年寄りは若い人に昔のことを物語るというのが、古来からの人間社会の伝統でした。一つでも参考になれば幸いです。
エラリー・クイーン   模型飛行機   冠婚葬祭互助会   ボーイスカウト   豆腐屋
ゴミを焼く   越中富山の薬売り   赤チン   肝油・疳の虫   キャバレー

読まれなくなったエラリー・クイーン

50年前にはよく読まれていて、今日ではほとんど読まれなったのは創元推理文庫とエラリー・クイーンである。

ヴァン・ダインもクロフツもディクスン・カーも見なくなったが、推理小説の代表格と言えばエラリー・クイーンであった。村上春樹の「羊をめぐる冒険」にも、エラリー・クイーンの小説の犯人は全部知っているというセリフがあった。村上春樹を読む人でも、エラリー・クイーンを1冊でも読んだ人は多くないだろう。

エラリー・クイーンを知らない人でも、薬師丸ひろ子の「Wの悲劇」を知っている人は多いかもしれない(あの曲を作ったのはユーミン)。「Wの悲劇」は映画の中に出てくる架空の劇だったが、もとになっているのはエラリー・クイーンの「Xの悲劇」「Yの悲劇」シリーズである。

当時、小学校高学年から中学生の少年たちは、推理小説かSF小説に熱中するものであった。最初は学校の図書館から借りて、次第に小遣いを貯めて本屋に行って買った。少年マガジンが50円か60円の頃、200円くらいで買えたと記憶している。

彼の小説は技術(殺害方法など)が古い上に、現代の観点からするとポリティカル・コレクトネスに引っかかるところが多い。古くてもシャーロック・ホームズはいまだに読まれているから、「中途半端に古い」ということなのだろう。

そして、同じ本格推理小説と呼ばれる分野においても、今日ではアガサ・クリスティより読まれていない。彼女の場合、読者に対するトリックが多く個人的に好きではないが、たとえ犯人対探偵のトリックであっても、小説の上では作者対読者のトリックだと気づいただけアガサ・クリスティの勝ちかもしれない。

今の時代でクイーンと言えば「ボヘミアン・ラプソディ」になってしまうが、半世紀前にはクイーンは結成されていないので、クイーン=エラリー・クイーンのことであった。

リアルタイムで聴いていて、クイーンがレッド・ツェッペリンやTレックス、エマーソン・レイク&パーマーより後世に名前を残すことになるとは思わなかった。今の人は、ELPといってもELTの間違いじゃないかと思いそうだが、それはさておき。

同様に、半世紀たってエラリー・クイーンよりアガサ・クリスティ、レイモンド・チャンドラーの方が断然といっていいほど知名度が上であるのは、当時からすると予想しなかったことである。

エラリー・クイーンが多くの作品を発表したのは1930年代、80~90年前だから時代に合わない面は確かにある。しかし同じ頃には、チャンドラーが多くの中編小説を書きまくっていた。当時の長編小説は1939年の「Big Sleep」だけだが(「Long Good Bye」は戦後の作品)、いまなお多くの読者がいる。

私がエラリー・クイーンを読みまくった1960年代は、作品が発表されて30~40年後。それがさらに50年経ってみると、よほどのマニアしか読まなくなってしまった。

日本の推理小説でも、江戸川乱歩こそコナン・ドイル的に少年向け需要があるけれども、横溝正史もあまり読まれなくなったし、松本清張を読む人はさらに少ない。時代とともに、読まれる小説が変わっていくことは避けられないことだ。

人生の残り時間が少なくなった年寄りが、昔をなつかしんで思い出すだけである。

今だとクイーンといえばボヘミアン・ラプソディですが、半世紀前にはエラリー・クイーンのことでした。


[Dec 23, 2020]


模型飛行機

子供の頃のことを思い返すと、いまよりずっと多かったのは駄菓子屋である。たいていおばさんが一人でやっていた。ずいぶん歳に見えたが、いまの私より若かったのかもしれない。

もう一つ、当時多かったのは模型屋だった。模型屋という名前が正しいかどうかは分からないが、子供たちはそう呼んでいた。子供たちといっても、行くのはもっぱら男の子である。

