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風のガーデン


夕張市の思い出 [Jul 6, 2006]

道央の旧産炭地、夕張市が財政再建団体を申請した。民間企業であれば倒産ということである。この夕張、もう十年以上も前のことだが何回か行ったことがある。 街一番のテーマパークは「石炭の歴史村」である。昔の坑道をそのままアトラクションにした石炭博物館は一見の価値があるが、当時からひと気はほとんどなく、遊園地や遊戯施設が何のためにあるのか意味不明だった。とにかく広くて、駐車場もかなりの台数を収容できるものの、実際には入場門に近い付近に止まっているだけで、あとはがらがらだったことを覚えている。

いまでは財政悪化の一つの要因としてあげられている「ホテルシューパロ」に泊まった。バブル期の計画らしく街並みと不似合いに豪華で、食事は付属のレストランだったと思う。しかし部屋の窓から見えるのは昔の炭鉱時代に建てられたと思われる古びた家々であり、しかもホテルの方が低い土地にあるものだから、なんとなく外を見るのがはばかられるような雰囲気だった。

この夕張市内は映画「幸福の黄色いハンカチ」のロケ地があり、当時のセットがそのまま保存されていた。「幸福の・・」といっても今のひとはあまり知らないかもしれないが、高倉健、武田鉄矢、桃井かおりの出演で当時かなりヒットした作品である。

知る人ぞ知るなのだが、この作品はもともと、Dawnというグループの”Tie a Yellow Ribbon round the Old Oak Tree”(70年か71年だったと思う。これも元は映画か小説らしい)という曲のモチーフをそのまま持ってきた映画なのである。

刑務所帰りの男が昔の恋人に、もし俺が戻って来るまで待っていてくれたなら、古い樫の木に黄色いリボンを結んでおいてくれ。もしそれがなかったら、俺はそのまま立ち去るから、という歌なのだが、それをそのまま映画のストーリーにしている。

監督は「寅さん」の山田洋次。武田鉄矢も桃井かおりも若いし、だいいち乗っている車が相当古臭いのだが、それを今日まで観光名所にしているというあたりなかなかのものと言えなくもない。

当時はテーマパーク全盛期で、旧産炭地ではここの他にも芦別の「カナディアンワールド」(赤毛のアンをモチーフにしたテーマパーク。すでに倒産)など、脱炭鉱の街づくりが試みられたが、結局それらのほとんどは頓挫してしまった。そもそも北海道は広くて人が少ないし、景気後退で集客ができない上に人件費は高い(本州とそれほど差がない)と来ているから、よく考えればうまく行かないのは当たり前である。

ではなぜそんな計画が立てられ、それがすんなりみんなに認められておカネの工面がついてしまったのだろうか。それはおそらくバブル期に特有の妙な前向き志向のせいだったのではないかと思う。当時は、例えば今後3年間とか5年間の売上の見込みを立てるという場合に、前年比10%増とか20%増で5年間売上が増え続けるなどというとんでもない計画を立てていたのである。

当時私も若かったから、仕事上では比較的穏当な計画を立てるようにしていたのだが、そうした際に諸先輩(いわゆる団塊の世代の人たちである)に、「前向きでない」「予想ではなく、達成しようという意気込みを示すのが計画だ」などと散々批判を浴びたものである。ちょっと落ち着いて考えれば、毎年20%も売上が伸びた日には5年もかからずに倍になる。そんな前提条件で設備投資をしたら大変なことになるに決まっているのだが。

そんな妙な人たちと私とどちらに先見性があったのかは、その後数年もしないで明らかになったのだが、だからといってどちらが社会的に恵まれているかというと、おそらくそういう人たちだったりする。

夕張市も同じで、きっと見通しを誤った人たちはさんざんいい目をみてすでに現役を引退して、これからも恵まれた年金で食いっぱぐれはないのだろう。でも、先見性が全くないのにいい暮らしをするより、自分に自信を持って生きていたいと負け惜しみだろうけれども思う。

ちなみに、夕張市の税金食いつぶし施設の一つに「メロン城」というのがあるのだが、これは池田町(帯広郊外)の「ワイン城」と違って、全く集客できなかった施設である。この二つは名前だけ聞くとちょっと区別がつきにくかったりする。

[Jul 6,2006]

96年に行った時の夕張石炭の歴史村パンフレット。すでにこの頃、一部施設のみの営業でした。駐車場脇にあるサイクリングターミナルに泊まったのでした。


中札内 ~ぴょうたんの滝と花畑牧場 [Oct 5, 2010]

帯広から日高山脈の東側をえりも岬に向かうルートといえば、JR広尾線の幸福駅、シーサイドパーク広尾、黄金道路というのが定番の観光スポットであった。しかし月日は流れ、広尾線が廃線になって久しい。いまさら幸福駅でもないだろうし、シーサイドパークは一部施設を除いて閉鎖されてしまった(ラッコはどこに行ったのだろう?)。黄金道路はもともとただの国道である。

ところが、最近になって突然、人気スポットとなったのが広尾線でいうと幸福の次の駅、中札内(なかさつない)である。えりも岬までだと一日がかりになってしまうが、中札内は帯広から比較的近場である。今回はこのあたりを回ってみることにした。

帯広から南に向かうと、縦横に道路が走っていてほとんど信号がない。十勝型交通事故といって、全速で走ってきた車が交差点で90度の角度で衝突する事故が多い。だからよそ者が走るときは特に慎重に運転する必要がある。優先道路でも交差点前でスピードを緩めていたらクラクションを鳴らされた。後ろをみると「わ」ナンバーである。事故に遭うか捕まりたい奴は、先に行けばいいのだ。

帯広から1時間ほど走ると、札内川園地へ到着する。ここには中札内村が運営するキャンプ場やレストハウス、登山情報館があって、きれいに整備されている。園地入口から展望できるぴょうたん(ひょうたん?)の滝は、実は自然の滝ではなく、もともとダムのはずだったのが台風の土石流で埋まってしまった跡なのである。

