更科功「美しい生物学講義」
スティーヴンス「誰もが嘘をついている」 更科功「美しい生物学講義」
さいきん一押しのダイヤモンド社の本である。今回は翻訳書でなく日本語で書かれた本だが、養老孟司先生や佐藤優が推薦しているだけあって、読み応えがある。 セス・スティーヴンス「誰もが嘘をついている」
図書館で背表紙をみた時、ビッグデータを頼り過ぎると間違えるという「統計のウソ」的な本かと思った。読み進めると内容はまったく逆で、ビッグデータは嘘をつかない、人間がアンケートで答える内容が嘘ばっかりだというものである。 野村朋弘「諡(おくりな)」
まず、私の不勉強についてお詫びしなければならない。しばらく前の記事で、醍醐天皇はチーズケーキ(醍醐)が好きだから諡号となったと書いたが、これは間違いで、醍醐は「追号」であって「諡号」ではない。 モントゴメリー&ピクレー「土と内臓」 原題「Hidden Half of Nature」、自然の隠れた半分である。自然というと、動物や植物といった目立つものばかり見てしまうが、それらよりはるかに広大な微生物の世界があるという趣旨である。「土と内臓」は、その世界を意味する超訳である。 森達也「オカルト」
オカルト系については、学生の頃たいへんホットな話題だった。こっくりさんとかユリ・ゲラー、ノストラダムスのブームがあった。オウムの幹部連中も私とほとんど同年代だし、この本の著者もひとつ違いである。 南清貴「安い食べ物には何かがある」 物価高の折柄、食料品の値段もうなぎ登りである。役所と政治家が一体となって消費者物価の伸びを低く操作しているから、年金は増えないのにインフレがどんどん進む。できるだけ安い買い物をしたいのは人情である。 次の本
野村朋弘「諡(おくりな)」
モントゴメリー&ピクレー「土と内臓」
森達也「オカルト」
南清貴「安い食べ物には何かがある」
前回採り上げたヘンリー・ジーの「生物全史」が人間中心、もっとも高度に進化したのが人類という考え方で構成されているのに対し、この本は何が高等で何が下等かなんて決められないし、意味がないという。そのとおりだと思う。
さて、題名からすると生物学全般について概説している本のように思えるが、実際は科学全体の議論から始まって、生物学については部分的に扱っているだけである。科学全体の話は面白くない。そして、生物の定義もあまりすっきりしない。
少なくとも地球上の生物については、①膜で外部と区切られていること、⓶代謝すること、③自分の複製を作ること、で定義されるというが、本の後半では、限りなく長く生きれば複製は作らないかもしれないと保留している。
とはいえ、生物学についての最近の知見はいくつか含まれている。印象深かったのは、人類と類人猿を分けたのは、一夫一婦制かもしれないという仮説である。
人類と類人猿の体の違いは、直立二足歩行と犬歯の縮小である。二足歩行はニワトリやティラノサウルスだってするけれども、直立するのは人類だけである。類人猿も二足歩行できるけれど、基本的に四足歩行で全速で逃げる時はそうする。
犬歯の縮小は道具を使って狩りができるようになった結果といわれてきたが、道具ができるより前に犬歯は小さくなっていたらしい。そのことと直立二足歩行を両方説明できるのは、人類は最初から一夫一婦制だったのではないかという仮説だという。
一夫一婦制によりオス間の闘争が少なくなったことにより、犬歯は小さくなった。また、家族に食糧を持ち帰る必要から両手を空けるため、直立二足歩行の必要が生じた。
牙でライバルを噛み殺したり、手足とも使って速く走れる個体よりも、争いを好まず、家族を飢えさせない個体の方が子孫を多く残せる、つまり進化上有利な戦略であることから、人類はいまのようになったというのが最新の仮説である。
半世紀前の社会学では、家族制度の発展形態として、原始乱婚制からプナルア婚、女系家族、男系家族なんてことを教わってきたけれども、実は最初から一夫一婦制で、それにより人類が類人猿から分かれたという見方が有力になっているのである。
私の若い頃すべての学問でマルクス的な考え方が幅をきかせていて、社会も未開の時代から徐々に発展すると教わってきたが、理屈で家族を作る訳ではない。原始時代が乱婚制で、知恵がついたら一夫一婦制というのは考えてみれば不自然である。
