詩仙堂    浄瑠璃寺    高野山    大仙古墳(仁徳天皇陵)    室生寺
東大寺法華堂    竹内街道巡礼    東寺    高台寺    黒塚古墳


詩仙堂 [Feb 14, 2007]

昔の国鉄の時代から、「京の冬の旅」という企画が結構長く続いている。私の学生時代(約30年前)にはすでにあったので、それなりにニーズがあるのだろう。

思うに、春・秋は修学旅行をはじめとする行楽シーズン、夏は祇園祭をはじめとするお祭りや鴨川べりの川床料理でにぎわう京都だが、冬は結構寒くて客足が伸びない。そこで観光に理解のある寺社の特別拝観を目玉に集客を図ろうとしたのが始まりではないかと思う。

そのせいもあって、よく冬の京都に行っていた時期がある。この3連休は結婚23周年の記念日でもあったので、奥さんと久しぶりに京都・奈良(キョナラ?)観光を楽しんだ。最初は特別拝観のあるところも考えたのだが、二人とも人が多いところは苦手なので、あまりひと気がなくしかも雰囲気のいいところということで、今回は詩仙堂を中心に回ってみた。

昔、京都からそれほど遠くない枚方市に住んでいたことがあるし、学生時代からよく京都に旅行していたので有名どころにはほとんど行ったことがあるのだが、名前が通ったところだから必ずしもいいとは限らない。

もちろん天気とかたまたま行った時に工事中だったとか団体客と鉢合わせになってしまったとかいうタイミングの問題もあるのだが、印象がよくなかったところにはあまり足が向かない。今回訪れた詩仙堂は市街からはちょっと離れたところにあるのだが、静かで落ち着くところである。

叡山電鉄の一乗寺から東に向かってしばらく行くと、宮本武蔵と吉岡一門の決闘で有名な「一乗寺下り松」が現れる(松の木自体は代替りしている)。そこからさらに坂道(八大神社参堂)を登っていくと、右手に詩仙堂の入り口がある。

ここは徳川家康の家臣であった石川丈山が引退後に三十余年を過ごした山荘で、ししおどしで有名なところである。詩仙堂の名前のもとになった中国の著名な詩人の肖像画(狩野探幽作)とそれぞれの代表的な作品(丈山自筆の書)がちょうど国技館の優勝力士の額縁のように、奥の部屋の四方の壁の上に飾られている。

ここのいいところは居室にじゅうたんを敷いて、来館者が座って庭園を臨むことができることである。それほど人も多くないので、1時間でも2時間でもゆっくり座ってししおどしの音を聞きながら静かな時間を過ごすことができる。

前にここに来たのはもう20年以上も前になるはずだが、その時と同じようにゆっくりすることができた。いったん外へ出てから、庭園に回る。結構広くて、丹精こめられた庭の造作は時間を忘れてしまうくらいである。

[Feb 14, 2007]

詩仙堂。赤く見えているのがじゅうたん。ここに座ってゆっくり庭園を楽しむことができる。


浄瑠璃寺 [Feb 15, 2007]

奈良は交通の便が悪いためか、京都ほど人混みでつらい思いをすることはないのだが、それでも落ち着けるところはそれほど多くはない。今回訪れたのは浄瑠璃寺。別名九体寺ともいわれ、平安時代後期に栄えたといわれる九体阿弥陀仏が現存する唯一の寺である。寺の名前は三味線や人形芝居から来ている訳ではなく、薬師如来の世界から採られている。

阿弥陀如来の世界が「極楽浄土」であるのに対し、薬師如来の世界は「瑠璃光浄土」または「浄瑠璃世界」と呼ばれる。平安後期から大流行した浄土思想では主に西方にあるとされる極楽浄土が重視され、「私を信ずる者は極楽浄土に生まれ変わらせる」という阿弥陀の誓い(これを本願という)に基づいて「南無阿弥陀仏(阿弥陀様が一番偉い)」という念仏が生まれた訳であるが、薬師如来の瑠璃光浄土は逆に東方にあるとされる。

この浄瑠璃寺の伽藍配置はまさにそうなっていて、中央に池を置いて東に薬師如来のおわします三重塔、西に九体の阿弥陀如来のおわします本堂がある。そして薬師如来に関わりの深い寺号にもかかわらず、この寺の真価は阿弥陀如来にある。とにかく、本堂、九体の阿弥陀仏、四天王のいずれもが国宝なのである(四天王のうち広目天・多聞天は国立博物館に長期貸出し中)。

本堂の九体の阿弥陀仏は、悟りの段階に応じて「下品下生(げぼんげしょう)」「下品中生(げぼんちゅうしょう)」・・・・「上品上生(じょうぼんじょうしょう)」の九つの段階に対応しているとされる。真ん中の阿弥陀仏のみ丈六(身長一丈六尺)の大型サイズ、残りの8体は半丈六の中型サイズである。イメージ的には真ん中の仏様が「上の上」に対応しているように思えるのだが、結んでいる印(手の形)は下品の来迎印。罪深い多くの衆生をお救いくださるということであろう。

JR・近鉄の奈良駅から佐保路を抜けて地域的には京都府にあり、寺の前まで来る路線バスは一日に4本しかないことから、ひと気はあまりない。たまにくる観光客のおばさん達と重ならなければ、庭園や本堂で静かな時間を過ごすことが可能なので、何年かに一度は訪れるお気に入りの寺のひとつである。

仏様の前には板張りの上に茣蓙を敷いてあり、座ってお気に入りの仏様と対話することもできる。せっかくお寺さんを回るならば、ただ伽藍や仏像を見て回るだけでなく、そうやって静かな時間を過ごすことが大切なのではないかと思ったりする。その意味では、宝物殿みたいなのを作って大げさに展示してある寺よりも、国宝級の仏像と間近に過ごすことのできるこの寺は、貴重な存在であるということができる。

[Feb 15, 2007]

浄瑠璃寺。三重塔前から本堂を望む。


高野山で山ごもり [Oct 14, 2008]

ポーカーテーブルに座っていると、さまざまなことで心を動かされることが多い。ポーカーフェースという言葉があるくらいだから、ゲームで起こることにいちいち動揺していては好結果は望めない。というわけで、たまには精神面の修養を行おうという訳で高野山に出かけた。

南海なんば駅から特急で1時間半で高野山のふもとにある極楽橋へ。ここまでの行程のうち本当に「特に急いで」走るのは橋本までの45分で、残りの45分は単線区間の山道をゆっくりと上がって行く。両側が山かトンネルの中かどちらかで、展望が開けるところはほとんどない。