日高山脈はまだまだ自然が多く残っており、ここから山脈の西側、新冠あたりに抜ける道路は、計画されているものの当分できそうにない。ヒグマも多く生息していて、情報館にはヒグマの剥製や最新の目撃情報が記録されている。また、南側に尾根を越えた大樹町では、今年、川の増水により大学のワンゲル部が遭難する事故も起こっている。

ちょうど北海道に行く前の日まで首都圏では真夏日が続いていたので、ほんとに涼しくて、生き返るような気持ちよさであった。滝からマイナスイオンが出まくっているような気もするし、こういうところに多い虫もあまりいなくて、日程に余裕があれば何泊かしてみたいようないいところでありました。

札内川園地から15kmほど戻ると、最近では観光スポットとなった花畑牧場である。新鮮なミルクを使ってキャラメルやチーズを作り、廃棄物であるホエー(乳清)を養豚の飼料として再利用するという、まあ当り前といえば当り前の牧畜なのであるが、それを目に見える形で商品化したのは、田中義剛の功績であろう。

実は、生キャラメルもホエー豚丼も初めてだったのだが、実際に食べてみると非常においしい。その分、お値段の方も非常によろしいのだけれど、財布の紐と商品ニーズのどちらが長持ちするかということになるのだろう。ただ、花畑牧場とその他の牧場では、明らかにネームバリューという差別化がなされているののは確かである。

[Oct 5, 2010]

札内川園地の入口にあるぴょうたんの滝。アイヌ語のピヨロ・コタンから名づけたといわれるが、登山情報館にはひょうたんがたくさん置かれていた。奥に見えるのが日高山脈。


民宿浜サロベツの話 [Aug 30, 2011]

昨日民宿の話を書いたら(注.男鹿半島の民宿)、思い出してしまったので今日も民宿の話。今回は営業妨害にはならない。なぜかというと今はもうないからである。子供がまだ小学校低学年の頃だから、もう二十年くらい前のことになる。

当時は東横インのようなビジネスホテルがあまりなくて、宿の絶対数が足りなかった。北海道を旅行していて、稚内(ご存知のとおり、最北端の町である)に宿がとれなかったので、20kmほど南下した稚咲内(わかさかない)というところに「浜サロベツ」という民宿があるとガイドブックにあったのを見つけて、そこを予約した。まあ全国版のガイドブックに載っているのだから、それほどびっくりするということはないだろうと思っていた。

ところが、びっくりするほどのものだったのである。90代のおじいさんと80代のおばあさんのやっている民宿で、外から見ただけでも年代ものの平屋の建物。通されたのは12畳ほどの広間で、前の人が泊まってから掃除をしていない様子。いまでいうライダーハウスで、基本的にはオートバイでツーリングする人達が雑魚寝するような宿であった。

国道沿いにあるので、トラックやオートバイの行き交う騒音が古いガラス戸にびんびんと響いてくる。北海道のことなので窓は二重だが、雨戸はない。部屋の隅に置いてある布団もシーツがよごれていて、一泊千円以上はとってはいけないのではないかと思われたが、1泊2食で5000円。民宿としては当時の相場より安い訳ではない。

部屋がきたないのに加え、奥さんによると風呂には多量の虫がいたそうで、何ともいいようのない宿であった。それでも予約はかなり入っていたらしく、うちの家族の後にも湘南ナンバーの車で夫婦連れがやってきた。うちと同様、ガイドブックで探したものだと思われた。お客の寝る部屋は二つしかなかったので、これで満室ということになる。

さて、うちの子供達は、非常にぜいたくであった。何しろ、旅館をとるとき食事を大人と同じものにするため、小学校低学年にもかかわらず大人料金を払っていたくらいである。長引く不況の影響でいまでは質素になってしまったが、当時は大人と同じコース料理を残さず食べていたくらいの食いしん坊であった。

その子供達が、ここの食事はほとんど食べず、ついていたヤクルトだけを飲んでいたくらいだから、食事もそれなりであった。翌朝になると、朝食もそこそこに、湘南ナンバーは出発し、うちの家族も8時前には退散した。まだビジターセンターも開いていないサロベツ原野で、寒さにふるえながら時間をつぶしたのである。それでも宿にいるよりましだと思ったのであった。

そんなすさまじい宿だったが、一つだけすばらしかったのは夜空である。夏なのに10度いかないくらいの寒さで、すごい数の星が見えた。天の川もくっきりと見えたが、これは街灯とかがあまりなかった子供の頃以来のことで、それ以降もない。この空を見ただけでも来た価値はあったのだが、まあすごい宿だった。

いまでも覚えているのは、おじいさんが「ここの海岸にはメノウやジャスパーが流れてくる」おばあさんが「食料のない頃はでんぷん工場に行って余った粉を拾ってきた」とか話していたことである。なぜそんなに話をしたんだろう。当時は民宿ってそういうものだったのかもしれない。

その後、NHKの番組でこの民宿がとりあげられた。それで二人の年が判明したのだが、宿がきたないことまでは取り上げられていなかった。ここの庭には何かの墓があって、あれはペットの墓だろうかもしかしたら人間の墓じゃないだろうかとなどと奥さんと話していた。おじいさんおばあさんも、あそこに眠っているのだろうか。

[Aug 30, 2011]

ありし日の民宿・浜サロベツの姿。どこの若い奥さんでしょうか・・・。


民宿浜サロベツ跡・21年振りの訪問 [Sep 30, 2013]

この夏の北海道でメインというべきイベントは、21年ぶりに「民宿・浜サロベツ」を訪れたことであった。

この民宿についてはかつて記事に書いたように強烈な印象が残っていたけれど、当時すでに90歳近い老夫婦の経営する宿であり(年齢はNHKの放送を見て知ったのだが)、その後現地情報を調べてもやっている様子はないので、今どうなっているのかと気になっていたのである。