アラブの石油王だって昔の天皇だって、奥さんが複数いるくらいでみんながオットセイのようにハーレムを作っている訳ではない。資源を得るのが難しいほど、オスが子育てに協力した方が生き残りやすいはずである。
カルフーンのネズミ実験によれば、ハーレムを作るオスの他は大部分がメスを得られないという社会では、家族制度は次第に崩壊し、最終的に生殖活動が行われなくなるという。
鳥だって動物だってつがいになるものは多くいるし、オットセイが繁栄しているかというと、衰退ないし絶滅に向かっているというのが実態である。家族制度は理屈ではなく、どういうやり方が生き残りに有利かなのである。
[Jan 24, 2024]
どちらかというと科学全般の説明が多く、かったるい印象がある。いくつか採り上げられた生物学の話題の中で、人類の家族制度についての仮説が興味深かった。
競馬ファンにとって印象深いのは、アメリカンファラオについての考察である。この馬はアファームド以来37年ぶりの米国三冠馬というよりも、馬名登録の際にスペルを間違えたことで有名なのだが(ファラオpharaohとあるべきところpharoahで登録した)、コンサルタントがセリの時点で素質馬であることを見抜いたそうである。
その根拠が、昔ながらのホースマンのように血統とか馬体とか歩様ではなく、統計データに拠ってなのである。特に注目したのが左心室の大きさだという。(米国では、簡単に馬の超音波検査ができるのだろうか)
人間に話を移すと、プロスポーツの花形選手、特にアフリカ系(黒人)選手には貧困層からスターダムに登りつめたというアメリカンドリーム的イメージがある。しかし、ビッグデータでみるとそれは正しくないという。
MBAやNFLのトップ選手の中には確かに貧困層出身者もいるが、マスコミ報道で目立つだけで、比率としては必ずしも大きくない。母集団の数とトップ選手を比較すると、むしろ裕福な育ちの方がプロになりやすく、トップ選手にも多いのだ。
それは、各選手が自発的に明らかにしている出身地や出身校のプロフィールから解析できる。この説明で面白かったのは、貧困層やシングルマザーにはポビュラーネームより「キラキラネーム」を子供に名付ける例が多いという指摘である。
確かにNFLのトップ選手でも、「パトリック」マホームズをはじめ(彼は父がMLBで母親が白人だから別格かもしれない)、ラッセル、ラマーなど普通のファーストネームがほとんどである。キラキラネームを探す方が難しい。
競走馬やプロスポーツ選手は従来型のデータで、技術的進歩やデジタル化によって検索が容易になっただけだが、ビッグデータの破壊力はまた別である。いま現在、もっとも多くのビッグデータを持つのはGoogleである。
例えば、利用者がどんな検索ワードを入力しているか、リアルタイムかつ網羅的に把握できるのはGoogleだけである。ビッグデータのどこが優れているというと、類型別の条件づけをしてもデータの精密性が変わらないからである。
デジタル写真で、画素数が少ないものと多いものを著者は例として挙げる。画素数が少ないものを拡大すると画面は粗くなるが、十分に多ければ画像は劣化しない。
地域ごとや年齢ごと、その他諸々にカテゴリーを分けても、十分なデータが確保できるのがビッグデータである。
題名の印象とは異なり、ビッグデータは嘘をつかないという本である。ビッグデータが社会科学を真に科学たらしめることになると著者は主張する。
それでは、ビッグデータは万能なのか?例えば翌日の証券市場を予期できるかというと、それはできないと著者はいう。
100枚のコインを毎日投げて、証券市場の騰落と一致するものがある可能性はきわめて少ない。しかし、100枚を1万枚、10万枚と増やしていけば、値上がりする日に必ず表、値下がりする日に必ず裏となるコインも出てくる。
しかし、そのコインを投げて表になったから翌日は値上がりするかというと、そうなるとは限らない。前日までの的中はあくまで偶然だからである。限りなく多くサンプルをとれば偶然の一致が起こる可能性も高まるが、次も当たる確率はあくまで偶然だからである。
同様に、数限りなくある遺伝子のどれかが成績優秀者に共通するからといって、その遺伝子が天才遺伝子であるかどうかは分からない。偶然そういう結果であった可能性を排除できないからである。
