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登別温泉 [Aug 27, 2005]

これまで結構いろいろな温泉に行っているが、温泉として一つの究極の形であると思えるのは北海道の登別温泉、「第一滝本館」である。「一つの究極」というのはいい意味でも悪い意味でもあるのだが、好き嫌いはともかく機会のある方は一度は訪れてみるものだろうと思う。

登別温泉は、地理的には洞爺湖、支笏湖より噴火湾側にある。ここらあたりは至るところ温泉が出ていて、他にもいい温泉はあるのだが、登別温泉の第一の特徴はなにしろ湯量が豊富にあるということだろう。

温泉の裏手に大湯沼という直径数十メートルはあろうかという池があって、ここは水温80度とも90度ともいわれる温泉でできているのである。高台からみると、まさに湯が沸いてきているというあぶくというか気泡も見えて、当然周囲は強い硫黄の匂いがする。源泉はここだけではないはずで、あれだけの湯量があれば、何十軒かの旅館・ホテルに十分温泉をひくことができるだろうと納得できるものである。

登別温泉で出る温泉はいくつかの泉質があると聞くが、それ以上にあるのが第一滝本館の風呂の種類である。とにかく、2フロアに十数個の浴槽とその他に露天風呂があり、それぞれ泉質が違う。硫黄泉、食塩泉、単純泉はもちろん、かなりの種類の異なる泉質が楽しめる。あるいは歩き湯、立ち湯、寝湯とかもあったはずだ。楽しめることは確かだが、それだけ風呂は広いので、あまり落ち着けないことも確かである。

一方、露天風呂はそれほど大きくはない。ここの露天風呂はビールなどの飲み物を出してくれる(もちろん有料、部屋につける)他に、記念写真もとってくれる。ただし、最後に行ったのはもう十年近く前のことだから、今でもあるかどうか定かではない。

子供を連れて行くと非常に喜ぶ宿であるが、大型旅館であるのでおのずと限界がある。例えば料理で、土地のおいしい魚を食べたいといったような場合には別の選択肢を検討する必要があるだろう。

もちろん水準以上のお料理なのだが、多くのお客さんにサービスしなければならない以上、ベストという訳にはいかないのは仕方がない。ともあれ、日本の誇るべき温泉文化の行き着く一つの先が、この旅館であることは間違いない。

温泉帰りに立ち寄る観光地も、クマ牧場と白老ポロトコタンと相場が決まっている。クマ牧場は温泉からロープウェイですぐの山の上にあり、芸をするクマが売り物である。あと、クマにエサを投げるというのがあるのだが、あまりうまそうでない団子状のエサなので、私はほとんどやったことはない。

白老ポロトコタンはアイヌ集落のテーマパークで、温泉からは車で20~30分苫小牧方面に行ったところにある。アイヌの踊りとか、民族衣装を着て記念撮影とかが定番である。

[Aug 27,2005]

1990年に泊まった時の第一滝本館パンフレット。1泊2食で1人14,500円でした。


十勝川温泉 [Sep 12, 2005]

十勝川温泉は帯広から車で約30分、その名のとおり十勝川沿いにある温泉である。北海道の中央を南北に貫いているのが日高山脈であり、その南端に森進一の歌で有名な襟裳(えりも)岬があるが、襟裳岬から海岸線沿いに西へ向かうと静内から苫小牧となり、逆に東へ向かうと広尾から帯広に達する。だから、このあたりは道央と道東の境目あたりということになる。

十勝川温泉の泉質は非常に珍しい植物性モール泉といい、日本ではここにしかないし、世界的にもあとドイツにしかないといわれている。温泉が吹き出る際に植物の堆積層を通るため、お湯に植物のかけらが多数含まれて湧出する。モノは昆布か何かのかけらのようでぬるぬるするが、いかにも肌には良さそうだ。外からみると、湯船がそのかけらで黒というかこげ茶というか、なんともいえない微妙な色合いに見える温泉である。

ただ、この温泉に最初に行った30年くらい前と、最後に行った5、6年前を比べると、この微妙な色の濃さが大分違っていた。もちろん、最近になればなるほど色が薄くなっているのである。そもそも温泉として出てくる時の濃さが違っているのか、それとも加水しているのかは分からない。普通の人には抵抗がなくなったといえるが、温泉ファンにとってはやや物足りなく感じることは確かである。

