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札幌競馬場 [Mar 3, 2005]

学生の頃、夏休みになると北海道に出かけた。当時、カニ族といわれた横長のリュックに着替えを詰めた出で立ちで、国鉄の周遊券を学割で買い、泊まりはほとんどがユースホステルだった。夜行列車がまだまだ多かったので車中泊もあったし、青函連絡船の青森と函館の駅待合室は、当然の宿泊スポットであった。

そんな中でも競馬は好きだったので、当時の札幌最終週の北海道3歳ステークスを見てから、翌週の函館開幕には巴賞を見るというスケジュールを組んだ。競馬のある日は行動に制約のあるユースホステルは使えないので、今でいうバックパッカー宿のようなところを探して、そこに泊まった。今となっては、どこにそんな宿があったのか見当もつかない。

札幌競馬場はその頃まだダートコースだけだった。そのためダート血統の馬や体の大きい馬が来ることが多かった。単複と枠連しかなくて、馬券も200円、500円、1000円券を別々の窓口で売っていた。貧乏旅行だからせいぜい200円券を3点くらい買うのが関の山で、1レース当たって初めて、次のレースを500円か1000円で大きく買うことができた。

札幌競馬場のメインスタンドからは北大のポプラ並木が見える。中山競馬場は給水塔だし府中に至っては高速道路だから、非常に雄大な景色だった。しかし、馬券は外れ続けた。その頃一緒に旅をすることが多かったA君と別れて地下道をくぐり内馬場へ行った。

次のレースはダート血統のスチューペンダス産駒の4歳馬で間違いないと思っていた。その馬から3点買った。内馬場から3、4コーナーは非常に近い。ダート1800mは馬場を1周する。その馬は3コーナーから一気にまくり上げ、4コーナーでは先頭に立った。その日ただ1レースの的中であった。でも、大して美味しいものを食べた記憶もないから、結局マイナスだったのは間違いないと思う。

[Mar 3,2005]

岩見沢競馬場 [Jun 16, 2005]

みなさんは、ばんえい競馬を見たことがありますか?北海道においてばんえい競馬の対語は道営競馬なので、「道営は北海道主催の競馬だろ?だから、ばんえいは”ばん”が主催する競馬だよ。ところで”ばん”って何?」なんてとぼけたことを言われたら困ります(誰も言ってない)。

ばんえいは漢字で書くと「輓曳」、輓も曳も引っ張るという意味で、体重1トンにも及ぶ重種馬が少なくとも500キロ、多いときで1トンのそりを引いてゴールを目指す、北海道独特の競馬である。なお、重種馬とは農耕用や運送用に品種改良された馬のことで、これに対し乗馬用に品種改良されたサラブレッドやアラブを軽種馬という。

はじめてばんえい競馬を知ったのは学生の時、札幌で「ばんえい競馬ダイジェスト」というテレビを見た時であった。とにかくそのスピード感のなさに驚いた。ゲートが開くと、各馬一斉にのそのそと歩き出す。コースは200mの直線、その間に第一(高さ1.5m)、第二(高さ2m)の二つの障害(といってもただの坂)がある。

そして、第一障害は何とか越えるのだが、第二障害の前でみんな休むのである。休む時間も馬によって違うし、いざ第二障害を上りだしても、なかなか上りきれない。これを越えるとあとは最後の平坦な直線50mほどなのだが、なんとそこでも止まってしまう馬がいる。これでも競馬かよ、と思ったものである。

その後、いつか実物を見に行こうと思っていたが、十年ちょっと前に北海道をドライブ旅行している時にスケジュールをやりくりして岩見沢競馬場に行った。国道から住宅地に入り、坂道を上っていく。上りきったあたりで広く駐車場が開けており、そこからちょっと丘を下りるような感じで競馬場があった。

入ってすぐにパドックがある。そこでは騎手が馬に乗って周回しているのだが、実際のレースでは騎手は馬に乗らずにそりに乗って、そこから馬にムチを入れるのである。

一応、予想紙も売られており、その一つは中央競馬でも有名な「競馬ブック」であった。ただし、予想なんてほとんど当てにならない。とにかく、ばんえい史上最強馬といわれる馬であっても相当数の着外があるように、何かのはずみで来たり来なかったりするのである。

よく言われているのは、負担重量に慣れているかどうか、乾いた馬場がいいのか濡れた馬場がいいのか(濡れた方がよく滑るので、力のない馬でも重量をこなせる)、騎手の腕前はどうか、といった点である。

レースが始まると、スタート地点の近くの金網にへばりついていた人達が馬の歩みと一緒に左側(スタンドからみて)にじりじりと移動していくのだが、これもばんえい競馬独特の光景である。

勝負どころの第二障害では、馬も力が入るが、見ている人にも力が入る。先頭で第二障害から下りてきても止まってしまう場合があるから引き続き力が入る。なにしろ、ばんえい競馬のゴールはハナがゴールを通過した時点ではなく、そりの最後尾が通過したときなのである。

このばんえい競馬は北海道では根強い人気があり、岩見沢のほか旭川、帯広、北見で開催されている。そのうち岩見沢は、道営競馬(普通の競馬)が撤退した後もばんえい競馬のみ開催しているくらいである。

やたらと馬にムチを入れる競馬なので、動物愛護団体から抗議されないかちょっと心配。また、軽種馬と同様重種馬も実際に農耕馬や運送馬として使役されることは今日ではほとんどないため、仮にばんえい競馬がなくなると、日本で重種馬の生産はたぶん行われなくなると思う。他の公営競技と同様、なくなる前に見ておくべきだろう。

[Jun 16, 2005]

1992年頃、まだばんえい競馬をやっていた頃の岩見沢競馬場。(もうやってません)


旭川競馬場 [Jul 27, 2005]

旭川競馬場は、北見ばんえい競馬場と並ぶ、わが国最北端の競馬場である。この時期、ナイターで平地(ばんえいでない)のレースを開催している。市内からみると山の向こうにある競馬場で、周りにはゴルフ場とかがあるぐらいで、暗くて、寒い。

照明はなんとかコースが見えるくらいで、日本一暗いナイターといってもいい。場内もひどく冷えて、夏場だというのにストーブを焚くくらいといえば想像していただけるだろうか。

それでも、コース側はまだいい。パドック側にはほとんど人がいなくて(函館や札幌などの場外発売が主なのだろう)、その中を次のレースの出走を待つ馬たちがとぼとぼと歩いているのは、まるで違う世界のように見える。さらに、誰がこんな寒い中で飲むのだろうと思わせるビールの幟がはたはたと風になびいている。シュールである。

そもそもナイターというのは、首都圏で勤め帰りの人を狙った戦略であるのだが、道営の平地競馬は土・日がばんえい競馬に取られてしまうため、必然的に平日開催となる。それでナイターということになるのだが、大井や川崎のナイターと違って客が来ないから、これでいいのだろうかというような寂しい状況となる。店を出しても人がいないせいだろうか、店もあまりない。

私が旭川競馬場に行ったのはかれこれ7、8年も前のことであるが、その当時すでにそんな状況であったから、それからずっと景気が良くないことを考えると現在の状況も想像がつく。かつて、岩見沢や帯広も平地競馬をやっていたが、現在ではばんえい専門競馬場になってしまった。旭川もそれらの競馬場と同様の運命をたどるのか、それともにぎわいをとり戻すことがあるのか、微妙なところであろう。

