恐山    下野薬師寺と古墳群    日光東照宮    なす風土記の丘と笠石神社
馬頭観音考    中禅寺(立木観音)

恐山 [Mar 31, 2006]

これまで全国のいろいろな所に行って来たが、いままで見た中で一番の奇観をあげよと言われれば、躊躇なく恐山をあげる。

恐山は本州の果て、下北半島にある。今ではあまり騒がれなくなってしまったが、イタコという人たちがトランス(憑依)状態となることにより、すでに亡くなった人と話ができるという「口寄せ」は、以前はそれなりの敬意をもって恐れられたものである。思うに近世以前は、霊能者とかシャーマンとかいわれるそうした才能を持った人たちが、必然的に集まるような場所だったのではないかと思う。

さて、そのように不便きわまりない場所にあるのが恐山なのだが、前にも書いたように毎年北海道までドライブしていた時期があって、もう十数年前になるがある年に、青森からフェリーに乗らずに、恐山に寄ってから大間(今はまぐろで有名)に出て、そこからフェリーで室蘭に出よう、という計画を立て、むつ市から山道を上がっていった。

まず、上りで迷う。坂を上っていけばいいような気がするのだが、上ったり下ったりしてあさってのような方向に行くような気がする。行ったり来たりしてなんとかそれらしい道に入り、その頃から道端にかわいい着物を着させられた石のお地蔵さんが散見されるようになる。ここより山奥の道も走った経験はあるのだが、そうした道より市街地に近いにもかかわらず別天地という感じがした。道路も整然とし過ぎていて、かえって気味が悪い。

恐山全体はカルデラ状になっていて、外輪山を中に入るといよいよ山域になる。そして、カルデラ湖である宇曽利山湖(というのだから、おそらくもともとの地名が宇曽利山なのだろう)が見えてくる。この湖がまるでこの世のものとも思えないような、不気味な青なのである。そして周りは、真っ白な砂浜。まさにシュールな世界である。

拝観料を払って中に入ると、山内を一周する遊歩道があって、血の池地獄やら何やら、不気味なものが続く。ただ、そういう「いかにも的」なものよりも、山の上にもかかわらず海かと見間違えるような湖の青と白い砂浜、そして、遊歩道のそこここに刺してある風車や置かれている三輪車などは、まさに背筋が寒くなるような奇観であった。

こんな霊場に物見遊山でいったバチがあたったのか、大間に下りる道を間違えて変な道に入ってしまった。引き返そうとしてもUターンできそうな場所もなく、またすれ違うのもやっとという細い道だったので大急ぎで下っていった。案の定とんでもない回り道で、大間が近づいて海が見えると、そこには北海道に向けて出発したフェリーが見えた。予約していたフェリーである。結局次の便である午前2時半まで、時間をつぶすことになってしまったのであった。

[Mar 31, 2006]

下野薬師寺と付近の古墳群 [Apr 30, 2008]

今年のGW前半はどこに行く予定もなかったのだが、山口補選の結果にもかかわらずガソリンの値上げが確実な情勢なので、遠出するとしたらいまのうちにしておきたい。というわけで、28日の月曜日は栃木県までドライブしてきた。

わが家から利根川を渡ると茨城県利根町、そのとなりが取手市である。ここから「下妻物語」で有名になった関東鉄道に沿って、国道294号線を北上する。結城市付近まで行ったら、今度は自治医大方面へ向けて西へ向かう。のどかな田園風景の中、細い道路を入ったところに下野薬師寺跡(しもつけ・やくしじあと)がある。

下野薬師寺は、奈良時代に全国に3つあった戒壇(僧侶の資格検定所)の一つである。唐から苦節十年の後やっと日本に到着した鑑真和上は、754年に平城京・東大寺に日本で初めての戒壇を設立した。一つだけでは足りないので、次いで大宰府観世音寺とここ下野薬師寺にも設立し、この3つが「天下の三戒壇」と呼ばれたのである。

当時の僧侶というと、現在の僧侶にプラスして、大学の教養課程と、医師の国家試験と、司法試験を加えたくらいの教養人だから、イメージ的にはむしろ、東京大学、京都大学、九州大学にあたると考えていいかもしれない。