旅館は「笹井ホテル」と「大平原」が昔から有名。私は大体笹井ホテルに泊まる。露天風呂もあって気持ちがいい。北海道の夏は短いので、すこし涼しくなった外気に当りながら入る露天風呂は最高である。大平原は、今でもやっているのかどうか、敷地内から上げる熱気球が有名である。料理は当然海の幸&山の幸。広々として空気がおいしいので、何を食べてもおいしい。

全く話は違うが、このあたりの道路は東西南北に十字に走っているが、両方とも広くてしかも信号がないところが多い。だから、南北方向に走っている車と東西方向に走っている車が、ともに相手がスピードを緩めるだろうと思っているうちに、全速力で交差点に突っ込みクラッシュ、ということがたびたび起こるそうだ。現地ではこれを「十勝型交通事故」という。嘘のような話だが、現地の人が教えてくれたことなので、その人が嘘を言っていない限り、本当の話である。

[Sep 12,2005]

洞爺湖温泉 [Jan 8, 2006]

昔は北海道といえば鉄道での移動が定番であり、青函連絡船が函館に着くと急行で長万部まで出て、そこから函館本線をそのままニセコ方面に行く列車と、室蘭方面へ南下する列車に分かれた。当時「カニ族」といわれた若い旅行者は、横に長いリュックに着替えや荷物を詰めて、ときには駅構内や夜行列車で泊まりながら、道内を旅したものである。

その場合ひとつのモデルコースとして、朝函館に着いてそのまま大沼を観光し、洞爺湖まで移動して、昭和新山のユースホステルに泊まるというルートがあった。昭和52年夏、友達3人とそんなふうに洞爺湖を訪れた私は、これも定番の洞爺湖遊覧船と有珠山(うすざん)ロープウェーに乗って、北海道の雄大な自然を楽しんだ。

そして、さらに道央から道東へと進んだのであるが、そこで、つい3、4日前に行ったばかりの有珠山が噴火したというニュースを聞いたのである。

1週間して戻ってきたときにはすごかった。とにかく、直線距離でも7、80km離れた札幌市内で火山灰が降るのを目の当たりにし、札幌から函館に向かう列車の窓は、灰がセメントのように固まって全く外が見えなくなってしまった。新聞等で写真をみると洞爺湖は降ってきた石で湖面がみえないような状況であり、その後も1年近く火山活動が続いたことにより、洞爺湖温泉街は壊滅的な打撃を受けたのである。

その後、温泉街は奇跡的な復興を遂げ、平成に入ってから何度か訪れた。温泉は単純食塩泉で、湯量がそれほど多くないのか、登別ほどたくさんの湯船があるという訳ではない。だが、真ん中に4つの島を持ち対岸には遠く羊蹄山(えぞ富士)を臨む洞爺湖の景色は実に雄大で、展望風呂に入ってはるか遠くをみるとなるほど北海道、という気分にさせてくれる温泉である。

その後、2000年に再度有珠山は噴火し、またもや洞爺湖温泉街は大打撃を受けることとなった。20世紀に有珠山は4回大規模な噴火をしているが、最近の2回が2000年と昭和52年、その前の昭和19-20年はいまや重要な観光資源となった昭和新山ができた。その前の明治43年の噴火ではその名も「四十三(よそみ)山」という山ができたのだが、そもそも洞爺湖温泉はこの時に噴出したものだという。

当時は、火山だから噴火することもあるんだろう、と思ったくらいだが、いま考えると大変な災害だったし、タイミング的にも相当危なかったなあ、と思う。

[Jan 8, 2006]

1976年か77年の撮影。洞爺観光館ユースホステルは洞爺湖から昭和新山側に入ったところにあり、若い貧乏旅行者は北海道に渡るとまずここを目指したものでした。すでに取り壊されています。


鹿部温泉 [Mar 30, 2007]

北海道の玄関口函館から道内に入り北上すると、しばらくして登場するのが景勝地大沼公園である。この公園は、駒ヶ岳の噴火によりできた大沼、小沼、じゅんさい沼を中心とする湖沼地帯であるが、ここから駒ヶ岳に沿って東進し海岸線に出たところにあるのが鹿部(しかべ)温泉である。

今を去ること二十数年前、鹿部温泉は本当にひなびた温泉だった。ほとんど普通の民家と変わらないせいぜい数室程度しかない温泉旅館が何軒かと、共同浴場のような施設があるだけだった。当然あるのは温泉だけで、レジャー施設や飲食店街などは見当たらなかった。