模型屋に売っていたのは、プラモデルやおもちゃなのだが、結構なスペースが模型飛行機に割かれていた。プロペラと車輪だけがプラスチックで、あとは木と紙である。100円くらいからあったように記憶している。

現代だとスマホやコンピュータが子供たちにとっての先端技術なのだが、昔そんなものはない。プラスチックの部品を組み合わせて作るプラモデルや、木と紙を組み立てて作る模型飛行機が先端技術であり、ものづくりであったのである。

当時は空き地がどこにでもあったので、模型飛行機を組み立てると空き地に行って飛ばした。動力はゴムである。プロペラを手で回すとゴムがねじれて、それを極限までやると十秒くらいプロペラが回る。地面から走らせたり最初から空中に飛ばしたりした。

空を飛ぶというのは当時の子供たちにとって特別のことだった。まだアポロ計画に先立つジェミニ計画の時代だったが、宇宙遊泳の映像を飽きずに見ていたものである。日本でも種子島からロケットを飛ばしていたが、ホリエモン級の成果しかあげられなかった。

いま思うと、プロペラやゴムで得られる動力などたかが知れていて、そんなものは除いて軽量化を図り、グライダーとして飛ばすのと大して変わらないような気もするのだが、わずかとはいえ自前の動力があるという建前が大事なのであった。

模型屋にはもう少し値が張るものとして、鉱石ラジオなど初歩的な機械も売られていた。値段的にプラモや模型飛行機までしか手が届かなかったけれど、もう少しおカネができればいつか買いたいものだと思っていた。

こちらは、おもちゃとしてだけでなく、中学になると技術・家庭の授業で組み立てさせられた。そのくらいの歳になると、ちゃんと受信できる製品があるのにわざわざ手作業で作らなくてもいいのにと思ってしまうのは悲しかった。

技術の授業があるのは男だけで、その間女子は家庭科で料理や裁縫を勉強していた。男女均等の世の中になったので、いまの中学校だと男子でも料理を勉強できるらしい。今から考えると、その方が役に立ったといえなくもない。

木と紙と、わずかなプラスチックとゴムで作る模型飛行機。昭和30年代の子供たちにとっては、たいそうハイテクなのでした。


[Jan 19, 2021]


平安閣・玉姫殿・冠婚葬祭互助会

現代ではターミナル駅の周辺に必ずあるのは「セレモ」だが、半世紀前には平安閣・玉姫殿だった。それも、セレモは目立つ場所から一歩奥まった場所にあるのに対し、平安閣や玉姫殿は電車から見える位置にあった。

年齢ピラミッドの示すところ、50年前には結婚適齢期が人口の最も多い部分を構成していたし、現代では死亡者がそうなっているのだから当り前と言えば当り前だが、実際に目の前でその変化を見ると、まさに今昔の感がある。

年齢を重ねたいまになって思うと、別に結婚を披露するのに大金を掛けることはなく、身内でおいしい料理を食べればいいことである。しかし当時は、昔からの友達とか会社関係とかたくさん招待客を集めるのが当然という雰囲気だった。

同じことは葬式にも言えて、できるだけ多くの参列者を集めるのが供養だと思い込んでいた。だから、会社関係でも友達関係でも不幸があれば香典を持って参列するものだと思っていた。

そこに付け込んだのが、葬祭業者である。みなさんに失礼のないようちゃんとした式を挙げないといけませんよと数百万円の見積りを出し、足らなければ分割払いもありますよ、当方でやっていただけるならお安くしておきますよとセールスしたのである。

専門用語で「前払い割賦(かっぷ)方式」という。結婚式なり葬式なりが挙式されるのに備えて、何年も前から何千円かずつ積み立てるのである。やっていることは、銀行や信用金庫の積立預金と変わらない。

いまでもあるデパートのお買い物券積立や、旅行会社の旅行積立はこの一種である。問題は、銀行と違って信用度に問題がある会社が販売するので、消費者が安心しておカネを払えないという点にあった。

役所に知恵者がいて、互助会が集めた資金の一部を業界団体で強制的にプールしておき、何かあった際に払い戻しの原資にする方法を思いついた。

その業界団体は役所からの天下りが管理するので、ご安心くださいということである。互助会は遠慮なくセールスでき、役所は天下り先を確保できて、八方丸く治まるはずであった。

