反正天皇陵 法起寺・法輪寺 法隆寺・中宮寺 藤ノ木古墳
行燈山古墳(崇神天皇陵) [Jul 30, 2013]
黒塚古墳からさらに東へ。三輪山の麓であるこのあたりを「山の辺の道」といい、大きな古墳や寺などが散在している。道端に「崇神天皇陵」の案内石が置かれている。坂を上って大きな通りを渡ると、例によって宮内庁の立札があり、毎度おなじみ御影石の柵と鳥居が見えてくる。
この古墳は、大和・柳本古墳群では渋谷向山古墳(景行天皇陵)に次ぐ大きさを持つ巨大古墳で、周囲に陪塚(ばいちょう。近親者や重臣の墓とみられる)を持つ。ちなみに、上の写真階段奥に見える森が堀の中にある天皇陵で、左手建物(宮内庁の陵墓管理事務所)の上に見える森が陪塚。長さがちょうど天皇陵の半分だそうだ。
鳥居まで進んで奥、天皇陵方面を見ると、後方は三輪山である。大山古墳(仁徳天皇陵)と比べると小ぶりだが、堀の幅が広いので奥行きがあるように見える。後を振り返ると、奈良盆地へ向けて緩やかに下って見晴しがいい。この地を治めた大王が墓を作るとすれば、間違いなくこの場所を選ぶだろうと想定される場所である。
以前に古代史の連載で説明したように、私自身は大和朝廷が日本全国を支配下に置いたのは白村江以降(7世紀)のことであると考えている。「倭国」と呼ばれた九州政権とは別に近畿に拠点を置く地方政権があり、それが紆余曲折を経て全国政権となったのだろうと思う。巨大古墳が近畿に多いのは、九州政権がGDPの多くを戦争に費やしていたからだろう。
崇神天皇は本名「ミマキイリヒコイニエ」で「ハツクニシラススメラミコト」と伝えられる。名前の意味は「初めて国を治めたスメラミコト」なので、近畿地域を初めて統一した大王という意味にとることができる。大神神社(三輪山)との関係も記紀に書かれているので、三輪山をご神体として信仰するこの地域の支配者であったと思われる。
一方で、大和朝廷の始祖とされる神武天皇は出自が九州であることが明記されている。また、以前連載で述べたように、景行天皇から仲哀天皇までは記紀の記載の不自然さから九州政権の王であったと思われる。さらに、伝承が豊富で実際にこの地を支配したことが確実な仁徳天皇以降の王朝は、宇佐八幡宮・応神天皇の子孫であることをもって王の権威としている。
となると、近畿を初めて統一した崇神天皇と呼ばれる支配者の系統は、どこかで滅ぼされたか統合されたかした可能性が大きいのではないだろうか。近鉄もJRもない時期に、親子孫になるはずの開化・崇神・垂仁天皇陵が奈良市内と柳本を行ったり来たりしないだろうし、最初に述べたように三輪山を信仰する政権ならこのあたりに眠りたいと思うはずなのである。
現在の宮内庁の取り決めによる天皇・皇族の陵墓や陵墓参考地の推定は、すべて記紀に書かれている人物にあてはめようとするから訳が分からなくなっているのである。おそらく大部分の古墳は、現皇室とは直接のつながりはないと思われるのであるから、被葬時期が5世紀以前の古墳については、黒塚古墳と同様にきちんと調査すれば、得られるものは多いように思う。
それはそれとして、JR柳本から黒塚古墳、崇神天皇陵にかけては食べ物屋やコンビニ等が見当たらないので(飲み物の自販機も少ない)、このあたりを歩かれる方はあらかじめ用意しておく方がいい。
[Jul 30, 2013]
黒塚古墳から5分ほど坂を登ると、崇神天皇陵とされる行燈山(あんどんやま)古墳。天理から桜井のあたりには巨大古墳がいくつかあり、時間があればゆっくり見たいところです。
崇神天皇陵拝所。おなじみの花崗岩(御影石)でできた柵です。
ニサンザイ古墳(東百舌鳥陵墓参考地) [Aug 1, 2013]
さて、翌日も出張の用事が済んで2、3時間の余裕ができたので、関空への帰り道の途中に中百舌鳥(なかもず。近畿以外の人には読めない)で下りて、前日に引き続いて古墳をめぐる。JRまで歩く予定なのでまたも荷物を持ったまま。重い思いをして大汗をかいてしまった。
駅の地図をみるとすぐに巨大古墳が見えてくるはずなのだが、実際にはなかなか見えてこない。10分ほど歩くと、ようやくビルの向こうに小高い森が見えてきた。相当の高さの墳丘である。でも、なかなか着かない。ようやく古墳をめぐる遊歩道までたどり着くのに、20分かかった。