なお、北海道に詳しくない方のために付け加えると、旭川というと札幌近郊のように思われるかもしれないが、札幌からの距離は100km以上ある。旭川からすぐ北の塩狩峠を北に越えると、道北といわれる極端に人口密度の低い地域になる。

名物は旭川ラーメンである。一杯飲むなら、市内の「創作えぞ料理花まる亭」のコースがお奨め。正体不明のペロンタン(芋団子のかぼちゃ版である)をはじめ道内の食材をふんだんに生かした料理が楽しめる。

[Jul 27, 2005]

ばんえい競馬[Nov 28, 2006]

ばんえい競馬が風前の灯火である。ばんえい競馬を主催している4自治体のうち、すでに撤退を決定している北見市、旭川市に続いて、岩見沢市も撤退表明を行った。残る帯広市も一市だけ残った場合は単独では開催せず撤退するとしていることから、このままいくと北海道独特の競馬としてファンに親しまれてきたばんえい競馬は半世紀にわたる歴史に終止符を打つことになる。

年度末までにはまだ4ヵ月あるので、もしかしたらJRAとかソフトバンク(w)の支援で細々と存続する可能性は残されているが、ここまで流れがはっきりしてしまうとこのまま廃止となる可能性が大きい。となると、12~3月の帯広開催の終了日である来年3月26日が最後のレース日ということになる。

かつて、このブログでも岩見沢ばんえい競馬場について書いたことがあり、その際も「なくなる前に一度見ておいた方がいいのでは」と言っていたのだが、これほど早くその時が来るとは思わなかった。いま夕張市が財政再建団体になって公立小学校の統廃合とかひどい状況になっているのだが、夕張市ほどひどくはないものの道内自治体はどこも税収不足に悩んでおり、赤字の公営競技を丸抱えする余力はない。

そして、ばんえい競馬を楽しんでいるファンの懐具合も決して豊かではない。一日の入場者が1000人とかそういったレベルでは、たとえ25%と高い控除率であったとしても馬産地、騎手・調教師・厩務員、開催関係者すべてを食べさせていくことは難しい。そして、25%のテラ銭を払って競馬場や場外売場に行かなくても、もっと手軽で楽しめるレジャーは世の中にたくさんあるのだ。

もしこのままばんえい競馬がなくなるとすれば、公営競技における存廃の議論はますます拍車がかかることになるだろう。となると、次に標的になるのは、すでに大部分の施行者が赤字状態であるオートレースということになる。競馬は当分大丈夫だけれど、競輪や競艇だっていつまで続くか分からない。

私の大好きな公営競技が次々となくなっていくとしたら寂しいとは思うけれど、経営的に成り立たないものであれば仕方がない。こうしたギャンブルは関係者や役所が食べていくためのものではなく、ファンが楽しむものだからだ。みんながあえてギャンブルなどしなくてもいいと思うのであればなくすべきであるし、その方がいい世の中であるのは間違いない。

p.s.その後、帯広市はソフトバンクと提携して07年度の単独開催を行う旨発表した。少しだけ寿命が延びたみたいである。

[Nov 28, 2006]

盛岡競馬場 [Feb 3, 2006]

盛岡市内を南北に縦断する国道4号線を東に折れてさらに山を回りこむように進むと、山林原野の中から忽然ときれいに整備された競馬場が現れる。規模こそ小さいがJRAの施設ではないかと錯覚してしまうようなしゃれた造りのこの競馬場が、オーロ・パークこと盛岡競馬場である。

盛岡競馬場はもとはもっと市内にあって、地方競馬らしく小回りダートの競馬場だった。その当時は行ったことがないのだが、聞くところでは最後の直線が下り坂になっているという変わった構造であったらしい。もちろん、上り坂の方が体力は使うかわりに脚元への負担が少ないので、最後の直線は上り坂というのが普通の考え方である。

現在の新・盛岡競馬場に移転したのは、かれこれ10年ほど前のことになる。旧競馬場よりかなり大きく、ダート1600mを2コーナーポケットからスタートするなどというのは他の地方競馬では見られないスケールである(とはいっても、200mくらい2コーナーから下がるのだが)。普通に、最後の直線は上り坂である。だがそれ以上にこの競馬場の特色となっているのは、地方競馬で唯一、芝コースがあるということである。

地方競馬でJRAの競馬場を使うことは多少あるのだが、その場合はダートコースのみの使用となるのが普通である。昔、中京競馬場で名古屋競馬のレースをしていた時期に芝コースのレースがあったが、せいぜいその程度である。

ところが盛岡競馬では、自前の芝コースがあるのである。ただし、JRAとは逆で、外側大回りがダート、内側小回りが芝である。スピードの出る芝コースでしかも小回りというのはかなり危ないので、一流馬による芝コースのレースは行われていない。

当地の呼び物レースは、地方競馬屈指の大回りダートコースを使用した、ダービーグランプリ(3歳、ダ2000m)と南部杯(3歳上、ダ1600m)である。また1、2年前から、JRAでも盛岡競馬のレースを売るようになった。施設は最初に述べたようにJRA並みだし、景色も雄大なのだが、来場者が少ないせいか食べ物があまり大したことがなかった記憶がある。

競馬を離れても盛岡は見所の多い街である。岩手山は見ているだけでうれしくなる雄大な山で、麓には小岩井牧場と網張温泉がある。他にも温泉は近在にいっぱいあるし、食べ物もおいしい。

30年くらい前は「盛岡イコールわんこそば」だったのだが、今では「盛岡冷麺」「じゃじゃ麺」と合わせて3大麺で売り出している。盛岡冷麺を最初に食べた時は相当感激したのだが、最近は売れすぎて大量生産になってしまったためなのか、いまいちそっけない味に感じるのは気のせいだろうか。

[Feb 3, 2006]

水沢競馬場 [Oct 20, 2005]

かつて、JRAと地方競馬の交流は現在ほど開かれたものではなく、特に一流馬については地方馬がJRAに転厩するのがほとんど唯一の交流方法であった。

加えて、芝に適性のある馬、例えばヒカルタカイに始まってハイセイコー、イナリワン、オグリキャップといった馬たちはそうした方法をとることにより大レースを勝つことができたが、ダートに適性のある馬にとっては当時JRAにダートの重賞がない以上あまり意味のあることではなく、結果としてその地方で競走生活を終えるのが常であった。

だから、昔はその地区その地区で驚異的な成績を収める馬が出現しても、その馬がJRAや他地区の馬と走ることはほとんどなく、実際その馬がどれくらい強いのか分からない、ということが多かった。

それが現在のような形になったのはいまから10年前の平成7年。JRAのフェブラリーステークスが地方馬に開放されるとともに、大井の帝王賞、北海道のブリーダースゴールドカップといった大レースが逆にJRAの馬に開放されて、ダートの全国交流、統一グレードの原型ができてからのことである。