その鹿部郊外に、ダイワロイヤルホテルズが一大リゾートである鹿部ロイヤルホテルを建設したのはバブル末期、昭和から平成に年号が変わる頃だったと思う。駒ヶ岳を望む客室の目前にはゴルフ場が広がり、ホテル内には寿司屋やレストラン、カラオケが揃い、ホテルから海に向かっては分譲別荘地が広がっているという、まさに別天地とでもいうべき光景であった。

この鹿部ロイヤルができる前とできた後、いずれも行ったことがある。できる前はバスで函館市内のバスターミナルから。ほんとに何にもないところで、温泉があるだけだった。できた後は車で、森(駒ヶ岳の北側)から海岸周りで行ったら突然大リゾートが現われ、これでやっていけるのだろうかというのが第一印象だった。

あれから二十年が経ち、どうやら潰れもせず廃墟にもならずに今日を迎えているようなのは何よりである。あの頃全国的なバブル景気、リゾート大開発の波に乗って、北海道でもアルファリゾートトマムとかキロロリゾートとか、周辺の雰囲気とは全く合わない巨大リゾートが開発された。洞爺湖の山の上にある超豪華ホテルも、今でこそ営業しているようだが確か十年近くは建てたまま放置してあったはずだ。

それらに比べるとここ鹿部ロイヤルとかグリーンピア大沼とかは、交通の便がいいためかまだ少しは望みがありそうなのは何よりである。ホテルの温泉は食塩泉(ナトリウム・塩化物泉)だが、街中の旧温泉街では硫酸塩泉や重曹泉など種類が豊富。やはり供給量の制約があるんだろうと思う。

[Mar 30, 2007]

見市温泉 [Jul 14, 2017]

いまホームページをWordpressに移行する作業をしていて、この間「温泉」の記事をひととおり移し終わったところである。作業をしていて、北海道で入った温泉はもっとたくさんあるなあと思った。しかし、昔行った温泉はデジタル画像が残っておらず、画像なしでは迫力がないので記事にしないまま今日に至っている。

ポリテクセンターも修了し、これからは時間に束縛されないで毎日を過ごせるようになったことから、家の中をひっくり返して昔の記録があるかどうか調べてみた。ところが驚いたことに、デジタル画像どころかアナログ画像すらほとんど残っていないのである。

仕方がないので、すべて忘却の彼方に去ってしまう前に、覚えていることだけでも書き残しておくことにした。いつかどこかで書いたけれど、北海道には公私とりまぜて4、50回行っていて、宿泊日数を合計したらおそらく1年近くになるはずである。温泉も結構な数行っていて、十勝川温泉とか登別温泉とか、何度も訪問しているところもある。

今回紹介する見市温泉は、過去2回行っている。1回は独身の頃で昭和五十年代後半、もう1回は子供を連れてだから平成初め頃のことである。

見市温泉は江差から20kmばかり北、それも日本海から山の中に少し入ったところにある。JR江差線の走っていた当時でさえ不便なところであったが、江差にも松前にも電車が来ない現在ではどうなっているのだろうか。

初めて行った時は、江差からバスに1時間以上乗った。日本海沿いの熊石という所で下りて、そこまで宿の人に迎えに来てもらった。私ひとりだけだったので申し訳なかったが、まだ車の免許を持っていなかったし、他に交通手段がなかったのである。

ホームページを見ると最近建て替えたようで立派になっているが、当時はまだ古い建物だった(パンフレットが出てきたのでスキャンしてみた)。そして、それ以上に古色蒼然としていたのは浴槽で、長年にわたる石灰質が堆積してすごいことになっていた。もっとも、当時はそれが温泉のスタンダードで、二股カルルス温泉とか、それで売っているところもたくさんあったくらいである。

お風呂には説明書きがあって、この温泉はそもそも日露戦争の傷病兵が湯治に来たことから開けた温泉で、以来数十年を経て今日に至っているなんてことが書かれていた。日露戦争は1904年から1905年、明治時代の日本が近代化を果たし欧米と肩を並べた(と思った)戦争である。「八甲田山」「二百三高地」「坂の上の雲」の世界である。

われわれにとって日露戦争は映画とか歴史上の事件だが、印西市の奥の方に行くと日露戦争死没者の大きな石碑が建っているし、江田島に行くと東郷元帥の遺髪が大事に保管されている。関係者の方々にとっては決して過去ではないということであろう。

二度目にお伺いしたのは子供が大きくなってからで、雲石国道を車で走って行った。八雲ではケンタッキーのやっている農場のレストランに行き、そこから日本海側に峠を越えて行った。八雲ではまだ多かった車通りが峠越えではほとんどなくなり、雲石峠には電話ボックスがあるだけで売店もなければ自動販売機もなかった。