極楽橋で海抜およそ500m、ここからケーブルカーでいっぺんに標高を上げる。ケーブルカーの終点・高野山駅からバスで10分ほどで高野山の中心部へ。海抜約800mの高さにこつ然と市街地が現れる。お寺だけでなく、学校、病院、役所、消防、銀行などがそろった山上都市、高野山町である。以前から来たいと思っていたのだが、なかなか機会がなかったのだ。

平安時代に弘法大師空海が開いた元々の施設は壇上伽藍と呼ばれており、金堂、根本大塔、御影堂などの建物がある。ご本尊は大日如来、そして世界観を図に示している金剛界・胎蔵界二つの曼荼羅(まんだら)とともに、弘法大師ご自身を信仰の対象としているのが真言宗である。山の上とは思えないほど広くて平らで心安まるが、なぜかオートバイがやたらと上がってくるので遠くから爆音が響くのが玉に瑕である。

壇上伽藍とは別に、江戸時代に多くの大名家が菩提寺とした別院が周囲に百以上あって、それらも独立した寺院となっている。これらの別院を含めた山全体が、もともとの高野山金剛峰寺であった。それらの別院(普賢院とか大明王院とか)が宿坊として、今日われわれを泊めてくれる訳である。

だから昔は、それぞれの院が菩提寺となっている大名の藩(県)に住んでいる人の参拝をお世話するのが宿坊だったということである。今日ではそういう制限はなく、インターネットで選んだり宿坊組合に手配をお願いしたりする。

さて、山内を見学した後に宿坊に入る。一人でも個室なのはありがたいけれど、部屋にはテレビも冷蔵庫もない。6時半に食事が運ばれる。もちろん精進料理である。般若湯(はんにゃとう=お酒)は注文できるが、静かなのでそうそう飲むことはできない(修業だし)。

食べ終わってお風呂に入ると、布団が敷いてある。まだ8時すぎなのに、他に何もすることがないので布団に入る。夜になるとほとんど車が走らないし、どの部屋にもテレビはないので、川の水音がかすかに聞こえる他には物音がほとんどしない。布団をかけると暖かくなって、やがて眠ってしまったのであった。

翌朝は5時半に鐘が鳴って起床。6時から約1時間のお勤めである。お経の響きがとても心地よく響く。いろいろ考えることがあったような気がするが、あっという間に時間が過ぎて、「南無大師遍照金剛」が何度か繰り返されるとお勤めは終わりとなる。部屋に戻って朝ご飯を食べると、もう出発の時間。わずか1泊2日では、なかなか悟れないようであった(当り前)。

[Oct 14, 2008]

壇上伽藍に向かう参道。山の上なので紅葉が始まっていました。


お楽しみの精進料理。さりげなく般若湯も注文。


大仙古墳(仁徳天皇陵) [Feb 16, 2009]

しばらくばたばたしていて遠出ができなかったが、ちょっとずつ再開できそうな気配である。先週の建国記念日は出張ついでなので純粋な遠出ではなかったけれど、帰りがけに大仙古墳(仁徳天皇陵)に行ってみた。

このブログのシリーズ記事の一つである「常識で考える日本古代史」に書いたように、仁徳天皇ことオオサザキ王は古事記の中でも特別な扱いを受けている天皇である。ただし、オオサザキ王自身は強大な権力を誇示したというイメージではない。ここがオオサザキ王の陵墓であるというのもあくまで宮内庁の指定であり、歴史学上では疑問とする見方もかなり有力である。

さて、大仙古墳へ行くには南海電鉄の三国ヶ丘駅で下りる。歩くためコインロッカーを探したのだが、どこにも見当たらない。国鉄と私鉄の乗り換え駅なのだから関東であれば間違いなくあるはずなのに、残念ながらここは関西なのであった。あきらめてパソコン入り出張バックを持ったまま歩き始める。

おそらく森の見える方角だろうと見当をつけたものの、道路を横断したり踏切を渡ったり結構ややこしい。しばらく行ったり来たりして、なんとか古墳の外周部にたどり着いた。外周部にはお堀が掘ってあり、その外側に高い柵、そして地元の堺市が整備した遊歩道が古墳を一周している。

三国ヶ丘の近くは古墳の北側、前方後円墳の「後円」部、つまり古墳の正面からみると逆側になる。100mくらいごとに距離が表示されていて、私が取り付いたあたりには正面まで左回りで1600m、右回りで1250mと書いてあった。荷物があるので短い方の右回りにする。

内側は宮内庁管理の陵墓なのに、遊歩道の外側は普通の住宅地が続く。なにげにシュールである。大政奉還の前まで天皇陵の管理は非常にラフに行われていて、この仁徳天皇陵も古墳の中にまで家が建てられていたそうだが、明治時代以降は厳重な管理下にある。

歴史学の世界ではよく、天皇陵の調査が十分にできれば古代日本の謎はかなりの部分解明されるといわれている。これは確かにいえることで、例えば江田船山古墳や稲荷山古墳で発見されたような金石文(金属や石に刻まれた文章)が調査の結果見つかったとすれば、相当有力な手がかりになる。日本人はエジプトまで行ってひとの国の王墓を調査しているというのに、おかしなものである。

そんなことを考えながら柵の中をみると、きちんと整備されている。おそらく、定期的に業者が中に入って、清掃やら樹木・雑草の伐採やらをやっていそうな気配である。歴史学者の方々も不満ばかり言っていないで、いろいろ工夫すれば中に入る手立てはありそうに思えた。

時々休みながら、なんとか御陵の正面に到着。例によって宮内庁の看板が掲げられている。明日香はじめ奈良県にある天皇陵は小振りなところが多いが、ここはなんとも雄大で、鳥居の向こうから山が圧倒的な存在感で押し寄せてくるような印象である。ここがオオサザキ王・仁徳天皇の陵墓であるかどうかはともかく、相当の権力者が作らせたものであることは実感できた。

三国ヶ丘までもどるのはきつかったので、正門からすぐのJR百舌鳥(もず)駅から関空に向かった。陵墓を造成中に鹿が倒れていて、みると耳の中から百舌鳥が出てきたというのが地名の由来らしい。よく考えるとすごい話である。

[Feb 16, 2009]

大仙古墳外周の遊歩道。左が古墳、右は普通の住宅地。


天皇陵正面の宮内庁看板。


室生寺 [Feb 25, 2009]