ところがというか、この方式には盲点があった。将来にわたって市場規模が拡大しないと成り立たないのである。前払い割賦で集めた資金は先々のサービスに充当するものであるが、売り上げが伸びなければ当座の運転資金に四苦八苦することになる。

その問題は、早くも結婚式において現実化した。第二次オイルショック以降出生数は減り続け、晩婚化で結婚自体が減った。加えて、かつてのように大勢の招待客を集めてハデ婚をする時代ではなくなった。結婚式場の多くも、リストラを余儀なくされたのである。

いまのところ葬儀については件数が減るという事態にはなっていないが、家族葬や直葬など、小規模化の流れはとどめようがない。今回のコロナによる3密回避で、その流れは加速しつつある。

規模が小さくなり費用が少なくて済めば、前もって積み立てる必要はなくなる。買い物券や旅行券なら余計にあっても困らないが、葬式が余計にできても仕方ないのである。

おそらく近い将来、葬儀会社もリストラが避けられないだろう。参列者が多く集まるなら公共の斎場を借りるし、家族葬なら小規模な会館でも自宅でも構わないからである。

結婚式や葬式に普通の家族が1年生活できる以上のカネを払うこと自体が本来バカバカしいのであって、それぞれが負担できる費用の範囲内でお祝いなりお悔みなりすればいいだけのことだ。個人的には、冠婚葬祭業界が縮小するのはやむを得ないと考えている。

昭和の時代には、ゴンドラやスモークなど、結婚式がハデハデでした。(出典: zexy)


[Feb 26, 2021]


ボーイスカウト

ユースホステルとちょっと似たところがあるような気がするが、半世紀前にボーイスカウトといえば、新しい時代の少年活動と思われていた。

ボーイスカウトの少女版としてガールスカウトがあり、年少版としてカブスカウトがあった。現在はさらに年少組としてビーバースカウトというものもあるようだ。また、ガールスカウトはガールスカウトで存在するが、男女平等の見地からボーイスカウトに少女が参加することは認められている。

私が子供の頃、小学校の時間割に夏時間と冬時間があったくらいで、占領時代の影響が残っていた。神社の境内で相撲大会があるなど、古くからある行事が少しは復活されたものの、やる方にとっては古臭いという印象であった。

そんな中、昔ながらの村落共同体的なものではなく、それぞれが目的意識をもって自発的に集まるボーイスカウト活動は、戦後的というか、新しい時代の少年活動としてかっこいいものに見えたのである。

ボーイスカウトとよく似た性格の戦後型少年少女活動として、YMCAも当時勢力を伸ばしていた。こちらはキリスト教だから対象が限られるような気がするが、あまりそういうことは気にされていなかったように記憶している。

よく考えると、ボーイスカウトは軍隊がモデルだから、彼我の違いがあるにしても村落共同体とたいして変わらない。戦勝国と敗戦国の差は歴然としているので、欧米の軍隊をモデルにするのも致し方ないところであった。

そして、下の写真を見て分かるように、お揃いのユニフォームはモデルが軍隊であることを如実に示しているようである。よく考えると、お祭りで着るお揃いのはっぴと大して違わないのだけれど。

ただ、私のすぐ後の世代から戦争は戦争でも受験戦争が激化して、少年少女活動をしている暇があったら、塾や家庭教師に付いて勉強しろという風潮になった。運動が得意な連中は体育会系の部活動に集中し、やはり少年少女活動という訳にはいかなくなった。

戦後半世紀以上経って明らかになったけれど、結局のところ少年少女活動はわが国に根付くことはなかった。思うに、ボーイスカウトもYMCAと同様、キリスト教の信仰が必須になるのではないだろうか。

そして、どうやらわが国の少年少女は、見た目や形式の違いこそあれ村落共同体的なものから逃れられないようである。スポーツ系にしても、Jリーグの下部組織などはどうか分からないが、ほとんど体育会系の上位下達組織である。

これを民族的な遺伝子とみるのか、個人が確立していない後進性とみるのかはともかく、私の生きている間にこうした傾向が改められることはないだろう。

ボーイスカウト活動はいまでも行われておりますが、昭和30年代には新しい時代の少年活動と思われていたものでした。(写真:c(公財)ボーイスカウト日本連盟)


[Apr 3, 2021]


