荒船山に登ったときの話    南房総館山    牛久周辺
日本美術の至宝特別展    2012年の鬼怒川周辺    利根川を見に行く
尚仁沢湧水    五島プラネタリウム    小江戸川越散策    江東区芭蕉記念館


荒船山に登ったときの話 [May 30, 2007]

子供が小学生の頃の一時期、山登りに凝ったことがある。登山というほど本格的ではないが、ハイキングというほど手軽でもないその中間ぐらいのもので、高さ的には800から1500メートル位、もちろん山頂にみやげ屋などない(山小屋はある)そこそこまともな山々である。今日はその中で荒船山に登ったときの話である。

荒船山は位置的には軽井沢の南、JR軽井沢駅から72ゴルフの方向に10kmほど行ったところにある上州の有名な山である。なぜ有名かというと、山頂にあたる部分が約1kmほどにわたってほとんど平らになっており、下から戦艦とか空母のように見えるからである。

上州のもう一つ有名な山である妙義山がまるでのこぎりのように鋭くぎざぎざな山並みが続くのとは対照的であり、当然のことながら荒船山は初級者・家族向け、妙義山は中・上級者向けということになっている。

昔の人も荒船山を船のようだと思ったらしく、1423メートルの頂上を船の舳先(へさき)とみて、そこから続く平らな部分が終わるところ(そこは当然切り立った崖になっている)を船尾にたとえて艫(とも)岩と呼んだ。そして登る側からすると山頂が平らというのは結構ありがたいもので、途中の山道が苦しいのさえがまんすれば、あとはかなり楽な行程となるのであった。

さて、その日は前日降っていた雨は止んだものの、雲が多くあまりいい天気ではなかった。上信越自動車道を下仁田で下り、こんにゃく街道(国道254号)をいったん長野県側へ抜け、引き返して荒船不動尊付近のダムの駐車場に車を止めた。10分ほど歩いて荒船不動尊、そこから谷沿いに星尾峠まで、そこから今度は尾根道を登る、荒船山の入門コースともいうべき最も安全で間違いのないコースである。

信心深いうちの家族は、山に登る前に当然お参りをしたのであるが、その時からその犬はいた。つながれてはいないけれど、吠えたり噛みつこうとしたりしないで、お利口そうな犬である。

ここ(不動尊)の飼い犬なのだろうかと思っていたら、山に登るうちの家族についてくる。その時間うち以外に登っていたのは2、3組。小学生連れなので、うちが最後尾なのだが、その犬はわれわれの10メートルくらい前に進んで、じっとこちらを見ているのである。

前日の雨で道が川のようになっており登りにくいことは確かだったのだが、そんなに危ないというほどではない。それでもその犬は、ずっとうちの家族の前を先導するように歩いているのだった。さすがに犬だからどんどん登っていく。そして距離が開きすぎると、じっとこちらを見ながら待っている。そして距離が縮まると、また登り始めるのである。

きっと不動尊の犬だろうから、散歩コースまで登ってくるんだろうと最初は思っていたのだが、小一時間かかって星尾峠でひとやすみした後も同じようについてきて、結局山の上まで来てしまった。そしてここまで来れば安心と思ったのか、そこまでずっと近くにいたはずなのにすっとどこかに行ってしまったのである。

あれは単なる犬の散歩だったのだろうか、それとも危ない山道を心配してついてきたのだろうか、今考えても不思議である。ちなみにその日、山の上はかなり寒くて、持ってきた昼ご飯を休憩所でふるえながら食べたのを覚えている。それ以来、山に行くときには必ず山用のカセットコンロとインスタントラーメンを持つようにしたのであった。

[May 30, 2007]

荒船山に登ったときのスケッチ。犬の絵があるのと、「トモ岩はとっても寒くて」と書いてあります。


南房総・館山 [Feb 12, 2008]

連休の中日は奥さんのリクエストで南房総・館山へ。

家から館山までは100km余りある。館山から伊豆大島までは50kmくらいしかないから、そちらの方がずいぶん近い。逆に家から100km北は宇都宮あたりになってしまうので、同じ千葉県とはいってもかなり離れている。その分気候も違って、館山あたりはかなり暖かい。だからこの季節でも野外で花摘み(ポピーとか)ができるのである。

朝ご飯を食べずに出て、9時過ぎに内房に着く。朝昼兼の食事を新鮮な魚でという企画である。最近全線開通した高速館山道を下りて一般道へ。マスコミ等で有名なBという店に行ったのだが、ここがひどかった。

店に入るなり150人位入る別棟に通されて、「○○番テーブルにお座りくださーい」と指定される。注文しようとすると、「順番にうかがいまーす」と言ったっきり、15分たっても20分たってもオーダーを取りに来ない。その間にも次々に人が入ってきて、その別棟は一杯になってしまったが、まだ相席で押し込む。