ここニサンザイ古墳は、天皇陵ではないことになっているが、陵墓参考地として宮内庁の管理下にある。天皇陵であればどこかに拝所があり、例の立札と花崗岩の柵、鳥居があるのだが、参考地なのでそこまで管理はしていない。また、堀は水利組合、堀の外は堺市の管理のようなので、よく見ると立札は森の中に立ててある。
普通に考えれば、百舌鳥古墳群の中では仁徳天皇陵、履中天皇陵に次ぐ大きさであって、前日訪れた崇神天皇陵よりも大きいのであるから、大王クラスの陵墓であることは間違いない。何しろ古事記には、自分の家よりでかい家があるのを見て、戦争をしかけてしまう天皇の話すらあるのである。王でないのに王より大きい陵墓など作れるはずがない。
崇神天皇陵の時にも書いたように、陵墓や陵墓参考地をすべて記紀の登場人物にしようとするから、こういうことが起こる。多くの古墳は、おそらく皇室とは直接の関係はないのであるから、きちんと発掘調査をすれば、少なくともどの古墳が古いのか、どの古墳とどの古墳が近い関係にあるかは分かるはずである。
どこにも荷物を置くところなどないので、そのまま遊歩道を奥へ進む。堀の内側にも通路のような空間が見えるのは、昨年宮内庁と堺市の合同調査があり、一般公開されたからであろう。それはともかく、でかいのである。荷物を持って歩くのはさすがに厳しい。5分以上かけて、後円部まで着いた。
堀の外側は墓地になっている。堺市の立てた説明文があるが、消えかけているのと草が繁ってしまっていて読めない。堺市と水利組合の名前で、釣りやボートの禁止が告知されている。確かにゴムボートでもあれば、堀の中まで行くのはそれほど苦労はなさそうだ。
休むところもないので、ゆっくり歩いて引き返す。この古墳、高さだけなら仁徳天皇陵を上回る。ある程度の整地工事はあっただろうが、おそらく自然の地形をある程度活かした古墳なのだろう。また、当時はGDPに占める農業生産の比率が高かったから、農業用水の確保という意味もあったに違いない。
この後は御廟山古墳(百舌鳥陵墓参考地)にも行きたかったのだが、道を間違えてJR上野芝駅方面に抜けてしまった。やはり、荷物を持っていると小回りが利かないし、考える余裕がなくなってしまう。ゆっくり回るのは、来るべき引退後ということになりそうだ。途中、百済川(だと思う)に亀が大量発生していた。誰かが放したのが始まりなんだろうなと思った。
[Aug 1, 2013]
南海線・中百舌鳥(なかもず)駅から歩くこと20分、突然街中に巨大古墳が出現する。ニサンザイ古墳である。古墳の周囲には遊歩道が整備されている。こちらは堺市の管理エリアとなる。
陵墓への通路は後円部にある。堀の内側は宮内庁管理なので、森の中に例の立札が見える。去年一般公開されたそうだが、拝所も作らないのなら見せてくれてもいいのに。
箸墓古墳 [Nov 25, 2013]
今年春に行った大和・柳本古墳群は、出張のついでだったのでゆっくりできなかったし、卑弥呼の墓とも言われている箸墓(はしはか)古墳は電車の窓から見ただけだったので、改めて見に行こうということで秋の夫婦旅行は関西である。成田から関空までJETSTARで5000円。そこから天理までバスに乗り、JR巻向駅で下りて15分ほど歩く。
前に日本史の連載で書いたように、私は魏志倭人伝を普通に読むと邪馬台国は九州北部としか読めないと考えている。
したがって、ここが卑弥呼の墓であるはずがないと思っているのだが、それはそれとして、三輪山を宗教的基盤とする古墳時代の政権が作ったものであることは間違いないし、規模的にみても柳本古墳群と呼ばれ南北に並んでいる崇神天皇陵、景行天皇陵、黒塚古墳と同様に、最高権力者の陵墓であることも間違いない。
現在この古墳は、倭迹迹日百襲媛(ヤマトトヒモモソヒメ)の墓として、宮内庁の管理下にある。天皇陵ではないため管理はさほど厳格ではないのか、過去に周辺部分の一部で発掘調査がされており、現在も調査が継続中である。埴輪や木製馬具などが出土しており、3~4世紀のものと推定されている。大きさも魏志倭人伝とほぼ一致するため、卑弥呼の墓という説がある。