豆腐屋

半世紀前にはスーパーマーケットはなく、米屋・酒屋・肉屋・八百屋などの個人商店が食料品を売っていた。公団など大規模な集合住宅があれば商店街が整備されたけれど、住宅兼の店舗としている店も多かった。

それらとは別に、決まった時間に回ってくるお店もあった。多かったのはお豆腐屋さんである。豆腐や関連製品を作っているのだから店舗はあるのだが、それ以外に夕方、自転車に乗ってチャルメラを鳴らしながら来るのであった。

チャルメラというのは行商で客寄せのために吹いていた楽器で、いまでもラーメンの商品名になっているように屋台のラーメン屋さんが吹いていた。住宅街の場合はラーメンの屋台など来ないので、チャルメラといえばお豆腐屋さんであった。

お豆腐屋さんといえば思い出すのが、がんもどきである。子供の頃がんもどきが大好きで、お豆腐屋さんが来ると、お豆腐・油揚げの他に、「あと、がんもどき一丁」とお願いしたものである。

「へい、がんも一丁ね」と持ってきたボールに入れてくれるのだが、がんもどきを略して「がんも」なのだから、「がんもどき=がんも+時」だと思っていた。

もちろん正解は、「雁+もどき」で、細かく切った野菜やひじきを砕いた豆腐に混ぜて揚げた一種の油揚げで、鳥の肉に似せてあるので雁もどきなのである。

昔は雁を食べたものかどうか、そんなに簡単に獲れるものではないように思うのだが、ポピュラーな食材だったのだろうか。ともかくも、がんもどきは小さい頃から好物であった。

お豆腐屋さんに話を戻すと、買いに行く人はボールを持って行き、買ったお豆腐を入れてもらうのが常であった。いまのように、少量の水が入ったパックで売られていた訳ではない。

同様に、お肉屋さんは笹の模様の付いた紙に包んで(初めはリアル笹の葉だったに違いない)、八百屋さんは新聞紙に包んで品物を売っていた。それらを買い物かごに入れて、家と店とを往復したのである。

去年の秋から糖質制限をしているので、豆腐の消費量は格段に多くなった。糖質0麺(おからでできている)も含めると、1日1丁くらい食べているかもしれない。この歳になってお豆腐をこんなに食べるようになるとは、予想もしていなかったことである。

がんもどき c)素材力だし@がんもどきの含め煮レシピ


[Apr 15,2021]


ゴミを焼く

年寄りが増えてくると、ゴミ屋敷も増えるらしい。ものの本によると、ゴミをため込む発端の一つが分別ができないからであるという。そういえば、N国党の市長候補者も、公約で「めんどくさいゴミの分別を廃止します」とのたまわっていた。

半世紀前は、分別どころかゴミの収集さえいまのように厳密に行われていなかった。生ゴミは穴を掘って埋めていたし、紙クズは家で燃やしていた。

当時は、成年人口の半分以上が農業従事者であった。土地はいくらでもあったし、環境問題もうるさくなかった。家で燃えるゴミを燃やさないように推奨されていたのは、ダイオキシンのせいではなく火事を防ぐためであった。

「火事と喧嘩は江戸の華」ではないが、昔は火事が多かった。現在では、大きな火事だとニュースになるが、その頃火事をニュースにしていたらきりがなかった。

消防庁のデータによると、全国の火災発生件数のピークは昭和48年(1973)の7万3千件、焼損面積は昭和44年の270万平米であった。平成元年度にはそれぞれ2万1千件、110万平米だから、3分の1くらいに減っている計算になる。

もちろん建材が新しく燃えにくくなっていることもあるが、普通の住宅地でたき火をするという風景を全く見なくなったことが大きな要因ではないかと思う。昔は落ち葉は集めて家の前で燃やしていたが、いまでは指定ゴミ袋に入れて生ゴミで出さなければならない。

今でも覚えているのは、学校の裏庭で、不要となったさまざまなものを大きなたき火をして燃やしたことである。もうすでに校舎は鉄筋コンクリートなのに、そんなことをしていたのである。

すべての学校には小さな焼却炉があって、毎日出るゴミは用務員さんがここで燃やしていた。だが、学校では大量の紙ゴミが出る。おそらく学期末にそれらのゴミをまとめて燃やしていたのだと思う。