これでオーダーの順番が分かるのかなと見ていたら、結局部屋を全部一杯にしてから席順に聞いているので、長く待っていた人もいま来た人も関係なしである。そのうえオーダーの受け答えを聞いていると、「煮物は30分かかりますが、どうしますか?」とか言っている。30分待ってまだオーダーもできてないのに、この先も待たされたらたまらないのでこの店はやめにした。

いい方の店はここから10分ほど北に戻った漁師料理「かなや」。入ると東京湾が一望できるすごい景色である。テーブルも椅子もきれいでちゃんとメニューが置いてあり、食事処らしく禁煙、しかも従業員の態度もとてもいい。お刺身の定食と大アナゴの天ぷらを頼んだら、ほどなく新鮮なお刺身と揚げたての天ぷらが到着した。冷たいものは冷たく温かいものは温かく、まさにあるべき姿の海の幸を堪能したのでありました。

館山市内に入り、まず千葉県立安房(あわ)博物館へ。ここは、例の「さかなくん」が客員研究員となっている博物館で、漁業に関する展示や資料がたくさんある。また、千葉に何校かある水産高校(残念なことに、今年度で統廃合されることになってしまったが)の実習施設でもあり、房総の漁業の歴史と「鮑(あわび)」について勉強する。

さらに海岸沿いに野島崎までドライブし、太平洋を見てからアジやイワシの干物をいっぱい買う。それからイチゴ狩りに行って採りたてのジューシーなイチゴを思う存分食べてビタミンCを補給していたら、夕方になってしまった。

ぽかぽかととっても暖かな一日でした。

[Feb 12, 2008]

ここはサイパンではありません。館山です。(車の中からなので少し反射してすみません)


「かなや」のお刺身定食と大アナゴの天ぷら。おいしいです。


イチゴ食べ放題。おいしさをお伝えできないのが残念です。


牛久周辺 [Sep 20, 2010]

しばらく出かけない間に、長く暑い夏が終わりそうである。この前の日曜日は、ぽっかり予定が空いて、そんなに暑くもなかったので、ふと思いついて牛久周辺に行ってみることにした。最初の目的地は、阿見町にあるプレミアムアウトレットである。

家から茨城県南部は、利根川を渡るだけなのにあまり行ったことがない。さらに北の栃木県には年に2~3回は必ず行くのに、妙なものである。利根川沿いを佐原・銚子方面にしばらく走り、長豊橋を渡って茨城県へ入る。そのまま408号を北に進めば牛久方面である。ここから東に方向を変えると、JRAトレセンのある美浦から霞ヶ浦に至る。

最近このあたりには高速圏央道がつくばから南下してきているので、結構太くてまっすぐな道ができている。408号は国道なのに、昔からあるため曲がりくねってしかも細い。プレミアムアウトレット方面は、牛久の中心地へ入る少し前で高速方面に右折する必要がある。なにしろこのアウトレットは高速のIC(阿見東)と隣接しているのである。

最近はやりのアウトレットモール、関西方面に行くたびにりんくうとか三田とかの宣伝をよく目にしていた。もともと、メーカーの規格外品を安く売ったのがアウトレットだから、大消費地の近くには作りにくい(既存代理店に不利になる)。ところが長引く不況のため、メーカーも悠長なことを言っていられなくなったのか、最近では各地にアウトレットが作られている。

アウトレットの大手には、三菱系のプレミアム・アウトレットと、三井系の三井アウトレットパークがある。りんくう、三田、御殿場、そして今回訪問した阿見は、いずれも三菱系のアウトレットである。大規模な開発が必要であり、かつ、高速ICなど交通の便のいいところに立地できる政治力ということになると、やはり財閥系不動産会社が有利なのであろう。

さて、一般道から行くと高速道路を巻いて、裏手から入ることになる。広大な駐車場があるが、思ったほど埋まってはいない。入場門を入ると下の写真のような感じで、人の姿もまばらである。ただし、COACHのお店とフードコートは11時前なのに一杯。アダィダスも結構混んでいたようでした。

家の奥さんは「たち吉」で食器を、フォーションでジャムを仕入れていました。「思ったよりお店が少ない」という意見でしたが、おそらく採算が合えば二期・三期と拡大していくのでしょう。

このアウトレットでもう一つ注目すべきは、間近に牛久大仏があること。高速をはさんで反対側になるが、モール内のどこからでも(店の中とかを除いて)大仏様を見ることができる。