ビッグデータを使った解析では、関係性は推定できるけれど因果関係であるかどうか分からない。初めに紹介した馬の能力の話でも、心臓(左心室)が大きいことがなぜ競争能力を高めるのかは分からない。原因と結果ではないのかもしれない。
とはいえ、そこまで分からなくても有効な意思決定ができるならば、それで十分ともいえる。いくつか紹介されていた事例の中で興味深かったのは、貧乏人が長生きするためにもっとも有効な手段は、カネ持ちの多い地域に住むことだそうである。
著者は、意識せずにカネ持ちの生活習慣と似てくるからと説明しているが、禁煙や運動習慣や規則正しい生活を真似するだろうか。おそらくこれは、そういう人達はそういう地域を好むという原因と結果の逆転があるような気がする。
正直言って、内容はともかく書きっぷりが小生意気で鼻に付く。翻訳者が原著のトーンを日本っぽく通訳したのだと思うけれど、せっかくの主張が薄っぺらに感じられるのは惜しまれる。
「Everybody Lies」という題名にしても、内容を適確に表してはいない。おそらく、本書中でも触れられている「ネット上のA/Bテスト」で、もっともクリックする人が多かった、つまり人目を引く題名であったからこうしたのだと思う。
読者に新たな知見に触れてもらいたいと思っていたら、こういう題名は付けないだろう。このあたりからも、著者の性格は推測できるが、「俺は頭がいい」と言いたいから本を書くのがアメリカ的なのかもしれない。
[Mar 7, 2024]
平安時代の貴族は諡号と追号を厳密に区別していて、それぞれの手続きがまず違う。そして、諡号が価値判断、さきの天皇の業績や人柄を評価して定めるのに対し、追号は価値判断を含まず、いわば通称である。
「醍醐」は諡号でなく追号で、御陵のある地名から採った。このあたりの地名・醍醐山は醍醐天皇が生まれる前からその名前である。おそらくチーズケーキを醍醐と名付けたのも、地元の地名から採用したのだろう。いまでもよくある話である。
そして、私は過去数十年来、井沢元彦はすごいと思ってきたのだけれど、これについても疑問符を付けざるを得ない。というのは、彼の十八番ともいえる怨霊信仰の決め手の一つが、「贈・徳の字鎮魂法」だが、これは井沢元彦のオリジナルではなく、平安時代すでに貴族が書き残していることだったのである。
「贈・徳の字鎮魂法」は、聖徳太子からはじまって、孝徳、文徳、崇徳、安徳、順徳、顕徳(後鳥羽)の徳の字が付く天皇は、怨霊となることを恐れて贈られたという主張である。確かにこの方々は、やすらかな人生を送ったとは言い難い天皇・皇族である。
ところが、「崇徳院を崇徳と諡したのは、怨霊を恐れたためである」と愚管抄に書いてある。愚管抄も作者の慈円も、井沢元彦はいろいろなところで引用している。にもかかわらず、徳の諡号のオリジナルは慈円だとはどこにも書いていない。
もうひとつ井沢説に瑕疵があるのは、顕徳院をもって「贈徳の字鎮魂法」は終了して、その後徳の字を持つ天皇はいないと書かれているのだが、実は「後文徳院」という天皇がいらしたのである。
顕徳院と同様、後文徳院も諡号が変更され追号となった。後花園天皇と現在呼ばれている。なぜ変更となったかというと、応仁の乱で奈良に疎開中の一条兼良が、「諡号に後を付けた前例はありませんよ(勉強不足だぞお前ら)」と知らせてきたからである。
一条兼良は太閤(前関白)。平安以来の過去の文書を膨大に有していたが、それを応仁の乱で焼かれてしまった。疎開していた先が息子の尋尊のいる興福寺。尋尊は「大乗院日記目録」「大乗院寺社雑事記」の作者・編者である。
崇徳以降顕徳までの諡号には怨霊封じの意味もあったと当時の貴族が書いているし、記録こそ残っていないが文徳、孝徳天皇にもそういう要素があっておかしくない。とはいえ、まったくのオリジナルではないのだから、その旨一言あるのが普通である。学術論文であれば差しさわりがあるといえるだろう。
[Mar 25, 2024]
専門家はやっぱり尊重すべきだと改めて感じる。何十年も井沢元彦はたいしたものだと思っていたが、「贈・徳の字」は彼のオリジナルではなく、平安時代の貴族がすでに書き残したことだった。
