久しぶりの東北道走破    民宿の話(大間)    東北新幹線グランクラス
青森県立郷土館    霞城公園


久しぶりの東北道走破 [Sep 19, 2005]

3連休で、奥さんと二人で北海道は函館まで行ってきた。というと、大方の人は飛行機か東北新幹線を使ったと思われるだろうが、ところがどっこい、青森まで車で行ったきたのである。

子供が小学生くらいまではよく家族で北海道までドライブ旅行をしたが、最近はそういうこともなく、東北道を走破したのは7、8年ぶりのことである。当時は私しか免許を持っていなかったので大変厳しいドライブだったが、いまは家族全員に免許があり、当然奥さんも運転するから、交代交代で楽ちんである。

土曜日は午前2時に出発して、昼前には盛岡到着。本場の盛岡冷麺を味わってから、十和田湖、奥入瀬、八甲田山を経て青森へ。青森駅に車をとめて、JRで函館まで。青函トンネルをくぐるのは初めてである。ドライブ旅行ではフェリーを使うし、学生の頃はまだ青函連絡船だった。当時、青森と函館と札幌は寝てもいい駅だったが、もちろん今は駅で寝ている人はいない。

函館はしばらく行かない間に駅も駅前もすごくきれいになっていた。あいにくの雨模様で函館山はあまり見えず、仲秋の名月を楽しむことはできなかったが、ホテル近くの店でうにやいくら、ホタテ、エビ、カニ、いかなどなど海の幸を堪能した。名物の朝市も、駅側の建物はすごくきれいに建て直されていた。ここで、海の幸の三色丼や五色丼を朝食にするのが定番である。

そして朝のうちに青森にとって返す。途中、山形の知り合いの家に寄って、ここでも蔵王地鶏やいも煮など名物をごちそうになる。結局、帰ってきたのは今朝方になってしまった。

今回、そんなわけでいろいろ美味しいものを食べたのだが、予想外においしかったのが、2日目の昼に東北道津軽SAのレストランで食べた「津軽おとめ」というランチである。

ネーミングのとおり女性向けのヘルシーメニューなのだが、チラシ寿司、おこげの親子(鮭といくら)あんかけ、パスタのマリネ風、サラダがそれぞれ四角いお皿に盛られ、それが4つで重箱に入れられている。これにお吸い物とデザート(林檎のババロア+いちごソース。これがまた逸品)がついて確か860円。機会がある方はぜひ味わっていただきたいと思う。

[Sep 19,2005]

2005年当時の函館朝市。水揚げも多く、まだ活気がありました。


朝市食堂には海の幸がいっぱい。


民宿の話(大間) [Sep 17, 2011]

今週末は旭川に来ている。3連休だというのに仕事である。 久しぶりの旭川はずいぶんと景色が変わっている。一番変わったのは、JRが高架になって駅も昔の線路沿いも再開発されていたことである。最初は新幹線が通ったのかと思ったが、それはまだかなり先のことである。広い北海道で鉄道を高架にする意味は新幹線以外には考えづらいが、まあいろいろと事情があるのだろう。

こちらへ来て思い出したのだが、旭川でもずいぶんな民宿に泊まった覚えがある。あるのだが、どうひどかったかの記憶がないのである。帰ってから写真とかいろいろ探せば思い出すだろうが、現時点ではどうしようもない。だから今回書くのは、別の民宿の話である。

今から20年くらい前のことになる。東京から車で、下北半島の恐山を経由して北海道に渡る計画だった。ところが恐山へのルートが、行きはむつから北上し、帰りは大間へ抜けるという行き帰り違うルートをとったためか、道に迷ってしまったのである。

正確に言うと、山から下りるのだから迷いようがないのだが、明らかに正規のルートではない細い道で、すれ違うことも引き返すことも困難な道幅なものだから、その道を下まで突っ切るしかない状況となってしまったのであった。霊場・恐山に観光気分で来た祟りだったのかもしれない。

正規の道でないものだから途中から舗装もなくなり、カーブも多いため時間がかかる。大間近くまで下りてくると、乗るはずだったフェリーがすでに出航し、津軽海峡を進んでいくのが見えた。

