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大雪・森のガーデン

上野ファームが人気を博して以降、ガーデニングが一大ブームとなっている。道央でも、旭川から帯広に至る大雪山麓は、ガーデン街道という名前で集客を図っている。北東山麓の上川周辺は、かつては層雲峡、層雲峡温泉、黒岳ロープウェイくらいしか観光資源がなかったが、いまや赤丸上昇中なのが大雪・森のガーデンである。

高速規格の無料道路、旭川紋別自動車道の上川層雲峡ICで下り、ここから約8kmの山の中に森のガーデンはある。北海道だからその間ほとんど人家はないのだが、ICから要所要所の道端に「森のガーデン」「北海道ガーデンショー」の幟りが置かれている。途中からは、ほとんど人工物のない山道を登って行く。幸い、できて間もない施設だけに道路はきちんとしている。

道の両脇が牧草地となり茶色のアンガス牛が見えてくると、すぐそばが森のガーデンである。こんな山の奥にこんなにと思うくらい車が駐まっている。後から観光バスもどんどんやって来て、団体客を下ろしていく。やっぱり観光化しているのであった。

山の奥に作っただけあって、少々の団体客には動じないくらい園内は広い。言ってみれば山二つ分くらいの規模がある。これだけ大きいと花よりも木が中心となってしまうのはやむを得ないところで、花がきれいなのはエントランス周辺と、展望台周辺に限られ、あとはガーデンというよりはハイキングコースの雰囲気である。

エントランス周辺はおそらく上野ファーム監修で、宿根草とか高山植物がかわいらしい。その奥のスペースでは「北海道ガーデンショー」と銘打って、各国のガーデナーが腕を振るっているのだが、まあこのあたりは趣味の問題であろう。個人的には、植物以外のオブジェが主役のガーデンというのはあまりピンとこないところである。

登り坂を展望台に向かって上がっていくと、売り物の「ドレスガーデン」がある。コンクリートのジャンプ台のような場所に立つと、斜面に植えられた花がまるでドレスのように見えるというシャッターポイントであるが、まだ花が咲き揃っていない上に、観光バスで来た団体が行列を作って順番をとっているのはやや興ざめであった。

ドレスガーデンの横を抜けてさらに登って行くと、このガーデン最高標高地点となる展望台である。こちらの方がよっぽど景色がいいのに、あまり団体客は登って来ないのはかえってありがたい。この日は曇っていて、大雪山系がよく見えないのが残念だったが、麓に広がっている牧草地や、小さく見える牛たちを見ていると、やっぱり北海道はスケールが違うと感じる。

実は層雲峡にはあまりいいイメージを持っていない。というのは、子供が小さい時に層雲峡温泉のとあるホテルに予約して泊まったのだが、1泊2万円、それも子供も大人料金だというのに、大雪山どころかあたりの景色さえ見えない、宿の裏と倉庫と犬小屋の前の部屋に泊まらされたのである。層雲峡自体、景色がいいのは自然の手柄だし、ロープウェイやリフトはバカ高い。以来、層雲峡温泉には一度も泊まっていない。

そういう意味ではこの森のガーデンも点が辛くなってしまうのだけれど、規模が大きいし、よほどメンテナンスをしっかりやらないと荒廃してしまうのも早いだろう。この日も団体客の話すのを聞いていたら、「ドレスガーデンで写真を撮って、流星銀河の滝を見て」とか言っていたから、特にガーデニングに興味がある訳でもなさそうだ。

私の若い頃は、こうした施設を成功させるにはリピーターを増やすことと、来た人に満足してもらっていい評判を立ててもらうことが定石とされていたものだが、いまや爆買い中国人ツアー客をいかに誘導するかということになっているようだ。バブル崩壊のときは5年経たずに答えが出たが、今回はどうなるのだろうか。

[Jul 20, 2015]