共著者のモントゴメリー&ビクレーは夫婦で、夫が生物科学者、妻が土壌研究者である。それぞれの専門知識だけに偏ることなく、たいへん読みやすく構成されている。
シアトル近郊で住居を購入した夫婦が庭造りするところから始まる。前の住人が園芸に興味がなく、一面の痩せた土だったところに落ち葉や木材チップ、コーヒーかす、たい肥を入れることにより短期間で豊かな土壌にする。なぜこんなに短期間でできたのか。
それは、目に見えるところではミミズなどの小動物だったり、それをエサにする虫や鳥だったりするのだが、それだけではない。バクテリアをはじめとする微生物の力が大きかったのである。
庭の話から、一転して生物の話となる。かつての生物学は動物・植物を中心とした系統樹的な考え方が主で、単細胞の生物がどのように高等動物に進化したかという観点でとらえられていた。
ところが、DNA解析が進み、生物の違いを遺伝子の差によって分類すると、動物や植物を含めたグループは生物の一部にすぎず、細菌や微生物といったグループがそれ以上のスケールであることが判明したのである。
われわれが地球外生物というと、イメージするのは火星人とかE.T.になるけれども、実際にいるとすれば昆虫であり植物であり、もしかすると微生物や細菌は見えないだけで太陽系内にいないとも限らないのである。
ここ百年ほどで、感染症に対する対策が飛躍的に進み、アスピリンやストレプトマイシン、抗生物質により多くの感染症が激減した。これらの開発にも土壌菌が寄与しているのだが、いいことばかりではない。細菌・ウイルスも進化して耐性を身に付けるからである。
こうした特効薬はいざという時のすぐれた対策ではあるものの、健康を維持するためにはそれらとは別に普段の生活を変えていかなければならない。われわれの大腸は園芸における土と同様、数限りない細菌・微生物の住処なのである。
腸内微生物のはたらきによって、われわれの体調・気分を左右するホルモンが出されることが分かってきた。つまり、われわれの体は脳がコントロールしているのではなく、腸に住む微生物がコントロールしているのかもしれない。
だから、特効薬やワクチンで感染症が激減するのと同時に、昨今われわれの脅威となっているのは腸をはじめとする消化器の不調であり、免疫不全である。これらは、腸内環境の不備が原因と考えられる。庭造りにおいて、土が痩せたのと同じ状況である。
この分野の研究も急速に進んでいて、腸内の微生物がどのような分布で、どのような構成になっているかで、肥満や生活習慣病、アレルギーなどの免疫疾患が説明できるという。少なくとも、体内の土であるところの腸内環境を整えることは、人間にとって死活的に重要なことは間違いない。
[Apr 23, 2024]
本題とあまり関係ないが、この本を読んで思ったのは地球外生物はいるんだろうということ。別に火星人や木星人はいなくても、地中奥深くに微生物がいてもおかしくないと思った。
だから、超常現象や超能力については個人的にも深い関心をもっているのだが、オウム事件以来こういう話題は表立って採り上げられなくなった。しかし、スピリチュアルとかメンタリストというように形を変えて、それらへの関心は根強く残っている。
そうした現象に対し、TV受けする採り上げられ方ばかりで、真に科学的な検証がなされていないというのが著者の主張である。
この本でも述べられているように、超常現象とされるもののほとんどがトリックである。仲間由紀恵の言うとおりである。そして普通に考えて、スプーンを曲げられたからそれが何だという話でもある。
動かなくなった時計が動き出すのは熱が加わって機械仕掛けの一部が動くようになるからで、ひな祭りのオルゴールが突然鳴り出すのと同じである。機械でなくて人間でも、火葬しなければ何十人かに一人は生き返って動き出すという話もある。
だから、かつてTVで採り上げられた超常現象の多くは、トリックで説明できる。TV局の目的はちろん視聴率で、目立てばいいというのはつばさの党と同じである。科学的に分析しようという意図もないし関心もない。
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私が記憶するただ一つの例外は、山倉ダムに死体があるのが見えるという予言者だったが、未解決事件を解決するという特集のほとんどは何もできなかった。