実はその時、岩手地区には驚異的な競走成績を残している馬がいた。その名をトウケイニセイという。父のトウケイホープも大井所属という生粋の地方馬で、成績はその秋まで41戦38勝2着3回、パーフェクト連対の記録を残していたがすでに9歳(現在の表記では8歳)である。往年の力は望めないとしても、やはりこの年に交流重賞となった地元岩手の「南部杯」で、JRA・他地区の強豪を迎え撃つのはこの馬しかいない、といわれていた。

前置きが長くなったが、このトウケイニセイをひと目見るために、10年前のちょうど今頃水沢競馬場へ行った。レースは10月10日の体育の日で、前日仕事が終わってから新幹線と東北本線を乗り継ぎ、水沢まで行った。

駅前のホテルに泊まったのだが、何にもない街だったのを覚えている。関東地区なら、レース場がある駅の近辺には多少とも飲み食いできるところ、すし屋とか居酒屋とかがあるのだが、夜更けという訳でもないのに、本当に何もなかった。結局適当につまみを買い、ホテルでビールを飲んだ。

翌朝、タクシーで水沢競馬場に向かう。そのときの競馬新聞を見ると「10:00、晴れ、良、11℃」と書いてある。11℃というと、オートレースなら走路温度なのだが、競馬だから気温であろう。涼しいというより寒い。

その寒いスタンドの前の方で、会社帰りの服装のまま、かばんを抱えてレースの始まるのを待った。荷物預かり所がなく、コインロッカーも満杯だったからである。1周1200mの小さい競馬場で馬はよく見えたが、なんともこじんまりした競馬場であった。

トウケイニセイはやはり盛りを過ぎていたのだろう。実際、500kgあるはずの馬体は小さく見えた。「この馬がねえ」と感じたのを覚えている。レースはJRAのライブリマウントが圧勝し、この年のフェブラリーS、帝王賞、ブリーダースGC、南部杯と交流重賞を独占した。

2着には人気薄の大井のヨシノキングが入り、トウケイニセイは生涯はじめて連を外し3着に終わった。せっかく来たからとトウケイからJRA馬を買った私の馬券は紙くずになった。

競馬場のすぐ後ろに北上川が流れている。レースが終わると、その北上川の鉄橋を渡って、新幹線の水沢江刺駅まで2kmほど歩いた。こちらの駅前にも何もなかったのを覚えている。

[Oct 20, 2005]

福島競馬場 [Mar 27, 2005]

いまは福島競馬というと4回東京(ダービーのある開催)の後で定着しているが、以前は裏開催といわれる、東京・中山開催時の競合開催であった。 時期的には4~5月に1開催(4週8日)、10~11月に2開催(8週16日)、いずれも芝が弱くなっている季節である。そのため、福島競馬場の芝コースのインコースは慢性的に荒れた馬場となっており、ほとんどすべての騎手がコース半ばより外目を通るため、2000mが実質2100mになってしまうようなレースが多かった。

当時はよく福島に行った。もしかしたら、府中に行ったくらいは行ったかもしれない(当時船橋に住んでいた)。朝7時に家を出て、車で首都高から東北道に入り、福島西インターで下りて一般道で福島市内へ向かう。しばらくして国道との交差点あたりから渋滞が始まり、橋を越えるあたりまで続く。

この渋滞を抜けるのに30分位はかかってしまい大体着くのはお昼頃になるのだが、それでも無料駐車場に空きがあったのだから、今のように混んではいなかったということだろう。無料駐車場からは歩いても10分くらいで競馬場だが、親切なことに送迎バス(もちろん無料)も出ていた。時間に余裕があるときは高速を郡山で下りて一般道を通った。

競馬場の中はJRAだからそれなりにきれいであったが、今と違って飲食店があまりなく、立ち食いそばと売店くらいだった。場内もすいていて、締め切り間際でもそれほど並ぶことはなかった。お客さんも土地の人がほとんどで(でも、駐車場にはなぜか新潟ナンバーの車が結構あった)、話している言葉も土地の言葉だった。内馬場に行くとさらにひと気がなくて、いすを一列占領してもまったく問題なかった。

6月開催になってすぐのことである。まだ幼稚園だった2人の子供を連れて、福島競馬場に行った。例によって昼に着いて、子供を遊ばせながら午後最初のレースを待った。午後イチでやるくらいだから、最下級条件の古馬のレースである。狙うのは福島では抜群の連対率を誇る増沢末夫騎乗の馬。相手も前走で好走している馬で、枠連1点(当時馬連はない)1万円を買った。その頃会社を辞めて失業しており、1万円というと家族4人の1週間分の食費だった。

締め切り5分前のオッズをみると、新聞では予想オッズ10数倍であるはずのこの組み合わせが、なぜか50倍つけている。これはいかん、と思った。特に地方開催の場合、ある厩舎情報を得た者が大量に馬券を買うと、全体の発売金額が少ないのでオッズが動くという傾向があった。そして、その情報は多くの場合正しいのである。従って、本来あるべきオッズより低く評価されている馬は、まず来ないということであるからだ。

レースはその通り、人気を下げていた増沢の馬はいいところなく「後方まま」で敗れた。同枠の馬も対抗視した馬もだめだった。ああ、人生は「さすらいの馬券師」(注)のようには行かないなあ、と思った。後のレースはほとんど見ずに帰った。帰りの車で、後部座席でアイスを食べていた子供がアイスを落としたといって泣き出した。どうにかしてやりたくても、こっちは高速で運転中なのだからどうにもならない。泣きたいのはこっちだ、と思った。

(注)「さすらいの馬券師」は当時の競馬小説。重役の娘を離婚して会社をクビになった男が、会社を辞めて追いかけてきた元OLと一緒に退職金を元手に勝負し、勝って函館競馬場の近くで店を開いてめでたしめでたしとなる。いまは絶版。

全然話は違うが、競馬小説の最高峰は塩崎利男(元東スポの競馬デスク)の「極道記者」。この小説の中で好きなフレーズは「ロールで打って」。当時1000円以上の額面の馬券はなく、100万円勝負すると1000枚になってしまうのでバラバラだと扱いにくいし第一時間がかかる。そのため、1枚1枚切らなくていいから、ロール紙のままで寄越せ、という意味。この本もほとんど入手困難。

[Mar 27,2005]

東京競馬場とジャパンカップの思い出 [Nov 29, 2009]

今年も、ジャパンカップの季節になった。早いもので、今年は第29回になる。私が最後に府中の東京競馬場に行ったのは第2回のジャパンカップの時だから、もう27年も前ということになる。 学生のときはたびたび訪れた府中だが、就職して忙しくなるとどうしても足が遠のいてしまう。船橋に住んでいたので中山競馬場はすぐなのだけれど、府中に行くとなると、新宿から京王線に乗るか、当時開通した武蔵野線で府中本町まで、いずれにせよ2時間以上かかるのである。

当時、日本最長の直線を持つ大きな競馬場で(現在は新潟の1000m)、ダービーと秋の天皇賞(3200m)が代表的なレース。左回りのコースは当時中京と府中しかなかったが、新馬戦などで、時々右回り1200mというレースを行うこともあった。向こう正面直線の彼方には、ユーミンの歌った「中央フリーウェイ」が走っていた。

