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比叡山延暦寺 [Jun 28, 2016]

月はじめに、奥さんと京都の寺を歩いてきた。年齢とともにおっくうになって、今回はお手軽に観光バス。比叡山から大原をめぐるコースである。

京都に詳しい方はご存知のとおり、比叡山や大原は京都市街からちょっと離れていて、行くとなるとほぼ1日がかりになってしまう。それもあって、ずいぶんしばらく行かなかったのであるが、その両方を一度に回ってくれるのだから大変ありがたい。考えてみれば、比叡山に登るのは三十数年ぶり、大原にいたっては高校の修学旅行以来だから四十年ぶりということになる。

9時15分に京都駅烏丸口を出発する。遷都千二百年の再開発で、駅前もずいぶん変わってしまった。駅前も区画整理されて広くなったし、何より駅自体が高層化されて、ホテルやデパートが入った。高い建物といえば京都タワーしかなかった時代と比べると、同じ駅ではないようである。

前に比叡山に登った時は路線バスで、長々と山道を行ったように覚えている。しかし定期観光バスはいったん琵琶湖側に出て、近江神宮の脇から山を登っていく。近江神宮は橿原神宮、明治神宮とともに三大神宮と呼ばれているそうだ。橿原神宮は初代神武天皇、近江神宮は現天皇家の始祖である天智天皇、明治神宮は武家から政権奪還を果たした明治天皇をお祀りしている。

近江神宮から先、バスは九十九折りの山道を登って行く。だんだん標高が上がると、眼下に琵琶湖を望むことができる。相当大きく見えるのだが、これでも琵琶湖全体の何分の1かしか見えてないと説明がある。琵琶湖の湖岸も、昔に比べると高いビルが増えた。

稜線まで上がったところを右折、比叡山ドライブウェイに入る。比叡山は山全体が延暦寺であり、堂宇は東塔、西塔、横川(よかわ)の3地区に分かれている。比叡山延暦寺全体の本堂は根本中堂であるが、このお堂は東塔にある。今回の登り方をすると、一番最初に東塔になる。

前回来た時には、バス停の前は寂しかったような気がするのだが、三十数年経って来てみると、バス停の周りは大駐車場で多くの車が行き来し、塔頭へ向かう入り口には大きな食堂、売店が並び、こんな雰囲気だったかなあと思うくらいであった。

バス停・駐車場から山内の坂を登って行く。道の左右には、伝教大師最澄の生涯と、延暦寺で修業した高僧の肖像画が描かれた看板が続く。これは昔はなかったはず。よく言われるように、空海は偉大すぎて自らが信仰対象になったくらいだが(真言宗では「南無大師遍照金剛」と唱える。遍照金剛とは空海のことである)、最澄は多くの弟子を輩出したところに特色がある。

坂を登りきって左に曲がり、今度は坂を下りると根本中堂である。平らに整地された上に、巨大なお堂が建てられている。この景色は昔見たのと変わらない。中は撮影禁止。この根本中堂には、最澄の時代から伝えられている「不滅の法灯」があり、二十四時間三百六十五日、油を注ぎ足し注ぎ足しして千三百年灯され続けているとされる。

観光バスなので、個人旅行と違ってご住職の法話があるのはありがたい。二十数人のバスツアー客が車座になって法話をお伺いする。比叡山の歴史や、本尊薬師如来のお話など。「薬指」というのは薬師如来が薬指を前にしていることからそう呼ばれている、なんていう話もあった。

勉強になったのは不滅の法灯のことで、織田信長の比叡山焼き討ちの際にかつてあった不滅の法灯も焼失していて、いまの法灯は江戸時代になって再建された時に、焼き討ちの前に分灯してあった山形の立石寺(山寺)から戻してもらったということである。

池上遼一の「信長」では、僧兵の一人が見えない小屋に隠してあったことになっているのだが、考えてみれば油を足さなければ消えてしまうので、隠しておくだけでは「不滅」にはならないのであった。

[Jun 28, 2016]

延暦寺東塔・根本中堂。「不滅の法灯」は分灯してあった山形・立石寺から戻してもらったそうです。池上遼一「信長」と話が違う!