江戸時代に柳本藩の陣屋だった(宮内庁管理でない)黒塚古墳の発掘調査で多数の銅鏡が出土したように、このあたりの古墳を調査すれば間違いなく多くの画期的な発見があるだろう。確かに、二千年近い間に盗掘されているかもしれないし、実はいま住宅になっている下に埋まっている可能性もあるとはいえ、最も可能性の大きいところを調べない手はない。
天皇陵の発掘調査までは難しいせよ、森林整備を兼ねて立入調査を行い、地中の石室等の有無程度は見当をつけたらいいのではないかと思うが、私の生きている間には難しかろう。それにしても、自分の国の古代の陵墓はほとんど調査できないのだから、エジプトまで出かけて他人の国の王様の墓を調査するというのは筋が違う話だ。
駅から古墳の森が見えているので方向は間違いようがないが、住宅が建て込んでいるので細い道を行ったり来たりする。土地柄なのか大きな建物がないのは何よりである。ようやく古墳後円部の外周に来ると、通り一本隔ててすぐに住宅である。古い家が多く、古墳に沿っているので道はなだらかなカーブとなっている。なかなか風情がある道である。
仁徳天皇陵もそうだけれど、宮内庁管理が厳しくなかった明治時代以前にはこうした古墳はそれほど特別な地域ではなかった。この箸墓古墳も前方部と後円部の間に、昔使われていた道の名残りもあるらしいし、丘の頂上には建物すらあったようだ。森林資源は当然、地域住民の入会の対象となっただろう。
古い家並みを抜けて、保育園の前まで来ると、拝所が見えてくる。天皇ではなく皇族の墓なので、全体にこじんまりしている。森の奥からは、どんぐりの落ちる音が聞こえる。何とも優雅である。こちらでは卑弥呼の墓と主張しているので、展示施設でもあるのかと思ったがあっさりしたものである。宮内庁管理ということもあり、行政でもそう大げさなことができないのかもしれない。
拝所から5分ほど進むと国道に出る。国道沿いには三輪そうめん山本の直営店「三輪茶屋」がある。メニューにはそうめん・にゅうめんしかない店だけれど、雰囲気のいいところである。ここで、にゅうめんをいただく。上品な味だった。
[Nov 25, 2013]
地元では卑弥呼の墓と主張されている箸墓古墳。
すぐ近くにある三輪そうめん「三輪茶屋」は、雰囲気のいいお店です。
談山神社 [Nov 27, 2013]
箸墓古墳のある巻向から桜井線を南下すると2駅で桜井に着く。ここから談山神社まではバスである。WEBでは紅葉の時期には臨時バスが出ると書いてあったが、JRの到着に合わせてちょうど待っていてくれた。ここから山道を多武峰(とうのみね)・談山神社に向かう。
談山(たんざん)神社は藤原(中臣)鎌足を祭神とする神社である。藤原氏の氏寺である興福寺は全国的に有名だが、談山神社はそれほどでもない。談山の「談」は、ここで中大兄皇子と中臣鎌足が蘇我氏討伐の密談をしたところから名付けられていて、クーデターを起こした飛鳥から山を登って2時間余りのところにある。
もちろんそうした歴史的背景を知ってここに来る人も少なくはないのだが、645年から1400年経過した現代では、紅葉の名所であり十三重塔で有名な場所である。訪れた時も、ちょっと早いながら赤や黄色に色づいた景色がみごとで、さすがに近畿圏でも有数の紅葉の名所と言われるだけことはあった。
さて、十三重塔というのはそもそも仏教のもので、元来はお釈迦さまの遺骨を入れた仏舎利塔だったはずである。神社なのに塔とは不思議だと思っていたら、鎌足の子で僧の定恵(じょうえ)が開いた寺であったそうである。石造の十三重塔はよく見かけるが、木造建築物としては世界でも唯一とのことである(あまりそう言っていると、どこかの新興宗教が建てるかもしれない)。
寺であったということは、興福寺のライバルだったということである。事実、興福寺僧兵の襲撃に遭って、この神社の施設は一時期焼失しており、ネームバリューで一歩譲るのはそのせいもある。何しろ興福寺は、室町時代まで幕府が守護を置けなかったくらい、この地域では勢力が絶大だったのである。現在の十三重塔は江戸時代の再建で、比較的新しい。
バス停の終点から境内までの間は、土産物店がにぎやかである。餅やこんにゃく、柿やみかんを売っている。その奥に多武峰観光ホテルがあって、正面が神社入口である。拝観券売場を抜けると、本殿までの長い登り階段に驚かされる。これを登るのかと思うとちょっと落ち込むが、幸いに回り道をするルートも用意されている。