建物はすでに新しくなっていて、浴槽もいま風にきれいになっていた。ロケーションだけは何十年経ってもかわらず、すぐ前に見市川が流れ、向こう岸はすぐ山という景色は変わらなかった。見市温泉は代を重ねて六代目だそうで、それだけ長く同じ場所で続けられるということに意味がある。

日本海に出たところの熊石には、昔、ひらたない荘という国民宿舎があり、行ったことがある。「虫が入るので窓を開けないでください」と書いてあるのが印象に残っているが、建て替えて温泉旅館に衣替えしたようだ。当時から近くで養殖しているあわび料理に力を入れていたが、現在では見市温泉もあわび料理を出すらしい。昔はそんな高級なものは出さなかったが。

[Jul 14, 2017]

平成初め頃に行った時のパンフレット。建物はそれほどでもないが、浴槽が古色蒼然という感じだったことを覚えている。


恵山荘 [Jul 21, 2017]

北海道温泉シリーズ、第2弾は恵山温泉である。恵山には岩の間から温泉が湧く水無海浜温泉という有名な温泉もあるのだが、こちらは海岸からちょっと上がった高台にある、恵山荘という国民宿舎があって、ここに計3回泊まった。現在では建て替えられて民営化されている。

1回目と2回目は独身の時だから、40年近く前のことになる。当時松風町にあった函館バスセンターから2時間、椴法華(とどほっけ)までバスに乗って、宿の人に迎えに来てもらった。見市温泉の時と違って、一人ではなかったと記憶している。

現在は市町村合併で函館市に統合されてしまったが、当時このあたりは椴法華村という村で、産業といえば椴法華漁港と恵山荘くらいしかなかった。津軽海峡沿いにいくつもの漁港を過ぎ、波に洗われる道路を越え、ようやく着いたのが椴法華であった。すごい田舎だというのが第一印象であった。

でも、ゆっくりお風呂に漬かって、心づくしの夕食を食べて、畳敷きの個室でゆっくりすると、何ともいえないリラックスした気分になったものであった。窓からはちょうど水無海浜温泉らしき風景を望むことができ、部屋の電気を消して、海の色とわずかに違う海岸線を見ながら部屋の冷蔵庫のビールを飲んだ。

その頃まだ20代初めである。この先どんな輝かしい未来が待っているのだろうと意気揚々としていた時期である。あれから40年近く経ってみると、あの頃想像した未来とはかなり違っていたけれど、それなりに楽しかったし、これから先もそんなに悲惨なことにはならないだろうと思われるのは何よりのことである。

この1回目の印象がたいへんよかったので、翌年かその次の年かもう1回行ったのだけれど、まあこれが大変であった。初日はそれなりの好天で、迎えには来てもらわず椴法華から歩いた。ひなびた漁村の道をずっと下って、また登る道だった。宿に着いて、温泉に入って食事をごちそうになり、また部屋で電気を消して海岸を見ながらビールを飲んだ。

ところが、夜半過ぎからすごい雨になったのである。風もすごく強くまた雨も激しく、おそらく台風が来ていたのではないかと思う。あまりの風雨に夜中なのに目が覚めてしまった。そして天井を見ていると、みるみる天井が下がってきたのである。電気を点けて見てみると、防水性の繊維に雨水が溜まっているのか、半球状に垂れ下がっているのである。

こんなものが破裂したら、部屋中水浸しである。もちろんフロントに電話したのだが、「様子を見てください」としか言わない。布団と荷物を半球状に垂れ下がる天井から離してはみたものの、半球の下の方からぽたぽたと水が落ちてきた。

おそらくその建物は、下のパンフレット写真の右側の建屋である。雨漏りしても不思議ないような安普請である。2度3度とフロントに電話するけれども、全く埒が明かない。そのうちに電話がかかってきて、「この天気なので朝のバスが出るとあとは止まることが見込まれます。すぐ出発できるよう用意をしてください」ということであった。

そのバスが何時にどこ発だったのか、バス停までどうやって行ったのか、ホテルの朝食はどうなったのか、全く覚えていないのが残念である。唯一記憶にあるのは、まだうす暗い中支度をして部屋を出て、どこかで待機していたことだけである。

再び恵山荘に行ったのはそれから約10年後、その時には建て替えられて新しくなっていたものの、経営自体はまだ国民宿舎のままであった。まだ子供が小さかったので、ホテルの周りを散歩して歩いた。たんぽぽの首が、やけに長かったのを覚えている。

