アナンサスワーミー「私はすでに死んでいる」    オルター「僕らはそれに抵抗できない」
トンプソン「依存症ビジネス」    明智憲三郎「本能寺の変シリーズ」
ホーキンス「脳は世界をどう見ているのか」    ヘンリー・ジー「超圧縮地球生物全史」


アニル・アナンサスワーミー「私はすでに死んでいる」

原題はThe Man who wasn't There。「そこにいなかった人」という意味だが、邦題はもちろん「北斗の拳」を意識している。もう40年以上昔の連載なのに、いまだに目に止まるだけのインパクトがあるのには驚く。

最初は精神病の不思議な実例集みたいなものかと思って読み始めたのだが、さすがに2016年の著作だけあって、内容は精神疾患と「自分」という意識に関することである。

かつて精神病といわれていた疾患が、実は脳の器質的な疾患であり、体の病気と本質的に違わないということが明らかになったのは、21世紀に入ってからである。

このことは、ラマチャンドラン先生の本や、「天才と分裂病の進化論」のときも触れたのだが、この本でもそのことを改めて確認できる。

幻視とか幻聴というとすぐ「頭がおかしいからだ」と思ってしまうが、そもそも自分の声と外から聞こえてくる声を脳はどうやって区別するのか。

コオロギはたいへん耳がよくきわめて小さい音まで聞き取ることができるが、その割に自分が鳴く音は大きい。自分の声で他の音が聞こえないのではないかと思うけれど、コオロギの脳は自分がたてた音は聞かないようになっているそうである。

人間も同様で、自分の声に驚くことはないし、自分で自分をくすぐっても何ともない。これは、脳が自分でやったことだと分かっているからで、他人がやることは脳で予測できないから驚くし、くすぐったいのである。

ところが、一部の精神疾患ではそうとは限らず、自分で自分をくすぐれるという。自分であるかないかはデリケートな問題で、神経を通じて脳に伝わってくる視覚、聴覚、触覚や痛覚その他の身体感覚によって予測し修正された結果なのである。

だから、「誰かが私にそう命じた」というのは精神病特有の妄想ととらわれがちであるが、実は脳の予測機能に不備があるからというのが最新の知見である。

著者の言葉を使うと、「脳はベイズ推計装置」ということなのだが、新たな情報で事前分布・事後分布をつど書き換え、生存に有利な環境を維持する。かつてベイズ統計学や線形システム制御などを勉強してした頃を思い出してうれしくなってしまった。

幻視や幻聴も、シナプスが脳の特定部分とつながったままであることが原因と考えられる。シナプスのつながりはもともと誰でも多方面にわたるが、成長とともに不必要な部分が刈り込まれて整理される。それがされないままでいると、精神疾患として現れる。誰でもそうなる可能性はあったということである。

話を戻すと、手足が自分のものとは感じられないコタール症候群や統合失調症、自閉症、アスペルガーといった精神疾患は、臨床上さまざまの問題行動となって表れるけれども、fMRIなどで調べると脳で起こっている不具合には共通点があるという。

それは、脳のなかで、視覚・聴覚・触覚や全身の神経から送られる信号を制御している部分の不具合で、どうやら島皮質という部分であるらしい。ここで「ベイズ推計装置」がうまく働かないと、自分と自分以外の区別がつきにくくなるのだ。

バーチャルリアリティーで視覚から誤った信号が送られると(部屋の中なのに高層ビルで綱渡りしている映像を見せる、とか)、脳は簡単に騙されるし、それが実際に体に影響することも確かめられている。

まさに、かつて精神病といわれていた疾患は脳や体の疾患に他ならないし、通常人との違いもシナプスのつながり方という些細なことに過ぎないのだ。

[Aug 29, 2023]

図書館で思わず手に取ってしまった本。「北斗の拳」のパロディーではなく、脳と精神疾患の最新の知見をわかりやすく説明している。かつて精神病とされていた疾患が、精神ではなく脳、つまり体の病気に他ならないことを改めて確認できる。
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アダム・オルター「僕らはそれに抵抗できない」