とはいえ、すべての事象が現代科学で証明される訳ではないし、物理学も時代とともに進んでいる。時間も空間もわれわれが思うほど強固ではない。「ありえない」というのは「確率的に小さい」のと同義である。
説明できない事象があるから「霊界」があるという訳ではない(これも本書の中で誰かが言っている)。カウンセリングとか宗教上の理由で、それを持ち出した方が有利だからそう言っているだけである。
それらの玉石混交からすべての石を除いたら玉は残らないのか、それをきちんと分析すべきだと私も思う。いわゆる千里眼的なものは昔からあるし、そのすべてが偶然では片づけられないだろう。
[May 22, 2024]
私の学生当時はホットな話題だったオカルトも、オウム以来めっきり下火になった。また忘れた頃にブームになるかもしれない。
とはいえ、安いものにはそれだけの理由があるというのはデフレ時代からよく言われる。大量生産とか森林破壊で価格が安くなるのは、地球環境には好ましくないが直接の健康被害はない。ところがこの本を読むと、そうでもなさそうなのがよく分かる。
この手の本をあまり読まなかったのは、昔「買ってはいけない」という本があって、それがまた間違いだらけのトンデモ本だったからである。いちばんよく覚えているのは、ソルビン酸とソルビン酸カリウムを混同していたことである。
ソルビン酸は殺菌効果があり厚労省も使用制限を加えているが、だからカリウム塩であるソルビン酸カリウムが危険ということにはならない(保存料として使用されている)。
その論法でいうと、体が溶けるから硫酸マグネシウムや硫酸ナトリウムの混ざったお湯に入ってはいけないことになる。あの本を書いた連中が、打ち上げとか出版記念で登別とか別府に行っていたらお笑いである。
それはともかく、この本もトーンとしては「買ってはいけない」とよく似ているが、内容はかなりまともである。消費者は安いと言うだけで飛びつくけれども、どうやってコストを削っているのか知った上で商品を選ぶべきというのは、その通りだろう。
最初の頃の「美味しんぼ」で、大量生産の醤油や味噌はまともな作り方をしていない。だから保存食品なのに常温保存できないし、栄養価も落ちると指摘されていた。山岡や海原雄山(つまり雁屋哲)が言うまでもないことだが、実はいちばん問題なのは、消費者が化学調味料をおいしいと感じることなのだ。
卵やキャベツは自然のものだから、何かの原因で供給が減れば価格が上昇する。デフレで価格が抑えられて生産者にしわ寄せが来るのは気の毒だが、商品そのものの問題は比較的少ないといえる(農薬や抗生物質の懸念はあるとしても)。
一方で、工業製品として作られている食品には、かなり危ないものが含まれている。この本でも採り上げられているラクトアイスは、原材料として牛乳・生クリームをほとんど使っていない。サラダ油を乳化して、ガムシロップを加えて冷やしたものなのである。
私は昔からコーヒーフレッシュ(スジャータ)を使わないが、ラクトアイスはそれと同じだったのである。知らないというのは恐ろしいことだ。サラダ油とガムシロを食べて喜んでいたとは。
牛乳・生クリームを使わなくても、豆乳やアーモンドミルクで作ったアイスも表記上はラクトアイスになる。しかし、そんな高価な材料は使っていない。100円とかそんな値段で儲けが出るのは、十中八九パーム油を使っているのだ。
パーム油だって原産国では食用だから、あれは石鹸や洗剤で作ってるんですよというのは言い過ぎだが、日本に運ぶまでの間にさまざまな添加物が加えられ、かつ乳化の過程で高温処理されるのでオレイン酸も発生する。アイスクリームというと生クリームを連想するけれど、そんなもの使っていないのである。
他にも、刺身や加工肉、調味料、生鮮食品に至るまで、安く提供するために「これはちょっとひどい」処理がなされている商品はたくさんある。ガザやアフリカの人達と比べると贅沢なのだが、かといって工業製品を食べたくないと思うのは人情であろう。
[Jun 28, 2024]
トーンとしては「買ってはいけない」とよく似ているが、内容はかなりまともである。消費者は安いと言うだけで飛びつくけれども、どうやってコストを削っているのか知った上で商品を選ぶべきだろう。