回り道ルートを進むと、中大兄と鎌足がアイコンタクトで蘇我氏討伐の意志を通じあったという「蹴鞠の庭」に至る。この庭から本殿のある方向を見上げると、十三重塔と裏山の紅葉が絶妙である。観光地によくある記念写真の業者さんがスタンバっていたが、この日は手持ち無沙汰のようであった。
さらに回り道ルートを進むと、山から湧き水が流れてきている場所がある。そのあたりは荘厳な雰囲気である。「パワースポット」と書かれている。心なしか空気がひんやりして、霊地という感じである。寺ができる以前は、修験道の聖地だったかもしれない。
境内はそれほど広くはないが、高低差があるのでずいぶんと歩いたような気がする。十三重塔の裏にある、談(かた)らい山、御破裂山に向かう道もある。その途中に鎌足の墓もあり、大和盆地を望むすばらしい展望なのだそうだが、すでに午後2時を回っているので先を急ぐ。
境内を出て西にしばらく坂道を登ると、昔の山門である西門跡に至る。「下乗」の大きな石碑があり、ここから先は神域であることを示している。現在では、ここから境内までの間に何軒かの民家が建っている。さらに西に進むと今度は下り坂で、明日香石舞台まで標高差300mほどのハイキングコースとなる。
[Nov 27, 2013]
蹴鞠の庭から、紅葉に映える十三重塔を見上げる。木造建築物としては唯一の十三重塔で、江戸時代の建築。戦前にはお札の絵柄にもなった。
談山神社西門まで登ると、そこから明日香までハイキングコースとなる。
橿原神宮・神武天皇陵 [Dec 3, 2013]
橿原神宮は、神武天皇が橿原で即位したことに基づいて造られた神社である。実際に造られたのは明治天皇の時代なので、神武天皇が即位した(と記紀に書いてある)紀元前660年からは2500年ほど後になる。
それはそれとして、畝傍山の麓に広がる神宮は厳かであり、初代天皇にふさわしい立地である。近鉄・橿原神宮前から歩くと、すぐに神宮の正面に至る。
この日は大安かつ十一月ということで、小雨にもかかわらず結婚式のカップルや七五三の家族連れが朝から訪れていた。神宮でも七五三ということで気を効かしたのか着ぐるみのキャラクターを登場させていたが、これは神域にはふさわしくなかった。若いカップルや子供たちには、オフィシャルな場についてきちんと勉強させるべきなのだ。
ちょうど朝の9時で、神職の方や巫女さんが正殿から各建物に三々五々散っていくところだった。足下の玉砂利はみごとに掃き清められている。市街地近くに立地していることもあり、お参りする人も多い。前日に行った談山神社は臣下・藤原氏、こちらは皇室。同じ初代でもさすがに違うのである。
正殿にお参りした後は、来た道とは逆方向に向かう。参道は広く、森は深い。近鉄線で北へひと駅になる畝傍御陵前には、神武天皇陵がある。こちらもお参りする。橿原神宮と違って、こちらは宮内庁管理の陵墓。賽銭箱もなければ、参拝用の建物もない。しかしながら広い参道、整備された森は、他の天皇陵と比べても一回り大きい。
そもそも、いま神武天皇陵として比定されている畝傍山東北陵が本当に神武天皇陵であるかどうかには議論がある。とはいえ、規模的にはかなり大きい箸墓古墳や崇神陵、景行陵が神武天皇陵と伝えられていないことからみても、九州から進出してきた初代の権力者は畝傍山麓の比較的小規模な陵墓に眠っていることになるだろう。
こちらは参拝客も少なく、この日すれ違ったのは警備の人だけだった。ちなみに、二代綏靖天皇、三代安寧天皇、四代懿徳天皇までの陵は橿原神宮の周囲にある。周囲といってもぐるっと回ると相当の距離なので、代表してすぐ北にある綏靖陵をお参りする。
こちらはずいぶんと小規模であった。また、われわれ以外にお参りしている人はいなかった。ちなみに、2代綏靖天皇から9代開化天皇までは記紀の創作という意見もある。とはいえ古墳がある以上、被葬者が創作ということは考えにくい。本当にここで眠っている方は、どういった素性の権力者だっただろうか。
住宅街を抜けて畝傍御陵前駅に戻る途中に、古代史愛好家の間では有名な橿原考古学研究所博物館がある。ここには石器時代からの出土品の数々が展示されているが、目玉と言っていいのは藤ノ木古墳発掘調査状況の展示であった。