最近、日本人が書いたノンフィクションで、これはすごいという本にほとんど当たらない。岡本太郎が言うように、「みんな売れようというだけの目的で書いている」からかもしれない。

だから、最新の知見に触れようと思うと、どうしても翻訳ものに頼ることになる。ときどきトンデモ本に当たることもないではないが(例えば「小麦」)、この本などは依存症にとどまらず脳の仕組みについてわかりやすくまとめられている。

原題"Irresistible"は「抵抗できない・抑えられない」の意。薬物依存やアルコール依存を抑えられない脳の働きと、スマホやネットを我慢できない脳の働きは、まったく同じだそうだ。

半世紀前には、「薬物中毒」と「行動依存」はまったく別の症状と考えられていて、そもそも行動依存は病気とはされていなかった。

「仕事中毒」「活字中毒」という言葉はあったし、テレビの前から離れない子供は問題とされていた。だから私が小学生の頃「テレビノート」というものがあって、どの番組をどのくらいの時間見たかを担任の先生に報告しなければならなかった(いまならプライバシーと言われるだろう)。

しかし、「アル中」や「ポン中」(「シャブ中」)は心身に悪影響が出て、やがて人格が荒廃するからいけないもので、「仕事中毒」「活字中毒」は誰も何も困らないとされていた。ニコチン中毒すらそうである。ブラウン管中毒は勉強しなくなるからで、依存症を恐れた訳ではない。

だから、ずっと本を読んでいる人は勉強家で偉いし、夜中まで残業して働くのは家族思いで見習うべきとされていた。

こうした行動依存は、少なくとも休息不足・睡眠不足を招き、体が不調を訴えるシグナルをあえて無視する行為である。何らかの疾患を招き、やがて人格が荒廃するのは薬物と同じというのが最新の知見である。

ラットを使った実験で、脳のある部分(快楽中枢)に電極を指し込むと、そのラットは寝食を忘れ、文字通り死ぬまでその場所を刺激するスイッチを押し続けるそうだ。人間でも、同じようになるらしい。

しかも、ラットはその刺激がうれしい訳ではないようだ(ラットでないので断言できないが)。うれしければドーパミンが増えるはずなのに、そうならない。たいしてうれしくないのに、やめることができないらしいのである。

このことを著者は「"好き"と"欲しい"は別」と表現する。アルコール中毒者は、最初はアルコールがもたらす酩酊感・多幸感を求めて飲酒するが、やがて飲んでもちっとも楽しくないのにやめることができなくなる。昔の言葉で、「酒が酒を飲む」という状態である。

理屈では分かっているのにやめられないのは意志の力が弱いから、というのが以前の考え方だが、意志はほとんど関係ない。脳の仕組み・器質的な問題で、意志だけではどうにもならないのである。

だから、アルコール中毒でも薬物中毒でも、ゲーム中毒でも治療方法は同じで、以前の生活環境、生活習慣をまったく変えなければならない。

ベトナム戦争で米兵の麻薬中毒者急増が問題となったが、帰還兵の中毒治癒率はじつに95%であった。これは、ベトナムに戻らなくてもいいからなのだ。アル中やベトナム以外の薬物中毒は、逆に95%が再発する。

[Sep 29, 2023]

原題"Irresistible"は「抵抗できない・抑えられない」の意。薬物依存やアルコール依存を抑えられない脳の働きと、スマホやネットを我慢できない脳の働きは、まったく同じだそうだ。
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デイミアン・トンプソン「依存症ビジネス」

2012年、イギリスのデイリー・テレグラフ記者であるデイミアン・トンプソンが書いた。先月紹介した「僕らはそれに抵抗できない」と同じくダイヤモンド社の出版で、巻末の宣伝ページで知った。