関西の寺回りを始めたのは、今も続いているJRと京都観光協会のタイアップ「京の冬の旅」が始まって間もない頃である。

途中、例の拝観拒否事件もあったけれども、オフシーズンのこの時期、国宝級仏像の特別拝観で客足の回復を図るというコンセプトは、当時も現在も同様である。その後、興味の中心が京都から奈良に変わってしまったが、仏像を鑑賞する時期は冬に限ると思っている。修学旅行生などでごった返しているのでは、仏様の前でゆっくり瞑想することもできない。

当時と現在で最も違うのは、宿泊施設の充実度ではないだろうか。30年ちょっと前には、京都も奈良も修学旅行生向けの宿ばかりで、一人旅に適した宿がほとんどなかった。だから、京都だと第二タワーホテルとか、奈良には泊まるところがないので大阪に戻ってホテル南海とかに泊まっていたのである。

今では、京都にも奈良にもビジネスホテルはあるし、1万円くらい出せばちゃんとしたホテルにも泊まることができる。うれしいことである。歳とともに体力が加速度的に落ちつつあり、そうでなくても早く寝る習慣がついているので、それほど移動せずに宿で落ち着けるというのはありがたいのであった。

さて、今回は室生寺である。女人高野として名高い室生寺、実はこれまで行ったことがなかった。なぜかというと、この寺はちょっと奈良市内から離れたところにあって、ここに行ってしまうとその後どこかに回るということが難しいからである。今回は、この日唯一の目的地としたので、初めての訪問となった(そういえば、高野山も昨年の秋が初めてである)。

伊丹から上本町に出て、近鉄大阪線で室生口大野まで着いたのが3時前。駅前のバス停まで下りていくと、なんと次のバスは1時間後である。待つのはともかくとして、拝観時間が終わってしまう。タクシーも最後の1台が行ってしまうところ。仕方ないなあ、帰ってくるのを待とうと思っていたら、そのタクシーに乗っていた女性2人組が親切なことにご一緒にどうぞと言ってくれた。

室生口大野を出てすぐ、宇陀川にそびえる磨崖仏(まがいぶつ=崖を削り取って作った仏像)がお出迎えである。まるでバーミヤーンのようだ。この奥が昔でいう室生寺の寺域にあたり、寺へはほぼ一本道の山道を登って行く。10分ほどで門前町に着く。門前町とはいっても、川の左岸に旅館や土産物店、食堂などがいくつかあるくらい。右岸は境内になる。

橋を渡っていよいよ寺に入り、まず、建物自体が国宝となっている金堂に向かう。今回、金堂内部の特別拝観が可能で、国宝・重文級の仏像を間近に鑑賞することができる。そして金堂まで行くのにも、とりあえず階段を登らなければならない。この時点ではまだ分からなかったのだけれど、実はこの室生寺、全山が山の斜面にあり、その標高差は軽く100m以上あるのであった。

教科書でおなじみの国宝・室生寺金堂。ただいま特別拝観中。


特別拝観中の金堂に入る。ひと目見て、ちょっと違和感がある。

まず、内陣に並んでいる五つの仏像の光背やにばらつきがある。中央本尊は釈迦如来(国宝)、右脇侍(わきじ。きょうじ、とも読む)が文殊菩薩だが、左脇侍は普賢菩薩でなくなぜか薬師如来である。釈迦三尊の場合、通常は左が文殊、右が普賢なので、文殊菩薩の立ち位置も普通とは逆である。

如来と菩薩では、如来の方が格上である(格=悟りの境地)。だから釈迦如来と薬師如来は同格であるが、文殊菩薩と薬師如来は違う。格の違う仏様を同列に置くことはないから、もともとこれらの仏様は別々の由来である可能性が大きい。

釈迦・文殊・普賢の三尊のうち普賢菩薩が何らかの理由(おそらく焼失)により失われ、代わりに薬師如来を持ってきた。薬師如来と文殊菩薩では薬師の方が格上だから、文殊菩薩の位置を左から右に移したのかもしれない(左の方が右より上位)。

おかしいことはまだある。脇侍のさらに外側に、左が地蔵菩薩、右が十一面観音(菩薩)で、この二つは光背も大きさも同じである。これはありそうな配置である。しかし、この内陣から一段下がった外側に鎮座しているのが、なんと大日如来なのであった。

女人高野というくらいだから、室生寺は真言宗の寺のはずである。真言宗でもっとも重視される仏様は大日如来である。本尊になり、中央に置かれていてもおかしくない大日如来が、内陣にも入らず金堂の隅っこの方に置かれている。かなりの違和感である。

ちなみに、金堂の奥にある階段を上った先の本堂(これも国宝)の本尊は、如意輪観音座像(重文)である。歴史のある寺院の中で、本堂の本尊がこの仏様というのは、あまりみない例である。

こうしたことから考えるに室生寺は、比叡山や高野山のように教義に則った学術的な厳密さを追求してきたのではなく、修験道などとも近い、心願成就・現世利益に重きを置いたお山だったのではないだろうか。そして、現在重要視されている諸仏は、かつて祈願や祈祷を行った際に、それぞれ大きな効果を示してきた仏様、のような気がする。

また、現在金堂に置かれている諸仏は、室生寺最盛期にはそれぞれの塔頭の本尊としての扱いを受けてきたものが、寺の規模縮小とともに一堂に集められ、今日に至ったもののように思える。少なくとも薬師如来は他の内陣四尊とは系列が違うように思われた。

本堂から少し進むと、平成十年の台風で大きな被害を受けた、これも国宝の五重塔である。二年後に修復が終わった当時の様子をみると、変に真新しくて見た感じが妙なのだが、それから八年たった現在、それなりに色合いがくすんできて周囲に調和している。

これも国宝・室生寺五重塔。写真の女性はタクシーに相乗りしてくれた親切な二人組。


五重塔からさらに進むと、真言宗で最も重要な施設の一つ、御影堂のある奥の院である。しかし、この奥の院に行くのに、なんと数百段の階段を延々と上らなければならない。

御影堂は大師堂とも呼ばれる。「大師」とはもちろん、弘法大師空海のことである。真言宗は空海自身を信仰対象とするので、空海をおまつりする御影堂は中心施設の一つである。室生寺も高野山と同様、いまでも空海に毎日の食事を運んでいるはずである。

だから御影堂にはぜひ行っておくべきなのだが、これがまたはるか彼方まで階段を登らなければならない。後で聞いたら五百段とか七百段と言っていたような気がする。疲労困憊してはっきり聞き取れなかったのだけれど。

階段をかなり昇って、ようやく奥の院の入口、位牌堂が見えてくる。このお堂は斜面に建っているので、崖の下に向かって長く柱が伸びている様子は、清水寺や笠森観音を思い出す。やっと位牌堂の足元までたどり着くが、ここからお堂の入口までさらに階段が続く。きついことこの上ない。