ジャパンカップの第1回は、国際競走とはいってもアジア、アメリカからの招待馬のみで、レベルは決して高くはなかった。トルコ代表は来日したものの調教で故障し、「インドのシンザン」という触れ込みのインド代表・オウンオピニオンは、トライアルの富士ステークスで大差負けする始末である。

来日の代表格は芝のGIを勝っていたザベリワン、カナダ代表のせん馬フロストキングあたりで、日本馬は天皇賞馬ホウヨウボーイ、モンテプリンスといった一線級が出走したのでいい勝負になると思われたのだが、結局優勝したのはGⅡ実績しかなかった米国牝馬のメアジードーツ。日本勢は外国の準一線級相手に全く歯が立たず5着が最先着、世界とのレベルの差を示されてしまう。

第1回の国際招待が無事終了して、第2回はいよいよ本格的に世界の強豪に声をかける。ヨーロッパ、オセアニアからの招待馬が登場しただけでなく、レベルも格段に高くなった。ワシントンDCに優勝し、凱旋門賞にも出たエイプリルラン、フランスの牝馬GIを勝ったオールアロング、そして米国で芝のGIを勝ちまくっていたせん馬、ジョンヘンリーが来日したのである。

この第2回ジャパンカップを見に行くことができたのは、当時たまたま仕事の取引先であった競馬情報誌の副社長、Aさんに誘っていただいたからである。今思えば、ぺーぺーの私にいい席で見せていただくなど望外のことだが、ともかく世界の強豪を目の前で見れるのだから、願ったり叶ったりである。

特にジョンヘンリーは当時の世界最高賞金獲得馬で、非常に楽しみだった。一つ前のレースは見ずにパドックに向かい、じっくりと見る。エイプリルランは牝馬なのに、男馬並みの筋肉で(今では日本にも、ウオッカのような馬がいるが)、一際目立っていた。ところがジョンヘンリーはというと、なんだか小さい馬で、とても貧相に見えた。

世界の一流馬に活躍してほしいという期待から、この馬から買うつもりだったのだが、やめようかどうしようかと大層迷う。結局、初志貫徹でこの馬から買ったのだけれど、やはりというか全くいいところがなく、見せ場もないまま馬群に沈んでしまった。レースは直線でオールアロング、エイプリルランとの競り合いを制して、伏兵の米国馬ハーフアイスト(Half Iced)が優勝した。

当時は、招待馬は経費すべてがJRA持ち、関係者もみんなファーストクラスで来日して、負けても持ち出しなし賞金が取れれば丸儲けという仕組みになっていた。マスコミにも、観光気分の遠征馬がいて安心して馬券が買えないという批判があったくらいで、すべての馬がきっちり仕上げているという訳ではなかった。

むしろ、準一線級の馬が高額賞金狙いでぎりぎりに仕上げてくるということもあり、こうした結果は十分予想範囲ではあったのだが、馬券の勝ち負けだけではなく、ちょっとがっかりしたのは確かである。

今でこそ当り前だが、当時はゼッケンに英語で馬名を表示するのはこのレースくらいだったので、とても新鮮に感じたものである。連れて行ってくれたAさんが、「○○さん、トドロキヒホウ(日本馬、Todoroki Hiho)を見て、みんなトドロキハイホーって言って喜んでるんだよ」とおっしゃっていたのをなぜか覚えている。 あれから早いものでもう四半世紀以上になる。今では日本馬が勝たないのが珍しくなったジャパンカップだけれど、当時はいつになったら日本馬が馬券に絡めるんだろう、と思っていたのでありました。

[Nov 24,2009]

中山競馬場 [May 26, 2006]

わがギャンブル人生の出発点である。船橋市には、中山の他に、公営の船橋競馬場、船橋オートレースと3つのレース場があるのだが、中山は別格といっていい。なにしろ、当時船橋市立の小学校では、現場学習(まじめな遠足のようなもの)のお昼は中山競馬場のスタンドでというのが定番だったくらいである。

そんな環境だから、高校の時にはすでに競馬愛好会のようなものがあって、大レースの時にはレース予想をみんなで回していた。日曜日にも模試などで学校に行くことが多かったが、5科目終ると大抵メインレースの時間で、テストが終るやいなやラジオで実況を聞いたものである(当然ラジオは学校に持ってきてはいけないのだが、日曜なので大目にみてもらったようだ)。

そういうわけで、ギャンブルデビューも中山である(さすがに高校生の時は行ってませんが)。当時の中山はいまより2世代前のスタンドで、全館冷暖房なんてことはなくて上の方まで吹きっさらしだった。その分入場券だけでスタンドの5階くらいまで上ることができ、そのくらいまで上ると、おむすび型になっている向こう正面の奥(1200mのスタート地点)や、障害コースのバンケットの低いところまで見渡すことができた。ガラスを通さずに見るそうした光景は実に雄大で、時間を忘れて見入ってしまったことを思い出す。

その辺まで上がっても指定席でないくらい、当時は競馬がそれほどメジャーではなかったのだが、遮るものが何もないものだから風が吹いたり冬だったりするとひどく冷える。まして椅子はプラスチックである。新聞紙を敷くという方法はその頃からあったのだが、なつかしいのは1枚100円で座布団のレンタルをしていたことである。寒いときには重宝したものである。

食事時には、5階スタンド奥のラーメン屋に並んだ。椅子も何もない立ち食いで、メニューもラーメンとチャーシューメンとワンタンしかなかったと思う。そこで1杯400円だか500円だか(今思うとちょっと高い?)のラーメンを買って、スタンドの空いているところで立ったまま食べる。そして次のレースのパドックへと向かうのである。

スタンド全体も今よりかなり小さくて、道路の西側は厩舎だった(なんたって美浦トレセンのできる前である)。出入り口は今の4コーナーあたりで、負けるとそこから京成かJRまで「おけら街道」を歩く。いまファミレスのあるあたりにはビニール屋根のどでかい屋台の集合体みたいなのがあってヤケ酒を飲む人達でにぎわっていた。さらに得体の知れない出店や、デン助賭博などもあって、まだまだ戦後の雰囲気を残していたものである。


コース自体は昔も現在もほとんど変わらない。1周する1800m、2000m(皐月賞コース)、1周半の2500m(有馬記念コース)、1コーナーポケットの1600m(朝日杯など)、向正面からの1200m(スプリンターズステークスなど)が昔からの主流の距離である。向正面はだ円形の内回りと、おむすび型の外回りコースがあるが、外回りを使うのは昔は1200と1600だけだった。

外回りは3コーナーからスピードに乗ってまくって来ることができるので追い込みに有利であり、内回りはスピードに乗ったところがコーナーで、かつ4コーナー回ってゴールまで300m足らずと比較的短いため逃げ馬有利というのが定石である。中でも内回り1800mというのはそうした傾向が顕著であり、幾多の穴馬券を輩出してきたコースである。

有馬記念もその内回りコースで行われるため、以前は結構逃げ馬が穴を開けた。中でも記憶に残るのが昭和48年のレース。ハイセイコーとタニノチカラに人気がかぶったのだが、なんと逃げ-逃げのストロングエイト-ニットウチドリで決まり枠連万馬券となったのである。その後、ダイユウサクの単勝万馬券というのがあったので有馬記念最大の大穴とはいえないが、当時は衝撃の結果だった。