著者は研究者でなくライターなので、本書は各種依存症についての歴史と背景、実情についての記載が中心である。トリビア的な側面もあって、アメリカで真冬にTシャツ半ズボンでいるのは、かなりの確率で薬物中毒者なんてことも書いてある(アメリカ人は体温が高いからかと思っていた)。

10年以上前の著作なので、アルコールや薬物依存に多くのページが割かれているのはやむを得ないが、ネトゲ中毒やオンラインポルノ、ネットカジノについても軽く触れられている。

だから、2020年に「甘いもの中毒」を読んだ頃、この本が読めればまさにジャストフィットだったことになる。

依存症の歴史は、産業革命後のロンドンにおける「ジン狂い」から始まると著者は考察する。蒸留技術が進み、度数の高いジンが普及したことにより、急速にアルコール依存症が増えたとする。

しかし普通に考えると、はるか昔からアルコールに依存した人はいたと思われる。それが大きな社会問題にならなかったのは、そうでなくても伝染病など致死的な病気が多く、差し迫った問題が他にあったからではないだろうか。

そして、中国でアヘン中毒が多かったのは、中国人の多くがアルコールの消化能力を持たないことが原因とするが、消化酵素の有無が決定的要因にはならない。アル中治療でアルコールを飲めなくなる薬を処方されても、それでも酒を飲む人は多いのである。

そうした指摘には首をひねるとしても、依存症の大きな原因が「入手しやすさ」というのはそのとおりだろう。酒屋がなかった中世以前、一般庶民が酒びたりになることはあまりできなかった。

麻薬を自由化すれば依存症患者は減るという主張もあるが、賭けてもいいが増えるはずである。薬局でヒロポンを売っていた時代、覚せい剤中毒は間違いなくいまより多かった。

依存したくてもその対象物が入手できなければ、がまんするしかない。だから、依存の対象が変わることはよくあることである。ニコチン中毒が減ったのは、タバコの値段が急上昇したのがひとつの理由である。

著者は若い頃、アルコール依存症でかつ薬物依存症であった。英国の高学歴者では珍しくない(著者はオックスフォード大卒)。回復して記者となり、本を書いて他の言語に訳されるくらいだから、社会的に抹殺されることもなかったようである。

吾妻ひでおの「アル中病棟」に登場するAA(アルコホーリックス・アノミマス。いわゆる断酒会)も頻出する。ただし著者は、AAの意義は認めるものの、指導している内容は誤っているという。依存症は病気であり、助け合いではなく専門的治療が必要と著者は考える。

このあたりは、本書全体を通じて分かりにくいところで、著者が依存症だった経験が色濃く反映されている。だから、依存症が病気なのか病気でないかという問題意識に深く付き合う必要はないかもしれない。

依存症に関する2012年の著作。3年前に「甘いもの中毒」を調べていた時に知りたかったことがちゃんと触れられている。


原題のFIXというのは、依存症患者が依存するもの、薬物とかアルコールとか、時には行為が依存の対象となる。fixのもともとの意味は「固定する」だから、まさにそのもの・ことに意識が固定されてしまうということである。

そして、依存症に陥る要素、環境、引き金(キューとフリガナされている)は徐々に明らかになっていて、それは依存症を予防・治療するためでなく、そうでない人を依存症にするため利用されているという主張は、かなり的を射ている。

例えてみれば、伝染病の治療や予防のために行われた研究が、生物兵器として戦争に使われているようなものである。研究の一部が生物兵器開発に使われているのは事実だが、依存症では研究の主目的が生物兵器で、ごく一部が治療や予防なのである。

これは、著者が主張するように由々しき事態である。伝染病研究が生物兵器に利用されれば人類の滅亡となるように、依存症研究が依存を進めるために使われれば社会は壊滅しておかしくない。

実際、依存症を研究する心理学者や脳神経学者には、ショッピングモール、通販業者、オンラインゲーム会社、ネットカジノなどから、多額の研究補助とそのバーターとしてのノウハウ提供が申し込まれているという。