藤ノ木古墳は珍しく盗掘されておらず、二十年ほど前に行われた調査では、金の冠や装身具、馬具などが出土しており、しかも2体の遺骨が同じ棺に納められていた。「逆説の日本史」で井沢元彦氏は、穴穂部皇子(兄)と崇峻天皇(弟)ではないかと推定しているが、私もそれはありそうなことだと思う。何しろこの兄弟は時代こそ違え、蘇我氏に滅ぼされているのである。
[Dec 3, 2013]
畝傍山の麓に建つ橿原神宮。玉砂利がみごとに整えられている。この先に着ぐるみが登場したのがちょっと・・・。
橿原神宮から少し歩くと、神武天皇陵。こちらにはお賽銭箱は置かれていません。
反正天皇陵(百舌鳥耳原北陵) [Jan 5, 2015]
この間の出張では堺東に泊まったので、朝早くに近くの反正天皇(はんぜいてんのう)陵まで散歩してきた。
駅からは線路を渡って東側、市役所とは逆側になる。三国ヶ丘高校(進学校らしく、大阪の塾ではここに何人入れたかを宣伝している)までまっすぐ歩いて、北に進路を変えるとすぐに森が見える。古墳の周りは一部だけ遊歩道になっているが、大部分は柵だけである。というのは、古墳のすぐ隣が住宅になっているからだ。
すぐ近くの大仙古墳(仁徳天皇陵)では住宅地と古墳の間に道路があり、そこが遊歩道になっているのだが、こちらは住宅のすぐ裏が古墳である。したがって、庭先に宮内庁の柵ということになり、住む人にとってはたいへん景色がいい。ところが見る側にとっては、住宅の向こうが古墳というシチュエーションが多いので、なかなか見づらいものがある。
数少ない観賞スポットのひとつが拝所のある南側であり、こちらに例の宮内庁の看板がある。 下の写真のように、墳丘の高さはそれほど感じない。規模的にも大仙古墳やニサンザイ古墳に比べるとかなり小さめである。ということは、おそらくそれらの古墳よりも古い時代に作られたものと考えられる。
反正天皇は仁徳天皇の皇子の中で天皇となった三兄弟の真ん中である。前に日本史の記事で書いたように、仁徳天皇の一族は兄弟間ですさまじい殺し合いをしたあげくに、皇位を継ぐ者がいなくなってしまったと古事記に書かれている。 これが古事記下巻の主要なストーリーとなっており、それ以降の天皇(継体天皇から推古天皇まで)には説話が全く書かれていない。
古事記の記事が本当だとすると、仁徳天皇は庶民の家から炊事の煙が立たないのを見て、生活が楽ではないことを案じ租税を減免したと書かれている一方で、世界最大の大きさを誇る古墳を作るための大規模な土木工事をしたことになるので(自身の古墳は後継者が作ったとしても、先代の応神天皇陵も巨大である)、その性格はかなり首をひねるところである。
反正天皇も子孫が皇位を継いでいないのに、これだけの古墳に祀られていることになる。考えにくいことである。おそらくこの古墳は、宮内庁の指定とは異なり、大和朝廷とは別の王権が作ったものと思われる。
もう一つの観賞スポットは拝所とは逆の北側、方違(ほうちがい)神社の境内である。こちらからはお堀をはさんで、後円部を見ることができる。この方違神社、江戸時代の古地図をみるといまよりかなり大規模で、大仙古墳から海に向かったところにあって、古墳並みの広さがあったものらしい。名前の示すように方位除けの神様であり、かなり盛んだったようだ。
[Jan 5, 2015]
反正天皇陵古墳。南海線の堺東駅から歩いて10分ほど。住宅街の中に古墳がある。
堺市役所21階の展望ロビーは午後9時まで開いていて、大阪の夜景を楽しむことができる。
法起寺・法輪寺 [Feb 22, 2016]
賑やかな国道から、行先表示に従って進路を北にとる。あっという間に、周囲は野菜畑が広がる田園風景となる。行く手に見えるのは奈良市内との境になる松尾山。まもなく、畑の向こうに小さく三重塔が見えて来た。法起寺である。
思わず「ほっきじ」と読みそうになるが、ホームページには「ほうきじ」と書いてある。法隆寺も法輪寺も「ほう」だから統一的に読むとそうなるけれども、「ほっきじ」と覚えてしまっているせいかその方が読みやすい。
道案内にしたがって歩いていくと、法起寺を外周する田舎道を半周して山門に着いた。私の他に参拝客は誰もいない。入ってすぐに拝観料を払う受付がある。受付しているお坊さんが、「仏様は撮影禁止だけど、建物はいいですよ」とわざわざ声をかけてくれた。言われてみると、境内には何ヵ所か「撮影禁止」の看板があった。