そして下野薬師寺が有名なのは、なんといっても弓削道鏡の事件によるところが大きい。天武天皇系統では最後の天皇となった称徳天皇が、皇位を太政大臣法王の道鏡に譲ると主張したが、これは和気清麻呂による宇佐八幡の神託で拒絶されることとなった。称徳天皇はその後ほどなくして病死し、道鏡はここ下野薬師寺別当として左遷されたのである。

ただ左遷といっても、現在でいうと総理大臣が失脚して学界に戻り東京大学学長になったということだから、それほど奇異なものではない。また、すでに70歳と当時では高齢な道鏡が、地方で僧侶の資格検定を行うことを苦にしたとはあまり思えない。そして律令体制の崩壊とともに下野薬師寺も廃寺となり、いまは礎石や戒壇跡(江戸時代に再建という)に当時をしのぶよすがを残すのみである。

また、下野薬師寺跡周辺には数十にのぼる古墳群が残されている。これらの古墳は5世紀から6世紀にかけて作られたものとされており、大和朝廷に匹敵する有力な政権がこの地に存在したことを示している。

こうした遺跡は、現在は工業団地の片隅や道路際にある。奈良県にあって「宮内庁管理」であればとても近づくことはできないが、国指定史跡であっても県の教育委員会管理だといくらでも歩いたり見たりできるのはうれしい。はるか千数百年前に思いをはせた一日でした(花粉症の発作が出ましたが)。

[Apr 30, 2008]

下野薬師寺跡。建物は回廊の復元予想。平城京跡や飛鳥板葺宮跡によく似ています。


車塚古墳と石室。石室は凝灰岩(ぎょうかいがん)で作られていて、大谷(おおや)あたりから川を運んできたともいわれています。


日光東照宮 [Dec 1, 2010]

毎秋には紅葉狩りのドライブをするのがわが家の恒例行事だけれど、今年は忙しくてスケジュールを考える余裕がなかった。そうこうしている間に見ごろの時期は過ぎてしまい、うかうかしていると道路が凍結してしまう可能性がある。最後のチャンスになりそうなので、先週は日光に出かけてみた。

まだ暗いうちに家を出て、日光市街に着いたのは8時半頃。まだ駐車場には余裕がある。まずは日光のシンボル、東照宮へ。考えてみると、日光近辺にはかなりの回数来るけれども、拝観料を払って東照宮の中に入ることはほとんどない。小学校の修学旅行を含めて3回くらいしか来ていないのではないだろうか。

東照宮のご祭神は徳川家康、江戸幕府を開いた戦国武将である。家康は、京に拠点を置く朝廷に対抗するため、自らを神として日光に祀ることを遺言した。これが東照宮である。幕府の権力と財力を注いだ作品なので、芸術的にもきわめて価値のあるものだけれど、いかんせん歴史が浅い。なにしろ、わずか400年前のものなのである。

今年、遷都以来1300年を迎え、ほとんど毎週ホテルが満室となっている奈良と比べると、その間には900年の開きがある。小学生の頃にはその違いがあまりよく分からなかったが、眠り猫にしろ、三猿にしろ、螺鈿紫檀五弦琵琶とは年季が違うのである。

(話は飛ぶけれど、今年の正倉院展行きたかったなあ・・・。)

さて、東照宮は神式なのに、鳴き竜(いま気が付いたが、鳴き竜と哭きの竜はよく似ている)のあるお堂は薬師堂という。秘仏の薬師如来があり、十二神将が祀られているのは奈良の新薬師寺と同様だが、干支ごとに守り神が決まっているのでそちらを拝んでください。ちなみにお守りもありますとセールスに大変熱心である(拝観料を取っているのだから、セールスはほどほどにしてほしいものだ)。

そして、鳴き竜の下で拍子木を叩くと、鈴の音のように反響するので、これが竜の鳴き声なのだそうである。昔は、みんなそれぞれ手を叩いて聞こえたとか聞こえないとか騒いでいたのに、「手を叩かないでください」と張り紙もしてあってやや興ざめである。竜の鳴き声のように聞こえるという鈴のお守りも、ここだけの限定発売とのことでまたもやセールスである。

家の奥さんによると、あれは拍子木の中に鈴を仕込んであるのに違いないとのご意見であるが、拝観料の他にこんなにセールスしなければならないというのは、最近は修学旅行に行く小学校が減って、経営が厳しいのだろうか。少子化の影響がこんなところにも出ているのかもしれない。