だから、何の変哲もない通販番組も、視聴者を依存症にするための要素をふんだんに取り入れて作られており、依存症にすることが企業の収益源となる仕組みとなっている。

いわんや、ネットゲーム、オンラインカジノ、オンラインポルノは言うまでもない。もともと依存症を防ぐために行われた研究の成果が、手を替え品を替えてさらなる依存症に陥らせるために利用されているのである。

本来こうしたことは、何らかの機関がストップをかけるべきなのだが、いまだかつてそんな話は聞いたことがない。資本主義はそういうものだからである。

現行の何らかの法律に違反していない限り、どういう商売をするのも自由で、それを妨害すれば損害賠償請求されかねない。中国にアヘンを売っていたイギリスが、当時の清国に戦争を起こしたのと一緒の理屈である。

いまの判断基準で考えれば、麻薬の取引を商売上の権利と主張するのは中南米の麻薬カルテルだけだが、世界の一流国がそれをやっていたのである。そして、ネット依存や買い物依存、ゲーム依存者を作ることは世界中どこの法律にも触れない(カジノとポルノはともかく)。

スマホが普及して以来、電車・バスの中でも歩きながらずっとスマホをしている人を見るのは普通の風景になってしまったが、あれは、かつて酒を手放せなくて道路にへたりこんで飲んでいた連中と同類だったのである。

[Nov 1, 2023]


明智憲三郎「本能寺の変シリーズ」

明智光秀の子孫が書いた本能寺の変の真相というと、話題優先というか、宣伝文句でとりあえず売ってしまおう的な本かと思った。だからこれまで読まなかったのだが、実際読んでみると内容はいたってまともである。

著者が明智の子孫だから公開されていない伝承があるのかというと、そういうものはない。著者自身は「歴史捜査」と呼んでいるが、普通に史料を評価して、より事実に近いのは何かを考察している。

だから、著者が明智の子孫であるとか言わずに、本能寺の変の真相は教科書に書いてあることとは違うでよかったような気がするが、きっとそれでは出版社が動かなかったのだろう。

さて、著者が指摘する史料評価でもっとも重要なのは以下の2点である。

① 教科書的な「本能寺の変」の理解は、「惟任退治記」や、これをもとにした「川角太閤記」「甫庵太閤記」の記載が出発点となっている。これらは秀吉に都合がいいように、いわば宣伝用として作られたもので、史実として信用できるものではない。

➁ 太田牛一の「信長公記」も、完成したのは豊臣政権下であり、牛一自身も秀吉傘下に組み込まれたのである程度割り引いて考える必要がある。もっとも信用できるのは、イエズス会が本国に報告した内容である。

だから著者の考察は、イエズス会や彼らから情報を得たスペイン商人の証言を最重要視し、「信長公記」や公家の日記を傍証としている。その結果はネタバレになるが、本能寺の変は信長が徳川家康を討つために計られた陰謀だったとする。

よく知られるように、明智軍の兵士は「信長様の指示により家康を討つ」と思って本能寺を攻めた。これはたまたま勘違いしたのではなく、もともとそういう計画だったのではないか。

そう考えると、本能寺の警備が手薄だったのも、中国攻めに出陣したはずの明智軍がやすやすと京に戻ってこれたのも納得できる。もともと信長の指示でそうしたのだから、光秀は謀反を気づかれるおそれはなかったのである。

実際、本能寺の変のあった6月2日の夕刻には、家康一行は本能寺に入る予定であった。彼らは、武田軍をせん滅したことを表彰されて安土城で接待を受け、京・堺の見物をした後、挨拶に本能寺を訪れる予定であった。

つまり、明智軍は京に入るまで仮に誰かに見られても信長の指示だといえる状況で、本能寺を囲む時間が1日早まっただけであった。軍の行動は同じで、光秀は「討つのは家康でなく信長」と言うだけだから、決断を知らせるのが直前でも少数でも問題はなかったのである。