いまではそんなことは許されないけれど、ゴミ屋敷のゴミは火をつけて燃やしてしまえば灰になって分量が減る。いまだと、清掃局から職員がきて分別して回収するから大事になるが、燃やしてしまえばすぐに問題解決である。

50年前であれば、それで問題なかったのである。もちろん、年寄りの絶対人口も少ないし、人口に占める割合も少なかった。寝たきりの老人はいたけれども、ボケたり徘徊する老人はあまり見なかった。

ときどき、自分が老人の年齢になっていることを思い出してはっとする。他人のことを言う前に、自分がボケたり寝たきりにならないよう気をつけなければならない。

いまでは焚き火はキャンプ場で焚火台とかシートの上でするものになってしまったが、昔は家々の庭に穴を掘ってゴミを焼いてました。


[May 6, 2021]


越中富山の薬売り

この間、久しぶりに佐倉の歴博(国立歴史民俗博物館)に行ってみたら、展示の中に越中富山の配置薬があった。昔は普通にあったけれども現在はほとんど見ないと思っていたが、資料によると現在でも、大阪・奈良ではかなり多くの数が置かれているらしい。

銭湯の桶で有名な「ケロリン」は配置薬の名前で、効能としてはバファリンとかロキソニンに相当する鎮痛解熱役である。だから配置薬の会社の名前はケロリンではなく内外薬品なのだが、配置薬を置いていない人でも「ケロリン」は知っているのではないかと思う。

現在では内外薬品は持ち株会社になってしまい、配置薬メーカーとしての名前は富山めぐみ製薬である。何だか保険会社みたいなネーミングである。

鎮痛・解熱薬としてのケロリンの主成分は、アスピリンと生薬である。バファリンの主成分もアスピリンなので、配置薬だから古くて効き目が弱い訳ではない。アスピリンという名前はドイツのバイエル社の登録商標で、薬品名はアセチルサリチル酸、19世紀末に開発された。

なぜアスピリンが普通名詞のように使われているかというと、それだけ有名な薬ということもあるが(ホッチキスとかテトラポットも、もともと商標である)、第一次大戦でドイツが負けた際に、会社も商標も取り上げられてしまったことが大きい。ともあれ、100年以上の時を超えて使われ続けている薬品である。

ケロリンのホームページによると、東京オリンピックの前の年(1963年)、ちょうど全国の銭湯で手桶が木からプラスチックに代わる時期、ケロリンの名前の入ったプラスチック桶を置いてもらえれば知名度が上がるだろうということで始めたということである。そんなに古い話ではない。

世はまさに高度成長期、一般庶民はお風呂屋さんに行くよりも自宅で風呂に入る時代になり、配置薬よりも薬屋さんで薬を買うことが多くなりつつあったが、ケロリンの名前だけは全国に知りわたることになった。

私もケロリンの名前は知っていたが、配置薬のメーカーということは知らなくて、社会人になって都心の一等地(銀座だったか新橋だったか)に営業所があったのでこんなに大きい会社だったんだと思った記憶がある。

私が小さい頃も、家には配置薬のセールスの人が来ていて、配置薬の箱が置いてあった。何ヶ月か置きにその人はやって来て、中身を確認して使用して減った薬を補充する。使った薬の代金を後から払うというシステムであった。

そうしたシステムか成立する要因として、俗に「薬九層倍」と言われる原価率の低さがあげられる。薬の値段は原価の9倍あるという意味で、それだけ原価率が低ければ、在庫負担の費用や貸倒れ損失を見込んでも儲けは出そうだ。

いまの時代であれば、多くの薬はそんなに長く保存しておけないし、できれば冷蔵庫で保管することが推奨されるから(ロキソニンなど)、いまの薬と違って生薬・漢方薬系のものが主体であったと推測される。

だが、私が社会人になった頃に漢方薬が見直された時期があって、その頃葛根湯などが保険適用されるようになった。ツムラも売上を伸ばして、津村順天堂から名前を変えたのである。

ただ、薬品であれば本来薬剤師のいるお店でなければ売れないことになっており、配置薬は例外的な規定で認められている。在庫を各家庭に置いて販売員が定期的に個別訪問するというやり方もいまの時代には難しいので、徐々に通販などに業種転換せざるを得ないだろう。