[Jul 21, 2017]

昔のファイルから見つけたパンフレット。この右側の建屋が、たいへんな雨もりをしたのでした。


定山渓温泉 [Jul 28, 2017]

さて、今回お送りする3つ目の温泉は、前の2つに比べても極端に資料が少ない。もちろん、定山渓温泉そのものはいまでも活況であるのでいくらでも出てくるのだが、私が泊まったユースホステルに関する資料がどこを探しても出てこないのである。

だから記憶を頼りに書くしかないのだけれど、定山渓は札幌市内からバス1時間山の方に入った温泉で、当時もいまも札幌の奥座敷として有名な温泉地である。当時でも札幌市内のホテルに泊まると四、五千円はしたので、千数百円のユースホステルに泊まればバス代を差し引いてもお釣りがきた。

加えて、このユースホステルは、どうやらどこかのホテルの系列だったようで、到着すると夕方のうちに(混まないうちに)ホテルのお風呂に入りに行き、それから夕食が出て、夜は2段ベットに詰め込まれて眠るという1日であった。

それでも、1泊2食千数百円(写真の領収証)と格安で温泉に入れるとあって、大変お得感があったのだろう、2年続けて泊まることになった。そのうち、たいへん印象深かったのは2年目のことである。

前年同様お風呂に入り、夕食が済んだ後で、指定された何グループかが別棟に泊まるように指示されたのである。宿の車に乗せられて、盛り場とは逆方向の山の中に入って行った。5分経ち10分経ち、周りに何も建物がないようなところで下ろされた。そこは平屋建ての、いま考えるとどこかの保養所のような建物だった。

入口から「ロの字型」に廊下があって、われわれ3人のグループは左手の奥の方に案内された。部屋は畳敷きで10畳か12畳はあっただろう。自分達で布団を敷いて泊まるように言われて、宿の人はそのまま車に乗って引き上げて行った。後に残されたのは泊り客ばかりである。

その頃、ユースホステルに泊まる際もっとも嫌だったのは、夕食後に強制的に集められて歌を歌わされたりフォークダンスをしたりすることであった(この何日か前には、それが原因で猪木vsモンスターマンの中継を見られなかった)。それがないのは何よりであるし、部屋のグレードも1泊千何百円にしてはすごくいい。これはラッキーとひとまず喜んだ。

しかし、よくよく宿の中を見回ってみると、お風呂は入れないし、自動販売機すらない。なにせ宿の人がいないのである。こんなことなら、街中にいる間にお菓子とか飲み物を仕入れておくんだったと思ったが、後の祭りである。なにしろ、周りに店も自動販売機も何もないし、車で10分以上来た距離を歩けるはずがない。

結局、男3人でテレビを見ながら夜中まで話すより他にすることはなかった。もっとも、ユースホステルの本館で泊まれば就寝時間(9時頃)に強制的に消灯されてしまい話をすることもできないから、 それに比べれば個室で気兼ねなくできてよかったといえるかもしれない。とはいえ、食べるものも飲むものもなかったのは、画竜点睛を欠くといったところでした。

さて、今回、昔のユースホステルが廃業した時期について調べたのだが、最も多いのは昭和50年代後半である。この頃は、国鉄が順法闘争やらストやら盛んにやっていた時期で、年に一度は電車賃が上がるインフレの時期だった。ということは、ユースホステルの多くが立ちいかなくなったのは、この価格では赤字が増える一方だったということなのだろう。

その後十数年を経て、子供を連れて北海道をドライブした時にも定山渓温泉に泊まっているが、なんということはない、都市近郊の温泉街であった。正体不明の宿に案内されるようなスリリングなことがなくて安心したが、物足りなくも思ったものである。

ちなみに、泉質は食塩泉で、無味無臭かつ無色透明である。登別のように硫黄臭ただよう温泉でもないし、十勝川モール温泉のようにお湯が黒ずんでいる訳でもない。特色といえば、たいていのホテルから望める豊平川の景色で、最初に行ったユース提携のホテルでは、お風呂のすぐ横が切り立った崖地で、ずっと下に豊平川が見えたことを覚えている。

[Jul 28, 2017]

定山渓ユースホステルのスタンプが、51年・52年の2回押されている。最後の領収証がそのまま残っていたので、参考に付けてみました。ここにスタンプされたユースホステルはほとんど(すべて?)現存しないか、経営が変わっています。


いつ撮影したか分からない昔の写真。わざわざ写したところをみると、お風呂に入ったのはこのホテルだったかもしれません。


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