス耐性も含めて、「ヒト」としての機能に加えて体内の細菌・バクテリアが寄与している度合いがたいへん大きいのである。

細菌・バクテリアの寿命は短く、繁殖期間も日単位。だとすると、1万年の歳月は遺伝上の特質が変化する=進化するのに十分な時間なのである。

だから、近年になって増え続けている肥満や免疫関係の疾病増加は、体質と環境の齟齬というよりも、単にカロリーの取りすぎであるという指摘はそのとおりだろうと思う。しかし、後半で展開するところの現代の生活環境の例示が、どうにもピンとこないのである。

というのは、スマホやSNSの普及により常時情報に接続する生活になったことにより、本来生存のために進化したストレスへの対応が変質して、どうでもいいことに反応するようになったというけれども、私個人はそういう生活はしていない。

スマホはあるがSNSなどやっていないし、終日誰かからメッセージが入ることもない。奥さんに至ってはスマホすら持っていない。著者がいうストレスフルな生活はかなりの部分避けているし、避けられるものだろうと思う。

別に常時接続していなくても命にかかわることはそうそう起こらない。逆に、常に最新情報に敏感にしていれば、少なくとも血圧は上がる。血圧が上がれば病気になりやすいし、本当に生死にかかわる徴候に気づかないかもしれない。

別にスマホやSNSに最適化して進化しなくても、便利なものは取捨選択して使えばいいだけの話じゃないかと思ったりする。本の表紙(下の写真)にあるような、猫背で常にスマホを見る生活を誰もが送っている訳ではない。

[Apr 5, 2023]

自然科学に関する本は、2010年以降DNA分析をはじめ新たな知見が加わって、それ以前とはまったく違った内容になっている。だが、常時接続が現代の一般的環境かというと…。


福田千鶴「女と男の大奥」

2021年に吉川弘文館から刊行された本。吉川弘文館というと、日本書紀絶対みたいな古いイメージがあるけれど、前に採り上げた「古代の皇位継承」もそうだがこれまでの形式ばった視点から脱却しようという意欲がうかがえる。

まえがきに「俗説的な視点で語られることの多い大奥像を大きく改めることを目指す」とあり、たいへんな意気込みでスタートするが、実際読み始めると、なるほど目から鱗が落ちる内容であった。

俗説的という意味ではTVドラマの大奥像もそうだし私のイメージもそうだったのだが、将軍専用のハーレムというか、大規模な風俗店のようなことを想像するのだが(ドラマでは大奥も吉原もあまり違わない)、実際はまったく違う。

考えてみれば当り前で、大奥というのは将軍の私邸なのだから、生活の場としての要素が第一である。そして、将軍の身の回りのことをする使用人だけで数百人、バックヤードを含めれば千は下らない人数を擁する大組織なのである。

現代に例えれば、給食センターと託児所と幼稚園・小学校、病院、薬局、クリーニング、不動産管理(一種の貸しビル業である)、スーパー銭湯、理容美容、運送会社、ユニクロやホームセンターの出張店舗、さらに介護施設の要素もある。その上に専用キャバクラなのである。

当時は水道も電気・ガスもないから、そういった手配も含まれる。冷房はないけれど冬は暖房が必要だし、畳や障子は消耗品である。そのうえ着るものは和服しかない。それらの手配すべてが大奥の仕事なのである。

だから、キャバクラの指名ナンバー1が大奥を仕切るなんてことはできない。そうした雑事全般に通じていて、かつ幕府の男役人に対して一歩も引かず折衝できなければ大奥を切り回せないのである。春日局みたいな、いけ好かない中年女でないと無理なのである。

実際、将軍の正妻(御台所)やお世継ぎの母親はそれなりに席次が上になるが、大名家からの付け届けの上位に名前が来るのは実際に大奥を仕切っている女ボス(老中ならぬ老女という)である。京都から下ってきたお公家の姫様では荷が重いのである。

吉川弘文館の最近の本はなかなかおもしろい。大奥は将軍専用キャバクラ(だけ)ではなく、託児所であり病院であり給食センターでダスキンでタクシー会社なのは考えればすぐ分かることだが、気が付かなかった。


そして、大奥というと男子禁制というイメージがあるけれど、将軍の子供を養育するのが仕事のひとつだから、男の子であれば男友達が必要である。一応9歳以下という縛りがあったらしいが、かなりの数の男子がいたのである。