この大仏様、中に入ると800円かかるけれど、近くに行くだけならタダである。この大仏ができた頃墓地と一緒に宣伝していたので、てっきり墓地開発業者が作ったと思い込んでいたけれど、なんと東本願寺の施設であったのには驚いた。身長100m、ブロンズ像としては世界最大の仏様で、浄土真宗なので当然阿弥陀如来ということになる。

阿見プレミアムアウトレット。あまり人通りはないように見えるが、混んでいる店は入りきれないくらい混んでいたりする。


牛久大仏。高さは100m、胸のあたりにある展望台は60mくらいになるそうだ。


牛久大仏を訪れた後、市内中心部へ走りシャトーカミヤに向かう。ここは以前、牛久シャトーと言っていたと思うが、現在はシャトーカミヤが正式名である。

明治時代に酒造界に一時代を築いた神谷傳兵衛氏が、日本で初めて本格的なワイン醸造所を作ったのが、ここ牛久である。いま考えると、気候的には甲州とか信州とか、もっと適した場所があったのではないかと思うが、おそらく大消費地・東京へ運送するには、もっと近い方がよかったのだろう(野田に醤油工場が立地したのと同様の事情か)。

もう一つ大きな理由は、設立当時ここ牛久周辺には何もなかった(だからブドウ畑や醸造場が置けた)ということがあったと思われる。現在は周辺はマンションや住宅、店舗が並ぶ市街地となっているが、シャトーの昔の写真をみると、周りには何もないのである。

周りにブドウ畑もなくなってしまった現在、ここシャトーカミヤは醸造場というよりも合同酒精のアンテナショップ的存在である。施設自体が国の重要文化財に指定され、建物内にある神谷傳兵衛記念館には、明治の元勲達がここを訪問した際の写真や、当時の醸造用具、主力製品であった「蜂ブドー酒」の古い瓶などがゆったりと展示されている。

さて、私はワインは大好きであるが、国産の葡萄酒は好きではない。ごくまれに白ワインの悪くないものはあるが、シャブリ並みの値段なのであえて選ぶ意味が見当たらないのである。それ以外のほとんどのワインは、国産愛好者の方々には申し訳ないが、ごめんなさいという感じである。もちろんカリフォルニアのナパ・バレーのように、将来急にレベルアップする可能性は少しはあるかもしれないが(それまで生きていられるだろうか)。

そんな訳で、ここも国産のワインだけ売っているんだろうなーと思って、いままで来たことがなかった。今回も、せっかく牛久まで行くのだから、寄って「電気ブラン」でも買って来ようというのが、そもそもの動機なのであった。(浅草の神谷バーは、もちろん神谷傳兵衛氏が開店したことに因んでいる。電気ブランは合同酒精の製品なので、ここで売っているのだった)。

ところが行ってみて驚いたのが、国産のワインだけでなく、海外のワインも結構置いてあるということであった。何しろ神谷傳兵衛記念館の一番目立つ場所に、1950年代くらいからの「シャトー・ラフィット・ロートシルト」(ラベルの絵を世界的画家が描くことで有名。ワイン自体もボルドー最高と呼ばれるクラス)が毎年分展示されているのである。

だから、「電気ブラン」を仕入れた後、思わずワインショップで手頃な値段のものを買ってしまった。鍵の掛かったショーケースの中には数十万円する年代ものの銘柄ワインもあったけれど、もちろんそんなものは手が届かない。2級クラスのセカンドラベルだけれど、それでもいつ開けようか楽しみにしているのでありました。

[Sep 20, 2010]

国指定重要文化財のシャトーカミヤ。中にはレストランやビアガーデン、ワインショップ、そして博物館(神谷傳兵衛記念館)があります。


ボストン美術館・日本美術の至宝特別展[Apr 4, 2012]

さて、先日は体力面で2年間のブランクからの回復を図るべく、養老渓谷の長時間踏破を行ったのであるが、今回は文化面での回復を図るため、上野・東京国立博物館で開催中の「ボストン美術館・日本美術の至宝特別展」に行ってみた。

よくご一緒する方はご存知のように、博物館は好きである。地方に行くとその土地の博物館や資料館によく行くし、マカオでもラスベガスでもその手の施設にはとりあえず行ってみる。展示資料を見て、その土地の全体感がつかめるような気がするからである。そして今回のテーマであるボストン美術館は、日本の国宝級の作品が多数展示されているので有名なところである。

その中でも特に有名なのは、大山古墳(仁徳天皇陵)出土品と吉備大臣入唐絵巻だと思うのだが、今回はその吉備大臣入唐絵巻が展示されるのである。因みに、大山古墳出土品の方は、昨年宮内庁が調査し、仁徳天皇陵である可能性は低いのではないかとする鑑定結果を示している。