明智光秀の子孫が本能寺の変の真相を語るというと宣伝っぽいが、内容はいたってまともである。シリーズが何冊かあるが、ほぼ同じ内容。


信長が同盟軍である家康を暗殺する訳がないというのは今日の考え方で、当時の状況は、後方の武田が滅びれば家康と同盟を続ける意味がないというものだった。実際、そう考えていた人達も少なくなかったようである。

にもかかわらず家康と重臣は少人数で本国を離れた。これは、信長自身も手近に軍勢を置いていなかったから、つまり、そうやって家康を信用させた訳である。

この時期、織田軍の主力は秀吉が中国・毛利攻めをしていたし、織田信秀が指揮する四国遠征軍も大坂に集結していた。他にも柴田勝家も北陸遠征中であるので、京周辺に大軍はいなかった。

だから、中国攻めの支援に向かうはずの光秀が反転すれば、相手が誰であれ討つのは容易だったことになる。

それではなぜ、信長は光秀を信用して家康暗殺という陰謀を打ち明けたのか。もちろん、軍勢を持つ誰かが実行部隊にならなければならないが、それがなぜ光秀なのか。実は、信長と光秀は後世言われる遺恨などなく、非常に仲がよかったのである。

確かに、信秀の四国遠征が行われれば、長曾我部の滅亡が現実味を持つし、姻戚関係のある明智家臣の斎藤利三にとって被害は甚大である。(公家の日記には、本能寺の変の首謀者は斎藤利三と書かれている)

しかし、親戚とはいえ家臣である。光秀自身にとって、そこまで差し迫った状況とも思えない。それよりも、この本にも書かれているように、信長の今後の方針について部下に警戒心が強まっていたのではないだろうか。

光秀にしても、家康を討った後、信長の命令で自分自身が討たれる危険を認識していただろう。信長・家康の同盟関係は、光秀が信長に仕えた年数よりずっと長い。光秀は、織田家中では新参者で敵が多かった。

本能寺の変の直後、天皇や公家はさっそく光秀と接触し、特に責められることもなかった。家康も急ぎ本国に戻った後、最初にしたことは弔い合戦ではなく逆側の甲斐侵攻である。光秀は、家康に情報を漏らして本国への帰還を手助けしたのである。

光秀にとって誤算だったのは、中国攻めの最中であった秀吉にも情報が漏れたらしいことである。「中国大返し」は秀吉の作らせた「惟任退治記」に書かれていたが、日程的にみておかしい点が多い。本能寺前に、軍の一部が引き返していた可能性が大きい。

秀吉に情報を漏らしたのは、細川藤孝であろうと著者は推測している。光秀は足利義昭の側近になる前、細川の家臣であった。藤孝にとって、かつて部下として使っていた光秀が、織田家では自分より上なのが気に入らなかったのである。

そして、時は流れて徳川時代。二代将軍秀忠の長子となる竹千代の乳母として抜擢されたのは、本能寺の首謀者とされた斎藤利三の娘である福であった。朱子学を重んじ、主人への反逆を許さなかった家康が、謀反人の娘を孫の乳母にしたのである。(のちに大奥の実力者となり、朝廷から春日局の称号を贈られる)

つまり家康は、斎藤利三を悪く思っていなかったことになる。竹千代は成長して三代将軍家光となる。家はもちろん「家」康からだが、「光」は近親にいない。清和源氏を称する家康は源頼光から採ったと言っただろうが、光秀に恩義を感じていたからと推測する向きもあるのはよく知られている。

[Nov 15, 2023]

ジェフ・ホーキンス「脳は世界をどう見ているのか」

この本の序文を、リチャード・ドーキンスが書いている。ドーキンスといえば「利己的な遺伝子」、遺伝生物学のパラダイムシフトを果たした大学者が、この本を「あまりにエキサイティングなので、寝る前に読んではいけない」と絶賛している。