さて、こちらの三重塔は飛鳥時代の建築。法隆寺五重塔、薬師寺東塔と並んで日本だけでなく世界的にみても最古の木造建築物である。もちろん国宝であり、世界遺産にも指定されている。ただ、そういう権威を抜きにしてみても、静かな境内に屹立している三重塔は美しい。
間近で見てみると、正面が開扉されており、中に石碑のようなものが見える。もともと仏教建築における塔とは仏舎利を納めるものであったから、そういう由来が刻まれているのかもしれない。三重塔の正面に聖天堂、奥にある講堂はそれぞれ後世のもの(といっても江戸時代)。というのは、この寺は室町時代には衰退してしまい、三重塔しか残っていなかったのだ。
近くでしばらく見た後、池の反対側にある東屋に座って、三重塔を含む境内の眺めを楽しむ。依然として誰も来ない。この景色をひとり占めできるとはなんとすばらしいことであろう。法起寺のもう一つの呼び物として、平安時代の製作である木造十一面観音像がある。こちらは別棟の収蔵庫に納められている。
ただ、少し残念だったのは、四十年前に来た時の記憶が全くよみがえってこなかったことであった。こればかりは、記憶が定かでないのが原因だから、自分以外の誰が悪い訳でもない。
畑の向こうに、国宝の法起寺三重塔が見えてきた。まだこのあたりは全くひと気がなかった。
法起寺境内を独り占め。しかしこのすぐ後、数百人の団体とすれ違う。
法起寺の次は、法輪寺に向かう。田舎道から車道に出て法輪寺への直線道路に向かうと、法輪寺方面から何百という大群が歩いてきた。この直線道路には車道とは別に歩道があるのだが、その連中が三重四重に列を作って向かってくるので、とても歩道を歩くことはできない。仕方がないから反対側の車道を歩く。時折、後方から車が来るのでちょっとこわいけれど他に方法がない。
20~30mおきに旗をもって歩いているので、ツアーか何かのようだ。多くはお年寄りで、時折若い人が混じっている。何にせよ、せっかくのお天気、のどかな田舎道を大声を出して騒ぎながら歩いて何が楽しいのだろうと思った。この行列は私が法輪寺に着くまで続いていて、庭までは入っていたけれど、拝観料を取る本堂までは入っていなかったのは幸いであった。
法輪寺にも三重塔はあるが、こちらは昭和19年に落雷のため焼失しており、その後に再建されたので国宝指定は解除されてしまった。しかし、講堂に置かれている飛鳥時代から平安時代に製作された多くの仏像は、重要文化財に指定されている。
この法輪寺の講堂に入った途端、四十年前の記憶がよみがえったのはうれしいことであった。その時は大雨で加えてたいへん肌寒い日だったので、雨風を防ぐことのできたこちらの講堂は、たいへんありがたく感じたものであった。
こちらでは、中央に置かれている七体の仏像(周囲にもっとたくさん置かれている)の前に絨毯が敷かれていて、仏様の間近から座ってお参りすることができる。こういうお寺さんはそれほど多くはない。国宝に指定されてしまうと博物館のようにガラスケースに納められたり、柵をはさんで遠くから拝ませていただくことになるので、あえて国宝にしない方がこちらにはありがたいくらいである。
最も大きい仏様は平安時代に製作された十一面観音立像。丈六といってリアルな仏様は一丈六尺(約4.8m)あることになっているが、ほぼその高さである。転倒防止のため、金属製の棒で建物に連結されている。また、光背の裏から十一面のうち一面が顔をのぞかせていて、そのお顔を拝ませていただくために仏様のうしろに回ることができるのも珍しい。
四十年前も、ここで座って30分以上お参りさせていただいた。今回はそれほど長くはなかったけれど、それでも仏様の前で、しみじみと来し方行く末を考えさせていただいたのでありました。
[Feb 22, 2016]
法輪寺講堂。40年前、ここで雨宿りしつつ十一面観音様にお参りしたのでした。
法隆寺・中宮寺 [Feb 29, 2016]
法輪寺からはまっすぐ南へ進んで、法隆寺・中宮寺へ向かう。