あと、中山で見た最高の名馬というと、やはりマルゼンスキーの名前が一番に上がる。今では、「参議院議員の橋本聖子の実家は牧場だったんだって」ということになるのだが、当時は、「マルゼンスキーの生産者の娘は、スケートが強いらしいよ」だったのである。1970年の、というより最後の英国の三冠馬ニジンスキーを父に持つマルゼンスキーは、持込馬(母馬が受胎して来日し、日本で生まれた馬。今なら日本産馬である)として当時は外国産馬と同様に扱われ、クラシックへの出走権利がなかった。

しかし、出走制限がある中で3連勝して、3歳チャンピオン決定戦である朝日杯3歳ステークスに出走するや、前走府中の道悪でハナ差の勝負をしたヒシスピード(同名の馬がその後もいたが、それとは別の馬)を大差に千切って圧勝したのである。当時の勝ち時計が確か1分34秒台のレコード。2着ヒシスピードの1分36秒台が普段の勝ちタイムだったので、まさに次元の違う走りだったわけである。

そのマルゼンスキーは結局8戦8勝で引退した。無敗の生涯レコードとして8連勝はいまだに破られていないはずだが、その7勝目が、やはり中山の短波賞だった。4歳限定のレースだったのだが、マルゼンスキーが出ると聞くと出走回避が続出し、結局6頭立てとなった。快調に逃げたマルゼンスキーは、3コーナーで後に菊花賞を勝ったプレストウコウに並ばれて場内が大きくどよめいたが、直線ではあっという間に突き放し、結局6馬身か7馬身離して連勝を伸ばした。

上の世代にトウショウボーイやテンポイントといった名馬がいたので直接対決が期待されたが、脚部不安で早くに引退してしまった。30年も違うので能力の絶対値ではやはりディープインパクトの方が上だろうが、衝撃度という点ではマルゼンスキーの方が上ではなかったかと思えるくらい強かった馬である。

[May 26, 2006]

新潟競馬場 [Jul 18, 2007]

新潟競馬場は、いまや日本最大の芝コースを有する競馬場である。数年前までは、右回りで外回りコースの第4コーナーが競馬場の正門寄りにあったのだが、現在は左回りになって昔の4コーナーはいまは1コーナーになる。内回りコースの直線でさえ400mと中山より長く、外回りの直線はなんと600m、そして最大の特徴は1000mという日本で唯一の直線コースがあることである。

新コースになってから今回初めて新潟競馬場に行ったのだが、昔のコースも十分でかかったのに、新コースは冗談じゃないくらい大きいのである。もっともローカルなので、スタンド自体がそれほど大きくないということもあるのだが、スタンド前の芝生席からは1000mのスタート地点はおろか、外回りコースの4コーナーですらかすかにしか見えない。

スタンドは旧コース時代からあるアイビススタンドと、新コースになってからできたNILS(ニルス)スタンドがある。どちらも2階席より上は指定席になるので、コース全体を見渡すためには早めに予約して指定席を押さえる他はない。とはいえ、ガラスを隔てずに間近で見る競馬も悪くはない。いずれにせよ双眼鏡でも使わない限り、1000mのスタート地点付近など見えやしないのだ。

これだけ直線が長いと追い込み馬が有利に思えるが、昔から水はけがよくタイムが早くなる傾向にあるので、先行馬が粘ってしまうことも決して珍しくない。いわゆる、「前が止まらない」というやつである。実際に今回も、外回り1800mの3コーナー手前で先頭に立った馬が、そのまま残り1000mを押し切ってしまうというレースがあった。

そして今回のお目当ては直線コースを使う重賞レース、アイビスサマーダッシュである。通常だとみんな内ラチ沿いに走るのだが、このレースは外ラチにみんな寄ってくるので、見ているすぐ前を走るのがすごく楽しい。いちばん4コーナー寄りの残り250mあたりで見ていたのだが、そのあたりで私の本線、武豊のジョイフルハートはすでにタレて(スピードが鈍って)しまった。

ところがどこをどう走っていたのか、押さえで買っていたサンアディユが抜けたと場内放送で言っている。この馬からは馬連で6点100円ずつ買っている。なんとか人気のないのを連れて決まってくれと思ったのだけれど、2着は1番人気のナカヤマパラダイスだった。まあ、それでも2万円以上つき、幸せな気持ちで競馬場を後にして、新潟駅でおみやげに久保田千寿の1升瓶を2本買って帰ることができたのでありました。

p.s.改めて、新潟地震に遭われた方々にお見舞い申し上げます。速やかに復興されることを心からお祈りいたします。

[Jul 18, 2007]



中京競馬場 [Mar 1, 2006]

中京競馬場は名古屋市のちょっとだけ外、豊明市にある。名鉄の中京競馬場前駅からとことこと歩いていくと(確か、バスもある)、10分ほどで着く。織田信長の奇襲で有名な桶狭間古戦場は競馬場のすぐ近くである。

いまは競争体系が変わってしまって、中京競馬は半分ローカルという位置づけに変わってきているが、かつては東京、大阪に次ぐ日本の三大都市圏の競馬場として、JRAの番組面においてもかなり中央開催に近い扱いがなされていた。よく覚えているのはハギノトップレディの勝った高松宮杯(当時)であるが、その頃中京の最高額賞金レースがこの高松宮杯であった。今と違って2000芝、しかも宝塚記念が5月だったので、春の天皇賞に向かないスピード馬は、宝塚記念から高松宮杯というローテーションをとることが多かった。

昭和52年にはトウショウボーイが勝ったこのレース、昭和56年にはこれも人気のあった桜花賞馬ハギノトップレディが高松宮杯に臨んだ。中京のコースは平坦で、さらにコーナーがきつくバックの直線がかなり手前にある押しつぶれた形のコースとなっているため、先行するスピード馬にとってかなり有利である。だから、ハギノトップレディ(逃げ馬)はかなり堅いとみていたのだが、いかんせん牝馬である。レース展開が向かないとまったくダメというケースも考えられたのだが、それは杞憂で6馬身差で圧勝した。

その頃もう一つ中京の呼び物レースであったのはきさらぎ賞で、このレースは大抵京都か阪神の裏開催だったにもかかわらず一流馬が参加するレースであった。というのは、当時は今ほど東西の輸送がスムーズではなくて、関西の明け3歳の一流馬はダービー前に府中を走るということはほとんどなかった。だから、同じ左回りの中京を一度使っておきたいという関係者が多く、2月のきさらぎ賞はかなり注目されたのである。競馬ファンならご存知のとおり、右回りと左回りでは、馬の走り方が違う(どちらの前脚を先に出して走るか)からである。

この競馬場も久しく行っていない。昔は競馬場の回りは畑や林ばかりだったが、今ではどうだろうか。でも、1200mの宮杯など見たくないし、きさらぎ賞も中京で行われないことが多くなってしまった。ちなみに、なぜトップレディの宮杯をよく覚えているかというと、この日宮杯まですべてのレースを外し、宮杯は取ったけれど焼け石に水で、この日がわが生涯における最大負け記録というのが20年近く続いたからである。

[Mar 1, 2006]

阪神競馬場 [Oct 26, 2005]