日光といえば、見ざる・聞かざる・言わざる、でしょうか。


眠り猫の下をくぐって、石段を数百段登った上の奥の院にある、徳川家康霊廟。景色も空気もすがすがしかったが、足が翌日までがくがくした。


東照宮の後は、しばらく歩いて大猷院(たいゆういん)へ。大猷院とは3代将軍・家光の戒名であるとともに、輪王寺の別院の名前でもある。家光自身の、家康の近くに葬ってほしいとの希望で作られたものであり、祖父の家康に恐れ多いとの理由でこじんまり作られているそうだが、それでも豪華である。

格式でいうならば、家康が神(東照大権現)であるのに対し、家光は人(仏の弟子)であり、大猷院はお寺の離れという位置づけではあるが、建物自体は東照宮と良く似た権現造りである。こちらも世界遺産であるけれども、少し離れているためかそれほど混んではいない。

安土桃山時代、江戸時代における文化財の大きな特徴は、ディテールにこだわっているということである。建築物(金堂や五重塔)とか仏像を奈良時代・平安時代と比較すると、やはり年季の差は如何ともし難いけれども、山門に施された彫刻などをみると芸が細かい。東照宮陽明門と同様、こちらの二天門も神仙や聖人、伝説上の動物などが彫られている。

(そういえば、三猿も眠猫も、鳴き竜もディテールだし、屏風や襖絵も安土桃山以降に傑作が多い。)

さて、こちら大猷院の今年の目玉は、家光尊像の特別公開ということであった。せいぜい三百数十年前の人だし、その像だからといってそれほどびっくりするわけではない。だから唐招提寺の鑑真像(千三百年近く前)という訳にはいかないにせよ、それでも「それなり」のものは期待していた。

ところが、実物はというと大きな雛人形という風情で、さほどありがたみのあるものではない。特別公開などと売り出さない方がいいのではないかと感じた。また、拝観案内では東照宮と同様、お守りやら破魔矢のセールスに熱心で、これもやや興ざめ。まあ、江戸時代のものにそれほど期待するのも酷だったかもしれない。

最近、パワースポットなどといわれ神社仏閣に世間の興味が集まっているようだが、本当のパワースポットは、雑誌の記事や宣伝広告に踊らされずに、自分で見つけた方がベターだと改めて思う。個人的にお勧めなのは、なんといっても「宮内庁」の立て札のある天皇陵である。

混んでくる昼前には引き上げて、旧・今市の「小百田舎そば」へ。相変わらず満席の盛況の中で香り高い手打ちそばを堪能した後は、「鬼怒川ライン下り」終点上の売店で鮎とヤマメをいただく。紅葉狩りが終わると、いよいよ今年も冬がやってくる。

[Dec 1, 2010]

大猷院二天門。祖父・家康の東照宮陽明門より簡素に作ってあるそうだが、それでも豪華で手が込んでいる。世界遺産。


小百田舎そばの畳の縁は、オリジナルでした。


なす風土記の丘と笠石神社 [May 6, 2015]

4月のギリヤーク鹿沼公演が夕方からだったので、その前に国宝・那須国造碑を見に行った。

那須国造碑は、多賀城碑、上野国多胡碑とともに日本三大古碑の一つとされ、日本古代史を考える上での重要なヒントとなるものである。碑文によれば8世紀初めに造られたものであるが、その後江戸時代まで倒れて埋もれていた(その点では多賀城碑と共通する)。これを元通りにしてお堂を建て保護したのが天下の副将軍・水戸光圀公である。

現在、このお堂は笠石神社となっている。ご神体は国造碑そのもので、ご祭神は碑文で顕彰されている那須直韋提(なすのあたい・いで)、古代の那須国造(くにのみやつこ)である。

古代日本史の連載で書いているように、大和朝廷が日本列島全てを支配下においたのは白村江以降だと考えている。だから、那須国造碑の建てられた時代はまさに、大和朝廷が日本全国を支配下に置く以前と以降の、過渡期・混乱期にあたる。碑文の解釈、その歴史的意義については夏にでも改めて考察してみるが、碑のおかれている笠石神社も、かなり面白い神社である。