「越中富山の薬売り」の別名で知られるように、配置薬の基礎は江戸時代、富山藩(加賀前田藩の分家)の商人によって築かれた。以来約四百年。江戸時代から続いた配置薬の伝統も、近い将来なくなるのかもしれない。

昔なつかしいケロリン桶が、amazonで出品されていました。新品というから、いまだに製造されているようです。値段はそこそこですが、Free Shippingだそうです。


[Jun 2, 2021]


赤チン

前回、越中富山の配置薬のことを書いていて、そういえば50年前にはあったけれどいまはないものに赤チンがあるな、と思い出した。

赤チンとはマーキュロクロム液のことで、半世紀前には傷の殺菌剤として普通に使用されていた。マーキュロクロムもアスピリン同様に商標で、薬品名はメルブロミン ( 2,7-ジブロモ-4-ヒドロキシ水銀フルオレセイン二ナトリウム塩)である。

薬品名に含まれるように水銀化合物であり、公害・環境保護意識の高まりとともに1970年代に入ると世界的に製造禁止となった。現在では日本薬局方にも含まれておらず、薬品としては残っていない状況である。

しかし、私の子供時代には当たり前に使われており、学校の保健室にも常備されていた。いまと違って子供達は学校が終わると外で遊ぶことになっており、走り回るから転んでケガをする。赤チンをつけたことのない子などいなかっただろう。

加えて、いまのように舗装道路ばかりではなく、幹線道路のほとんどは砂利道であったから、そういうところで転ぶと必ず足に切り傷を負う。ひざっ小僧を砂利でギザギサに裂いてしまい、ヒザ全体を赤チンで真っ赤にした子を見るのも珍しくなかった。

いまのように、バンドエイドや保護テープのようなものもないので、大体は赤チンをつけてあとは乾かすだけ。よほどひどいときにはガーゼと絆創膏を付けたけれど、ガーゼの代わりに包帯を切って使うことも多かった。

いま思うと、多くの家は畳敷で、子供達も正座してご飯を食べていたから、赤チンをつけていたら畳にも座布団にも色が移ってしまうような気がするが、当時はあまりそういうことを気にしなかった。逆に考えると、家もあまりきれいではなかったということだろう。

赤チンとよく似たネーミングのヨーチン(ヨードチンキ)という薬品もあった。こちらも消毒薬として広く使われたが、現在ではほとんどマキロンに取って代わられた。ヨウ素をエタノールで溶かしたのがヨーチンだが、グリセリンで溶かしたものがルゴールで、こちらはまだ耳鼻咽喉科で現役である。

思い出す限り、家庭用救急箱の中にはたいしたものは入っておらず、赤チン、オロナイン、包帯、絆創膏、ガーゼとかそのくらい。いま山に持っていく救急キットとたいして変わらない。後は配置薬として風邪薬、胃薬、痛み止め、湿布薬くらいだったように思う。

歯磨きも親は粉のものを使っていた。だからいまだに「歯磨き粉」という言葉がある。私は当時から現在までチューブの練り歯磨き以外使ったことはないし、海外のホテルでもそれ以外見たことはない。

日用品も含め、衛生面に関する生活環境は、半世紀の間にずいぶん進歩したものだと思う。

子供の頃はオキシフルと赤チンがケガした時の定番でしたが、かなり早い時期にマキロンとバンドエイドになったような記憶がある。(出典:北多摩薬剤師会)

[Jun 23, 2021]


肝油・疳の虫と言われた思い出

配置薬、赤チンと書いてきて、そういえば最近ほとんど聞かなくなったのが肝油だな、と思い出した。

何しろ私が小学生の頃には、給食に肝油が出た。いまでも、ヤクルトが給食に付くことは珍しくないと思うけれども、ちょうどそういう位置づけで、肝油を飲まされていたのである。

当時、肝油はサメの肝臓から抽出されたと聞かされており、熊の胆(クマの胆のう)みたいなものと思って飲んでいた。ところが実際にはビタミンAやビタミンD、必須脂肪酸(EPAやDHA!)を豊富に含んだ栄養食品であり、現在のサプリメントを先取りしたものであった。

昔は本当にサメやタラなどの魚から抽出していたそうだが、それだけだと臭みが残るので、ある時期からビタミン類を調合して砂糖で甘みを付けた食品となった。給食で出されたのも、おそらくそれだろう。