大原三千院 [Jun 30, 2016]

比叡山延暦寺の後、ツアーバスはそのまま比叡山ドライブウェイを北上する。弁慶が修業したことが売り物となっている西塔、源氏物語にも登場する横川(よかわ)を抜けて山を下りて行く。向かう先は大原。延暦寺東塔からは小一時間の行程である。

大原といえば、中高年には「京都 大原 三千院」の歌が自動的に出て来てしまうのはやむを得ない。オリジナルはデュークエイセスだったと思うのだが、あまりにも有名で数多くの歌手がカバーしているので、自信はない。作詞永六輔、作曲いずみたく、いずれも昭和の高度成長期のヒットメーカーである。

ただ、バスガイドさんの説明によると、三千院が大原に下りてきたのは、あのあたりの寺院の中では最も新しいそうである。源平の戦いで生き残った建礼門院の寂光院とか、法然上人大原問答の勝林院の方がずっと古く、それらのお寺さんは平安末ないし鎌倉時代から。三千院は江戸時代末から明治時代。ただし皇族の門跡寺院であったので、次第に規模も大きく整備されて今日に至るそうである。

比叡山のところでも書いたように、大原に来るのは高校の修学旅行以来四十数年振りのことである。バスは駐車場で停まり、そこから川沿いの登り坂を十数分歩いて行く。道沿いには観光客相手の店がずっと続く。記憶をたどるが、こういう道を通った覚えは全くない。登り坂をかなり歩いたような覚えはあるのだが、もっと道幅が広く売店など並んでいなかったと思う。

横を流れている川は「呂川」といい、近くを流れる「律川」とともに、天台声明(しょうみょう)の「呂律」に由来している。声明とはお経を独特のリズムで節をつけて唱えるもので、これを突拍子もない音程でやると聞くに堪えないことから、「呂律(ろれつ)が回らない」という慣用句が生まれた。

土産物商店街を抜けて四つ角になったところに、「芹生」(せりゅう、と読む)という割烹があって、そこでお昼を食べる。三段の重箱に詰められた「大原弁当」で、賦や山菜、豆などが中心であるが、卵焼きや鮭など生臭ものも入っている。この時ツアー客が揃ったのだが、みごとに全員が国内旅行客で、みなさん非常に静かにお昼を楽しまれていました。

食事の後は2時間の自由時間。それぞれ目当てのお寺さんに向かうが、ほとんどのお客さんが三千院へと向かう。この日は平日(金曜日)ということもあって、全体に観光客が少なく道もお寺さんも静かだったことは何よりのことであった。

三千院の入り口には、「梶井門跡 三千院」と書かれている。もともと梶井門跡というのは天台宗の中で皇族が住職を務める重要な寺院であり、三千院と呼ばれるようになったのは明治になってからだそうである。だから、三千院と呼ばれる前からお堂や仏像はこの地にあって、国宝に指定されている古いものも含まれている。

お寺の内部は建物も庭園も手入れが行き届いていて、山水画のようである。国宝になっているのは、本堂にあたる往生極楽院に置かれている本尊・阿弥陀三尊像である。奈良の飛鳥あたりにある仏像と比べるとお顔が穏やかで形式も整っている。これは、奈良の仏像と比べて300~400年違うことが大きな理由である。脇侍の観音・勢至の両菩薩が、正座(大和座り)をしているのは非常に珍しい。

庭園の片隅に、「わらべ地蔵」と呼ばれる寄り添った2体の石仏がある。周囲を苔が囲んでいて、お地蔵さま自身にも少し苔が生えているようである。地蔵菩薩も、さきほどの観音菩薩、勢至菩薩も本来は仏教の重要な仏様であり、本来、その様式は厳しく定められている。