大雪・森のガーデン。とんでもない山奥にありますが、広大な土地がきれいに整備されています。


これはレストラン/カフェあたりから撮った風景。


真鍋庭園 [Jul 26, 2015]

今回の北海道では、旭川から大雪山を時計回りに、上川、遠軽、網走、陸別、帯広、然別湖、富良野と走って旭川に戻った。旭川→上川間で大雪・森のガーデンに行ったのと、最終日に上野ファームに寄るのは予定どおりだったのだけれど、帯広で少し時間に余裕ができたので、郊外にある真鍋庭園に行ってみた。

真鍋庭園は、歴史で言えば北海道でも指折りの庭園である。何しろ、大正時代に皇太子(のちの昭和天皇)がお休みになられた建物「真正閣」を有する由緒ある庭園なのである。北海道ガーデン街道として売り出されている他の庭園が比較的最近作られたものなので、その点では対照的である。反面、必ずしも現代風ではないのは、いいところでもあり物足りないところでもある。

園内の説明書きによれば、初代が日本庭園として整備したものを二代目が西洋庭園として拡張整備したそうで、なるほど年季の入ったコニファーが至るところに植えられている。もっとも、カラマツやトドマツに比べて、コニファーの伸びる速度はとても速いので、樹齢ということでいえば日本庭園の木々よりも若いのだろうが、いまでは同じくらいの高さの巨木となっている。

家の奥さんによると、コニファーを育てる土と、宿根草を育てる土とは全然違うそうである。もちろん真鍋庭園はコニファー向けであるので、土がいくぶん赤味を帯びているしやや乾いている。宿根草を育てるのは腐葉土系の黒ずんだ土になるし、適度な湿り気も必要である。そうした違いがあるため、真鍋庭園は上野ファームや風のガーデンとはやや雰囲気が違う。

家でも以前コニファーを植えてあったが、コニファーは伸びるのも太るのも速い。上に伸びて屋根まで届くと手入れが難しいし、地面を覆って伸びる種類のものは、すぐに枝だらけになってしまう。だから狭い庭で育てるには、むしろ宿根草の方が適しているのだが、北海道の広い大地で育ったコニファーはまさに壮観である。

下の写真は庭園中ほどにある西洋館の前から撮影したもので、込み入って植えてあるように思うけれどもそれぞれのコニファーの間隔は十分にとってある。狭い首都圏の住宅でこれをやるのは無理である。そして、ここまで来るのに日本庭園を7~8分、さらに奥には池をはさんでハマナスの咲いている花壇までさらに10分ほど歩くのだから、相当に広い庭園である。

残念なのは、街中にあるため自動車その他の騒音が園内に響いてくるので、ゆっくり庭を見ていられる雰囲気ではないということである。この日は日曜日ということもあって、すぐ隣の十勝川河川敷でアマチュアバンドのコンサートをやっていて、あまり上手でない歌や演奏をずっと聞かされる羽目になった。写真には写らないのでよかったが。

[Jul 26, 2015]

真鍋庭園エントランス。上野ファーム系が宿根草中心なのに対し、こちらはコニファー中心。


初代が日本庭園を整備し、二代目は西洋庭園を整備したとのことです。奥様によると、このあたりのコニファーになると一本何十万とか。


チミケップ湖 [Aug 3, 2015]

初めて北海道に行った四十数年前から、究極の秘湖はどこかということがよく言われていた。当時最奥の湖とされていたのは知床五湖で、5つの湖をめぐる散策路は「最果て」という言葉がぴったりくるような雰囲気であった。阿寒湖の奥にあるオンネトーも秘境と呼ばれていたが、その大きな理由はバス便が通じていなかったということであった。

その後、知床五湖は自然保護とヒグマ生息地であるため奥の方までは入れなくなってしまった。オンネトーも秘境には違いないが、湖というより池に近い。そうなると、なかなか行くことのできない秘境の湖というと、チミケップ湖の名前がかなり上位にあげられるのではないだろうか。