さて、今回特別展を見るまで、ボストン美術館が日本の古美術品を入手したのは、黒船来航以来のアメリカの高圧的外交により、政府も強く流出を阻止できないまま海外に運ばれてしまったからと思っていた。ところがそれは大きな勘違いで、明治政府の廃仏毀釈令により、多くの寺院が二束三文で所持する美術品を売りに出したのを、フェノロサや岡倉天心がスポンサーを見つけて入手し、散逸を防いだのが本当のところであったという。

明治以前には神仏混交であった日本の宗教的バックグラウンドが、明治の国家神道推進により「寺=仏教」の地位が急落し、貴重な仏像や仏画が廃棄されたり焼却されてしまった話はよく知られているが、文化的には決して先進国とはいえなかった当時のアメリカに価値が分かるのに、日本人には分らなかったというのは情けない話である(当時、東大寺の歴史はアメリカ合衆国の10倍以上の年数である)。

今回の目玉である吉備大臣入唐絵巻には人だかりができている。昔から「きびのおとど」と覚えていたので、「きびだいじん」と言われるのはやや違和感があるけれど、ともかく吉備真備の唐での活躍を絵巻物にしたものである。英語の表題が”Minister Kibi’s Adventure in China”というのは面白い。Adventureといわれると途端にアメリカっぽくなるから不思議である。

後白河朝の作品というから、約800年前のものになる。さすがに色あせているし、折皺なのかところどころ見えなくなっているのは残念。また、絵巻のストーリーはもちろん、後白河法皇がなぜ吉備真備なのかと考えると楽しい。後白河法皇の有力な財源は平氏であり、平氏の収入源は宋との貿易だから、本場中国で知られた日本人ということで真備と安倍仲麻呂ということになったのだろうか。

今回のメイン的な扱いを受けていた作品がもう一つあって、江戸時代の水墨画家・曽我蕭白(そが しょうはく)である。約350年前の作品であり、かつ本格的な補修がなされた後の作品であるため、墨跡も鮮やかである。「雲龍図」は巨大な襖絵であるが、それでも真ん中にあった胴体部分が欠けているというのだからすごい。

特別展を見た後は、法隆寺宝物殿へ回って仏像を見る。坐像、立像、半跏思惟像の他に、「倚像」(いぞう)という仏像があることを初めて知った[英語でいうと”on the Bench”ベンチに腰掛けた姿の仏像である]。まだまだ勉強が足りない。

[Apr 4, 2012]

開催中の特別展。一番奥が会場である平成館。上野駅からたっぷり歩きます。


2012年の鬼怒川周辺 [May 8, 2012]

さて、天気の良かったゴールデンウィーク前半に鬼怒川周辺をドライブしてみたのだが、このあたりは栃木県と福島県の県境にあたる。間に阿武隈山地をはさむとはいえ、原発とは距離的に近い。日光あたりもかなり観光客の足が遠のいていると聞くし、どんなもんだろうと思っていたのだが予想以上だった。

初日の午前中に行ったのは「小百田舎そば」。ここはおいしくて早くに行かないと一杯になってしまうのだけれど、今回は開店前に並んでいたのは私達だけ。2年前と同じ時期なので桜が満開で、店のおばさんにシャッターを押してもらうほどの余裕だった。

鬼怒川ライン下りの休憩所で鮎を食べてから向かったのは「かご岩温泉」。ここはどちらかというと穴場に属していてあまり混むことはないのだが、それでも行ってから帰るまで他にお客さんがいないというのは初めてである。たいてい地元の人が何人か来ているのだが。

その日は宇都宮に泊まり、翌朝は高速に乗り西那須野塩原で下りて塩原方面へ。塩原温泉は基本的に駐車場が少なくて、川に下りる駐車場はいつも満杯なのだけれど、何と今年はどこも何台分かのスペースが空いている。次もその次も空いているので、予定にはなかったが車を止めて遊歩道に下りていったくらいである。

さらに奥に進み、国道121号と交差する上三依(かみみより)には、昔からよく行く山菜売場がある。この季節になるとこしあぶらやふきのとう、わらびといった春の山菜が一杯に並ぶのだが、近付いても何だかひと気がない。おじさんが一人で、きゅうりを袋詰めしながら店番をしていた。そして、大量にあるはずの山菜がない。

山菜はないのか聞いてみると、麓で取れる山菜はどれも放射能の基準を超えていて売れない。いま、山の深いところに取りに行っており、農協で数値を調べてからになるので、しばらく先にならないと売れるかどうか分からないとのこと。何ということか、原発事故の影響がこんなところに出ているとは。

原発からこのあたりまで、直線距離で100km以上あるし、しかも山をいくつか越えなければならない。それでもこれだけの影響が出ているのである。「がんばろう、日本」と言うのは簡単だが、実際にこれまでの生活が成り立たなくなる人はどれだけいるのだろうか。