ただありきたりの賛辞ではなく、ダーウィンの「種の起源」に匹敵すると誉めちぎっている。さすがにこれは大げさだろうとはじめは思ったが、読み進めるうちに、ドーキンスがお世辞で言っているのではないことが分かった。

ジェフ・ホーキンスはスマホの前身である携帯コンピュータPalmの発明者で、もともと脳の研究をしたかったが大学にも企業にも受け入れ先がなく、起業した利益で、自分で研究機関を作ってしまった人物である。

邦題だけ見ると、脳の仕組みに関する考察のように思えるが、原題は A Thousand Brains、「1000の脳」。脳が何をしているのか、考えるとはどういうことかについて、基本的な枠組みを提示している本なのである。

脳は重層的にできていて、もっとも脊髄に近い部分に爬虫類時代からの「古い脳」があり、それを新しい脳がとりまいていることは以前から分かっていた。著者の関心は主として「新しい脳」、新皮質と呼ばれる部分である。

新皮質が外見的にはどの部分(前頭葉、側頭葉、頭頂葉など)もよく似ていて、周辺から中心に向かう数多くの神経の束(ニューロン。1平方mmあたり約10万)により構成されることは百年以上前から分かっていた。しかし、それがどうして高度な知能につながるのかは不明であった。

著者はこれを説明する仮説として、「1000の脳」理論を提唱する。脳には中枢があって認識したり考えたりするのではなく、ニューロンの束それぞれがモデルを持ち、推論し、それを脳は「考える」と認識する。

コンピュータ的にいうと「分散処理」ということで、ここまではそれほど奇抜とはいえない。しかし、そのニューロンの束がやっていることは基本的に共通で、それは「それぞれの座標系の中で、書き込んだり、上書きしたり、参照したりすること」だというのである。

脳が行っているのは基本的に地図を作ることで、それが二次元で地形をあらわすのか、三次元で宇宙をあらわすのか、もっと多次元で概念や数学的思考、政治信条などをあらわすのかの違いだけなのである。

そして「考える」とは、この地図を参照したり他のニューロンが持っている地図と比べたり、それらをもとにモデルを作って推論することである。それを「1000の脳(≒ニューロンの束)」それぞれが行い、その認識が共通することが「考えがまとまる」ということになる。

著者の設立した研究機関では、実際に座標系を持つニューロンがモデルを作ったり推論することが可能かどうかを研究している。そして、仮にストロー程度の視野しかなかったとしても、それは可能だという。

そして、地図だけではなく、数学的思考も、自由や平等といった概念も、政治信条も経済的損得も、すべて座標系の情報だという著者の仮説は、刺激的であるとともに納得できるものである。

このところ翻訳本ばかり採り上げているが、知的好奇心を刺激する本が海外発のものばかりなので仕方がない。アベノミクスの十年によって、わが国の知的水準は大きく後退しているのは確実である。


著者が脳、とくに新皮質がどうやって情報処理しているのか探求するのは、いわゆるAI、人工知能を作るという最終目的に向けてである。

いまのAIはどこまで進化するか分からないというのが一般的な認識であり、いずれ人間の知識の総和を超える「シンギュラリティ」に達するとされているが、著者は疑問を呈する。「1000の脳」の発想によらなくては、AIは真に知的にはなれないと主張する。

具体的にいうと、ルールの変わらない静的ゲーム(チェスとか囲碁将棋)であれば、AIはディープラーニングにより知識を高めることができる。もはやこれらのゲームで、人間界最強はAIに敵わない。

ところが、例えば火星にAIを送り込んで人間が居住可能な空間を作ろうと思っても、いまのAIではできない。空間自体が未知だし、どういうアクシデントがあるか分からない。すべてのケースを組み込んだプログラムを作るのは不可能である。