チミケップ湖に行くには、津別という町で国道240号線から道道(どうどう)を山に向かって折れていく。はじめは片側1車線の舗装道路だが、途中からすれ違い困難な砂利道になる。しかも相当の傾斜がある。しばらく走ると湖畔に出るが、依然として1車線の砂利道である。地図をみると、湖畔から陸別側に抜けられるはずなのだが、その道にはゲートが下りている。まだ夏なのに通行止めなのである(雪が降ればなおさらだろう)。

もともと津別町自体が都会からは離れたところで、北見、女満別、美幌といった開けた町からは10km以上の距離がある。そこからさらに10km以上先だから、相当の秘境である。そして、湖に至る数kmの間、まったく人家はない。

さて、先般から廃止されたユースホステルについて調べている。40数年前に私が泊まった然別湖畔、洞爺観光館など、道内のユースホステルには廃止されたものが多い。そして、このチミケップ湖にも、かつてはユースホステルがあったのだ。その名をチミケップ湖荘という。昭和35年12月に開設され41年3月には閉鎖となっているから、私が北海道に来た昭和50年代にはもうすでに存在しなかった。

今でさえ砂利道ですれ違い困難なのに、50年前にはどんな道が通じていたのか、想像できない。いま手元にある1971年9月の交通公社時刻表を見ても、津別まで国鉄相生線が通っていたものの(国鉄解体でまっさきに廃止された)、チミケップ湖までのバス路線はない。自家用車もそれほど多くなかったその時期に、いったいどうやってここまで来たのだろう。

そして、この秘境に、いきなりしゃれた建物が現れる。チミケップホテルである。ネットをみると、1人1泊2万円以上という、なかなかの宿である。湖の周囲で常時人がいるのは、このホテルだけである。海外旅行客全盛のこの時代だが、大型観光バスの入れないこの湖に、中国人旅行客が来る懸念はなさそうだ(ホテルの人がどう思っているかは知らない)。

ホテル前の一角だけが開けていて、湖面を望むことができる。まったく人の手の入っていない、自然そのものの景観である。こういう景色があると、遊覧船とかモーターボートとか浮かべてしまうのが日本人のよくないところだが、おそらく釣り船が若干出るくらいではないだろうか。

ホテルの先3kmぐらいにキャンプ場もあるが、あまりにも道が狭いし、路面状態も良くないので断念した。さきほど述べたユースホステルは、昔の地図をみるとそのキャンプ場のあたりにあったらしい。電気は通じていたのか、食糧の調達はどうしたのか、そもそも集客はどうしたのかなど、今となっては調べる方法がないのは残念である。

もっとも、当時のユースホステルではTVなぞ見せてくれなかったから、電気がなければ暗くなったら寝るというだけの話だったかもしれない。いまでも、山小屋はそうである。あるいは、こういう場所柄、山小屋として使われていたのかもしれない。だとすればユースホステル価格の一泊千円位ではやっていけなかったのも無理はない。

[Aug 3, 2015]

いまや道内でも随一の秘境かもしれないチミケップ湖。ダート道を数km奥に入らなければなりません。キャンプ場もあるそうですが、そこまで行きませんでした。


湖畔に唯一ある建物チミケップホテル。HPによると、オーナーシェフのお料理がすごいらしいです。


函館・五稜郭 [Sep 26, 2016]

函館には仕事・プライベート含めて数十回来ているけれど、五稜郭に来るのは20数年ぶりになる。 まだ子供が小さい頃だった。五稜郭の中は広い空地になっていて見通しが利くし、出入口は基本的に1ヵ所しかないので、子供を放し飼いにするにはたいへん都合のよい場所だったのである。昔から五稜郭タワーはあったけれど、最初の1回くらいしか登っていない。実際に登らなくても、上から写した写真がたくさんある。