[May 8, 2012]

塩原温泉から渓谷に下る遊歩道。いつもは駐車場が一杯なのに、今年は空いていました。


利根川を見に行く [May 10, 2012]

ゴールデンウィーク後半は、天気に恵まれなかった。天気がよければまた養老渓谷あたりに行こうと思っていたのだけれど、その方面で土砂災害があったということで断念した。6日には川を越えたつくばで竜巻もあったくらいだから、出かけなくて正解だったのだろう。

予定が空いたので、5日は利根川を見に行くことにした。家から歩くとちょっと遠いので、コミュニティバスで小林まで行ってから歩き始める。ここにはつい最近大事故を起こして注目を浴びたバス会社があって、(名義貸しなのか)多くの観光バスが止まっている。連休前半には報道陣が大挙して押し寄せていたのだが、この日は閑散としていた。

将監(しょうげん)川を渡って栄町へ。このあたりは利根川のデルタ地帯で、本流が枝分かれして印旛沼方向に向かったり、多くの中洲ができている。もう少し下流へ行くと水郷である。江戸時代には湿地帯でなかなか耕作ができなかった地域であり、田沼時代には大規模な土木工事が行われた。

ようやく安定したのは、高い堤防が築かれ給排水の設備が整った高度成長期以降のことで、その際に区画整理も行われた。現在、利根川から印旛沼にかけての水田は見事に長方形が並んでおり、あぜ道もまっすぐである。この日歩いた道もそんな感じで、折しも田植えのまっ最中であった。

このあたりは農道だから、田植え機が優先である。機械が通るときは、道の脇で止まって待つ。兼業農家がほとんどのせいか、どこもこの日が田植えなのであろう。作業を見ていると、本当は春に田植えをして秋に稲刈りをすれば、他に心配することはないんだろうなと思う。レジャーが庚申講とか出羽三山参りしかないとなると(このあたりはそんな石碑が多い)、人間関係がえらく大変そうなのはちょっと引くが。

まっすぐ北へ、利根川の堤防方面に向かう。確か堤防沿いは歩いて通れるはずだったのだが、震災で大きく崩れたとのことで現在も工事中である。GWというのに向こうの方ではパワーシャベルが動いているので、工事していないあたりにちょっと登らせてもらう。ここは茨城県との県境になり、高い堤防からは遠くまで見通せる。

この冬は雪が多かったので、先日行った鬼怒川でも水量が多くて、五十里(いかり)ダムはかなり水位が高かった。それに加えて4日までに5月ひと月分の雨が降ってしまったこともあって、利根川も河川敷まで水が上がっている。低木の幹まで水だし、鉄塔の土台も川になっていて作業をする人は大変そうだ。

最近は水不足の年が多いのでみんな忘れているが、私が社会人になった頃(昭和57年)河川敷のゴルフ場が水浸しになる水害があった。何年かに一度川になるから河川敷というんだなぁとしみじみ思ったものである。もちろんそれから堤防を高くしているのだが、流れてくる土砂で川底も上がっているのでいずれは同じことになる。

結局この日は、5時間、約23km歩いた。ほぼフラットな道だけれど、それだけ歩くとさすがに疲れる。しばらくは忙しくて遠出できないので、こうやって家の周りを歩くことになりそうだ。

[May 10, 2012]

利根川デルタの栄町では、田植えの最中。このあたりは、機械化に対応して水田が長方形に区画整理されている。


この冬は雪が多かったのと、5月初めの集中豪雨で、利根川は河川敷まで川幅が広がっていました。堤防の上の道は工事中。


尚仁沢湧水(東荒川ダム親水公園) [May 1, 2013]

ゴールデンウィーク前半には、例によって日光方面へドライブ。小百田舎そばへ行って「一升ぶち」手打ちそばを食べ、鬼怒川ライン下りの休憩所で鮎を食べ、「まつたか」で半年分(?)の日光ゆばを買ってきたのだけれど、今回はちょっと足を伸ばして、尚仁沢(しょうじんざわ)湧水のある東荒川ダム親水公園に行ってきた。

鬼怒川温泉を上流に進み、昔の終着駅・新藤原の先で交差点を右(東)へ。舗装はしてあるのだけれど、じきに道幅が狭くなり、くねくねしながら登ったり下ったりする。ずっと電柱が立っているのでどこにつながるのだろうと思っていたら、二十分くらい後に突然村が現れる。その後はまた山道。再び開けたと思ったら今度は牧場である。