この時予定していたフェリーは大間から室蘭に向かう便で、現在では廃止されている。1日2往復で、午後2時のこの時間を逃すと、次は12時間後の午前2時となる。この日宿泊を予定していた室蘭はキャンセルせざるを得ないが、次の宿泊地まで行くためには、この夜中便を使うしかないのであった。

その後大間はまぐろ漁で有名になったが、当時はフェリーがある他は何もない町であった。下北半島の先端で北海道までフェリーで2時間弱とはいえ、逆に言えば青森県中心部からはきわめて遠い。12時間どうやって過ごすかを考えたが、子供も小さく待合室で長時間過ごすのは難しいので、フェリーの時間まで民宿に泊まることにしたのである。

駅の広告にあった民宿に電話すると、いいですよとの回答。行ってみると、予想通り普通の民家だった。これまた8畳くらいの普通の座敷に通され、何はともあれひと息ついた。民宿の水準というべきか、廊下も食堂も風呂・トイレもこちらの家族と共用で、することといえばテレビを見るくらいしかない。

そしてこの時の夕飯が絶妙だった。基本的に、食材すべてがイカだったのである。イカの刺身(イカソーメンではない)や塩辛、イカフライ、イカゲソの煮物などなど、まあ津軽海峡らしいといえばらしいし、急にお願いしたので仕方がないのだが、余ったイカで作られてしまったかなと思ったものだった。

午前1時起きなので8時頃には布団を敷いて寝たが、さすがにほとんど眠れなかった。夜便にはきちんと間に合い、室蘭まで約5時間ほど。そのまま高速に乗って旭川まで飛ばし、駅前のターミナルホテルでバイキングの朝食を取った。(ここで旭川につながるのである)

その当時はずいぶんときれいなホテルだったと記憶しているのだが、今回来て見るとちょっと古ぼけてしまっていて、隣接しているショッピングセンターも百均が入っていたりテナント募集中だったりしたのはやはり二十年の時の流れと言うべきだろうか。

[Sep 17, 2011]

旭川東横インの窓から。中央やや左が現在の旭川駅とJRの高架。高架下の雑草の見えるところが昔の線路だったあたり。


東北新幹線・グランクラス [Nov 21, 2011]

先週青森に出張したのだけれど、土・日も含む連日勤務で、最終日は夕方まで仕事して翌日は会社というハードスケジュールだった。さすがに体力的に厳しいと思ったので、青森からの帰りは東北新幹線のグラン・クラスに乗ってみた。

いまのところ、グランクラスが接続されているのは「はやぶさ」だけで、1日に3往復くらいしかない。私が乗った夕方のはやぶさは新青森を6時過ぎに出発して、3時間あまりで東京に着く。途中停車駅は、盛岡、仙台、大宮だけで、福島や宇都宮、上野には止まらない。

まず座席に座ってみる。第一印象としては、グリーン車がプレミアム・エコノミーとすれば、グランクラスはビジネス位の乗り心地である。革張りというのがセールスポイントであるが、私としては革でも布でもすわり心地がよければいい。非常に気になるのは、収納スペースがほとんどないことである。特に、前の座席の背の部分にあるはずの荷物入れがないのが不便である(リクライニングのため。下の写真)。

「通路を行き来する人はいません」というのが一つの売りになっていて、接続されているのは連結の一番後ろ。入口には案内のお嬢さんが立っているし、反対側はグリーン車からの通路となっていて、そこには「グランクラス利用者以外の立入りはご遠慮ください」と書いてある。

出発してしばらくすると、案内のお嬢さんがおしぼりを持ってくる。このあたりは飛行機と同じである。そして次は飲み物と食事。飲み物はビール、ワイン、日本酒、焼酎とソフトドリンクがあって、食事は洋軽食と和軽食がある。その他にお菓子とおつまみがあるとパンフレットには書いてあったが、持ってこなかったところをみると、リクエストベースなのかもしれない。

私がお願いしたのは和軽食とワイン(下の写真)。お弁当は松茸も入ってそれなりに豪華だが、いかんせん紙のお弁当箱というのが高級感に欠ける。またワインはボルドーやブルゴーニュという訳にはいかず甲州ワインである。JR東日本としてはやむを得ないところなのだが、やはり飛行機とは違うのである。