オロロンラインを北上し羽幌まで着いたのが11時。午後8時までに札幌まで戻りレンタカーを返さなければならない。ここでお昼をとらないで走り続けるとすると、行って戻って3時間、それから4時間で札幌に戻れば何とかなりそうだ。奥さんもせっかくだから行きたいと言うので、さらに北上することにした。

目的地の稚咲内(わかさかない)は、オロロンラインからサロベツ原野への分かれ道にある小さな漁村である。いまひと休みしている羽幌は、天売・焼尻島へのフェリーが出ている町で、約80km先の天塩(てしお)まで国道232号をひたすら北上する。稚咲内は天塩からさらに20km先である。

羽幌から天塩まで、国道沿いに道の駅がいくつかあるが、帰り時間があるため素通り。ほとんど町もなくひと気のない国道なのだが、律儀に一定間隔ごとにバスの停留所がある。しかも冬のバス待ちのため、小さな屋根付きの小屋が付いている。ここは昔、国鉄羽幌線が通っていた(分割民営化直前の1987年廃止)ので、代替路線だから廃止できないのかもしれない。

天塩で国道から道道に入る。天塩川が日本海に注ぐあたり、海岸沿いの何とも雄大な立地である。展望台兼休憩所のような建物があるが、管理できないのか暴走族のたまり場になってしまうためか使用禁止の貼り紙がある。せっかくの景勝地なのに、残念なことである。もっとも、ほとんど人は来ないだろうが。

河口を過ぎると、今度は地平線まで何もないような土地に、風力発電のプロペラがずっと続いている。千葉の銚子近辺、茨城県にかけて同じようなプロペラが並んでいたと思って、帰ってから調べてみたら、どうやら同じ事業者がやっているようだ(ミツウロコグリーンエネルギー、HPこちら)。

風力発電エリアの後、吹雪シェルターのトンネルを過ぎてしばらく行くと稚咲内である。町ともいえない集落のようなところをよく見て進むと、あった。左手の海岸沿い、風の当たる海側はかなり崩壊しているが、玄関の側はほとんどそのままの形で残っている。民宿・浜サロベツの跡であった。もちろん誰も住んでいないが、表札さえ残っている。

下の写真が現在の姿。建物の見た目は二十年前と大して変わらない。昔は家の前は砂利を敷いた車庫になっていたのと、衛星放送のアンテナがなくなったのが違うくらいで、その頃からこのくらいのボロ屋であった。家の中の古さ加減も大変なもので、フロ場にたくさん虫がいたことを、いまでも奥さんが繰り返すほどである。

予想通り廃業して大分と日が経っていた模様だが、建物だけでも残っていたのは何となくうれしかった。あの頃泊まった人達(今でいうところのライダーハウスだった)も、ここを通ってなつかしく思うのだろうか。こうやって、過去の出来事は過ぎ去り、現在の出来事もいずれ過去になるのだなあ、と感慨深いものがあったのでした。

速攻で引き返し、4時過ぎには留萌に戻り高速に入ったので、札幌には7時に悠々と帰ることができました。

[Sep 30, 2013]

天塩から道道に入り海岸沿いを走る。風力発電の風車の他には何もありません。


稚咲内(わかさかない)に残っていた民宿浜サロベツの跡。玄関側はしっかりしているようですが、海岸に向かう裏側はかなり壊れてしまいました。左側の窓のある部屋に泊まったのです。


野付半島と北方領土 [Aug 22, 2012]

この間ギリヤークを見に行った次の日、根室から道東をドライブしてきた。 道東の中でも野付半島は非常に好きなところで、もう何回も行っている。とはいっても、最後に行ったのは子供の小さい頃なので、十何年か前のことだ。多少は変わったかなと思っていたら、全然変わっていなかった。むしろ寂れてしまったのではないかと思われるくらいだった。

根室の先にある日本最東端のノサップ岬と、道東のシンボルともいえる知床半島。野付半島はこの2つのちょうど中間点にある。北方領土の国後島とはわずか16kmの距離にあり、はるか昔江戸時代の終り頃には、野付半島と国後島との間に航路があった。

その渡し船が出ていたのは「アラハマワンド」という場所で、今は漁協管理で潮干狩の場所として使われているようだ。その砂浜には、かつて港にあった建物の残骸が埋まっていて、よく探すと家財道具やら食器やらが出てくるということである。行ってみたい所なのだが、残念ながら1日がかりになってしまうのであきらめる。

代わりに訪問したのが別海町の道の駅「おだいとう」である。ここは近年できた施設で、展望台からは16km先の国後島がよく見える。北方領土に関連する資料も多く掲示されているほか、返還に向けた署名簿も置かれている。

北方領土問題は私が北海道に行き始めた40年前には相当盛り上がっていたが、いまや竹島や尖閣諸島に押されて全国的な扱いは決して大きくはない。とはいえ北海道には戦前に北方領土に住んでいた人も多く、先祖の墓地も残されているため、今なお喫緊の課題となっている。

北方領土問題のウェイトが下がったのは私のみるところ2つの要因が大きい。一つは、高度成長期が終わりバブルも崩壊して、日本の経済力が低下したことである。かつて日本は世界第二位の経済大国であり、日本・ソ連間に平和条約が締結されれば、多大な経済援助が期待できた。いまやそうしたメリットはあまり期待できない。むしろ経済水域を縮小することはロシアにとって大きなデメリットとなる。

もう一つは、やはり「ムネオ問題」であろう。北方領土はおそらく帰ってこない。しかし、帰ってくる可能性があると言い続けることによって、それを商売にする人がいる。誰が考えてもうさんくさい話だが、そこに鈴木宗男が絡むとさらにうさんくさい。実際に便宜を図ったり利益を得ていたのであるから、北方領土問題自体、うさんくさい話にされてしまった。

それに、もしいま北方四島が返還されても、インフラも整備されていない島に帰る人がどれだけいるのだろうか。仕事はあるのだろうか。それにいま現在、北方四島に住んでいるロシアの人たちはどうするのだろうか。そうしたことを考えると、北方領土問題を解決する環境は、40年前と比べて相当に厳しくなっているような気がした。