ときどき路肩に車が止まっているのは、山菜採りなのか、あるいは釣りなのか。いずれにしてもひと気があるのは少し安心。山道も大分と下って急に道が良くなったと思ったら、向こうから車が何台かやって来る。WEBで見覚えのある湧水のボトリング工場があり、その奥が東荒川ダム親水公園であった。

山道を何kmか入った先に尚仁沢湧水の源泉があり、名水百選にも選ばれたおいしい水ということである。湧水量は1日に6万5千トンというから、一人が100リットル持って行ったとしても65万人分ということになる。さすがにそんなには取りに来ない。羊蹄山麓のふきだし水が1日8万トンだから、ほぼ匹敵する規模になる。

山の中の源泉まで行くのは大変なので(もちろん、行く人もいる)、親水公園まで水を引いてありここで取ることができる。源泉の一部だけだからふきだし水よりもずいぶん規模は小さくて、取水口は5つくらいしかない。それでも結構取りに来る人がいて、この日もこんな山の中にと思うほどの人がいたのである。

駐車場は広く、すでに二十台近くが停まっている。みんな2リットルのペットボトルを大量に持ち込んでいる。灯油を入れるような20リットルのポリタンクもみえる。台車を用意している人もいる。4リットルボトルを一つだけ持ってきているのはうちだけである。「水を大量に車に乗せると危険です」と注意書きがあるが、どこ吹く風といったところである。

ボトルを一つだけ持って並んでいたら、前の人(二十本くらい)が、「お先にどうぞ」と譲ってくれる。4リットルなどあっという間である。飲んでみると、やっぱりおいしい。浄水器の水もおいしいのだけれど、プラス自然の恵みというのだろうか。成分でいえばカルシウムとかマグネシウムということになるのだろうが、やっぱり自然の水はちょっと違うのである。家に帰ってごはんを炊いてみたら、これもおいしかった。

駐車場の脇には大きな建物があり、中は食堂と売店になっている。今回びっくりしたのはこの中ではなく、駐車場の横に軽トラックを止めて、野菜とかを売りに来ていたおじいさんとおばあさんである。奥さんがちょっと覗いて手招きする。すでにおじいさんは売る気まんまんで、のびるを素揚げしてみそで和えると最高と熱弁をふるっている。ふとみると、こしあぶらがあるではないか。

原発事故以来、どこを探しても山菜が見当たらなかった。この日も、農協直売所や道の駅を探したけれどなかった。それがこんなところにあるとは。原発に近いこのあたりでは放射能の測定値が高いという話もあるけれど、言いたくはないがわが千葉県北西部も相当に高いのである。山菜だけ気を付けてみても始まらない。

こしあぶらを2パック、わらびを2パックなどと言っているうちに、これはおまけだこれもおまけだと、結局12パック買うことになってしまった。家に帰って奥さんが天ぷらにしたり煮たり和えたりしてくれる。とても食べきれないので、あく抜きして冷凍したのが半分以上である。久しぶりに、春の味覚を味わうことができたのでありました。

[May 1, 2013]

尚仁沢湧水公園。すごい山奥にあるにもかかわらず、何十本もペットボトルを持ち込んでいる人がいて大混雑。


親水公園のおじいさんから買った山菜で、わらびと湯葉の煮付け、こしあぶらの天ぷら、のびるの味噌仕立て。春の香りが満載でした。


五島プラネタリウム [Jul 17, 2013]

とにかく暑い。奥さんは家にひとりでいるとエアコンが無駄なので、昼間はショッピングセンターに行くそうだ。そんな話をしていたら、不意に、五島プラネタリウムのことを思い出した。五島プラネタリウムは、渋谷駅の東急文化会館の最上階にあった老舗のプラネタリウムである。

いまと違ってコンピュータ制御ではなく、すべて機械仕掛けのプラネタリウムであった。以前から名前は知っていたのだが、学校の帰り道になければわざわざ行くこともなかったかもしれない。昭和51年だから1976年。もう37年も前のことになる。

1日に、5、6回、それぞれ1時間のプログラムであった。早い時間のプログラムはどちらかというと説明が多く、小中学生向けの教育的な番組。そして夕方からの最後の回は、説明は最初の30分だけで残りは音楽を流しながらただ星空を映していた。

いま思うと、デートスポットとして映画代わりに使ってもらおうという意図があったようでもあるが、そういう客層はあまり見かけなかった。どちらかというと、(当時はそんな言葉はなかったが)天文オタク的な人が多かったように記憶している。特にこの音楽だけの回を楽しみに来ている人が多く、開場前に並ぶこともあった。

実際の星空に線が引かれている訳ではないのだけれど、例の星座の名前のもとになっているギリシア神話の神々の絵が映されるのをみると、なるほど大熊だ、白鳥だ、さそりだと納得できて楽しかった。また、実際には見ることのできない南半球の星座を映してくれるのも興味深かった。流星群の時期にはわざわざ流れ星を映したりもしていた。