当時も、五稜郭の電停(市電駅)から五稜郭までかなり歩かなければならなかった。もっと近くに線路を引けなかったのだろうかと思ったものだが、いろいろと事情があるのだろう。昔は電停近くには丸井今井だけがでーんとあった。いまでは五稜郭電停周辺はJR函館駅前以上に繁華街になっていて、なぜここに駅が、という違和感はなくなってしまった。

この日は台風接近が伝えられていて、函館の降水確率は60%。雨が降り出す前に行ってしまおうということで、午前8時前にはホテルを出て五稜郭に向かう。繁華街を抜け、タワーの横を通って入口へ。ここは公園になっているので、基本的にいつでも入れる。

まだ時間が早かったので、犬を散歩させている人がたくさんいた。木陰には、サイクリング車を横に置いて寝ている人もいる。夕べから寝ているのだろうか、それともフェリーの早朝着で、寝不足を補っているのだろうか。いずれにせよ、エアコンなしでは厳しいくらい暑い。昔はもっと涼しくて、北海道のエアコン普及率は50%なかったはずである。

今回行ってみて大変に驚いたのは、外郭からもう一つ橋を渡った中央のエリアに、「函館奉行所」という大きな建物が建っていたことである。昔はベンチに座ったり芝生で横になったりできたのだが、そうしたフリースペースはわずかになってしまった。そして、「函館奉行所」の扉は閉まっていて、入場料500円と書いてある。もちろん、営業時間にならないと入れない。

とてもがっかりした。この函館奉行所は平成22年に竣工したようなので、まだ10年経っていない。最初にここに来た40年前はもちろん、最後に来た20数年前にも、影も形もなかったことになる。こうした施設があった方が観光客を呼ぶにはいいだろうし、五稜郭公園全体の整備にも役立つことは分かるが、昔の面影が全くなくなってしまうのは悲しいものである。

一段高くなっているお堀の内周通路を一周する。ここは、昔とそれほど変わっていないようだ。それでも、そこから見える山の形は同じはずなのに、周囲に建物が増えたので昔とは雰囲気が違っている。通路の左右の植栽も、きれいに整備されていてかえって寂しい。

そうやって一周していたら、函館奉行所の裏手にあまり人の来ないベンチを見つけた。そこでしばらく休憩する。昔来た時には、いま函館奉行所が建っている場所で2時間も3時間も過ごしたものだが、フリースペースが相対的に狭くなっているので、だんだん人が増えてきて長居ができない雰囲気である。雨予報にもかかわらず、時折強い日差しがのぞいて汗ばんでしまう。

エアコンが普及してヒートアイランド現象で暑いのか、それとも歳をとって辛抱が足りなくなったのか。もしかすると、昔は北海道に来たというだけで涼しくなったような気がしたのかもしれない。

[Sep 26, 2016]

函館五稜郭のエントランス。このあたりは昔とさほど変わってはいないようですが。


敷地中央に有料の施設「函館奉行所」ができて、昔の面影はなくなってしまいました。


函館・四稜郭 [Oct 3, 2016]

昔と違ってしまった五稜郭を後にして、タワーのアトリウム(wifiフリースポット)でメロンソフトクリームをいただきながらメールチェック。時刻はまだ9時半なので、いまから温泉に行くのも早すぎるような気がする。図書館にでも行くかと思って通りを北上すると、「史跡四稜郭 ↑」という看板が道の脇に立てられている。

そういえば、四稜郭(しりょうかく)は五稜郭と同様に旧幕府軍が作った城郭で、国の史跡になっているはずである。記憶では、五稜郭から2、3km北だったと思うので、3~40分歩けば着くだろう(その目論見は大外れとなる。きちんと計画を立てないといけない)。まだ天気はもちそうなので歩いてみることにした。