阪神競馬場へ初めて行ったのはいまから3代前のスタンドのときである。阪急梅田から西宮北口で乗り換え、おんぼろの駅構内を歩き宝塚方面行きに乗り換えて仁川(にがわ)で下りる。駅からしばらく歩くと競馬場である。その途中にへんなしもた屋があり、中に白装束のおばさんが座っていた。もちろん、予想屋である。関西にはおかしな商売があるものだな、と思った。

場内に入ると、穴場(馬券を売る窓口)が木の枠だった。当時、府中や中山はとっくにポリカーボネートだし、札幌や函館だって木枠なんてことはなかった。同じ中央競馬でも、いろいろあるんだなあ、と思った。スタンドに座ってみると、1コーナー(左手)には間近に山が迫っていて、しかもその中腹まで段々畑のように家が建っているのも異様に思えた。さらにびっくりしたのは、内馬場がゴルフコースのようになっていたことである(実際にもう少し後まで実際に9ホールのミニコースとして使われていたらしい)。

同じ関西地区でも、京都競馬場は淀川に沿った広大な敷地を持ち、ご存知のように内馬場は池で、コースも大回りであるのに対して、阪神はこじんまりしていて小回りである。当時は全くの平坦コースで、それがひとつの特徴となっていた。その後、馬場改修で坂を作ったときに、地盤を変えたり芝を替えたりしてひどく時計のかかる馬場にしたことがあったのだが(1600mの勝ち時計が良なのに1分39秒台とか)、不評だったのか1年たたずにやめてしまった。

阪神競馬場の大レースというと、春の桜花賞と、初夏の宝塚記念である。それぞれ、思い出深いレースが多い。桜花賞というと、いまだ記憶に残っているのは昭和50年のテスコガビー。おそらくテスコボーイ産駒で最強の牝馬だったこの馬が、桜花賞で2着ジョーケンプトンにつけた着差が「大差」(10馬身以上)。実況の杉本アナウンサーが「後ろからはなんにも来ない!」と絶叫したレースであった。

宝塚記念ではやはり、昭和52年のトウショウボーイ1着、テンポイント2着のレース。前年の有馬記念以来の競馬だったトウショウボーイに、その春3連勝で天皇賞を勝ったテンポイントが徹底マークしたのだが、結局2200mをそのままの展開で2頭だけで終らせてしまった、というレースであった。このレース、テンポイントの方が人気だったのだが、トウショウボーイの単ともちろん連複も取った思い出がある。

暮れの阪神には、いまはないのだが(正確にいうと、季節を変えて春にやっている)阪神大賞典という3000mのレースがあって、これも興趣あるレースであった。当時は東西の競走馬の交流というのはそれほど盛んではなくて、有馬記念に行かない馬もたくさんいた。テスコガビーの桜花賞と同じ年の阪神大賞典では、その年皐月賞を2着しているロングホークという馬が出ていたのだが、1周目で引っかかってしまった。一時は100m近く前に行ってしまい、全く勝負になるまいと思われたのだが、なんとそのまま逃げ切ってしまった、などというレースもあった。

いまはJRA仕様のたいへん立派な競馬場だが、昔の方が場内もレースもなつかしく感じるのはなぜだろう。

[Oct 26, 2005]

川口オートレース場 [Mar 15, 2007]

首都高川口線を下りて西進し、国道122号線岩槻街道を突っ切ってしばらく走ると、青い球形の地球の出来損ないみたいなオブジェが現れる。川口オートレース場である。

付近には有料駐車場がたくさんあるのでそのうちの一つに車を止めてレース開始前の場内に入ると、「愛と~希望の~夢を~抱きしめ~、キューポラのあ~る街をみつ~け~た」の歌が流れている。平尾昌晃作曲の川口オートテーマ曲「ぶっちぎりの青春」である。

キューポラとは鋳物(鉄を溶かして鋳型に流し入れ成型したもの)を作る際の溶解炉とそこから延びる煙突のことで、昭和30年代鋳物工場が林立していた川口市は吉永小百合の主演映画にちなんで「キューポラのある街」と呼ばれた。

しかしその鋳物工場はバブル頃を最後にほとんどが廃業してその跡地はマンションとなり、いまではキューポラを見つけることは非常に困難である。ちなみにうちの奥さんは川口生まれで、子供の頃道路を挟んで向かい側はずっと鋳物工場だったそうである。

そのように前時代的な歌詞なのだが、作曲の平尾昌晃もかなり古い。日劇ウェスタンカーニバルといっても何のことやらという人がほとんどというのはともかく、今の若い人は「ラブレター・フロム・カナーダ(カナダからの手紙)」だって知らないだろう。

ちなみに私はこのデュエット曲は結構好きである。ともかく熱心なオートファンで知られる平尾昌晃が採算度外視で作った「ぶっちぎりの青春」が、今日も川口オートレース場に響いているのであった。(とはいえ、倖田來未も平尾昌晃音楽学校らしいから、そんなに古くもないのかな?)

川口オートは古くからオート界のメッカといわれており、いまでも他レース場の倍以上の売上げがある。これを反映してスタンドも大きく、他とは比較にならない収容能力を誇っている。

ただし最新の設備と最高のグレードを誇るロイヤルボックスが1、2コーナー中間付近にあって、スタート地点は遠いしゴール前は見にくいしという点が玉に瑕。とはいえオートの場合ゴール前で接戦になることは必ずしも多くないから、勝負どころの3、4コーナー一般席で十分楽しいのだが。

そして特筆すべきは場内の食べ物屋の多さである。他のオートレース場はあまり客もこないせいか大したものを売っていないのだが、川口はなかなかである。夏のきゅうりそのまま1本とか、冬の串カツとかモツとか、いろいろ楽しめる。個人的にはソーセージカツなんて結構好きです。もちろんそば、ラーメン、定食関係すべて場内のどこかにある。

一方でちょっと物足りないのは予想屋さんの質。船橋のミスター船橋、伊勢崎の名門社に代表されるようにオートレースは予想屋さんの解説が買い目を決めるかなり重要な要素なのだが、川口の予想屋さんは概して無口で、黙って予想を売るだけである。

1コーナースタンド下あたりに選手のロッカー室の配置表とか派閥一覧とか張っている予想屋さんがいて、「ここは同じ広瀬門下で抜かない」とか言っていた(川口は結構同門で決まることが多い)のだが、そういう能書きがないと面白くないのがオートレースである。


川口所属で最も有名な選手というと、やはり元SMAPの森クンということになる(もっともジャニーさんに言わせると「SMAPはデビューのときから5人なの!」ということのようだ)。川口ではそこそこ走るが全国区ではちょっと、というデビュー前から大体想像できたポジションに定着しているが、彼のデビュー戦のフィーバーは思い出深い。

養成中にフェンスに激突して同期の選手たちより遅れた森且行のデビュー戦は、今から10年前の平成9年の夏。ただでさえ暑い夏の埼玉で、大量のファンが押し寄せて川口オートレース場はすごい熱気に包まれた。

走路が熱くなるとタイヤがすべるので0ハン逃げの森クンには絶対有利であったが、スタートでもし食われる(後ろからスタートした選手に抜かれる)ようだと着外となることは確実。この日のレポートはパソコン通信時代のNifty会議室に載せた私の名文があったのだが、残念ながらとっくに会議室は閉鎖されて今は見ることはできない。