結局のところ、地球から修正プログラムを送らないと、火星基地建設AIは何もできない。すべてのAIが太陽光発電装置で充電を行っているという冗談を著者は書いているが、いまのAIはゲームのルールがない場所では、人間の5歳児に及ばないのである。

こうした指摘は、ディープラーニングのすごさばかり読んできた私にはたいへん刺激的であり、目から鱗が落ちる。確かに、ディープラーニングでいくら将棋が強いソフトができても自動運転はできないし、翻訳も作曲もできない。

それ以前に、最強の将棋ソフトであっても「回り将棋」はできないし、「中将棋から何か駒をもってきていまより面白い将棋を作れ」と言われても答えられない。弱い相手に「ゆるめる」ことさえ上手くないのである。

とはいえ、「1000の脳」理論を援用したAIは、いつかできるだろうと著者は楽観している。そして、その最終目的は、地球上に高度な知能を持っている人間がいたことを誰かに伝えるためである。

著者は、ホモ・サピエンスもいずれ絶滅は避けられないし、われわれが存在し、高度な文明があったという証拠を残すことが、後の時代の知的生命体にとって重要だと考えている。

探査機パイオニアやボイジャーが太陽系外に向けて飛行しているが、これらが高度な文明を持つ生命に発見される可能性はほぼゼロである。他の天体に届いたとしても高速の火の玉でプレートなど見てくれない。(地球にそんなものが飛んできても、大気中で燃え尽きるだけである。)

そういう手段がありうるか考えるのは頭の体操になるが、生物学的な制約のないAIは、ホモ・サピエンスよりも可能性があるのかもしれない。

著者は1957年生まれ、私と同い年になる。この本が書かれたのは2022年、著者が(私も)65歳の時である。おそらく、自分が考えていることを形として残しておきたいと思ったに違いない。

だから、脳の働きについての統一理論やAIの可能性についてだけでなく、人類の将来や何をどう残すかについて多く書かれている。個人的に首をひねる部分も少なくないが、遠からず証明されるだろう理論もあるだろう。

[Dec 13, 2023]


ヘンリー・ジー「超圧縮地球生物全史」

この本の最もすばらしいところは、人類がほどなく滅亡するとはっきり指摘していることである。

それは、あるいは来週のことかもしれないし、長くても数万年以上になることはない。仮に数万年生き延びたとしても、地球全体の歴史からすると微々たるものであり、地層にすると数mm程度にすぎない。

数十億年後に地球は太陽の膨張により消滅するのだが、それ以前に人類は滅亡するだろうし、生物も残らない。これまでも、千万年単位で地球環境は激変していて、大陸移動や大気、海流の変動によって幾多の生物が滅亡してきたのである。

この本の原題はA Very Short Story of Life on Earth。約37億年前、地球に生物が誕生してから現代までの歴史を、わずか300ページでまとめたものである。だから、生物史の要点をすべて網羅していないが、たいへん興味深い観点で説明されている。

人類滅亡の話に戻すと、カンブリア期以降の約5億5千万年だけでも、少なくとも5度の生物大量絶滅が起こっている。私の若い頃はカンブリア以前は先カンブリア期とひとまとめにされていたが、現代の研究水準はその期間のこともいろいろ分かってきている。

カンブリア期のすぐ前がエディアカラ期というのは、この本ではじめて知ったのだが、そのエディアカラ期にもカンブリア爆発同様の生物の発展期があり、スノーボールと呼ばれる大氷河期にそのほとんどが死に絶えた。地球上の生物は、そうやって興亡を繰り返してきた。

だから、いま人類が暮らしている地表も、古くは氷山に覆われていたり、海面下にあったり、火山や砂漠で住むことができなかった。いま地球温暖化で海面が何m上がるとか言っているが、地球の歴史を遡れば100m単位は当り前で、すべての陸地が海面下の時代もあったのである。