さらに、大奥は不動産管理業であり出張店舗でもあるので、当然業者さんが入って来る。入れる業者は決まっていたにしても、中に入らなければ仕事にならないことも多い。

「奥方法度」「女中法度」という「武家諸法度」大奥版のルールがあって、その中には畳替えは隔年、障子は年1回、破れたら基本自分で修繕するなどと細かく定められていた。部屋数も多いから作業も多く、実際は業者さんが入らないとできない。

通行証はあったけれど、大工の親方などは、来るたびにメンバーが違うのだからいちいち名前は届けられない。親方他何名でいいだろうなんて話になる。

他に、暖房用薪炭の運び込みや水くみ、ゴミ収集、大きな荷物・重い荷物の運搬には男手が必要である。そうした仕事をするため、いわゆる下男がいた。厳格に運用するようたびたび通達が出ていたということは、注意されなければ大奥に入れて作業させていたんだろう。

また、大奥は将軍私邸なのだから、嫁に行った娘が里帰りする場所である。江戸時代は、政略結婚で大名家に嫁いだ将軍の実の娘や養女がたいへん多い。そうした娘が帰ってきてその内情を話すから、大奥には外交や諜報部門としての機能もあることになる。(鎖国しているので諸大名とのつきあいが外交になる)

さらに、正規のルートで将軍に伝えにくい事項は、大奥を通じて内々にお伝えするというルートもあった。これを「内証ルート」といいたびたび禁止されたが、そんなものなくなる訳がない。うるさい奴は将軍の人事権で飛ばされるだけである。

そうした情報が集まる場所だから、大奥は早くから裏人事部のようになり、今日の選挙事務所に似た機能を持つようになる。公共工事の多くが議員の事務所で差配されるのは、江戸時代から現代まで続いているのだ。ますます、キャバクラのナンバー1では勤まらない。

こうしたさまざまのヒントを与えてくれた本なのだが、残念ながら「大奥法度」「女中法度」を中心とした文献研究が中心で、考察の範囲も家綱・綱吉あたりまでである。大奥が大混雑したはずのオットセイ将軍・家斉時代のことはほとんど扱っていない。

著者の考えとしては、「法度」などのルールが変わっていないので状況も同じということなのだが、部屋が一杯になり託児所も順番待ちになるような状況で大奥がどのように運営されたのか、たいへん興味のあるところが割愛されてしまったのは残念である。

[Apr 30, 2023]


角田文衛「待賢門院璋子の生涯」

ジャニーさんが事務所の若い男の子に片っ端から手を付けていた事件が報道されている(NHKや民放はガン無視)。だからという訳ではないが、白河法皇について調べたくなった。

白河法皇は平安末期の天皇で、摂関家の勢力後退によって絶大な権力を握った。意のままにならないのは「鴨川の水、サイコロの目、比叡山の僧兵」だけと豪語し、「自分ほど権力のある天皇はかつていなかった」と自画自賛したことも有名である。

70代後半まで長生きし、その間男女問わずやたらと手を出したこともよく知られる。待賢門院はそういう女性の一人で、法皇の養女で孫の鳥羽天皇の中宮でありながら、法皇の愛人という関係を続けたとされる。

この本は昭和四十九年の初版で、図書館でもすでに処分済みか書庫にしまわれていることが多い。とはいえ、内容はなかなか興味深い。それは噂話ではなく、実際あったことだと検証している。

著者は大阪市大教授から平安美術館館長。平安時代研究の専門家で、2008年に亡くなっている。皇室のご先祖にあたる方をここまで書いていいのだろうかと思うが、従四位勲三等瑞宝章をいただいているので問題なかったのだろう。

「これは興味本位ではなく、保元の乱はじめ重大な結果を招いたことから、立ち入った詮索をせざるを得ない」と著者は述べている。それにしても、待賢門院の生理周期から入内前の評判、入内後の行動を細かく分析しているのは、恐れ入るばかりである。

約千年前のことではあるが、当時の貴族の日記がかなりの数残されており、それらにより綿密な分析が可能となる。崇徳天皇が産まれた260~270日前の元栄元年(1118年)9月、待賢門院(当時中宮)は里に下がっており、中宮は法皇の養女だから院の御所にいた。そして、あちこち出回って落ち着かない白河法皇が、この時は御所に戻っていたのである。

現代であれば、誕生の260~270日前が受胎日の可能性が高いという知識があるが、平安時代にはそういう知見はなかった。だからバレないと思った訳ではないだろうが、そうはいかなかった。

というのは、中宮が法皇の御所から戻って間もなく、穢れにより(死体の一部が発見されたらしい)内裏全体が潔斎に入ったのである。その結果、鳥羽天皇と中宮の接触はこの時期にはなかったと考えられるのである。