普段は1、2窓しかない単勝売場が、森クンの単勝を買う大勢のファンのために特設されたりしてスタート時間は遅れに遅れた。そして走路温度50数度という熱走路の中、見事森クンは逃げ切って初勝利をあげたのである。もちろんオート最盛期にはそれ以上の来場者があったのだが、この時の来場者数の記録はあれから十年破られていないはずである。

個人的に好きなのは森クンよりはちょっと先輩になる広木幸生(ひろき さちお)選手。オートレースには「十分な余裕がなければインコースから抜いてはならない」というルールがあるのだが、実際にはほとんどインコースから抜いている。「十分な余裕」というのは、「インから抜いても抜かれた選手が落車しない」とほぼ同義語であるからだ。

しかし広木の場合、十分な余裕があろうがなかろうが前を走る選手のインコースに切り込む。前の選手も急に来られると対応できないからぶつかってしまい落車してしまう。

こういうレースがしょっちゅうあることから、ファンの間では広木のことを「人間魚雷」と呼んでいる。この人間魚雷は百発百中で標的を沈めるので事故や失格がたび重なり、とうとう彼は長期間のあっせん停止(レースに出させてもらえない)を食らってしまった。

前途有望でありかつルックスもいいので女性ファンが多い選手であるのだが、残念なことである。ちなみに、彼は川口以外では意外とおとなしいレースをするので人気の盲点になる。個人的には山陽で何度か広木絡みの穴車券を取らせてもらっている。

他にも、森クンの同期若様こと若井選手とか、最強の実力者でありながら度重なる整備違反で広木同様レースに出させてもらえない福田茂選手とか、今では「ノリックの父」としての方が有名になってしまったが昔は大レースを何度も勝っていた阿部光雄選手とか、いろいろ個性豊かなメンバーが揃っているレース場なのであるが、印象に残っている選手を一人だけ上げろといわれると、個人的には「キコウシ」土田栄治・元選手を推薦したい(キコウシというのは彼のオートバイの呼名)。

この選手のレース振りというのはまさに圧巻だった。一番弱い選手よりさらに30メートル前(だから普通の中堅選手より7、80メートル前)からスタートして、わずか100メートル先の1コーナーではすでに抜かれているという恐るべき選手(とはいえないが)であった。

その調子だからゴールでは半周どころか1周(500メートル)近く遅れていることもしばしばで、着順は常に8着(ビリ)。たまに7着があるともともと7車立てであるか、落車や失格があった時に限られていた。

どうしてあのような選手が存在できたのか不明であるが、それでも彼の車券(当然5-5または6-6)が数百倍つけたということは買う人がいたということだから不思議である。

オートレースは勝たないと後半のレースには出られない仕組みになっているので彼は常に午前中の1レースとか2レースが指定席であり、いずれ登録消除(クビのこと)になることは確実なので、朝早いレースで大した金額も買っていない時には、彼の負けっぷりを見るのが結構楽しみであった。

[Mar 15, 2007]

江戸川競艇場[May 3, 2005]

江戸川競艇場は江戸川ではなく中川にある。河川で行われる競艇は全国でもここだけであり、幅員が狭いためピットからターンマークまでの駆け引きの余地がほとんどない。従って、内枠の選手がそのままインコースに入って有利にレースを進めることとなる。河口に近いことから、満潮のときには川の流れとは逆方向の流れが生じる上、風の影響をうけやすい。そのためこの競艇場では決して大レースは行われないし、有力選手の多くはこの競艇場では走らない。

実はこの競艇場に直通バスを出しているJR平井は、私が生まれた場所である。幼稚園に入る前に船橋に引っ越したのであまり記憶がないのだが、近所に、ここの競艇場に通うおやじがいたそうだ。

普段は夫婦ゲンカが絶えないが、たまたま大きな舟券を取った時には盆と正月が一緒に来たような状態となり、ごちそうを並べて近所の人にも振舞ったそうだ。そういえば、昔はギャンブルというと、「子供の給食費まで博打に注ぎ込む」ということがよく言われていた。

無料バスの出発点からして、総武線のガード下である。暗いガード下で新聞を読みつつバスを待っていると、それだけで前途が不安になる。競艇場に近づくと、スタンドの背面一面に書かれた「人類一家・世界兄弟」の文字がいやでも目に入ってくる。

ここにはギャンブルをしに来ているのであって、思想信条を議論しに来ている訳ではないので、この競艇場に来るとどうも釈然としない気分になる。そのせいか、そこそこプラスでは帰れるのだが大儲けをしたことがない。それでもこの競艇場によく来たのは、何ともいえないうらぶれた雰囲気が好きだったからである。

大きなスタンドには特別観覧席もあるのだが、一般用のスタンドはなんと堤防である。コンクリの段になった堤防に、申し訳程度にプラスチックの長椅子を打ちつけているのだが、その椅子はいつも水しぶきで濡れていた。

そのため、観客の多くは椅子に座らずその上に立ち上がってレースを見る。前の奴にそれをやられると後ろは座っていては見えないからやはり立つ。そうして、椅子が椅子としての役割を果たさないまま全員が立つ。最後方は堤防に立つ。そんな競艇場であった。

レースは上に述べたように内枠が有利で、1枠と2枠でより上手い選手を買っていればほぼ間違いない。逆にいうと、外外で決まると大穴になるが、その確率はきわめて低い。ラーメンやそばが食べられる食堂はあるが、大してうまいものは置いてない。くつろげる場所もないので、結果的に足が遠のいてしまったが、行き帰りに見る平井や小松川あたりの街並みと併せて、昭和30年代の雰囲気をいまだに残す数少ない場所であった。

[May 03, 2005]

児島競艇場 [Oct 5, 2009]

さて、岡山遠征では土曜・日曜とインドアで頭を絞ったので、月曜日はアウトドアでゆっくり瀬戸内の暖かい日差しを浴びようというわけで、児島競艇場へと向かう。

ここには二十年近く前に一度来たことがあり、おそらく日本一の景色を持つ競艇場である。競走水面の向こう側は瀬戸内海。そして瀬戸内の島々と、対岸の四国まで望むことができるという、思わず深呼吸したくなるすばらしい景色が広がっているのである。

JR岡山から瀬戸大橋線・マリンライナーに乗り、児島で下りる。うっかり乗り過ごしてしまうと、次の駅は瀬戸大橋を抜けて坂出まで行ってしまう。電車からホームに下りると、すでに海が見える。すごくうれしい。駅を出ると競艇場へ向かう直通バスのお出迎えである。平日の午前中なので、乗っているのはお年寄りばかりなのであった。

「倉敷市はサービスが悪いから、売場にも若い子がいない。丸亀の方がよっぽど客に気を使っている」などと大声で主張しているおじいさんとの乗り合いバスは、5分ほどで競艇場へ。いよいよ本番である。粗品のタオルをもらって場内へ。まずは潮風を直接浴びる屋外スタンドで勝負である。