また、客層もファーストやビジネス並みとはいえない。ほとんどが出張帰りのサラリーマンだったが、中にはラフな風体の人がいて(カジュアルというのではない)、見学はご遠慮くださいと書いてあるのに見学していると思っていたら乗客だった。考えてみればグリーン料金より6~7千円、特急料金より1万円くらい上乗せすればいいのだから、国際線のファーストやビジネスとは違って当たり前なのである。

また、サービスが終わると案内のお嬢さんがいなくなってしまうのも、何だかなぁという感じ。いちいちCA呼び出しと同じようにコールするのも面倒だし、後からトイレに行ったら、車内販売の人みたいに通路で待機していた。あれだったら、グリーン車みたいに時々車内販売があったり、ゴミを集めに来てくれた方がいいのにと思った。

こうしていろいろ不満はあるのだが、速いことは速い。新青森から1時間で盛岡、もう1時間で仙台、さらに1時間で大宮である。ご存知のとおり青森空港は市内からちょっと距離があるので、時間的にも下りてからのアクセスの利便性でも、東北新幹線に分がありそうな戦いである。

結論 東北新幹線は速いが、グランクラスにしなくてもグリーン車で十分。浮いたおカネでちゃんとしたワインを買うのが正解。

[Nov 21, 2011]

グランクラスの内観。1列・2列になっていて、最後方が6Cなので(私の席だ)、全部で18人収容。


飛行機のファーストクラスを意識した(らしい)食事。感想は記事をご参照。


青森県立郷土館 [Feb 9, 2012]

この間の青森で、青森県立郷土館という博物館に行ってきた。ここが予想以上に良かったので、当地を訪問される方にはぜひお勧めしたい。

十和田湖に近い酸ヶ湯温泉で4mの積雪があり、青森県境に近い秋田県の玉川温泉では雪崩の被害があったように、先々週からの寒波で北日本は相当な影響を受けた。下の写真にあるように、青森市内でも歩道と車道の間に高い雪の壁が出来ていた(この中に本当の壁がある訳ではない)。

こうした状況なので、青森市に宿をとる場合に、駅前でなくてワシントンホテルにしてしまうと、結構な距離を歩く羽目になる。歩くと10分かそこらなのでタクシーに乗るかどうか迷う一方で、雪が深いのでカートを引いていくにはちょっと辛い。大通りには融雪のため温水が出ているので、ところどころ水たまりになっているのも面倒である。

青森県立郷土館は、そのワシントンホテルのちょっと先にある。元はどこかの銀行の店舗だったということで、戦前の風格のある格調高い建物であるが、出入口だった場所が雪でふさがってしまっている。本当の出入口は自動ドアで、職員の方が雪かきをしてくれている。

入口すぐ横にロッカーがあるのでコートを預けようとすると、「中はまだ寒いから着て行った方がいいですよ」と言われる。外は零下6度。それでも雪壁で風がふさがれるためなのか、体感気温はそれほど寒くはないのが不思議である。開館時間(9時)を過ぎたばかりなので、室内もまだ寒い。

2階と3階が展示室となっていて、中はかなり広い。青森県の自然や歴史、暮らしに関する資料が整理されていて、時間がたつのが早く感じる。思わず見入ってしまった視聴覚資料は、鎖国時代に漂流してロシアに流されてしまった人の話と、戦中・戦後の青森市のスライド。青森市も、テニアンから飛び立ったB29の爆撃で、相当の被害を受けたのである。

さて、東北に行くと気になるのが、零細農民の暮らしである。現代では品種改良により北海道など寒冷地でも稲作が可能であるが、江戸時代には寒さに強い品種などないから、東北といえば冷害とセットであった。現代の常識では、米ができないなら他の手段で何とかしようと考えるが、江戸時代には他の生産手段も移動の自由もない。自分だったらどうするかと考えても、なかなか考えつかない。

江戸時代末(というより明治時代初め)、薩長の討幕軍に抵抗したということで、会津藩松平家が強制移転させられたのが斗南(となみ)藩、十和田湖畔から下北半島にかけての領土であった。主君に従って多くの家臣が極寒の地に移転してきたが、寒さと飢えで命を落とすものが少なくなかったという。