にもかかわらず中宮が懐妊したものだから、さすがの鳥羽天皇もおかしいと思った。だから、十月後に産まれた皇子のことを鳥羽天皇は「叔父子」と呼んだ。名目上は子であるが実際は叔父であるという意味である。

この時代、現役の天皇よりも上皇(法皇)に権力があった。摂関はじめ諸大臣すべて法皇の味方であり、加えて祖父でもある。逆らったところで誰か別の人物を天皇にされるだけであり、逆らわなかったが実際そうなった。

法皇から、五歳(満年齢だと3歳)になったばかりの「叔父子」に譲位することを指示されたのである。新しい天皇は、のちに崇徳院と呼ばれることになる。

待賢門院については、どちらかというと興味本位的な取り上げられ方がされていて、きちんと証拠を当たって分析した研究は多くない。ところがこの本は、半世紀前の分析にもかかわらずいまだにリーダブルである。
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鳥羽天皇の中宮になってからも待賢門院は「法皇の愛人」が主業務であったようで、年のうち半分は院の御所に戻っていたことが確認できる。(ちなみに、院はすでに60~70代だが、他にも愛人がいた)

しかも、生理期間中は内裏にいて、終わると院の御所に戻るということを繰り返していた(普通は逆)。そういう時、何ヶ所も御所のある白河法皇も必ず戻ってきているので、貴族の日記にもご寵愛が過ぎるみたいに書かれてしまうのである。

そもそも中宮になる前、鳥羽天皇のもとに入内するにあたっても世間(といっても高級貴族)は好感を持っていなかった。「乱行で不可思議な人を入内させるとは、日本第一の奇怪事」と関白・藤原忠実が日記に書いているくらいである。

もともと法皇は養女である璋子の縁談を忠実の息子に持って行ったが、忠実がこれを固辞した。理由は明らかにされていないが、この記事をみる限り璋子の素行が大きかったことが窺われる。

しかし、独身の男女の関係がそこまで問題視されるだろうかと著者は考察する。忠実自身、人の妻に手を出したりしているのである。ここまで口を極めて非難するということは、男女関係にそこまで潔癖でなくても、認めがたいことではなかったのか。

おそらくそれは、養女という義理の親子にもかかわらず実は愛人であるということが一点、それは自分の家に縁談が来たら断るレベルで済ませるとしても、孫である天皇の中宮にするのは倫理に反すると感じたのではないだろうか。

だから、この少し後で平家が台頭し、さらに鎌倉幕府ができて武家に政権が移ったことについて、「武士の時代となったのは、天皇家の不倫に原因がある」と書かれることにもなったのである。

もう一つ、待賢門院の略歴をみて考えさせられるのは、白河法皇の養女になる前、もともとの家系が閑院流であることである。閑院流は道長の父・兼家の弟である公季の子孫で、家格としては摂関家に及ばない。

しかしこの時代、にわかに注目を集め、皇室とも摂関家とも婚姻関係を結べるようになる。その大きな理由が、摂関家に冷遇された後三条天皇の后で、白河法皇を産んだ女性が閑院流だったことである。

白河法皇だけでなく、鳥羽天皇の母も閑院流で、待賢門院とは母方のいとこにあたる。こうした色濃い近親結婚のためか、待賢門院の産んだ6人の皇子女のうち2人に障害があり、幼いうちに亡くなっている。

そして閑院流からは代々の乳母が選ばれて、天皇にとってたいへん身近な存在であった。加えて、姻戚から何人かの養子を迎えているのだが、彼らを白河法皇の男色相手とすることで出世の糸口を握ったのである。

ここで最初のジャニーさんに結びつく訳だが、それはそれとして、なぜゲイの血が淘汰されず現代まで残っているのかということである。ゲイは子孫を残しづらいはずなのに。

有力な理論の一つが、ゲイの男は子孫を残しづらいものの、ゲイ血統の女性がそれを補うほど多産だからというものである。

待賢門院の生涯について読みながら、本筋とはあまり関係ないそんなことを考えていた。ちなみに、著者の角田博士在世中にはそういう知見はまだなかったので、そんなことは書いてない。

[May 31, 2023]


ビル・パーキンス「DIE WITH ZERO」

たまに、世の中が自分に追いついてきたと感じることがある。この本は図書館で予約待ちをするくらい注目されているのだが、読んでみると私が以前から思っていたことがほとんどであった。