さすがにバテバテになってようやく上りきると、拝観締め切り時間で戸を閉めているところだった。かわいそうに思ったのか寺のおじいさんが、「ここだけ開けとくから見ていいよ」と、他の用事が終わるまでの間、閉めるのを待っていてくれたのはありがたかった。とはいっても、檀家ではないのでお堂の中の位牌を拝む訳ではなく、ちょっと中を覗いて失礼する。

位牌堂のすぐ先に御影堂がある。こちらは鎌倉時代の建築で重要文化財である。こじんまりした建物で、これは内部は公開していない(はず)。来た方向をふり返ると、昇り始めは遥か下である。修業とはいえ、この階段を毎朝毎晩往復する方々はさぞかし大変だろうと思う。

位牌堂の正面入口に掲げられた木枠の絵をよくみると、地獄の閻魔さまを描いたものである。とうとう、真言宗から始まって十王信仰まで来てしまった(ご存知のとおり、仏教と閻魔大王はもともと関係がない)。この室生寺、どうやら現世から来世にわたっての祈願を一身に引き受けているようである。女性のための高野山というよりも、霊験あらたかな山岳信仰の霊場という性格の寺であることを再認識した。

帰りも休み休み下りていくと、さっきのおじいさんがすべての後片付けを終えて、階段を軽快に下りてきたと思ったら、あっという間に抜かれてしまった。さすが、修業している人は違うのである。

[Feb 25, 2009]

延々と続く階段の上に、ようやく見えてきた奥の院・位牌堂。ここからグランドレベルまで上がるのに、またひと苦労。


東大寺法華堂 [Mar 3, 2009]

室生寺に行ってから、もともとは違う目的地を考えていたのだけれども、気が変わって東大寺に向かった。理由の第一は泊まりが新大宮(近鉄奈良の次の駅)だったことだが、室生寺の階段の多さに足ががくがくしてしまい、あまり距離が歩けそうになかったことと、金堂の仏像群がちょっとアンバランスだったため、きちっとした仏像を見たくなった、ということがある。

東大寺法華堂(三月堂)の本尊、不空羂索観音(ふくうけんさくかんのん。高校生の頃は、ふくうけんじゃくかんのん、と習ったが・・・)は、私が好きな仏像ベスト3に入る仏様である。観音様(観世音菩薩)は、法華経(妙法蓮華経)に登場するスーパーマン(ゴッド?)で、そのためこの仏様を祀っているお堂を法華堂と呼ぶのであろう。

ちなみにベスト3のうちあとの二つは、法隆寺金堂釈迦如来と、唐招提寺鑑真像。3つのうち2つが脱乾漆造(漆を乾かして色付けした像)であり(法隆寺釈迦如来は金銅造)、同じく脱乾漆の興福寺阿修羅像も結構好きなので、脱乾漆好みといえるかもしれない(奈良時代の仏像は、金属がすべて大仏に行ってしまったため、脱乾漆が多い)。

法華経によると観世音菩薩は、「困った時(断崖絶壁から落とされそうになった時、荒海で龍に襲われそうになった時、毒を飲んでしまった時、等々)、この仏様を呼べば、たちどころにピンチから救われる」と書いてある。ウルトラマンやマグマ大使、鉄人28号のもともとの発想は、おそらく法華経の観世音菩薩である(スーパーマンは日本でないので違うだろう)。

仏教の六道輪廻の6つの世界に、観音様はそれぞれ姿を変えて現れるが、この不空羂索観音は人道の観音様であるとされる。人間界担当である割に、聖観音(地獄)、千手観音(修羅)、十一面観音(餓鬼)などと比べると、あまりポピュラーではない。

お水取りで有名な二月堂はこの時期でも結構人が多いが、法華堂は閑散としている。拝観料を払って中に入ると、私の他に二人しかいない。近くから遠くから、見放題である。まず内陣のぎりぎりまで進んで拝んだ後、後方の段になっている所に腰掛けてゆっくり見させていただく。

こういう時思うのは、例えば奈良時代や平安時代に、これらの仏像をこんな近くで見ようとしたら、相当な身分と莫大な寄進がないと無理だったに違いないということである。21世紀の今日、わずか500円でこれだけの仏様を間近にほぼ独り占めできるのだから、幸せという他に表わすべき言葉がない。

平成21年2月の東大寺三月堂。何か分からないが工事中。


不空羂索観音(ふくうけんじゃくかんのん)の特徴は、目が3つあるということである。普通に二つ並んだ目と直角、額の中央に縦についているのが「第3の」目である。この目は、内陣ぎりぎりに近づいてようやくなんとか確認できる程度。どちらかというと眉間の縦じわのように見えなくもないが、よく見るとしっかりと目である。

ただし、他の二つの目とは違って、表情が読み取れない。仏像の目は基本的に、どの方向から見ても自分の方を向いているように作られているが、額の目についていえば、どこも見ていないようにみえる。

左右の手は4組。合掌した一組は胸元へ、開いた左右のてのひらは、それぞれ肩、腰、ひざの高さに伸ばされている。造形的にも均整がとれたすばらしい仏像だが、それに加えて特筆すべきなのは、その威圧感である。

大抵の観音様の場合、どちらかというと「聖観音(しょうかんのん)」系のやさしいお顔をなさった仏様が多い。代表的なものとして薬師寺の金銅聖観音菩薩像があげられるように、なんとなく観音様というと女性的なイメージを持ってしまう(もちろん男性)。だが実際の観世音菩薩はウルトラマンであるから、この不空羂索観音のように睨みをきかせているべきなのだ。

そして、左右の脇侍仏が、日光菩薩・月光菩薩。この一対の菩薩像が、本尊不空羂索観音と絶妙のコンビネーションなのである。全く気負わず、やや微笑さえ浮かべたような表情で不空羂索観音のやや前方に位置し、まるでメインイベントに臨むチャンピオンを先導するセコンドのように見える。

そしてその外側には、梵天と帝釈天、いずれもお釈迦さま以前から古代インドで祀られてきた神々で、仏教に帰依し、その守護神となったとされる。これらの仏像も一対で意味がある。そして、内陣の四方に置かれているのは、持国天・増長天・広目天・多聞天の四天王。やはり仏教を守護する神々である。