まず、近くにある公共施設・大田原市なす風土記の丘資料館を訪れる。入ってすぐに、那須国造碑のレプリカが展示されている。身長ほどある石の表面を削った上に、19字詰め8行、152字の碑文が刻まれている。内容は、永昌元年(なぜか唐の年号)に那須国造である直韋提が、飛鳥浄御原宮(大和朝廷)から評督(こおりのかみ、後の郡司)に任ぜられたというものである。

碑文の上には、雨除けの目的なのか茸のような帽子のような石、笠石が置かれている。この笠石は、碑そのものが倒れて以降もそこに置かれていて、雨乞いなどの際に使われていたものだという。そして、石碑の上にこうした笠石を置くという例はわが国では毛野国(北関東)に数例しかないが、朝鮮半島にはそうした例が多くあることから、半島由来と考えられるそうである。

そして本物の国造碑がある笠石神社は、風土記の丘資料館から10分ほど歩いたところにある。碑文の置かれているお堂は門に鍵がかかっていて、拝観受付は社務所までと書いてある。社務所といっても普通の住居であり、神主のご自宅を兼ねているものと思われた。あまりひと気がないのであきらめて引き上げようとすると、奥からおばあさんが登場してきた。

拝観料は一人500円とリーズナブルだが、神主から碑文の説明を聞かないと入れないという。説明はどのくらいかかるかと聞くと、30分という。後に用事(ギリヤークである)があるのでそんなに長くはいられないというと、10分ほどでできるかもしれないから、神主に言ってみてくれという。何やらたいへんな手順である。一日に何組かならいいだろうが、続けて拝観希望者が来たらどうするのだろう。

そして、神主登場。太目の体をスーツに包み、神主というよりも博物館の説明員のようだ(WEB情報によると、実際に小学校の先生だったそうだ)。庭に置いた椅子に座らされ、碑の来歴から水戸光圀公の業績、碑文の書体が書道の教材になるほどの達筆であることなど、資料をいくつも出しながら、滔々と説明する。なるほど、このペースでやられたら30分は楽勝だろう。

これから用事があると言って、巻きでやってもらったところ、わら半紙で作ったお手製の資料をあとから見るようにとたくさんくれた。自宅の縁側には、お守りやお札と並んで、碑文の写真やら拓本がたくさん置かれていたが、あまり買う人はいないようだった。

さて、お堂に移動していよいよ国宝・那須国造碑を見ることができる。お堂はちょうど碑を覆う大きさに作られているので、家の奥さんはそのまま入れるが、私は頭をかがめないと入れないし、腰を曲げていないとお堂にいられない。ちょうどこの時は奥多摩小屋の翌週で腰が痛んで仕方なかったので、かなりつらい拝観となってしまった。

内部は暗く、神主お手製のスポットライトを点灯する。実物は、レプリカと変わらない(当り前だ)。ご神体であるので写真撮影は遠慮し、二礼二拍手一礼で、旅の平安をお願いする。神主によると、碑文の152字の他に、笠が被るあたりに逆さに「大」と読める字が書かれていて、この意味は不明とのことであった。

碑文を見ていると次の拝観希望者が現れたので、「説明を聞かないと見れないみたいですよ」と申し送りして、失礼する。その人が来なかったら、まだ延々と神主の説明が続いたであろう。とにかく印象深い神主であった。それにしても、国宝をこれだけ近くでじっくり見ることのできる機会は、それほど多くはないかもしれない。

資料館から笠石神社へ行く途中には、下侍塚(しもさむらいづか)古墳がある。近畿の巨大古墳に比べると小ぶりだけれども、都から遠く離れたこの地域にも、相当の経済力を持った豪族がいたということである。前方後方墳というあまり見ない様式である。

この古墳も、笠石(那須国造碑)との関連があると考えた水戸光圀公の指示により発掘調査され、鏡や土器の欠片などが出土したものの、碑文との関連は見つけられなかったとのことだ。発掘後はご老公の命令により埋め戻され、その時植えられた松が古墳の上で大きくなっている(写真下)。古墳時代と飛鳥時代では200~300年の差があるから、関連が見つからなかったのも仕方のないことであった。

[May 6, 2015]

笠石神社。正面、注連縄の奥にある建物は、「那須国造碑」保護のため水戸光圀が命じて作らせたものである。拝観するためには拝観料の他、神主のご説明を聞かなければならない。