「DIE WITH ZERO」とは、死んだ後におカネを残したって意味がない。子供に残すにせよ福祉事業に使うにせよ、必要なものなら生きているうちに贈与すべきである。タイミングを逸しては意味がないということである。文字通り「ゼロで死ね」が分かりやすい。

われわれは「アリとキリギリス」の童話を聞いて育ってきたから働いて働いて冬に備えるのが当然と思っているが、アリは働き過ぎだしキリギリスは貯金しなさすぎ。最適のバランスがあるのではないかと著者は言う。

おカネで代えられる時間はあるけれど、代えられない時間もある。若いときは2度とないし、心身が健康なのも限られた期間だ。後からでは経験できないタイミングは必ずある。幸運と同じで、後ろに髪の毛はない。

多くの人はこのことを分かっていない。アメリカでは(日本でも)年齢ごとの財産額をみると、年取れば年取るほど多い。いったい何を待っているのだろうと著者はいう。老年期になる前に、財産は取り崩して2度とできない体験をすべきだ。

とはいえ、われわれ貧乏人は、言われなくても財産を使い果たしてから死ぬことになる。大多数の人はそうかと思っていたら、そうでもないらしい。だから一人暮らしの老人がルフィーに狙われたりするのだ。

著者はいう。何百万ドル残したこと自体を得意がることに全く意味はない。それは、使わないおカネを稼ぐために無駄な時間を費やしたことに他ならないからだ。万一のために備える金融商品はあるし、やみくもに不安がっているのは知恵が足りない。それよりも、その時しかできない体験をするために時間とカネを使うべきだ。

著者はトレーダーとして大成功して、カリブ海のリゾートホテルを1週間借り切って自分の誕生パーティーをするようなセレブだが、人生のある時期(40~50歳代)をピークにして、資産をゼロに向けて取り崩し中であるという。

カネよりも時間、そして経験の方がずっと大事である。いよいよ動けなくなり、カネがあっても延命治療にしか使えない時がやってくる。それまで、できるだけ多くの経験をしておきたい。楽しみは全米各地のポーカートーナメントに出ることと書いてある。

私はセレブとは遠いところにいるけれども、ポーカートーナメントがどういうもので、どのように楽しいかは実際に体験してよく知っている。著者の言うように、その時しかできないことを体験するのは、おカネには代えられない価値がある。

人生の価値は残した遺産の額で決まるのではない。本人にとっても、数週間かせいぜい数ヶ月の延命措置のために数年分の稼ぎを充てるのは馬鹿げている。人生の豊かさは、有意義な経験をどれだけ積むかで決まる。当り前のことだ。

とはいえ、著者の考えに100%賛同する訳ではない。首をひねる主張もいくつかある。

邦題「人生が豊かになりすぎる究極のルール」なのだが、どうだろうか。そのまま直訳して「ゼロで死ね」の方が著者の考えを示すように思う。


著者の考え方は基本的に私と同じだが、違うところもある。将来収入が増えるのなら、借金してでも経験を積めと主張するが、予想(期待)どおり上がるかどうかは確率の問題である。

アメリカのように、朝出勤したらデスクが片づけられていてリストラされていたなんてことが珍しくない国で、見込み収入を資金計画に組み込むようなハイリスクなことは私はできない。それを本にして多くの人達に知らせようという志は見上げたものだが。

そして、世の中はいろんな人がいる。みんながコメや小麦ばかり食べないから食糧危機が回避されている。同様に、死ぬまでおカネを使わない人達が大勢いるから、金融危機が危ういところで回避されている。それで世界がつつがなく回っているのだ。

「リスクをとらないことがリスク」だと著者は主張するが、これも経済理論としては正しくない。人それぞれ、期待値と分散の組み合わせが違うからである。

2%のドル定期預金で満足する人もいれば、予想利回り10%で投資しなければ損だと思う人もいる。どちらが理論的に正しいとはいえない。著者はインフレ率+3%で投資できることを当然のように前提におくが、誰でもそれが可能なら定期預金利率がインフレ率+3%になるだけの話である。

言い方を換えると、インフレ率+3%で運用できるとみんな思っているけれども、誰かはインフレ率を下回るし、誰かは損をする。俺は絶対損をしない、頭の出来が違うからと思っている人は、いつかリーマン・ショックで手痛い目に遭うだけである。

また、「カネ、時間、健康」が人生で重要な3要素であると指摘している。そのこと自体に異論はないが、その3つがトレードオフの関係にあるのか、若干の疑問をもっている。

カネと時間がトレードオフであることはそのとおりだと思うが、健康とその2つの関係はどうなのだろうか。著者はカネで健康が買えると思っているようだが、個人的にはそれは違うような気がする。