北海道の根室、稚内あたりでは、今なお北方領土問題が喫緊の課題となっている。道の駅にある「叫び」と題された像は、親子三代が16m先の四本の柱に向かって戻るように叫んでいる。16mは国後島との距離16kmにちなむとのこと。


野付半島からは、国後島がはっきり見える。南部にある泊山(うっすらと写っている)はもちろん、なんとか北部の爺々岳(ちゃちゃだけ)も見ることができる。


野付半島にとってもう一つ指摘される問題は、かつてその代名詞でもあったトドワラが、いまやほとんどなくなってしまったことである。

野付半島はオホーツク海に突き出た砂嘴(さし)で、簡単にいうと両側を海に挟まれた土地である。もっとも狭いところでは道路のすぐ外側が右も左も海というすごい状況になっている。しかし、もともとはもう少し陸地の方が広かったところに、段々と海が浸入しているのである。

だから、かつてトド松の林であったところに海水が入ってきて、これが立ち枯れしてしまったのがトドワラである。立ち枯れしたトド松は白く脱色し、次々と倒れていく荒涼たる景色であった。このトドワラが有名だったのが高度成長期、以来数十年が経過し、かつてのトドワラはほとんど全部が倒れてしまった。

海の浸入はいまも続いていて、かつてのトドワラがこうであったろうと思われるのがナラワラである。ここは、ミズナラの林の中に海水が入ってきて立ち枯れているもので、下の写真に見られるようにまだまだ数多くの木を確認することができる。しかし、こちらも年々減ってきていることは間違いない。

観光資源という点で考えた場合、いずれトドワラ、ナラワラがなくなってしまうことにより野付半島のネームバリューはかなり下がってしまうことになると思われる。もちろん、北方領土に一番近いという地理的優位性は続くとしても、海抜0メートルからだけではそれほど迫力ある景色という訳ではない。

そうなった場合に、いまでさえ少ない野付半島を訪れる人がますます少なくなるのかどうか、そうなったとして、それはいいことなのかよくないことなのか、つらつら考えてしまう。個人的には、歩くことができる程度に遊歩道が整備されていれば、かえって人が少ない方がいいのだが。

ちなみに、ここ特産の北海しまえびは美味。私のおすすめは、素揚げにして頭から食べてしまう食べ方である。

さて、トドワラ入口にあるネイチャーセンターから1kmほど進むと、そこからは一般車立入禁止区域である。人が入ってはいけないとは書いていないので、数百メートル先の竜神崎まで歩く。藪の中に、紅色のハマナス、黄色のエゾカンゾウ、藍色のノハナショウブがそれぞれ満開で、目を楽しませてくれる。

何十年も前から北海道各地に原生花園はあるのだが、観光地化されるとあまり面白くない。その大きな要因は、花を見に来たのか人を見に来たのか分からないというところにある。だから、こうやって人の来ないところで野生の花たちを見るのはとてもうれしい。人が来なさすぎて、車のすぐ横までエゾシカが近づいてきたのにはちょっとびっくりしたが。

[Aug 22, 2012]

かつてのトドワラがこうであったと思われるナラワラ。立ち枯れた白い幹が、荒涼たる風景を形作っている。


野付半島の先端にある竜神崎。一般車両はここまで入れないので、交通手段は徒歩だけとなる。


留萌近辺(雄冬岬、留萌、恵比島) [Aug 19, 2013]

浜益(はまます)から増毛(ましけ)に抜ける国道231号線は断崖絶壁の雄冬岬を通らなければならず、この区間を通り抜けできるようになったのは1980年代と比較的最近である。今回はここを通って、留萌(るもい)まで走る計画である。

月形町から山を越えて1時間近く走る。道路ばかりで、ほとんど人家はない。時々「道民の森→」という表示があるから、中の方に人が住んでいるのかもしれない。クマもいそうだが。海水浴客でにぎわっている浜益で日本海側に出る。ここから雄冬岬を通るルートは、基本的にトンネルや工事中の道であり、車を止めて景色を楽しめるところはあまりない。

岬を越えてすぐのところに白銀の滝という滝があり、車で少し上がると展望台があるので行ってみたけれど、蜂が多いのと「まむし注意」の看板があって、あまりゆっくりできない。下の写真はもう少し先、増毛側に進んだところからのもので、ここまで来れば蜂もまむしもあまりいないようである。

ここから留萌まではそんなに時間はかからない。海岸沿いの道は「オロロンライン」といい、このまま最北端の街・稚内まで続く。オロロン鳥とはウミガラスの別名で、かつては天売島などに数多くいたのだが、開発による生息地の減少や天敵の存在により、日本国内ではほとんどいなくなってしまったそうだ。ときどき、オロロン鳥のモニュメントが「ようこそ」と出迎えてくれる。

留萌では、ニシン漁が盛んだったころ港の目印にのろしを上げていたという海岸際の「海のふるさと館」へ行く。ここは、WEBでは留萌の名所の一つとされているのだが、いまではニシンも観光客もあまり来なくなったようだ。ちなみに、ニシンの魚群がはるか北方に去ってしまった現在でも、留萌は数の子生産高日本一だそうである。

落成当時は食堂や土産物店も併設していたようだが、現在は公民館兼博物館として提供されている。この日も、児童を集めたイベントが行われていた。1階の博物館はなかなか本格的である。とはいえ、ニシンの説明用資料として、かつて食堂メニューの見本であったろうと思われるニシン料理の皿が飾られていたのは悲しかった。

留萌からJRに沿って山の中に入る。留萌本線で留萌から5つ目の恵比島駅は、平成11年NHK朝の連ドラ「すずらん」のロケが行われたところである。このドラマは現在放送中の「じぇじぇじぇ」ほどではないがなかなか評判になった。ちょうど同時期に健さんの「鉄道員(ぽっぽや)」が映画になったので、その効果もあったかもしれない。