看板の指し示す方向は北で、バスも通っている道である。やや不安なのは、五稜郭周辺ではいくつかあった案内看板がなくなってしまっていることで、もしやどこかで右折するのではなかったかと不安になる。まあ、何かあったらバスに乗ればいいし、とまっすぐ進む。バス停を4つか5つ越えたあたりで、さすがに心配になる。

ちょうどそんなところに、交番があった。「すみません。道を教えてください」と入るけれども、誰もいない。バトロール中であろうか。交番にはたいてい周辺の地図が置いてあるのだけれど、机の上や壁には見当たらない。何の手掛りもないので、仕方なく失礼して先に進む。

交番を出てしばらく進むと、大きな通りと交差した。ありがたいことに方向表示があり、四稜郭は通りを渡って北西方向、東山霊園への道と分かれるようだ。何はともあれ、ここまでは間違っていない。よく考えると看板は車で来る人のためのものなので、まっすぐ進むうちは必要ないということなのだろう。

交通量の多い通りを渡って、左に分かれる道が現れた。このあたりから「史跡四稜郭 ↑」の看板が復活したのはいいのだが、「あと1500m」と書いてある。ここまで少なくとも3kmくらいは歩いて来ていて、あと500mくらいだろうと思っていたのに、これにはがっくりきた。おそらく五稜郭から2~3kmというのは直線距離であり、実際に歩くと5~6kmあるのだ。

道案内は住宅地の中を右に左にと方向を変え、そのたびに道が細くなっていく。台風接近で雨が心配なので、歩くのは早々に切り上げたいのだが、なかなかうまく行かない。そして坂が出てきて上がって行くと、十字路にぶつかった。しかし道案内がどこにもない。右手にバス停が見えて、そこには「四稜郭入口」と書いてあるので、その先に進んでみる。周囲は住宅街である。

ところが、それらしきものが何もない。5分ほど歩いたところの家で、作業している人がいらっしゃる。手を止めさせて申し訳ないが「四稜郭はどこですか」と聞いてみる。「ああ四稜郭はね(と言って私の来た方向を指す)向こうの信号を右に曲がって、坂をしばらく登ったところ。結構距離あるよ。歩いて来たの?」

ああ、やっぱりさっきの十字路はまっすぐだった。まぎらわしいバス停作るなよ、と思いながら道を戻って、坂を登って行く。台風どころか、日が差してきてたいそう暑い。もうすでに全身汗みどろである。坂を登りきってようやく着いた。時刻をみると11時15分。迷ったにしても五稜郭から1時間半かかっている。3~40分歩く予定が倍かかってしまった。

説明看板によると、現在史跡として整備されている四稜郭は内陣の一部であり、空堀や外周部分は道路や田畑、山林になってしまっているようである。確かに坂を登らなければならないので攻めにくいことは確かだが、戦国時代でないので、堀もなく陣地となる建物もなくこれだけ小さな城郭では、守備力はほとんどない。

実際に、新政府軍の攻撃の前に1日もたずに陥落してしまったそうだ。とはいえ、中核部分はきれいに除草してあって、裏手にはベンチも置かれている。昔の五稜郭に少しだけ共通する雰囲気があるのはうれしかった。

うれしいことはうれしいのだが、暑いのと、虫が寄ってくるのと、着ているものが汗でびしょ濡れになってしまったことから、ゆっくりできなかったのは残念なことであった。そして、四稜郭には駐車場とトイレはあるのだが、売店もないし自販機も置いていない。そういう予感があって、しばらく前にあった自販機でペットボトルの冷たい水を買っておいたのは大正解だった。

[Oct 3, 2016]

五稜郭から北へ1時間半ほど歩くと、史跡四稜郭がある。五稜郭と同様、旧幕府軍が拠点とした。


函館市街地よりかなり標高は高いのだが、五稜郭のような堀もなく、敷地も狭いので、新政府軍の攻撃に1日もたなかったのも無理はない。


20年振りの知床五湖 [Sep 17, 2018]