そして何といっても、ここには冷房が入っているのである。現在では想像することが難しいが、当時は国鉄(!)も私鉄も地下鉄も、冷房が入っている電車の方が少なかったのである。もちろん学校も同様である。冷房が効いている場所で過ごすというのは大変うれしくぜいたくなことであったし、プラネタリウムは映画館の半分くらいの値段だった。

2年ほど定期的に通った後しばらく間が空いて、再びここに足を運んだのは就職してすぐの頃である。新入社員は2、3ヵ月残業なしという決まりであったので、会社の中で新人だけが早く帰らされた。その職場で男の新入社員は私ひとりだったので特に予定もなく、ふと思い立って再びプラネタリウムに行ってみたのである。

同じように夕方のプログラムは、半分は音楽と星空だった。サラリーマン生活は決して楽しいものではなかったので、星を見ていると心が軽くなるような気がした。プログラムが終わると、丸くなっている外周通路に掲示されたカニ星雲だのアンドロメダ銀河だのの写真を見ながら、自分が最後の客になるまで過ごしたのであった。

3ヵ月経って残業フリーパスになると、とてもじゃないがプラネタリウムに行っている時間はなくなってしまった。その後しばらくして、渋谷再開発があって大きなビルに建て直されることになり、五島プラネタリウムもなくなってしまった。

もともとこのプラネタリウムは、「強盗」慶太の異名で知られる東急創業者の五島慶太氏が、東急のターミナル駅である渋谷に集客力のある施設をということで作られたらしい。その意図はともかくとして、実際に運営していた人達は本当に天文学や宇宙、星が大好きだったのだろう。何度も行っていて、それだけは間違いなかったと思う。

[Jul 17, 2013]

小江戸川越散策 [Dec 1, 2013]

12月第1週ギリヤークの日、せっかく川越に行くのだから小江戸と呼ばれる街並みを歩いてみることにした。そう言ったら、奥さんも一緒に行くと言い出した。私は知らなかったが、川越は関東の湯布院というくらい女性に人気なのだそうである。

10時前には博物館前の無料駐車場に到着。まず、川越の歴史を勉強するために市立博物館へ。通常は共通入場券が300円くらいかかるのだが、この日は「川越市民の日」であるため無料とのことである。2人分だから、かなり助かった。ほどよく空調の整った館内で展示物を見る。

前から川越が小江戸と呼ばれているのは知っていたけれど、単に古い街並みがあるからだと思っていた。実はそれだけではなくて、川越は徳川家康が江戸に入るまで武蔵国第一の都市だったそうである。川越城も江戸城も、ともに関東管領上杉氏の家臣である太田道灌が開いている。

そうした背景から、川越城主には幕閣の大物が配置された。松平伊豆守信綱や柳沢出羽守吉保である。そうした大物の領地なので、経済の中心となった。また、家康の参謀的存在であった天海僧正も川越(天台宗の喜多院)が拠点で、それもあって寺社には力があり祭礼も盛んであったそうだ。

博物館の後は、川越城本丸の跡にある本丸御殿へ。なにしろ幕府方の重要な拠点だったので、明治維新後すぐに廃城とされてしまった。本丸御殿は武道場や体育館として使用され、天井にはバレーボールの跡が残っている。家老の間は民間に払い下げられ、近年ようやくここに移築されたものである。

規模はずいぶんと小さくなり、中庭の向う側はすぐに県立川越高校である。埼玉の県立高校は男子高と女子高に分かれていたが(今はどうだろうか)、ここは男子高で、当時としては珍しくシンクロナイズドスイミングをやっていた。ウォーターボーイズのモデルとなったのはこの高校である。

本丸御殿から西にしばらく歩くと、古い街並みとなる。時計代わりに鐘を鳴らした時の鐘のあたりが最も雰囲気がいい。ところが、蔵の街と呼ばれる通りは大通りに面して車が多くて落ち着かず、菓子屋横丁は観光客だらけ。大正ロマン通りは、「店に入らないと写真はダメ」と大声を出しているおやじがいた。

どこも観光客ずれして興趣をそがれるし、日本語でない言葉をしゃべる団体が大勢で騒いでいるのもよくなかった。食べるものといえば「いも」ばかりで、しかも結構なお値段である。それなのにお客がどんどん入っていくので混雑している。

結局、成田山川越別院に行く途中に、インド料理店があったので入る。すいていて静かだし、980円でセットメニューがあるのもリーズナブルだ。しかも、とてもおいしかったのである。

[Dec 15, 2013]