土地柄無人駅であるのは仕方ないところ。驚くのは、駅の本体にもホームの表示にも、ドラマに出てくる駅名「明日萌(あしもい)」と書いてあることである。もっとも、ホームの深川側にちゃんと「恵比島」と書いてある。走っているのは1両のワンマン列車だろうから、おそらくこちらに止まるのでほとんど問題ないのであろう。

下の写真のように、古い駅舎が残っていい雰囲気である。駅前には、やはりロケで使われた旅館の建物が残っている。問題があるとすれば、やはり蜂が多いことだろう。

[Aug 19, 2013]

断崖絶壁が続く雄冬岬。岬の突端はトンネルの中なので近くで見ることはできません。1980年代まではこの道路はできていなかったそうです。


留萌本線・恵比島(えびじま)駅のはずですが、平成11年NHK朝のドラマ「すずらん」のロケ地となったため、ドラマに合わせて「明日萌(あしもい)」駅になってしまいました。右の小さな建物が、おそらく本物の恵比島駅。


鰊番屋・旧花田家住宅 [Sep 2, 2013]

オロロンラインの留萌より北にはあまり見どころはないかもしれない。その中で、かなり見応えがあったのは、小平(おびら)町というところにある旧花田家番屋。ここはニシン漁最盛期に多くの出稼ぎ漁師たちが暮らした鰊番屋を移築したものである。

樺太から北海道西岸の日本海には、明治時代頃までニシンがたくさん獲れたという。ニシンは干物や身欠きニシンにする他、数の子がとれるし、現代では想像できないけれど茹でて絞って油をとり、その絞りかすを肥料にしたそうだ。化学肥料のない明治時代には農業生産の増大にあたってかなり重要なものだったらしい。

なにしろニシンが多いため、東北各地から出稼ぎの漁師が集まった。彼らをヤン衆という。ヤン衆は普段の生活や寝起きは舟の中なのだが、海が時化たり天気が悪かったりした時には番屋に入る。したがって集まる人に応じて番屋の規模も大きくしなければならない。この花田家番屋は家族や使用人の他、150人ものヤン衆、合計約200人を収容することができた、道内でも最大規模の鰊番屋である。

当時はいまのように交通機関や流通が整っていないので、水揚げするだけでなく加工する段階まで現地で行わなければならなかったから、こうした大規模な施設が必要となったのであろう。ある意味ヤン衆は、いまのサラリーマンと似たようなものだ。仕事のあるところに働きに行かなければ食べていけなかったのである。

出稼ぎのヤン衆は板の間に布団を敷いて寝るのだが、もちろん主人(網元)の居住スペースは畳敷きである。こちらも見学することができる。台所の横には女中部屋がある。6畳くらいの広さに3、4人寝たらしい。電子レンジも食器洗い機も、掃除機も洗濯機もない時代にあって、女中さんは家事労働になくてはならない存在であった。

便利な世の中になって、単純作業はみんな機械がやるようになった。サラリーマンの仕事のほとんどは書類作りと対人折衝で、実際に何かを作っている訳ではない。こうした施設を見て、わずか2、3世代前にはみんなが体を使って働いていたんだなあと改めて知らされると、何とも言えない気持ちになる。

写真では手前に写っているのが道の駅・鰊番屋。入ると食堂・売店が整備されている。ここで食べたお昼ご飯はすごくおいしかった。奥さんはうに丼、私はにしんそばを食べたのだが、札幌で食べるよりずいぶん安いし、昔のニシン漁の映像を見た後ではひと味違った。

ところで、この間書いた北海道開拓時代の熊害事件で、最大とされるのが三毛別(さんけべつ)ヒグマ事件である。この事件は大正4年12月、体長2.7m体重340kgという最大級のヒグマが冬眠し損ねたらしく繰り返し村を襲い、死者7名重傷者3名を出したもので、この番屋から山を2つ3つ越えたあたりで起こった。

この事件を題材としていくつかの作品(吉村昭「羆嵐」など)が発表されているが、何しろ100年前の事件でもあり、徐々に注目度は下がりつつある。比較的最近の事件である日高山脈・福岡大ワンゲル部事件や秋田クマ牧場事件の方がいまでは有名かもしれない。とはいえ、映画「デンデラ」で出てきたヒグマはおそらくこの事件をモデルにしていると思われ、ああいう状況だと考えると大変に恐ろしいということが分かる。

[Sep 2, 2013]

よく似た色合いですが、手前が道の駅・鰊(にしん)番屋。向こうが重要文化財の旧花田家。道の駅では、うに丼が格安で食べられます。


旧花田家内部。ニシン漁の最盛期には、150人もの出稼ぎ漁師(ヤン衆)が過ごしたという大広間。


上野ファーム [Jul 20, 2014]

北海道に来るのは、これで何回目になるのだろうか。仕事でも20回は来ているし、プライベートでも30回近く来ているはずだ。合わせて50回、18歳で初めて青函連絡船に乗って以来、40年の3/4近くは夏に北海道に来ていることになる。考えてみれば大変な回数である。

若い頃は友達と来たり友達を訪ねてきたりした。学生時代から社会人始めにかけて、当時は競馬の北海道シリーズを現地で観戦するのが楽しみで、札幌か函館に腰をすえることが多かった。北大に進んだ友人がいたので、その下宿にお邪魔したり友達の友達とマージャンしたりしたこともある。結婚したのと大阪に転勤になったのでしばらく足が遠のいた。

次のピークは子供が幼稚園くらいから小学校高学年にかけて、自宅からドライブで北海道を回った時期である。北海道は広いので、年ごとに道北、道央、道東、道南と分けて走った。奥さんがまだ免許を持ってなくて、一人で運転した。体力があったものである。子供が大きくなって部活とかでスケジュールが合わなくなって、またしばらく足が遠のいた。