ここまでの仏様が、なんとすべて国宝である。それぞれにちゃんとした意味がある仏様が、あるべき配置に納められている。仏像は、こうあるべきであると改めて感動する。

お堂の壁沿いに作られた段差に腰掛けて法華経の世界を体感する。外が寒いので、いつまでながめていても空気は冷たく張りつめたままなのも、冬の仏像鑑賞のすぐれたところである。

[Mar 3, 2009]

東大寺南大門。ご存知、鹿の群れ。


竹内街道巡礼 [May 14, 2009]

さて、この連休前半はAJPC大阪予選に参加するかたわら、古代大和と難波を結ぶ主要道である竹内街道(たけのうちかいどう)周辺に点在する寺社、古墳などに行ってみることにした。

本来、電車と徒歩でてくてく回るつもりが、全裸の会会長のご好意により車で回らせていただき、予定していたよりずっと広い範囲を見ることができました。会長には改めて御礼申し上げます。ありがとうございました。

#1 当麻寺 第1回目の報告は当麻寺(たいまでら)である。当麻寺は東塔・西塔が並存する様式(薬師寺様式とも)の寺院の中で、現存しているものとしては最も古い。創建は飛鳥時代、つまり平城京以前と伝えられる。

当麻寺が近世以降有名になったのは、浄瑠璃や歌舞伎の題材ともなった「中将姫(ちゅうじょうひめ)伝説」によってである。この伝説は、高貴な生まれ(藤原氏)ながら薄幸の女性・中将姫が、幾多の苦難を浄土信仰により救われる、というものである。

そして、普通は寺の本尊といえば仏像であるのに、当麻寺の本尊は「当麻曼荼羅(たいままんだら)」と呼ばれる布に織り込まれた浄土絵図である。

普通、曼荼羅というと真言宗で本堂に掲げられる2枚の「両界(胎蔵界・金剛界)曼荼羅」を指すが、当麻寺はこれとは異なり、浄土三部経の一つ、観無量寿経の阿弥陀世界(極楽浄土)を図で表しているとされる。今ならば「コミックでよくわかる浄土信仰」といったところだろうか。

この曼荼羅は、中将姫が一夜で織り上げたという伝説があるが、縦横4メートルの大きさがある巨大なものである。中将姫の技術指導(と藤原氏の資金援助)により職人が製作したというのが本当のところだろう。

国宝の曼荼羅原本は秘蔵されていて、現在は見ることができない(見ても、真っ黒で絵が分からないとのこと)。代わって本堂に掲げられている本尊は、江戸時代に作られたレプリカである。それでも、このレプリカですら重要文化財である。また、曼荼羅を入れてある漆塗りの厨子も国宝である。

さて、浄土信仰ということは、平安時代以降である。釈迦の予言する末法の時代(仏の正しい教えが伝わらない時代)が近づき、阿弥陀如来の本願により西方極楽浄土に往生するという信仰が生まれた。当麻寺の創建は飛鳥時代であるから、浄土信仰より古い。

浄土信仰以前の当麻寺の信仰を現代に伝えているのが、金堂の本尊である弥勒仏塑像(国宝)である。広隆寺や中宮寺の弥勒菩薩・半跏思惟像(小首をかしげて頬のあたりに指を当て、アルカイック・スマイルを浮かべている像、いずれも飛鳥時代とされる)で有名なように、古代において弥勒信仰は盛んであった。

当麻寺の仏像の中で、最もインスピレーションに富んでいるのが、この弥勒仏をはじめとする金堂の仏様である。当麻寺の弥勒仏は如来形(すでに悟りを開いている仏の造形)であるため、大仏のように頭は渦巻き、半眼で、指の間には水かきが備わっている。塑像(粘土製)というのも、かなり古い信仰の形を示しているといえる。

また、四方を守護する四天王像(乾漆造)はあごひげをたくわえているという他にはない特徴があり、それも実際に何かの毛を使っているということである。四天王はそもそもインドの古い神様を起源としているので、こういう風貌をしているのは、あるいはもともと仏教が日本に伝わった当時の伝承なのかもしれない。

56億年後に衆生を救うために現れるという弥勒仏。仏教の開祖である釈迦如来や、過去・未来を司るとされる薬師如来・阿弥陀如来、現世の我々を守ってくれる観音菩薩・地蔵菩薩などに信仰が集まるのは分かりやすい。こうした中で、はるか未来に登場するという弥勒仏をなぜ信仰し、何を祈ったのか。ほの暗い金堂の中ではるか飛鳥時代に思いをはせたのでありました。

当麻寺境内。大和から見ると、後方の二上山(ふたがみやま)に日が沈むことから、極楽浄土に近い寺として信仰された。創建当時は弥勒信仰の寺であったと考えられる。


#2 叡福寺 当麻寺から峠を越えて大阪側に出ると、太子町である。地名の太子はもちろん「聖徳太子」に由来している。古代の地名を「磯長(しなが)」といい、このあたりは蘇我氏の勢力が強かったということである。

古代の皇室というと、万世一系に目を奪われて父系の血統を追ってしまうきらいがあるが、平安時代に藤原氏が母系を独占し摂政・関白として権勢をふるったように、それ以前の時代においても母系の持つ意味は大きいのではないかと考えている。その点からいうと、敏達天皇から推古天皇まで兄弟相続で皇位が継承された西暦600年前後の約半世紀は、蘇我氏の時代といってもいい。

そして、蘇我氏の地盤はというと、馬子の墓と伝えられる飛鳥から、昨日お伝えした当麻周辺、そして叡福寺のある磯長、すべて竹内街道、つまり難波から飛鳥への物流に関わりのある土地である(やはり聖徳太子ゆかりの四天王寺まで含めると、起点から終点までとなる)。

蘇我氏と百済をはじめとする渡来人との親密な関係もあわせて考えるに、蘇我氏の経済基盤の一つは、朝鮮半島を含めた他地域との交易であり、今日でいう総合商社的な地位にあったのかもしれない。

さて、叡福寺(えいふくじ)は聖徳太子墓所と同じ敷地内にある。奈良時代に聖武天皇の発願により創建されたと伝えられるから、初めに太子の墓があり、そこに寺を建てたということになる。通りに面した叡福寺に進む。広々として、静かである。平日とはいえゴールデンウィーク前半というのに、境内にいるのは私と全裸の会会長の二人だけである。

聖徳太子というと法隆寺、というのが第一印象になる。古来、聖徳太子に対する個人崇拝は盛んで、「聖徳宗」「太子宗」といった宗派もあるくらいなのだが、ここ叡福寺は観光コースにある訳でも、国宝重文が目白押しという訳でもないから、静かなものである。ことによると、約30年前にお札が福沢諭吉に切り替わったことも影響しているのかもしれない。