笠石神社周辺にはいくつかの古墳が点在し、古代にこの地方の有力者がかなりの勢力を有していたことをうかがわせる。写真は下侍塚(しもさむらいづか)古墳。


馬頭観音考 [Feb 3, 2020]

宝篋山から平沢官衙遺跡を歩いた日、遺跡の前にある北条大池を通って行った。この池は灌漑用に造られたもので、現在では桜の名所として賑わう場所ということである。

その北条大池の湖畔に、「馬頭尊」と太く彫られた大きな石碑がある。近くに寄ってみるとその横に細く消えかけた「つちうら」の文字があり、江戸時代に道標を兼ねて建てられたものと考えられる。

「馬頭尊」とは、観世音菩薩が六道を救うためにとる形の一つ、馬頭観音である。観音菩薩は六道の各世界に、聖観音、十一面観音、千手観音、如意輪観音、不空羂索観音(真言宗では准胝観音)、馬頭観音の形で現われて、衆生を救済するのである。

子供の頃、成田街道の近くに住んでいたので、昔から馬頭観音碑は多く目にしてきた。そして、いま住んでいる千葉ニュータウンも馬頭観音碑の多い土地である。今日はそのことについて書いてみたい。

馬頭観音の多くは、北条大池や成田街道沿いのように、人間や貨物の往来が多い街道沿いに祀られている。自動車以前、物資の輸送に使われていたのは主として馬であった。

牛も短距離輸送や農耕に使われたのだが、街道の中長距離輸送となると馬が中心であった。合戦で牛に乗った武将がいないのと同じ理由で、速度が違うこと、小回りが利くことといった点で馬が優れていたためだろう。

明治時代まで、物資輸送を請け負う馬子(まご)や、馬の売買をあっせんする馬喰(ばくろう)がどこの村にもいた。現代ではカーディーラーやトラック事業者が全国どこでもあるのと同じである。

それだけ多くの馬が輸送に使われていたということは、仕事途中で倒れた馬も少なくなかっただろう。街道沿いの馬頭観音は、もともとそれらの馬たちを供養する目的で建てられたと考えられる。確か、中山競馬場にも馬頭観音があった。

仏教伝来以来観音菩薩は知られており、法隆寺の百済観音や薬師寺の聖観音は飛鳥時代・奈良時代にさかのぼる。けれども、庶民の間に広がったのは、観音様が大活躍する法華経が広まる室町時代以降であると考えられる。

いまでもそうだが、庶民の多くは経典を調べることはしない。観音様とお大師様、うっかりするとお稲荷さんや天神様との区別だって怪しいものである。だから、僧侶や学識のある有力者(庄屋とか)に教わって、ありがたいものだと拝んだに違いない。

鎌倉仏教の中で法華経を重視したのは日蓮である。日蓮宗には商工業重視の色合いが強い。輸送業でも日蓮信者は少なくなかったはずで、馬を供養するのに観音菩薩の六変化のうち馬頭観音を選んだに違いない。

そうした背景から街道沿いに馬頭観音像、馬頭観音碑が多いのだが、そうした立地以外でも馬頭観音を見ることがある。千葉ニュータウンでは、よく探すといろいろな場所に見つけることができる。

千葉ニュータウンといってもかなり広いが、現在の千葉ニュータウン中央から印西牧の原のあたりには、幕府の牧場があった。「牧」の原という町名はそれがもとになっている。

その名残りで、大井競馬の小林分場にはいまでも厩舎があるし、かつて中山競馬の白井厩舎があった場所は競馬学校となり、JRAの騎手を養成している。関連する民間の施設も、いまもいくつか残っている。

そのように多くの馬が育成・調教されていた地域なので、当然のことながら死んでしまう馬も多い。おそらく千葉ニュータウンで見かける馬頭観音のいくつかは、そうした馬が葬られた場所であろう。そう思ってよく見ると、集落から少し離れて、谷に向かって下がって行く地形が多いように感じられる。

[Feb 3, 2020]

筑波山麓の大池公園にある馬頭尊石碑。平沢官衙遺跡のすぐ横にあり、古くから交通の要衝だったことによるものと考えられる。


中禅寺(立木観音) [Jul 28, 2021]

還暦はとうに過ぎて、これまで生きてきた年数より死ぬまでの年数の方が少ないに決まっているのだが、この歳になっても新たに知ることがあり、どうしてそんなことを知らなかったんだろうと思うことがしばしばある。