第三のピークは現在に至っているが、子供が独立して奥さんと二人、老夫婦のコンパクトな旅行である。若い頃のような体力がないので、もっぱら飛行機移動で、必要に応じ現地でレンタカーを手配する。広範囲を回るよりも、重点地区を定めて行っている。昨年は札幌から留萌、一昨年は釧路から根室、その前は帯広。これだけ行ってもまだまだ行ってないところがある。

それだけ北海道が広いということであるけれど、それだけではない。以前に行った時あったものがなくなったり、なかったものができたりするのである。今回訪れた上野ファームも、農園としては1906年開設で非常に古いが、フラワーガーデンを始めたのは1989年、注目を集めたのは今世紀に入ってからである。

もともと旭川といえば、道外から来る観光客にとっては見どころは少なく、層雲峡への中継点といった趣きであった。市内にホテルも少なくて、前に来た時は民宿のようなところに泊まったものである。当時、定番の観光地であった「川村カ子トアイヌ記念館」とか「旭川兵村記念館」を回ったものの、開拓初期のご苦労は察するけれどもそれほど目新しい展示もなかった。

それがいまや、旭川といえば旭山動物園と上野ファームである。ともに、20世紀には現在の形としてはなかったスポットである。今は昔というか、時代の流れを感じずにはいられない。それとともに、観光客も増えた。ホテルには、中国語・韓国語の表示が満載で、朝食会場も日本語以外の話者の方が多い。ホテル数自体も今世紀に入って大幅に増えている。

近年ガーデニングが注目を集めたのは、NHKで「ターシャの庭」を放送した頃からである。家の奥さんも、庭の芝生をはがしコニファーも伐って、イングリッシュガーデンをめざして苦闘していた。ターシャが90歳過ぎて亡くなると、今度は京都大原からベネシアさんが登場した。そして、この分野における日本人のトップが、上野ファームの上野砂由紀さんなのであった。

新千歳から、道央道をひた走って旭川へ。初めて北海道に車で来た時、道央道は旭川鷹栖から室蘭までだったのに、洞爺湖まで伸び、長万部まで伸び、現在では函館の目の前、大沼公園まで伸びている。あまり大きな声では言えないが、あのあたりは下を通っても高速並みに速いので、どれだけ需要があるのかはちょっと首をひねるところではある。

高速を下りて旭川ラーメン村でお昼にする。平日昼間だというのに、外国人観光客が満員である。そこから田園地帯をしばらく進む。彼方に望むのは大雪山である。

裏手にある射的山(しゃてきやま)からみた上野ファーム全景。


ちょうど園内の花々が見ごろを迎えています。


上野ファームは市内からちょっと離れた田園地帯の、射的山(しゃてきやま)という小高い丘の麓にある。旭川はもともと屯田兵が開拓した土地で、「兵村記念館」という博物館があるくらいである(開拓当時の建物や道具が展示されている)。射的山という名前も、屯田兵が射撃練習場に使ったところからきている。

この射的山に登ると、北方向は広大な上川平野、南西には大雪山系の山々を望むことができる。麓には白樺とカラマツの大木に守られた、上野ファームの全景が広がる。周囲は水田や牧草地が広がる、何ともいえない広大な景色である。旭川は北海道のほぼ中心であるので、まさにそういう雰囲気である。

もともと観光地として意図されたものではなく、上野さん個人の農場から始まったので、規模はそれほど大きくない。手入れもご家族やご近所の人達で行われているようである。この日も、TVに出てくる上野さんのおかあさんが熱心に草取りをされていた。着いたのが12時前だったので、幸いにそれほど混んでいない。ゆっくり見れるので、奥さんは大感激である。

イングリッシュガーデンの花の多くは宿根草(しゅっこんそう)と呼ばれるもので、冬になると枯れてしまうけれど根はちゃんと生きていて、翌年になるとまた名が咲く多年草である。うまく育つと根が広がって、初めは一株なのにすごく広い範囲に花を咲かせることもある。本家イギリスの緯度は日本よりかなり高い(北にある)ので、北海道以外では育ちにくい花々も含まれている。

こちら上野ファームでは、ロングボーダー、サークルボーダー、ミラーボーダーなどと名付けられた花壇に、色とりどりの宿根草が咲いているのであった。7月というと北海道はいちばんいい季節で、白、赤、紫などいろいろな色の花がみごとでした。(奥さんだと花の種類とかくわしいのですが、私はバラくらいしか分かりません。不案内ですみません)

宿根草の花期はそれほど長くなく、せいぜい数週間といったところだろう。だから、8月になってしまうといま盛りの花はほとんどが終わってしまう。もちろん、8月に咲く花もあるのだけれど、7月の花が最も鮮やかでかわいらしい花が多いように思う。

ガーデン内を見渡せる位置に椅子が空いていたので、奥さんは園内を歩き回り、私は座ってまったりすることにする。花もいいけれど、数十mの高さに育った白樺が圧巻である。白樺のてっぺんの葉が風にそよぐのを見ていると、何ともいいようのない心持ちである。生きているってこういうことなんだろうと思ったりする。

しばらくそこでまったりしていると、観光バスが止まる音が聞こえてきた。 「1時間後にこちらでお待ちします。」「園内にはトイレはありませんので、入口にあるトイレを使ってください。」などと声が聞こえる。それも何台もである。お昼が終わって、ツアー客が大挙して押し寄せてきたのであった。

何十人も入ってきた団体の多くは、われわれ同様に老夫婦である。基本、奥さんが熱心なのはうちと同様で、亭主はカメラを持って付いていくように見える。途端にざわざわし始めたのは残念だったけれど、それでも2時間近くのんびりできたのはよかった。入場料は500円、年間パスで700円だそうだ。これだけ有名になって基本的に家族経営というのはすばらしいと思う。

[Jul 20, 2014]

上野ファーム見どころの一つ、ミラーボーダー。通路の左右で同じ植物が植えられている。後方は白樺林。


上野ファームのエントランス。かわいい建物でいろいろな園芸小物を販売している。後方が射的山。


旭岳自然探勝路[Jul 28, 2014]