宝物殿もあるのだけれど、月曜日は休館ということであった。そのこともあって、人がいないのだろう。とはいえ庭園や木々はきちんと手入れされており、澄みわたった5月の風が境内を流れている。こうした古刹の雰囲気は大好きである。むしろ人がいなくてうれしいくらいだ。

さらに進んで階段を上がると、ここからが宮内庁所轄の聖徳太子墓所である。宮内庁認定の陵墓は、天皇・皇后を「陵」、皇族を「墓」と区別している。ここは聖徳太子だけでなく、母の間人皇后も眠っているところだから、間人皇后・聖徳太子陵と呼ぶことも可能なはずなのだが、何か事情があるのだろう。合葬陵ならば、天武・持統陵が有名である。

小山になっている中腹に石室があり、その入口に屋根と玄関(と呼ぶべきか)が備えられている。おそらく、後期古墳と呼ばれる横穴式陵墓の多くはかつてこういう形をしていて、その後焼けたり朽ち果てたりして今日の姿になった(=森だけが残った)のではないだろうか。

玄関の上方、欄間にあたるところに阿弥陀如来の透かし彫りがある。浄土信仰は太子の時代よりかなり後世のものであるので、これは最初からあったものではないだろう。本当は、聖徳太子といえば玉虫厨子で有名なジャータカ(インドの古代伝承をもとにした釈迦の伝説)がふさわしいが、日本人にはなじみが薄いのであった。

寺の隣にある公園に、何か書いてある石の柱が通路に沿って円形に立てられていた。数を数えると17本ある。最初の一本は「和をもって貴しとなす」ではないかと思ったら、案の定そうだった。十七条憲法である。

叡福寺境内。静かである。


聖徳太子墓所。石室入り口の建物は江戸時代のもの。ご存知、宮内庁の立て札もあります。


#3 磯長周辺の古墳群 叡福寺のある磯長(しなが)=太子町には、4つの天皇陵がある。敏達、用明、推古天皇はそれぞれ兄妹で、もう一人は敏達天皇のひ孫にあたる孝徳天皇である。

叡福寺に墓所のある聖徳太子は用明天皇の第一皇子であり、二上山の向こうにある当麻寺は用明天皇の第三皇子である麻呂古皇子が開いたとされるので、この一帯はまさにこの血統の聖地であるということになる。この時代の朝廷における実力者は、大臣(おおおみ)蘇我馬子であった。

敏達陵、用明陵、推古陵はそれぞれ小山にあって、古代難波の百舌古墳群(仁徳陵など)、古市古墳群(応神陵など)と異なり、こじんまりしている。周囲を堀で囲った形跡も認められない。厳密には古墳の一部ではないかと思われるところに、民家や畑があったりする。

ただし、いずれも二上山に至る傾斜地にあるので、遠く大阪方面が見渡せる。特に推古天皇陵からはPLの塔や大阪平野を望むことができた。古代、大阪湾が深く入ってきていた時代には、おそらく海まで続いていたのであろう。

さて、孝徳天皇陵は他の3古墳とは異なり、まさに竹内街道沿いにある。陵周辺は非常に道が狭く民家も建て込んでいるため、現在、陵の正面から入ることはできず、陵の側面からお参りする形になる。

この孝徳天皇、大化の改新による政変の後に皇位につき、都を大和から難波に移転したものの、実力者・中大兄皇子と対立して皇后をはじめ重臣すべてが大和に去ってしまった、と伝えられる。

常識的に考えれば、この時期まさに朝鮮半島情勢が緊迫の度を高めつつある状況にあるので、連絡にも移動にも便のいい難波に拠点を移すのがあるべき姿であろう。特に百済を支援したいということであれば、なおさらである。

大化の改新で中大兄皇子は蘇我入鹿を滅ぼしたものの、朝廷の多数派は引続き朝鮮半島進出を目指した。だからいったんは難波京に遷都したものの、中大兄皇子はそうは考えなかったため、次第に巻き返して再び大和に都を戻し、さらに大津京に拠点を移したのではないか。中大兄皇子(天智天皇)は朝鮮半島進出には消極的だったのである。

唐は朝鮮半島への進出にあたり、各国に対し巧妙に内部対立の種をまき、内紛を起こさせている。高句麗にも百済にも新羅にも行っていたそうした工作が、倭国にだけ行われていないはずはない。

おそらく中大兄皇子には、唐・新羅から、「朝鮮半島出兵(白村江)には協力するな。その代わり、唐・新羅が勝った暁には日本列島における利権を認めてやる」という工作があったのではないか。(それでは、白村江の二万五千の兵はどこから派遣されたのか?この点については、「古代史シリーズ」をお楽しみに)

だから、蘇我氏に縁の深い聖徳太子の法隆寺には「百済」観音があり、中大兄皇子(天智天皇)に縁の深い三井寺には「新羅」明神があるのではないか。これは実際には後の人々がやったことにせよ、そうしたことを暗示する意図もあったとは考えられないか。

そんなことを考えながら、蘇我氏とかかわりの深い竹内街道の一日を終えたのでした。

[May 14, 2009]

孝徳天皇陵。宮内庁看板が鳥居からみて横向きになっているのは珍しい。


現在の竹内街道。道幅が狭く、両側に民家が建て込んでいます。


東寺(教王護国寺) [Feb 23, 2010]

JR京都駅から歩いて行ける歴史あるお寺さんというと、三十三間堂と東寺がすぐに思い浮かぶ。ところが、このうち三十三間堂は何回も行っているものの、東寺には二十年以上前に一度行ったきりである。なぜかというとその一回の時、境内ががらくた市みたいなのでごった返していて、とても静かに仏像を見ていられる環境ではなかったからである。

この間京都に行く機会があり、恒例の「京の冬の旅」特別拝観で五重塔の内部を見せてもらえるということなので、久しぶりに東寺に行ってみることにした。京都駅から近鉄の高架線に沿って南下する。南口はここ十数年で再開発が飛躍的に進んでいる地域だが、今回も新しいショッピングセンターを建設中であった。

「→東寺」の道案内に従って右折、しばらく進むと五重塔が見えてきて東寺である。風が冷たくて少しだけ雨も降った寒い朝だったので、人もあまりいない。もちろん、にぎやかな出店などはない。ちょっと、ほっとする。

東寺は、平安京鎮護のため、嵯峨天皇の勅命により弘法大師空海が開いた寺である。平安時代には朱雀大路をはさんで西側に「西寺」があったため、通常は「東寺」と呼ばれる(近鉄の駅名も東寺である)が、正式には教王護国寺という。真言宗の系統の一つである東寺真言宗の総本山である。