きっかけはNHKニュースで、中禅寺の新たな試みについて報じられたことである。一緒に見ていた奥さんが「行ったことある?」と訊くので、「ない。どこにあるかも知らない。中禅寺湖の近くにあるはずだろうけど」と答えたのである。

さて、日光にあるお寺の寺号は輪王寺であり、二荒山神社、東照宮、輪王寺は神仏分離以前は日光山として一体であった。そして、「東照大権現」「輪王寺」は家康の死後に朝廷から下賜されたものであり、江戸幕府ができた頃にその名前はない。

つまり、江戸時代初期まで日光にある寺は「中禅寺」だったはずで、だからこそ中禅寺湖と名付けられたものであろう。下賜された時に「輪王寺湖」とすれば分かりやすかっただろうが、それまでに「中禅寺湖」が定着していたと思われる。

日光山が開かれたのは遅くとも奈良時代と伝えられる。男体山はつくばあたりからもよく見える秀峰で、修験道の霊地として古くから祀られてきた。男体山頂の祭祀遺跡からは、仏具などの遺物が発掘されている。

寺伝では、8世紀に勝道上人が苦難の末男体山に登頂、一木造の観音菩薩像を祀ったのが日光山の創建という。二荒山(ふたらさん)の名前は観音浄土の補陀落から名付けられ、さらに音読みして「日光」となった。

江戸幕府が東照宮を作る前から、中禅寺湖畔には多くの参拝施設があった。鎌倉幕府も室町幕府も日光山に寄進を行っており、現在の中禅寺温泉街は当時の宿坊が発展したものである。

その頃、立木観音を祀っていた中禅寺は男体山の麓、現在の中宮祠の場所にあった。しかし、集中豪雨や台風が来ると男体山はたびたび土石流を起こし、そのたびに中宮祠付近は甚大な被害を受けた。

一時は寺全体が倒壊し、立木観音も湖まで流されてしまったという。これを受けて、中禅寺は男体山の反対側の湖畔である歌ヶ浜に再建されることとなった。これが現在の中禅寺である。

拝観料500円をお納めして境内に入ると、鐘楼や護摩壇、庫裏の奥に本堂がある。さらに、本堂から棟続きの山の上に五大堂と呼ばれる建物がある。

本堂にいらっしゃるのがご本尊である立木観音である。観世音菩薩は救済する衆生に合わせて六つのお姿をとるが、立木観音はそのうちの千手観音である。千手観音はその名のとおり千の手を持つが、観音像に造形する場合は42本とされることが多い。

うち5本の手から5色の糸が引かれ、それを握ってお願い事をするという参拝方法であったが、コロナ禍でみんなが同じ糸を触るのは好ましくない。そこで、祭壇前に5色のライトを当てて、糸の代わりに光を手で受けようという新機軸を打ち出し、これがNHKニュースで報じられたのであった。

男体山登頂の後だったので、無事登山できたことにお礼を申し上げる。脇侍が四天王という珍しい構成で、ご本尊の両脇に二柱、後方壁際に残り二柱がいらっしゃる。

本堂から内階段を昇ると五大堂で、こちらには不動明王はじめ五柱の明王が祀られている。明王像の両脇には、開山の勝道上人像と大黒天、これも変わっている。そして、金剛・胎蔵の両曼荼羅が掲げられている。

輪王寺の宗旨は天台宗であるが、これはどうみても密教であり、修験道である。境内のより高い場所にあるお堂が開山当時の姿に近いことを考えると、この山が山岳信仰、修験道系であったことがうかがわれる。

日光というと、小学校の修学旅行以来、東照宮、見ざる聞かざる言わざる、いろは坂というイメージが強くて、古来からの山岳信仰の霊地というイメージが希薄であった。よく考えると、いろは坂だって、東照宮に行くだけなら必要ない。そのあたり深く考えられなかったのは迂闊なことであった。

[Jul 28, 2021]

中禅寺は、現地では専ら立木観音と呼ばれており、交差点の名前や案内表示もそうなっている。現在、日光にあるお寺の名前は輪王寺であるが、これは江戸時代に朝廷から下賜された寺号であり、江戸時代初期までは中禅寺だったはずである。


境内の最上部にある五大堂から出ると、中禅寺湖が目前に広がる。右の山はもちろん男体山。


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