いままさに考えているところだけれど、カネがあって好きなことをできるのは、健康にとってマイナスなのではないかという感触がある。カネで時間を買えるように、健康を買えるかどうかは疑問である。

そうした点で著者と私の考えは違うのだが、おそらく最大の違いは、それを多くの人に説明したところで、分からない人は分からないし、分かる人は言われなくても分かっているということである。(「説明されなければ分からないということは、いくら説明されても分からないということだ」©村上春樹)

著者いうところの「自動運転モード」、惰性と人真似で生きている人達がきわめて多いことは骨身にしみて分かっている。しかし、そういう人達に「自分の頭で考えましょうよ」と言ったところでムダだし、逆恨みされるだけである。

自分の頭で考えられない人達が人生の楽しみを十分に味わえなくたって、それはそれで仕方がない。それで幸せなんだから、WIN-WINである。死ぬ間際に後悔するとしても、それは翌月回って来るクレジットカードの請求と同じことである。

[Jun 28, 2023]


月本洋「日本人の脳に主語はいらない」

たいへん難解で、1度読んだだけでは中身が頭に入ってこない。2度3度繰り返し読んでようやく内容が(半分くらい)理解できる。しかしながら、最新の脳の知見を取り入れた、サジェスチョンに富む本である。

著者は1955年生まれというから、私より2つ上になる。東大工学部を出て、執筆当時(2008年)は東京電機大学教授。

題名からすると、英語と日本語の比較文化論かと思ってしまうが、そんな簡単なものではない。著者によれば、文法は脳における情報処理では氷山の一角で、水面下に認識、言語、思考といった膨大な処理が隠れているのである。

いまはやりのfMRIやMEG(磁気診断装置)などの機器で脳のどこで処理されているか調べると、なんと英語を聞いた場合と、日本語を聞いた場合で、使われる脳の部分が異なる。おそろしいことである。

簡単に言うと、日本語の処理は左脳だけで完結するのに対し、英語は右脳と左脳で情報のやりとりが行われる。「It rains.」の"It"や「I love you.」の"I"は右脳で必要な情報で、文法上どうこうという問題ではないらしい。

例えば「飯を食いに行こう」と言う場合、英語ならば必要な人称代名詞(Let'sのus)が日本語では使われない。これは意味が明白だから文法上省略されているのではなく、そもそも右脳で「誰が」という処理が行われていないのである。

こうした脳における処理のプロセスは、生後間もなく、赤ちゃんが母親や周囲の人間に影響されることにより形成される。「模倣」以前の反射に近いものらしい。この時点で、赤ちゃんはまだ「自分」と「他人」の区別はついていない。

それが、生後半年ほどで自他の区別が可能となり、他人に対して意思を表現できるようになる。最初は泣き声や身振り、次に片言、そして2、3歳頃には言葉による意思疎通が可能となる。

この脳の仕組みは生涯変わらない。われわれは、言葉にする以前に脳内でその前段となる情報処理(思考)を行い、意思決定したり言語化しているが、その仕組み自体は幼少時に完成されているのだ。

だから、英語(ほかの言語も)と日本語は単語が違い文法が異なるというだけでなく、脳のソフトウェアがそもそも違うのである。考えてみればおそろしいことで、小学校に進む以前に、すでに学習可能性がかなりの程度決まっているということになる。

世界ではときおり、野生動物に育てられた人間の話があり、この本にもでてくる。こういう人達はほぼ全員言語能力がないが、それはそうした機能が作られる時期に人間と暮らしていないため、脳にそういう仕組みがないことによる。

いわゆる「ミラーニューロン」のことで、他人の真似をすることで同じような神経のつながりができ、その処理を繰り返すことで脳内でソフトウェア化する。だから、「リアル」もののけ姫がいたら、言葉も話せないし2足歩行もおぼつかない。(実際、「狼に育てられた少女」はそうだったらしい)

それは常識的に考えてそうだろうと思うし、だとすると努力してできる範囲というのは思いの他少ないことになる。長生きしたことでそうした知見が明らかになったのは、知識が広がったとともに少し寂しくもある。

[Jul 25, 2023]

たいへん難解な本であるが、最新の知見を取り入れた示唆に富む本である。脳のソフトウェア、情報処理の仕組みは最初に覚えた言語により決まるらしい。だとすると、帰国子女でなければ基本的にバイリンガルにはなれないことになる。



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