国宝の五重塔は創建以来何度かの火災に見舞われ、現存するのは江戸時代の再建。全国の五重塔の中で最も大きなものなので内部には若干のスペースがあり、こうして折に触れて一般公開される。法隆寺や薬師寺の五重塔は東寺のものより古いが、規模が小さいこともあって、中は見せてもらえない。

係の人の説明と注意(撮影禁止など)の後、公開されている初層(1階部分)に入る。塔の中心には、心柱(しんばしら)と呼ばれる大きな柱があって、いくつかの材木をつなぎ合わせながら、屋根の上に突き出ている相輪(そうりん)まで続いている。東寺では、この心柱を真言宗の本尊である大日如来に見立て、その周囲に、4如来8菩薩を配置し、四方の壁には真言宗の高僧の姿絵が描かれている。

塔の内部に入ってまず注目したのは、心柱の接地部分。如来座像の下をガラス張りにして床下の見通しが利くようにしてあって、床下の礎石の上にそのまま置かれた太い柱が見える。これだけで塔全体が支えられているのは非常に印象的であった。

江戸時代の再建と聞いたせいか、塔の内部は日光東照宮とイメージが似ているように思える。特に、壁から天井にかけての曲線のフォルムや天井の格子模様は、まさしく江戸時代の様式である。

境内入り口からみた、東寺五重塔。


特別拝観の五重塔にまず行ってみた東寺だが、寺の至宝ともいうべき古仏は講堂に収められている。

京都にある寺社の多くは応仁の乱前後の時期に被害を受けており、この東寺についても室町時代の土一揆により伽藍のほとんどが焼失した。その時に、何とか寺の人々が持ち出して避難することができたのは比較的小さな仏像だけで、大きな仏像はその時に焼けてしまった。

講堂の仏像群は「立体曼荼羅」と呼ばれ、弘法大師空海による真言宗の世界観を示しているとされる。内陣には「五如来」「五菩薩」「五明王」の15の仏像が配置され、それらを囲んで「持・増・広・多」の四天王と、仏教を守護する梵天・帝釈天が置かれている。

仏教世界の格付けからすると、如来が最も上、次いで菩薩、明王、その下に天部となるが、この寺の場合は、四天王・梵天・帝釈天の天部と、わが国最古といわれる不動明王像を含む五明王が平安時代初期の木造仏であり、それぞれ国宝に指定されている。上に述べたように、戦災時に持ち出すことのできた仏像だからである。

この中でも、向かって右側を守っている梵天はこの寺独特の風貌をなさっている。梵天・帝釈天はインドの土着神が仏教に帰依した姿とされ、帝釈天が多くの場合甲冑をつけた武人の姿をしているのに対し、梵天は静かに瞑想しているような像が多い。ところが東寺の梵天像は、興福寺の阿修羅像のように三つの顔で周囲を監視している。

そして、帝釈天が象に乗っているのに対し(古代インドでは象に乗って戦ったというから、それを示していると思われる)、4羽の鳥が蓮華座を背負い、その上に座られている。後で調べたところ、この鳥はガチョウだそうだ。四天王はもちろん、足の下に邪鬼を踏みつけているので、この寺の天部はすべて体の下に何かを置いていることになる。

正面から、左から、右から、それぞれじっくり鑑賞する。現代のわれわれにとって、曼荼羅より後の時代の思想である阿弥陀信仰はイメージ的にとらえやすい。来世に極楽浄土に往生するため、阿弥陀如来の本願を信じてひたすら念仏するというのは分かるような気がする。一方、この曼荼羅世界がすぐにイメージに結び付くかというと、ちょっと分かりにくいところもある。

そして、非常に多くの仏たちが登場するため、曼荼羅は織物に示されることが多いのだが、空海はそれを抜粋し、核心部分を立体曼荼羅として二十余りの仏像群で示した。東寺の講堂で、しばし密教世界の深淵に浸ったのでありました。

[Feb 23, 2010]

東寺境内。手前の建物が講堂、奥が金堂。五重塔はこの角度からは左側。


高台寺 [Sep 10, 2012]

先週は京都に出張だった。若干の自由時間ができたので、近場のお寺さんでもお参りしてこようと思っていたら、宿泊したホテルに「百鬼夜行展」のポスターがあった。8月31日までとあるので最終日だし、高山寺は短時間では無理だが高台寺なら駅からそれほど遠くはないので、行ってみることにした。

高台寺は、豊臣秀吉の正妻である北政所ねねが晩年を過ごした寺として知られている。祇園・八坂神社と清水寺の間、東山の中ほどにあたる。受付で拝観券を買ったときに、「百鬼夜行の屏風絵か何かを展示してあるのですか」と尋ねたところ、「巻物を展示してあります」とのお答え。境内には、妖怪の提灯が下げられている。なるほど、そういうことですか。

考えてみれば、百鬼夜行といえば今昔物語の安倍晴明に代表されるように平安時代。高台寺は安土桃山から江戸時代だから時代が6、700年ほど違う。名前の似ている栂尾・高山寺が鳥獣戯画で有名だから、早合点してしまったようだ。ともあれせっかく来たのだから、ねね様の時代に思いをはせることにしよう。

メインの百鬼夜行絵巻物は、受付を入ってすぐの庫裏を仕切って展示してある。古いものもあるが現代に作られたものもある。古いものはおそらく江戸時代の製作なのであろう、紙が黄ばんで絵の具も薄くなってしまっている。銘が書かれていないのは著名人の作でないためだろうか。一方で現代作は色鮮やかであるが、今風の妖怪のようでもある。

そも百鬼夜行とは何だったのか考えるに、もとは暗闇を光る虫とか燐の発光による自然現象、夜行性の獣を擬人化したものだったと思われる。いまと違って、大都市・平安京といっても街灯があったり高層ビルの灯かりがあったりした訳ではなく、日が暮れると月明かりだけである。猪やオオカミ、鹿、ときには熊も出ただろうから、現代で言うなら日没後の山の中にいるようなものであっただろう。

だから、平安京に百鬼が夜行したのは人通りが少なかった平安時代が主であって、応仁の乱から戦国時代になるとそういった話はなくなる。この時代には夜討ち朝駆けが普通であったから、百鬼ではなく人間が夜行していたということである。

展示の説明では「百鬼とは付喪神(つくもがみ)のこと」と書いてあったのだが、付喪神とは器物が魂を持ったものだから、時代的には平安時代より後になる。私が思うに、これはオリジナルの百鬼夜行に、物は大事に使わないといけないよという精神訓話的な要素が加わったものではないだろうか。ある意味、十王信仰(閻魔大王とか地獄の発想)と共通したものがあるように思う。