今回の北海道では、旭岳ロープウェイに乗ってみることにした。旭岳は大雪山系の主峰であり最も標高が高いことで知られているが、もう一つ、例のトムラウシ遭難の際、アミューズトラベルの一行がここのロープウェイから出発したのである。時期的にも7月上旬と同じであり、将来自分も歩いてみたいと思うコースでもあることから、いろいろ参考にできるはずである。

旭川から平坦な道を東川というところまで進み、そこから山道になる。人家もないが、ドライブインなどの観光施設もない。追越し禁止のカーブが続く道で標高を上げていくと、突然左右にこぎれいな建物が現れる。旭岳温泉街である。温泉街といっても、みやげ物店や食べ物屋がある訳ではなく、ひたすらホテルと旅館が続く。ロープウェイの駅は、温泉街の一番奥にある。

ロープウェイは15分に一本の運転で、駅はたいへんきれいである。往復で3000円近くかかるのにはたいへん驚いたが、こんな山奥にこれだけの施設を維持するのだから、やむを得ないのかも知れない。山麓から中腹の姿見駅まで、およそ10分。眼下に人工物が何もない原生林の上をゴンドラが進んで行く。

このロープウェイ、始発は午前7時頃で、旭岳からさらに奥に向かう登山客で一杯になるのだそうだ。例のアミューズ一行もそうしてトムラウシに向かった。姿見駅より先、40km以上の行程には、避難小屋しかない。年寄りが歩くには、厳しいコースである。そして、エスケープルートがほとんどなく、歩き始めたら終点まで行くかスタートに引き返すしかない。

私もいつか行きたいとは思うけれど、一番ネックになるのは道中にまともなトイレがないらしいという点である。一泊なら何とか耐えるけれど、二泊はどうなのか 。荷物の重さやヒグマも心配だけれど、今のところトイレ問題が最大のネックである。もともとキャパシティ以上に入れ込むことが問題なのだから(少人数なら目立たないところでとか)、入山料を取ってきちんとトイレを設置するのが本筋だと思う。

さて、ロープウェイを下りると、目の前は早くも雪渓である。あたりは濃い霧で、長袖がちょうどいいくらいの肌寒さである。姿見駅は標高1600mくらい、稜線にあがると1900から2000m位になるから、さらに寒くなる。大雨でずぶ濡れになり、さらに強風の吹きさらしに長時間いたというパーティーが、低体温症に陥ったのも無理はないのであった。

さて、ロープウェイ駅から右に進路をとり、姿見の池を通って旭岳に向かうのが登山客用ルートであるが、観光客用には高低差があまりない自然探勝路が用意されている。このルートは駅から左、双子池から噴気口を通って姿見の池に出て、そこからロープウェイ駅に戻る1時間半ほどのコースで、登山用の装備がなくても特に危険がないように整備されている。

まだ雪渓は残っているものの、その下からは雪解け水の流れる音が聞こえる。遠くからは低いエンジン音のような音も聞こえるが、これは噴気口から吹き出す蒸気の音であった。

7月上旬の旭岳は、ロープウェイ駅付近ですでに雪渓がある。向こうに見えるのは噴気孔。蒸気の吹き出す音が響いています。


この時期は、チングルマ、メアカンキンバイ、エゾコザクラなど高山植物が開花して、白、黄、ピンクのかわいい花を咲かせています。が、ガスって見晴しはあまりよくない。


さて、旭岳ロープウェイは日本で唯一、森林限界の上まで走っているロープウェイだそうで、姿見駅を下りるとハイマツなどの低木と高山植物しかない。まだ観光シーズンにはちょっと早いので、この日は自然監視員の人達も何人か登ってきていて、ベンチの状況とか雪の解け具合を見ていたようだった。

ほぼ平坦とはいっても若干のアップダウンはあり、足下がほとんど岩でできた散策路を登って行くと、いくつか展望台が用意されている。あいにく、この日は霧の中で見通しがほとんど利かない上、時々すごい勢いで白い霧のかたまりが押し寄せてきて数メートル先さえ見えなくなる。大雪山系では道迷いの遭難が多いのだが、なるほどこういう状況なのかと思った。

(十数年前に、地面に「SOS」の形に倒木を並べたまま行方不明になった事件があったが、ここの近くである。)

散策路の周辺には雪渓が残り、雪のなくなったあたりは高山植物が花盛りである。白のチングルマ、黄色のメアカンキンバイ、ピンクのエゾコザクラ、エゾノツガザクラが草原に広がっている。ガーデニングされた庭園もきれいだけれど、こうした自然のままの姿もいいものである。まだ人が少ないせいか、散策路の足下、岩の間のわずかな隙間に咲いている花もかわいらしかった。

自然探勝路は、夫婦池と呼ばれる第一の池群落まで進み、90度折れて姿見の池方向に向かう。折れずにそのまま進んでしまうと、登山道に入ってしまうので、「ここからは登山装備が必要です」と看板が立っている。それ以上に「この先クマ出没注意」の看板も強烈なので、なかなか進む人もいないだろうけれど。

姿見の池に向かう途中に、噴気孔がある。ここからは硫黄分を含む蒸気が勢いよく噴出している。ロープウェイ駅のあたりからエンジン音のような重低音が響いていたのが、実はこの音だったのである。すぐ近くまで行けるので、噴気孔が黄色く染まっているのも見えるし、硫黄臭も感じられる。しかし深い霧が近づくと、わずか十数m先なのに見えなくなってしまうのだ。

このあたりからはすでに姿見の池が見えている。池のほとりには旭岳石室と、鐘(かね)が置かれている。この鐘は、以前ここで学生さんの大量遭難があった際に建てられたものだそうで、何人かロープを引いて鐘を鳴らしていた。北海道のクマ生息地にはこういう鐘が多く置かれており、少なくともクマ除けにはなるものと思われる。