われわれになじみ深い白亜紀末の大量絶滅では、それまで数千万年栄えてきた恐竜が絶滅した。恐竜の千万年単位に比べると、人類が栄えたのは万年単位、猿人まで含めても十万年単位にすぎない。

いま、化石燃料でCO₂が増え過ぎていると騒いでいるが、地球規模の大陸移動や火山活動のエネルギーはそんな規模ではない。著者もいうように「人間のできることなどたかが知れている」のである。

「地球を救え」というのなら、プレートテクトニクスをいますぐ止めてみろと著者はいう。止めるどころか、プレートテクトニクスの起こす地震や噴火の正確な予知すらできないのが現実である。

これは科学水準の問題というより、時間軸の問題なのだ。地球の歴史を30cmの物差しとするなら、1mmにあたるのは1千万年。人間の一生など1mmの百万分の1のウィルスの大きさ程度で、目に見える訳がない。

プレートテクトニクスだけでなく、公転軌道のずれも止められないし、自転軸も同様である。これらが止まらないことには、地球規模の気象変動は止まらないのである。

このように目から鱗の落ちる指摘も多いのだが、半面、数十億年を300ページでまとめるのは無理という点も多々ある。

このところダイヤモンド社の本をとりあげることが多い。他にもいろいろ読んでいるのだが、これは!と感心するのはなぜかダイヤモンド社の翻訳書である。日本の科学技術のレベルはかなり落ちてきているようだ。


昨日書いたように、地球の生物30億年の歴史を述べるのに、300ページというのはいかにも少ない。平均すると1ページ1千万年になるので、猿人から始めたとしても人類の記述に2~3行しか割けない(実際には3分の2が人類の説明である)。

だから、生物史の重要な部分をかなり割愛しているのはやむを得ないのだが、個人的に物足りなく感じるのは、動物に主軸を置きすぎて植物の説明が足りなく感じられることである。

確かに、三葉虫やアンモナイト、恐竜といった動物の方がスペクタクルであるが、植物がどのように進化して今日に至ったかも重要である。

裸子植物と被子植物、光合成によるCO₂消費と酸素の増加あたりの説明で終わってしまって、現在の多様な植生について著者の興味はそれほど感じられない。

「石炭紀」と呼ばれる地質時代は、セコイアなどの針葉樹林が多くあってそれが石炭になったと想像していたのだが、実は違う。その頃植物はコケやシダから進化したばかりで、10mを超える葦が森林を形成していたのである。

個人的なイメージでは、植物は動物よりずっと早く進化し、生物が陸上に進出する頃には現代と変わらない森林があったのだろうと思っていたが、とんでもないのである。だから、未来の植物は、現代のものとはまったく違っているかもしれない。

動物についても、魚類の進化史についてはあまりページを割かれていない。いったん陸上に上がりながら再び海中に戻って進化したクジラに、著者の関心は集中しているようである。

恐竜の説明はたいへん詳しいものの、恐竜から進化したと考えられている鳥類や、近親にあたる爬虫類についての説明もあっさりしている。人間以外の哺乳類についても、ほとんど説明されていない。

また、植物なのか動物なのか区別のつきにくいプランクトンや、細菌をはじめとしたミクロの生物達についても、現在の科学では判明しないことが多いにせよ、生物史という以上は触れてほしかったところである。

ただ、地球の歴史からすると個々の生物史はとるに足らない短かいもので、人類はもちろん、いま存在するほとんどすべての生物はそれほど遠くない将来滅亡するだろうという指摘は重要である。

それは、単にCO₂を減らしたからどうなるものではない。CO₂をはるかに上回る温室化効果を持つ気体や有毒物質、大気の組成、そもそも陸地がない時代すら地球にはあったのだ。

著者は、最後に残る生物は地中奥深くに生息する植物とも動物ともつかないコロニーになると予想するが、科学者が期待する地球外生命体がそんなものだとしたら、わざわざカネをかけて探すに値するだろうか。

[Dec 27, 2023]

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