川越城本丸御殿の中庭。向こうにちらっと見えるのはウォーターボーイズのモデルとなった県立川越高校。


小江戸の町並み中心部。すごい数の観光客にびっくり。


江東区芭蕉記念館 [Apr 28, 2019]

日本橋・千葉ニュー40km歩きの前日、いきなり歩くのはちょっと不安だったので、日本橋界隈で準備運動することにした。終点は日本橋室町BAY HOTELなのでどこから歩くか。そういえば、これまで深川をゆっくり歩いたことがなかったので、両国から隅田川沿いを深川まで歩いてみることにした。

十連休最初の日曜日、両国駅を下りると相撲関係のイベントが開催されていた。結構な人が出ていて歩行者天国には飲食テントが並び、お土産袋を持つ人もいる。そういえば、蔵前と両国の国技館には4、5回来たけれども、北尾(双羽黒)の時代が最後だったなあ。

両国から海側に歩くのは初めてである。隅田川に沿ってしばらく歩くと江東区芭蕉記念館がある。地図がなくてもすぐ着くだろうと思っていたら、雑居ビルや古い家並みがあり、行き止まりになっている道もあるのでそれほど簡単ではなかった。

新大橋を渡ると、ようやく道案内が出てきた。両国から歩いてもたいした距離はないが、たいていの人は森下とか清澄白河といった大江戸線の駅を使うだろう。まあ、近い駅があればそちらを使うのが当り前だが。

芭蕉記念館は、通りに面したこじんまりしたビルである。1階に事務室とラウンジがあり、2階と3階が展示室である。200mほど離れた分館には会議室があり、屋上は芭蕉の銅像が置かれた公園になっている。

松尾芭蕉は江戸時代というより歴史上最大といっていい俳人である。全国に建てられた句碑の数はおそらく日本一(2位は山頭火)であるが、当時から流行作家という訳ではなかった。

もちろん、俳諧は町人に好まれた芸能で、芭蕉も今日でいう華道や茶道の家元にあたり不自由ない生活はしていたものの、江戸後期の喜多川歌麿や滝沢馬琴のように、蔦屋の出版によって流行作家の地位を占めたという訳ではない。

「おくのほそ道」自体、公表されたのは芭蕉の死後であった。だから、「おくのほそ道」で芭蕉が俳諧の道を究めたとは言えるかもしれないが、それで人気を確立したということではない。「蚤虱(のみしらみ)馬の尿(しと)する枕もと」という句があるのは、別にわび・さびを求めている訳ではなく、それほど余裕がなかったからかもしれない。

日本橋から深川に移ってきたのも、どちらかというと都落ちといった状況であったらしい。軒先にひょうたんをつるし、門人がかわるがわる米を補充して、師匠の生活を維持していたという。それはそれで、たいへん風情がある。

芭蕉が住んだ芭蕉庵はもともと幕府御用の鯉問屋を営んでいた門人の杉風(さんぷう)の持ち物で、生け簀に付属した番小屋のようなものであったという。そういえば昔、金魚を飼っていた頃、よく小松川まで藻を買いに来たものだった。江戸時代からこのあたりはそういう土地柄だったらしい。

その後、再開発(!)により周囲一面が大名屋敷となって幕末を迎えたが、大正6年の大津波(!)の際、芭蕉庵の遺物とされる石造りの蛙が出てきたことから、このあたりにあったものと推定されるということである。その石造りの蛙も、記念館に展示されている。

記念館は十連休中にもかかわらず開館していて、何人か見学者もいた。常設展示として道中笠や墨染めの衣、手甲・脚絆といった服装関係の再現や、代表的な紀行に関する説明資料がある。

また企画展示の中に「鹿島紀行」に関するものがあり、芭蕉が鹿島神宮まで歩いた際、1泊目が布佐だったという元気づけられる説明があった。布佐は千葉ニューよりさらに先であり、健脚で有名な芭蕉とはいえ、当時の道路事情は今とは違ったはずなのである。

おくのほそ道といえば、説明の中に代表的な句として、「一つ家に遊女も寝たり萩と月」と「むざんやな冑の下のきりぎりす」があった。もう一首はないのかなと思っていたら、あれは弟子の其角の句だったのだ(鶯の身をさかさまに初音かな)。

夕方明治座の前を通ったら、今年の細雪は長女を浅野ゆう子がやるらしい。昔は「あてのお祈り、効くんやで」と言っていたのに、出世したなあ。芭蕉記念館を見に行っただけあって、「獄門島」にちなむ一日でした。

[May 31, 2019]

十連休中の公共施設ですが、芭蕉記念館は開館中でした。「ダメと書いてあるもの以外は撮影してもいいですよ」とのこと。


200mほど離れた分館の屋上には、隅田川を望んで構想を練る芭蕉の銅像が建つ。


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