にもかかわらずこうした仏様が残っている背景には、おそらく、平安中期以降の国風文化の進展と神仏習合、それと皇族が住職を務めていたことも関係あるのだろう。奈良の仏様が基本的に原理原則どおりで、朝鮮半島に残っている仏像とも共通点があることと比べると、対照的なように思える。

残念だったのは、四十数年前にもここに来ているはずなのに、全く記憶がないということであった。それだけ時間が流れたということなのか、私自身が耄碌してしまったということなのか、いずれにしてもちょっと悲しく思ってしまったのでした。

[Jun 30, 2016]

京都大原三千院。四十数年ぶりのはずだが、全く覚えてないのが悲しい。高校の修学旅行じゃ仕方がないかも。


庭園にあるわらべ地蔵。皇族の門跡寺院だけあって、お庭の手入れは行き届いていました。


大原勝林院 [Jul 4, 2016]

大原散策には2時間の自由時間があり、三千院ともう一つくらいのお寺さんを回る余裕があった。知名度では寂光院が抜群だが、残念ながら三千院から歩くと1時間近くかかる離れた距離にあるため、バスガイドさんから「寂光院に行くにはタクシーをうまく使わないと無理です」と言われている。

ということで、三千院近くにある勝林院に行くことにした。この日は観光客が少ない上、三千院を見た後、ツアーの人達は三々五々それぞれ興味のあるお寺さんに向かったので、勝林院に向かったのはわれわれ夫婦くらい。お参りしている間も2~3組くらいしか入って来なくて、たいへん静かだったのは何よりのことでした。

さて、この勝林院、三千院とは逆に大原でも最も古くからあるお寺さんである。何しろ、鎌倉仏教のひとつ浄土宗の開祖である法然上人が、専修念仏について説いた大原問答が行われた場所なのである。この大原問答が行われたのは1186年というから、いまから800年以上も前のことになる。

「南無阿弥陀仏」と念仏を唱えれば、阿弥陀如来の本願により凡夫であっても極楽往生できるというのは平安時代から盛んになった考え方で、藤原頼通(道長の息子)が建てた宇治平等院はこの思想に基づいている。平等院の本尊も阿弥陀如来で、当時はご本尊の指から糸を長く繋いで、臨終の床にある貴人の手に握らせたそうだ。

この勝林院のご本尊も阿弥陀如来で、当時の風習のように糸を長く繋いで、本堂入口のあたりまで伸ばしている。そして、阿弥陀様とのご縁を結ぶため糸を握るように説明書きがある。このご本尊は江戸時代に一度焼けてしまっていて、いまから300年ほど前に再建されたものである。そういう経緯もあって、国宝・重文級の仏様よりも身近な扱いとなっているのかもしれない。

さて、このお寺さんで注目しなければならないのは、本堂の欄間や、柱の上部に施されている彫刻である。江戸時代にご本尊が燃えた火事の際、やはり本堂も全焼してしまっていて、再建されたのはご本尊より40年ほど後になった。その彫刻は一木を彫ったものであり、題材には鶴や亀、象などが採られている。

時代的には日光東照宮よりやや後になるが、それでも平安、鎌倉時代と比べるとずっと近い。だから、奈良、京都洛中のお寺さんよりも、日光東照宮によく似た雰囲気がある。

本堂の中央にはご本尊の阿弥陀如来が座り、参拝客はすぐ間近まで寄ってお参りすることができる。ご本尊の横にはボタンがあり、押すと天台声明のテープが流れる仕組みになっていたらしいのだが、残念ながら押しても動かず、故障中のようであった。

しばらく本堂をお参りさせていただいた後は、本堂出て左手の小高くなったところにある休憩所から庭園を拝見させていただく。もう夏至が近いので真上から強い日差しが照りつけるけれども、汗が噴き出すというほどではない。極楽浄土を模したといわれるお庭を見ながら、京都も奈良も、お寺さんには心を落ち着けるものがあるなあとしみじみ感じる。