ちなみに、現代の青森で全国トップシェアを誇るのがりんごの生産であるが、りんごの苗木が日本に入ってきたのは明治時代に入って以降のことである。りんごに関する資料も、3Fに展示されている。(ちなみに、りんご以外ではにんにくも全国1位だが、りんごと違って輸入品のシェアが大きい)

このように生死が紙一重だから、信仰の世界も非常に重要となる。「おしらさま」や「虫送り」をはじめとする東北独特の民俗資料も、ここには数多く展示されている。自然条件が厳しくなると、念仏や座禅、法華経といった鎌倉仏教のような理論的観念的なものよりも、アニミズムというか原始宗教に近くなってくるのは面白い。

夏の気候のいい時期なら十和田湖や八甲田山、下北半島の雄大な自然を堪能するのも気持ちが晴れるが、あまり外に出られない冬は、こうした文化施設でこの国の来し方行く末に思いをはせるのも悪くはない。

[Feb 9, 2012]

青森市は街中でもこんな雪です。ここは歩道、雪の壁の向こうが車道。


東北独特の屋内。板の間にござ、囲炉裏。私の祖先も、こうした囲炉裏端で長い冬を過ごしたのだろうか。


山形・霞城(かじょう)公園 [Jun 28, 2013]

この間山形に出張に行った時に、1時間ほど時間が余った。地図を見ると、駅の北西寄りが城跡公園になっているので行ってみることにした。この公園を霞城(かじょう)公園という。山形城の別名を霞城もしくは霞(かすみ)ヶ城と称することからそう名付けられている。

山形市は、東を奥羽山脈、西を朝日山地、南を蔵王に囲まれた盆地である。長らく、日本の最高気温は山形市の40.8℃であった。2007年に熊谷市と多治見市が山形市の記録を74年ぶりに更新し、現在は40.9℃が日本最高気温である。盆地の特性で暑い空気が流れ込んで籠ってしまうため、暑いときはとんでもなく暑いのであった。

山形城が現在の大きさとなったのは戦国時代末期、最上義光(もがみ よしあき)の時代である。義光というと全国的には伊達正宗の引き立て役のようなイメージがあるが、ここ山形ではヒーローである。実際に、秀吉から家康の時代にかけて、出羽方面における最上家の覇権は微動だにしなかったのだから、戦国大名としては相当の実力者である。残念なことに、後継者運がなかっただけである(江戸時代に改易となった)。

一方で、戦国時代には交通の要衝である山形が出羽の中心であったものの、江戸時代になると北前船が寄港し物流の中心となった庄内・酒田のウェイトが急激に高まることとなった。俗にいうところの、「本間様(酒田一の商人・地主)には及びもせぬが」ということになる。相対的に山形市の比重が低下し、明治維新を迎えることとなる。

さて、最上家改易後の山形藩は、親藩・譜代の主要どころ(越前松平、鳥居、堀田など)が歴代藩主となり幕末を迎えた。当然佐幕派となり、奥羽越列藩同盟を作って薩長に対抗しようとしたが、結局は降伏することとなる。その結果、薩摩から送り込まれてきた県令が、鬼県令・土木県令として有名な三島通庸(みちつね)である。

三島県令についても、全国的にはさんざんな言われ方をしているのだが、ここ山形では郷土の偉人扱いである。確かに、富国強兵・近代化に向けて公共土木工事が重要であったことはいうまでもないが、三島県令の場合、反対者はすべて弾圧したということだから、なかなか判断の難しいところである。

三島県令の関わった建築物の一つ、山形市立病院の前身である済世館が、ここ霞城公園に移築されている。八角形の構造で、中央に廊下があって周りに部屋がある。診察室や病室に使われていたのだろうか。古風な螺旋階段を上がると、2階は大広間になっている。医師や看護婦の控室だったのだろうか。

最上義光、三島通庸とアクの強い人物を輩出したこの地方、逆に考えるとアクの強い支配者でなければ御しきれなかった土地柄といえなくもない。さすがに東北地方、一筋縄ではとらえられないのであった。

[Jun 28, 2013]

雨に煙る霞城公園。全国でも最大規模の城址公園であり、現在も発掘調査や整備が続けられている。


鬼県令・三島通庸の遺構のひとつ済世館。明治初めに造られた病院で、現在の山形市立病院の前身。重要文化財のため、全館建て直しの際に移築された。


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