競艇場の屋外スタンドは、堤防の形をしていることが多い。海や川に面しているので、当り前といえば当り前だが、行き慣れた首都圏の競艇場では向こう側がビルなど殺風景であるのに対し、ここ児島ボートでは瀬戸内の海である。ぽっかりとコニーデ型に浮き上がって見える島が印象的である。

しかし、舟券の方は全くかすりもしない。というのは、普通は競艇の決まり手は「逃げ」「差し」が8割で、たまに「まくり」が決まるくらいであるのに、この日は「抜き」「恵まれ」「まくり差し」など、10回に1回もないようなレースが続いたのである。これでは、普通に買っていたのでは当たらない。

気分を変えて、スタンドに上がってみる。冷暖房完備で、景色もぐーんと開けて遠くまで見通しが利くようになる一方、外の風が入ってこないのと、音も微妙に違うのが難点である。上からの視点になるので、勝負どころである1マーク、2マークの攻防がよく見える。ここに上がってからは当たるようになった。ただし、配当が低い。

全国的なビッグネームである松井繁(大阪)のレースまで見たところで時間になる。帰りはまだバスが出ていない時間なので、児島駅まで歩く。夏の名残りでちょっと蒸して、小雨もぱらぱらと降ってきたのだけれど、とにかくアウトドアで3日分の外気はたっぷりと吸い込んだ休日でありました。

[Oct 5, 2009]

競艇場の中は撮影禁止のため、JR児島駅構内に展示されていたボートをお送りします。ここからバスで5分、歩くと20分ちょっと。


山陽オートレース場 [Apr 22, 2005]

山陽オートレース場は山口県山陽町にある。JRの駅は埴生(はぶ)で、宇部と下関の真ん中あたりに位置する。駅を下りると山に向かってレース場があるので、一瞬、方向感覚がおかしくなる。線路の海側がレース場であるはずなのに、山側にあるように見えるからである。実際はレース場まで上っていくとその先には瀬戸内海がある。特別観覧席(大体5階くらいの高さ)まで上れば、コースの彼方に海を臨むことができる。

東京から行く場合は、全日空山口宇部行きの朝一番の便が定番だ。6時50分とか7時に出発して9時前に到着する。JR宇部新川行きの路線バスで宇部市街まで出て、ハンバーガーでも食べながら時間をつぶすと、10時前にレース場行きの無料バスが来る(行きは無料、帰りは有料)。タダということもさることながら、このバスには出走表が置いてあるので、それを見ながら本日の作戦を練る。何ヵ所かで客を拾って、1時間ちょっとでレース場に着く。朝東京を出て、うまくいくと2レースあたりから勝負できる。

宇部新川からJRでレース場にいくこともできるし、その場合は、行きの切符をレース場に持っていくと(埴生駅はオートレース客ばかりなので、切符を見せるだけで改札を出られる)帰りの切符をくれるので、バスと同様片道分はタダになる。だが、ローカル線で本数が少ないことと、帰りは宇部新川に戻らないため、バスを使うことが多い。というのは、宇部新川には手頃なホテルが少なく、下関か小倉に泊まることが多いからである。

オートレース場はすべて1周500mで、形も同じだしコースによる違いはないと思われがちだが、結構その土地ごとに違った特色がある。選手は各レース場に所属するので、選手それぞれの特徴がコースの特色となって現れるのかもしれない。山陽の特色は、往々にして軽ハンデの逃げ切りが決まることと、天気が変わりやすいということだろう。

軽ハンデが活躍するのは、山陽所属の選手は全体的にレベルが高く実力差が小さいため、後ろがもつれれば前が気持ちよく逃げてしまうということが一点と、もう一点は前を抜くことよりも後ろから来る選手をブロックすることに命を賭けている穴見和正のような選手がいるからだろう。オートレースは左回りで急カーブを回るため、普通の選手でも30から40度近く体を傾けて走るが、穴見の場合45度ないし50度近く体を傾ける。絶対に後ろからは抜かせないという意思表示である。オートになじみのない方でも見ればすぐに分かる特徴ある走り方なので、機会があればぜひ見ていただきたいと思う。

天気が変わりやすいのは、最初に述べた、海近くまで山がせり出している地形と関係があると思う。海の方を見ているといい天気なので良走路だと思っていると、山側からあっという間に黒い雲が広がってきてレースの時は雨、なんてことがよくある。オートレースは晴と雨とで全く予想が違うから、そういう時早めに車券を買っていると本当に涙雨ということになる。

一度など、試走抜群の小関勝治(雨がドヘタ)から買っていたら、「天候が不安定となっております。」の場内アナウンスとともにいきなり雨が降ってきて、レース前から車券が紙くずになった、なんてこともあった。それでも、風光明媚で行くとほっとする場所なので、今でも折にふれて訪れるレース場である。

[April 22, 2005]

飯塚オートレース場 [May 15, 2005]

飯塚オートレース場は福岡県の飯塚市にある。東京から行く場合は、福岡まで空路、地下鉄で博多まで出て、博多から篠栗線で新飯塚に向かう。ここで注意すべきは一時間に一本ほどしかない快速を使えば40分ほどで新飯塚に着くが、それを逃して各駅停車に乗ると1時間以上軽くかかってしまうということである。ただ、のどかな田園風景や多少の山川を越えていく鉄路はそれなりに風情があり、急がなければ各駅停車で全く問題はない。

新飯塚の駅前にはちょっと寂れてしまった商店街があり、かつて有名だった千鳥饅頭「チロリアン」(ラジオ関東の競馬中継でなぜか宣伝していた)のお店の前あたりから送迎バスが出る。山陽と同じく、行きは無料、帰りは有料である。送迎バスはかなり頻繁に出ているので、なかなか来ないからといって歩くのはやめた方がいい。結構距離がある上に、行きは上り坂が多いからである。

このあたりは、かつて炭鉱地帯として大変栄えたところで、このレース場の夏の名物レースである「ダイヤモンドレース」は、黒いダイヤ、つまり石炭からとったレース名である。残念ながらその頃飯塚に来たことはないが、炭鉱があった以上ボタ山(石炭をとる時に出てくる土くずのようなものを積んでできた山のこと)もあったはずで、小高い丘のように見えるもののいくつかはかつてボタ山であったに違いない。

レース場は結構広く、バックスタンドの向こう側も開けているので開放感がある。しかし問題は、食べるものがあまりない、というところにある。ここの名物は(モツの)煮込み、それも、どんぶり飯を頼んでその上に煮込みを汁ごとかけてもらう(通は煮込みを2杯分~ダブルで~かける)煮込みライスであり、これはなかなかおいしいものなのだが、他にはあまり食べるべきものがない。特に、ちょっと小腹が空いた時の、フライや串焼きといった類のものが置いてないので、レースの合間などでちょっと手持ち無沙汰になってしまうところがあるのは残念である。

当地のエースを長いこと張っていた中村政信がレース中の事故で亡くなったときには、当分飯塚も低迷するかと思われたのだが、かなりの数残っていた50~60代のレーサーが引退して、ここ数年急激に新旧交代が進み、レベル的にはかなり上位に進出してきた。24期の浦田信輔、26期の久門徹はすでにSGレースを勝っているし、篠原、田中茂、荒尾、重富など彼らに続く新鋭も目白押しである。オートファンにとって、目の離せないレース場であるといえる。

[May 15, 2005]

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