勝林院をお参りした後、観光バスに戻る途中、大原の郷を一望する展望台に立ち寄る。大原といえば、ターシャ・チューダー亡き後のガーデナーのカリスマ、ベネシア・スタンレー・スミスさんの住むところである。山の形や風景が、NHKプレミアムでよく見る風景と同じであった。

[Jul 4, 2016]

勝林院本堂。法然の大原問答が行われた場所であり、本堂の彫刻はすばらしい。


観光バスに戻る途中の、大原の里を一望できる展望台から。紫蘇の畑と水田、後方の山が大原独特。


後鳥羽天皇・順徳天皇 大原陵 [Jul 6, 2016]

大原三千院の隣には、後鳥羽天皇・順徳天皇の陵墓がある。天皇陵ファンとしては、素通りする訳にはいかない。

ご存じのとおり、両天皇は承久の乱で鎌倉幕府に敗れて島流しに遭った。後鳥羽天皇(上皇)は隠岐島に、順徳天皇(上皇)は佐渡島にそれぞれ送られ、ときの天皇は「廃帝」として明治時代まで諡号(おくり名)がなかった。明治になって、諡号がないのはお気の毒ということになり、仲恭天皇となった。それまで600年以上、廃帝(九条廃帝)と呼ばれていたのである。

(ちなみに、同様に明治まで諡号がなかったのは弘文天皇と淳仁天皇。弘文天皇は、壬申の乱のどさくさで即位していないことにされ、淳仁天皇は、ときの絶対権力者称徳天皇の命令により、諡号を贈られずに廃帝(淡路廃帝)と呼ばれた。ともに、明治政府によっておくり名された。)

後鳥羽天皇も順徳天皇も配流先で亡くなっているので、京都に陵墓があるのは妙なように思われるが、もともと公家の人々は両天皇を京都に戻すよう運動していて、鎌倉幕府の強い反対によりできなかったという背景がある。両天皇が亡くなられて現地で火葬された後に、遺骨の一部を持ち帰って法華堂に安置し供養したのがこの陵墓のはじまりである。

だから、天皇陵とされる鳥居の向こうにある丘や十三重塔よりも、 隣に建てられている法華堂(大原法華堂)の方が本来の意味での陵墓にあたる。この法華堂も宮内庁の管理下にあり、参道からの道も天皇陵方面らの道も厳重に閉じられていて、一般人は立ち入ることができない。

後鳥羽天皇と順徳天皇は親子であり、承久の乱の後、皇位からは遠ざけられたのであるが、その後に当時の皇統(後鳥羽天皇の兄弟の系統)が断絶し、皇位は再び後鳥羽天皇の系統に戻ってきた。

その際、鎌倉幕府は順徳天皇系は認めず、幕府に協調的であった土御門天皇(順徳天皇の兄)の系列に後を継がせた。だから、後鳥羽天皇は今上天皇の直系のご先祖にあたるが、順徳天皇はそうではない。

また、後鳥羽天皇は和歌をはじめ芸術関係に造詣が深く、小倉百人一首にも讃岐院の名で一首残っている。現代に残る皇室の家紋である菊のご紋も、後鳥羽天皇が作ったものと言われている。百人一首といえば順徳天皇も一首残していて、それが小倉百人一首のラスト、百番目の歌「ももしきや・・・なほあまりあるむかしなりけり」なのであった。

そんな背景を思いながらお参りをさせていただく。鎌倉時代は比較的新しいとはいっても、いまから800年も前のことである。そして、天皇陵がいまの形で整備されるようになったのは明治以降だから200年足らず。その前の600年以上は、隣の大原法華堂でひっそりと供養されていたということになる。それを思うと、感慨深いものがある。

[Jul 6, 2016]

おなじみ宮内庁の天皇陵立て札。


後鳥羽院・順徳院とも鎌倉幕府と戦って敗れ、島流しに遭った。後方にある山は時代が違うので、陵墓ではあっても古墳という訳ではない。


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