旭岳石室は非常時専用で、普段は使用することはできない。使用を無制限に認めてしまうと、ロープウェイの最終便で上がってきてここに泊まる連中も出てくるだろう。中には十人程度しか入れない上にトイレがないから、原則使用禁止もやむを得ないと思われる。造りは頑丈で、相当の突風にも耐えられる。

ここから先、旭岳頂上を経てトムラウシ方面の登山道に進むと、少なくとも二泊三日かかる行程に対して、建物はこの石室と似たり寄ったりのものが2、3あるだけ。キャンプ指定地はあるけれどトイレはなく、水場は煮沸要のところだけなのである。相当山慣れたパーティーが少人数で行くならばともかく、商業目的のツアーが大人数連れて行くところでないことは明らかである。

深田さんという人が「日本百名山」に選んでしまったからみんな来てしまうのだけれど、繰り返しになるがオーバーキャパシティがすべての原因なのだから、入山料をとってきちんと整備するというのが本筋だろう。いまはヘリが使えるのだから、シーズン始めにトイレを設置してシーズン終わりに撤去することも可能なはずだし、ある程度の物資は上で買えるようにした方がいい。

p.s. 帰ってからWEBをいろいろ調べてみると、大雪山の上の方では、地元山岳会らしき人達が我が物顔で振る舞っていて、数少ない避難小屋でそういう人がいるとあまり気分がよくないという情報があった。丹沢や奥多摩でもそうだけれど、回数を多く来ているだけで人を見下すような連中がいることも確かである。ただし、この日私が出会った自然監視員の方々は、とても感じがよかったことを付け加えておきます。

[Jul 28, 2014]

7月はじめの姿見の池には、まだ雪が残っていました。池の向こうにはかすかに、旭岳に向かう登山客の姿が見えます。


姿見の池に建つ、旭岳石室。避難専用なので、通常時は使うことはできません。


風のガーデン [Jul 30, 2014]

旭川で上野ファームを見た後は、富良野に移動して風のガーデンである。

それにしても、このあたりで倉本聰の存在感は絶大である。20年前にここを訪れた際には当然のように麓郷(ろくごう)に行って、黒板五郎の木の家や石の家を見に行った。あれから20年経って、今度は風のガーデンである。倉本聰は作品と土地が一体化している。おそらく今後数十年、富良野は倉本作品で売っていくに違いない。

ご存じの方も多いと思われるが、風のガーデンは新富良野プリンスホテルの敷地内にある。プリンス系はどこもそうだが、近くに山があればスキーリゾートを作る。スキーリゾートの弱点として、雪がなくなると売り物がない。そこにガーデニングの施設を作るというのは、たいへん理に適っている。雪がなければガーデニング、雪が降ったらスキーで集客するということである。

日程的には、上野ファームでたいへん気持ちのよい昼下りを過ごした後だったので、大層期待して富良野に行ったのだけれど、結論から言うとやや期待外れであった。なぜかというと、 いかにも商売でやっているという雰囲気がありありと見えたからである。

新富良野プリンスホテルの1階から外へ出て、ゴルフ場脇を進むと風のガーデン受付と書かれた小屋があり、そこから送迎バスが出ている。バスはゴルフ場のカート道を進み、5分ほどで風のガーデン入り口に着く。立地的に、もともとゴルフ場遊休地に作ったものなのだろう。そしてすぐ目に着くのが、ゴルフボール型の灰皿。ゴルフ場によくあるやつだ。

施設内では平原綾香の「カンパニュラ」が繰り返し流れている。いわずと知れた、風のガーデンの主題歌である。ショパンのこの曲はいい曲だと思うけれど、こう大っぴらにやられるとかえって興ざめする。ドラマはドラマ、イングリッシュガーデンはイングリッシュガーデンで楽しみたいという人がいるとは思わないのだろうか。

私は基本的にテレビドラマは見ないので、風のガーデンは緒方拳の遺作というくらいの知識しかない。もっとも、新富良野プリンスのロビーではエンドレスでドラマのDVDが流れているので、ファンにはたまらないだろう。ただ、個人的にいうと、残念ながら黒板五郎ほどには感情移入できないところは悲しいところである。

「北の国から」があれだけの人気を得た理由として、確かに北海道の雄大な自然という要素は間違いなくある。倉本聰の先見性も認めるにやぶさかでない。しかし、私はそれだけではないと思う。高度成長期からバブル時代にかけ「カネがすべて」という価値観が広がる中で、そうじゃないというアンチテーゼが多くの人の心の底にあったのがおそらく大きな理由である。

「北の国から」の最も印象的な場面の一つが、黒板五郎がかぼちゃを持ってお詫びに行くところである。(奥さんによると、新富良野プリンスの「北の国から関連商品店」にその場面の写真が貼ってあったそうだ)そこで菅原文太に、「誠意って、何かね?」と言われるのだが、おそらくそこで意図されていたのは、そういうことではないかと思う。

くどくなったけれど、もともと「カネ万能」テーゼの対立軸として作られた(と私は思っている)倉本作品が、西武とタイアップして、商業施設を作ってしまったというのは、皮肉なことである。もちろん、倉本聰も富良野活性化を図りたいだろうが、文化でそれを行うのと、商売で行うのは、天と地ほどの違いがあると思うのだが、私の頭が固いのだろうか。

確かに、旭川上野ファームよりずっと広いし、花の種類も多い。相当に手間もかけていることは分かるのだが、庭を作って見てもらおうという気持ちと、これでカネ儲けしようというのと、やっていることに違いはないように見えて、実は違う。もちろん、花には罪がないし、家の奥さんも何本か宿根草の苗を買ってきた。暑い本州でも根付いてくれるといいのだけれど。

[Jul 30, 2014]

風のガーデンは新富良野プリンスのゴルフ場に併設され、規模は上野ファームよりかなり大きいです。惜しむらくは、商業ベース強すぎ。


足下はウッドチップで、手入れにもかなり力を入れています。


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