24時間光のない時間はない現代に百鬼夜行はなく、あるのは都市伝説だけである。逆に考えると、百鬼夜行は1000年前の都市伝説であったのかもしれない。

これを見て来てしまった百鬼夜行展ポスター。


こんな感じで百鬼が夜行しているのですが。


さて、高台寺のメインは北政所である。折しもコリアンの観光客の団体が見学中であったが、秀吉ゆかりの寺を見学するというのはいかがなものだろうか。もしかしたら由来を調べてなかったのだろうか。何しろこの寺には、秀吉ご渡海のために製作された船の天井から移築したという建物もあるのである。

下の写真の石庭は、住職がお勤めする方丈の前庭である。見えている門は勅使門であり、天皇の勅使しか使えないものである。左上にちらっと写っているのは霊山観音(りょうぜんかんのん)。こちらは第二次大戦後(京都で戦後というと応仁の乱の後という意味になるそうだ)に建立されたもので、高台寺とは直接の関係はない。

庫裏・方丈を出て少し高い場所に、霊屋(たまや)がある。ここには秀吉と北政所の像が安置され、北政所は像の真下に埋葬されているそうである。最近、北政所ねねの注目度がそれほどでもないのは、大塚寧々と神田うのの差だろうか、それとも太閤記のような出世物語に世間の関心が向かなくなったせいだろうかなどと考えつつ参拝する。

(ちなみに、神田うのの「うの」は持統天皇の本名。他に歴史上有名な女傑といえば北条政子であるが、やんごとなき方と読み方が同じため昨今は敬遠されているようである。)

豊臣氏滅亡後も北政所が徳川幕府から丁重な扱いを受けたのは、北政所が淀殿・秀頼と一線を画し、どちらかというと家康寄りであったからとされている。もともと北政所は秀吉より身分的にはずっと上であり、秀吉が出世の足掛かりとしたという見方もあるくらいだから、秀吉の妻だから豊臣家に味方するとは限らなかったのであろう。

あるいは、当時においては、天下統一は家康も含めた織田グループの成果であって、秀吉の個人的功績だけによるものではないというのが暗黙の了解だったような気もする。日本人の傾向として血縁カリスマの重視があげられるが、信長から秀吉、家康に至る権力継承においては血縁が必ずしも重視されなかった。

霊屋は少し高くなっているので、高台寺の全体が見渡せる。結構歩いたような気もするのだが、よく見ると敷地全体としてそれほど広い訳ではない。それでも、池があったり木々を植えて見通しを効かなくすることで、敷地以上に広く感じさせるというのも、日本建築・日本庭園の特質である。

いずれにしても、平清盛から足利家、秀吉・家康に至る数百年の歴史が共存している京都は、非常に奥が深い。できれば庭でも見ながらゆっくりしたいのだが、何しろ暑いのが京都の難点である。吹き出す汗をふきながら冷房の効いたバスへと急いだのでありました。

[Sep 10, 2012]

高台寺方丈の前庭。季節が良ければじっくり見たい所なのですが、京都の夏は暑いのです。


重要文化財・霊屋(たまや)には秀吉と北政所ねねの木像がある。その地下には北政所が埋葬されている。


黒塚古墳展示館 [Jul 22, 2013]

2013年の梅雨明け後は1週間猛暑が続いた後、一転して過ごしやすい日となっている。先週は関西に出張。2時間ばかりの余裕時間を見つけて、奈良盆地の東南部、天理から桜井にかけての山麓部に広がる大和・柳本古墳群、黒塚古墳と行燈山(あんどんやま)古墳に行ってみた。

JR柳本駅から東へまっすぐ進む。風情ある通りであるが、人通りはほとんどない。例によってコインロッカーがないので、荷物を持ったままの移動となる。革靴で大きなバッグはやっぱりきついと思って振り返ると、結構な登り坂であった。

まず、黒塚古墳。ここは公園になっていて、天理市の管理する古墳展示館がある。平成9~10年というから比較的最近の発掘調査で、三角縁神獣鏡が一ヵ所から33面出土したという古墳である。宮内庁管理ではないので、自由に入ることができる。規模的にはそれほど大きくはないが、堀も掘られていて本格的である。

この地域は平安遷都以降はいわば僻地であった。まさに古墳の真上に、戦国時代には松永久秀の支城があり、江戸時代には柳本藩一万石の陣屋が置かれた。かつては城郭や屋敷が建てられていたのである。近年になって発掘調査が行われるまで、それほど注目されていなかったということである。そこから三角縁神獣鏡が多数出土した。

常識的に考えて、この銅鏡が卑弥呼が魏から贈られた現物である可能性よりも、魏から渡来した銅鏡をもとに日本国内で多数の銅鏡が複製され、その一部がここにあったという可能性の方がかなり大きいように思うが、地元・天理市ではここを「卑弥呼の里」であるとして、掲示物や印刷物に書いている。

いずれにしても半ば放置されていた古墳にこれだけの遺物があったということは、いま宮内庁が管理している天皇陵とされる古墳を調査すれば相当の収穫があると思われ、日本の古代史は大きく書き変えられることになる。よその国でピラミッドを調べるよりも自分の国を調べた方がいいように思うが、まあそれぞれのお立場があることだから仕方がない。

古墳から堀(池)を隔てて、黒塚古墳展示館に向かう。入場無料である。発掘当時の竪穴式の石室と、三角縁神獣鏡をはじめとする副葬品出土の様子がレプリカで作製されており、2階から全体を見ることができる。かなり大きな規模であり、大きな石を削って棺にしている石舞台など飛鳥のものよりも、古い様式のようだ。

ここはドラマ「鹿男あをによし」のロケが行われた場所であり、話す鹿に命じられて「サンカク」を探す玉木宏と多部未華子がたどり着いた場所であった。そういえば先に亡くなった児玉清がこのドラマの敵役だった。今をときめく綾部はるかも出ていて、このドラマは珍しく毎回見ていたのだが、私の見るドラマの常として視聴率が思わしくないのであった。

[Jul 22, 2013]

黒塚古墳展示館内部。三角縁神獣鏡が多数出土した状況が再現されています。ここは、「鹿男あをによし」のロケが行われた場所でもあり、場内には鹿男のポスターも。


展示室2階には、三角縁神獣鏡のレプリカが置かれている。鹿男は話す鹿に命じられて、「サンカク」を探すんですよね。


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