知床五湖に来るのは20年ぶりくらいになる。その時まだ知床五湖フィールドハウスはなかったし、高架木道もなかった。40年以上前に来た時は5湖すべて回ることができたのだが、20年前には1湖までしか歩くことができなかった。現在は、レクチャーが必要だが地上遊歩道で5湖回ることができるし、1湖までは高架木道でいつでも安心して歩くことができる。

初めて行った時、「知床五湖は1湖、2湖と呼ばれていて個別の名前はありません」「最近まで開拓入植者が住んでいましたが、クマも多く出るので、現在は定住者はいません」といった説明があったことを覚えている。以来半世紀近くが経過し、施設も歩道も立派に整備された。

よく知られるように、「知床」とはアイヌ語で「地の果て」を意味する「シリエトク」からきている。もともと、アイヌ民族が「シリエトク」と呼んだ地域は3つあったが、いま日本の領土であるのは知床半島だけで、あとの2つはロシア領土の樺太(サハリン)にある。

「地の果て」と呼ばれるだけのことはあって、知床半島の先端にある知床岬までの車道はなく、あるのは登山道と航路だけである。登山道を通るとしても、夏はヒグマの住処であり、冬は厚い雪に覆われて相当の上級者でなければ岬までは到達できない。

車道が通っているのは、ウトロ側がカムイワッカの滝まで、羅臼側は相泊まで。そこから先は漁業関係者が昆布干しをしたり漁船が停泊する施設はあるものの、歩いて進むことは困難である。

知床五湖はウトロの先、到達できる最も奥の部分に近い。ウトロを過ぎると、全くひと気はないがきれいに整備された道が続く。「ホテル地の涯」のある岩尾別温泉への道、さらにカムイワッカの滝への道を分けると、広い有料駐車場のある知床五湖に到着する。駐車料金は500円、環境保護に有意義に使っていただきたい。

レクチャーのいらない1湖への高架木道を歩く。距離は往復で2km弱、1時間あれば行って帰って来られる。以前と比べて、たいへん眺望が開けている。昔は背の高さに伸びている笹の中を進むため、背後にそびえる知床連山が見えにくかったし、湖面も水際まで着いてようやく見えるくらいだった。

それが、高さ2~3mの高い位置にあるものだから、かつての笹薮の上を通過することになる。こうした高架道は下から見ると眺めを分断して無粋であるが、上から見る分にはたいへん景色がいい。

地図をみれば五湖の背後は知床連山であり、遠く海別(うなべつ)岳から羅臼岳、硫黄山、知床岳へと続く1000m峰であることは分かっているのだが、これだけ鮮やかに望めるというのは予想以上であった。

そして、目線が高いので、開拓民の家があったという海岸方面の眺めも開けており、原野の向こうに海面も見ることができる。荒涼とした風景の中で防砂林が整備されているのは、かつて人家があった名残りだろうか。

日頃参考とさせていただいている村影弥太郎氏のホームページによると、現在ユースホステルやさけます孵化施設のあった周辺を中心に岩尾別集落があり、山形、福島、宮城からの開拓入植者や樺太からの引き揚げ者による多くの人家があったという。

最終的に、通いの畑作などがなくなったのは昭和50年代というから、私が最初に知床五湖に来た頃のことである。当時の記憶はおぼろげだが、少なくともいまのように大きな駐車場はなかったし、耕作地や牧草地もすでになかったように思う。

この日は、知床峠を越えて羅臼に入ったあたりで暗雲が漂い、標津まで走る間にゲリラ豪雨に遭ってしまったのだけれど、五湖を歩いている時には曇りで風もなく、気持ちいいハイキングを楽しむことができた。

[Oct 2, 2018]

知床五湖には、クマ除けと自然保護のため高架木道が作られた。1湖までしか見られないが、眺めは昔よりよくなった。


歩道橋終点からみた1湖。レクチャー受講で歩くことのできる昔の登山道とここで合流する。


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