法輪寺のすぐ前、小高い丘のように見えるのが山背大兄王の陵墓である。なぜか宮内庁所管にはなっていない。山背大兄王は聖徳太子の跡取り息子で、上宮王家の主として天皇位をうかがう勢いにあったが、蘇我氏と対立して滅亡したとされる。その際、末の妹の馬屋古女王が暗躍したという話もある(w)。
法輪寺から中宮寺までの道は、ずっと住宅地が続く。四十年前もこうだったか思い出そうとするけれども、全く憶えていない。かすかに空き地が広がっていた記憶があるのと、現在は比較的新しい家が多いので近年になって開発されたのではないかと推測はできるけれども、なんとも心許ない。
中宮寺はもともと法隆寺に付属する尼寺で、敷地も法隆寺の隣にある。というよりも法隆寺自体が、金堂や五重塔のある西院伽藍と、夢殿・中宮寺のある東院伽藍で構成されているといってもいい。
さて、中宮寺に行こうとすると夢殿の回りをほぼ半周して遠回りしなければならない。夢殿は至近距離まで入るには拝観料が必要となるが、塀の外から眺めるだけならおカネはかからない。昔なら、平民は遠くから眺めて拝むだけだっただろうから、現代の平民である私も塀の外から手を合わせる。こう言ってはなんだが、前に入ったことがあるが特にどうということはなかった。
中宮寺は本堂を囲む一画だけで面積としてはかなり小さい。それでもこの小さな本堂の中に2つの国宝がある。一つは菩薩半跏思惟像、もう一つは天寿国繍帳である。天寿国繍帳の方はレプリカであった。
たまたま、内部の説明にちょうど間に合ったので聞かせていただく。ここで目から鱗だったのは、国宝の菩薩半跏思惟像をこれまで弥勒菩薩だと覚えていたのに、説明では如意輪観音菩薩と言っていたことである(パンフにもそう書いてある)。
帰ってから調べてみると、もともと寺では如意輪観音と伝えられていたものであるが、造形等から弥勒菩薩であろうと推定され、その名前が一般的に使われているものらしい。国宝の指定においては、あえてそのあたりを特定せず、単に「菩薩」と定めている。中宮寺には他に菩薩像はないから、それだけで十分なのであった。
考えてみれば、系列の法隆寺には百済観音があり、法起寺にも法輪寺にも本尊として十一面観音菩薩がいらっしゃるので、宗教的統一感を求めるのであれば如意輪観音とすべきところではあるが、如意輪観音像の多くは6本の手を持ち如意宝珠と数珠を備えていることや、観音信仰よりも弥勒信仰の方が時代が古いことを考えると、私は弥勒菩薩として作られたと思う。
菩薩半跏思惟像の説明で驚いたのは、あの漆黒に見える彩色は実は当初からの色ではなく、千年以上にわたって足元でお香を焚いてきたことにより、煙で燻されてあの色になったということである。お寺の本堂でお香を焚くのは中宮寺に限られたことではなく、なぜこの菩薩像だけが現在の色になったのか不思議ではあった。
もう一つの国宝である天寿国繍帳、本堂に置かれているのはレプリカで、現物は刺繍に用いられた絹糸が劣化してしまってもとの形にないそうである。聖徳太子妃の橘大郎女が祈願して作られたものであるが、聖徳太子の奥さんの中では最も身分が高い(推古天皇の孫)にもかかわらず一緒の墓には眠っていない(日出処の天子にも登場しましたね。推古天皇の娘という設定でしたが)。
中宮寺の後は法隆寺の東伽藍・西伽藍を結ぶ長い直線道路を歩く。さすが世界遺産であり、修学旅行の定番訪問地でもあることから、かなりの人出である。そして、境内で工事が行われていて動線が制限されている。それもあるし法隆寺だけは比較的最近に見ているので遠くからお参りさせていただくだけにとどめ、西伽藍のさらに西、藤ノ木古墳を目指した。
[Feb 29, 2016]
中宮寺本堂。私はこの時まで、半跏思惟像は弥勒菩薩だと思い込んでいました(中宮寺では、如意輪観音といっています)。
法隆寺前の直線道路で、夢殿方向を振り返る。さすがに世界遺産、このあたりまで来ると観光客や修学旅行生でいっぱいでした。
同じく直線道路から、金堂と五重塔。法隆寺は比較的最近に来たことがあるので、中には入らずに藤ノ木古墳へ。
藤ノ木古墳 [Mar 7, 2016]
法隆寺前の直線道路をそのまま直進すると、道は細くなるものの古い家並みが続いて雰囲気がいい。5分ほど歩いて家並みが途切れると、左前方に小高い丘のような藤ノ木古墳が見えてくる。
こちらの古墳、四十年前に来た頃はまだ発掘調査が行われていなかった。調査が始まったのは1985年、国宝に指定された金銅冠や金銅馬具が発見されたのは1988年だから、私が行ってから約10年後のことである。現在は公園として整備され、出土品は橿原考古学研究所に保管されている他、すぐ近くの斑鳩文化財センターで出土状況等の説明を行っている。
まず、古墳の周囲をひと回りする。直径で50mほど、高さで5mほどなので、それほど大規模なものではない。大仙古墳(仁徳天皇陵)は別としても、ニサンザイ古墳。箸墓古墳とも山ひとつを墓にしたような大きな規模である。それらと比べるとかなり小さい。
被葬者の身分が違うからというのがまず考えつく理由であるが、そうなると棺に入っていた金製の王冠や馬具は何なのかということになる。現代であれば金持ちイコール権力者とは限らないけれども、古代においては政治的に権力を持っていないと金持ちにはなれないのである。
この古墳は法隆寺の西伽藍からみると、夢殿のある東伽藍の距離とほぼ同じくらいしか離れていない。実際に、江戸時代にはここに法隆寺の施設(宝積寺大日堂)があり、法隆寺内の絵図にはこの古墳を「崇峻天皇御陵」と書いてある。一方、宮内庁指定による崇峻天皇陵は桜井市の倉梯岡(くらはしのおか)であり、これは古事記・日本書紀にもそう記載されている。
そして、この古墳で棺の中に葬られていたのは2人というのが発掘調査の結果明らかになっている。そして、これが男女であれば一人は妃だろうということになるのだが、身体的な特徴や副葬品からみるとどうやら二人とも男のようなのである。
このあたりの経緯に関し、井沢元彦氏の「逆説の日本史」では、崇峻天皇は蘇我氏によって暗殺された天皇であり、ひとまず倉梯岡に仮埋葬したものの、早く正式に埋葬しないと怨霊化することを恐れた周囲が、すでに崇仏戦争の際に殺されていた天皇の兄・穴穂部王子の陵墓に一緒に埋葬したという仮説を立てている。ありそうなことである。
もっとも注目すべき点としては、この古墳が珍しいことに盗掘の被害にあっておらず、そのため被葬当時の様子が今日まで奇跡的に残っていたことがある。これは間違いなく、法隆寺が千年以上の間、厳重に管理してきたことによるものであり、そういう指示をしたのが聖徳太子本人であったというのは、十分考えられることである。
石室に至る羨道(えんどう、せんどう)の部分は土が除かれていて、石室のガラス前に立つと中のライトが点くようになっている。ただしこの日はまぶしいくらいのお天気で、太陽の光が反射して中の様子は全く分からなかった。
法隆寺の周辺とは異なり、ほとんど人が来ない。5分か10分に1組来るくらいで、それも古代史ファンではないらしく一通り見ると車でまたどこかに行ってしまう。通りと反対側では物音も話し声もほとんど聞こえない。うれしいことにそこにもベンチがあるので、暖かい日差しの下、古墳を前にはるか古代に思いをはせる。
200~300m離れたところに斑鳩文化財センターがあり、ここでは古墳内部を再現したジオラマや出土品(国宝級はレプリカ)を展示している。斑鳩町立にしては相当おカネがかかっている施設で、学芸員の人の説明もある。それによると、「年に一度、国宝が里帰りするので、このくらいの博物館設備がないといけないんです」とのことだ。
説明によると、棺の中から出土した王冠や馬具は当時は金色に輝いていたそうで、まさに王者の装いであったという。また、その装飾も相当に手が込んでいて、はるか西アジアの影響さえみられるとのことであった。
わずか30年ほど前まで地中に眠っていたものの中に、また宮内庁所管でもない古墳の中からこれだけのものが出てきたということは、天皇陵とされる古墳を本格的に調査したらどれほどの収穫があるのだろうと思わざるを得なかった。もっとも、いまの学界は自分の仮説に都合のいい解釈しかしないだろうから、それなら土の中に置いておいた方がいいのかもしれない。
[Mar 7, 2016]
北東方向からみた藤ノ木古墳。法隆寺から歩いてくると、家並みの向こうからこの形が見えてきます。
斑鳩文化財センター。左の朱塗りの棺は藤ノ木古墳から出土した棺のレプリカ。町でこれだけの博物館施設を持っているところは珍しいということですが、国宝が里帰りするのに必要だとか。