1960年代の子供たちはいまほど栄養状態がよくなくて、ビタミン類の不足による病気がよく発生した。ビタミンAの不足によるトリ目(暗くなると目が見えにくくなる)や、ビタミンB1の不足による脚気は、いまよりずっと切実であった。

だから給食で出すこともそれなりに必要だったのだが、いま学校でマルチビタミンやEPA・DHAの錠剤を出すという話はあまり聞かないので、ちゃんと食品から摂りましょうということになったのだと思う。昔はカロリーを充たすだけで精一杯で、そこまで気を使うこともできなかったしい。

私事だが、学校給食だけでなく家でも肝油を飲まされていて、それは「お前のように疳の虫のある子は、肝油を飲みなさい」と親に言われたからであった。

「疳の虫」などという言葉は、今日では宇津救命丸の宣伝くらいしか聞いたことがないが、基本的には夜泣きとかそういうことである。夜泣きをする訳でもないのにそうしたことを言われたのは、確かに勘の強い、自己主張する子供だったからだろう。

その時は、別に虫がいるからこうなるんじゃないと思ったものだが、いま調べるとEPAやDHAは精神症状全般に効果があるとされているので、まんざら嘘でもないらしい。

当時の自分を振り返ると、いまならアスペルガーや適応障害と病名がつけられただろうと思うが、本人からすると正しいと思うことを主張しただけである。確かに共同生活は苦手で、それはいまだに変わらない。

肝油だって、「これはサメの肝臓からできた体によいものだ」と言われるから気持ち悪いので、「きちんとビタミンをとらないと病気になりやすい。これは清潔な工場で抽出されたビタミン剤です」と言われれば、ちゃんと納得したと思う。

子供に説明するのは難しいから適当言って飲ませようとするから、勘の強い子はますます抵抗するようになる。まあ、そんなにまずくはなかったけれど。

肝油はいまでも定番商品のようですが、給食にも出るのだろうか。


[Jul 14, 2021]


キャバレー

しばらく前に最後のキャバレーが閉店したとニュースになっていたが、私が社会人になった頃にはすでにキャバレーという業態はほとんど存在していなかった。

ではキャバクラがあったかというとそういう時代でもない。クラブというものはあったけれどいまのクラブとは違った業態で、生のピアノ演奏があり着飾ったお姉さま方がいて、接待でたまにお供するくらいで若手社員にはあまり楽しいものではなかった。

キャバレー全盛期というともっと古い時代、例えば力道山とかそういう人達のいた頃である。年代でいうと1960年代前半、まだ田中角栄が「日本列島改造論」を書く前である。

後の時代のクラブとかキャバクラは、いくつかのグループに分かれて飲んだり食べたりするのだけれど、キャバレーは大きな舞台があって、そこで歌があり演奏があり、漫談やコントが演じられたりしていたそうだ。

後の時代に有名になるコメディアンが若い時はキャバレーで演技していた、なんて話も珍しくなかった。もともとキャバレーという言葉自体アメリカから来た戦後のものだから、舶来の、ハイカラな印象があったと思われる。

それが日本独自のキャバレー業態に変化したのは、福富太郎(1931-2018)という実業家の事業展開が大きく寄与している。われわれより少し上の年代には「キャバレー太郎」の異名で知られていた。

若くしてこの業界に入り、26歳で独立。1964年、東京オリンピックの開かれた年に「銀座ハリウッド」を開店。あっという間に全国展開を果たした(2018年に閉店したのはハリウッドの最後の店である)。

当時、いまのように若い女性が働ける場所は少なく、長時間労働でしかも時給が安いという実情があった。子供を連れてひとりで働ける場所はほとんどなかった。

福富太郎は自分の店でそうした女性が働けるように託児所を併設したり、いろいろ工夫した。離婚したりさまざまの理由で自分の稼ぎで生きていかなければならない女性がいきなり水商売というのは、今日的には問題のあることだが、当時はやむを得ない実情があったのである。

こうした状況が変わる節目となったのは、高度成長期からバブルに向かう時期であっただろう。労働需給がにわかにひっ迫し、男女雇用機会均等法が施行された。男女別に職種を限定したり、採用を差別することは原則的に許されなくなったのである。

キャバレーという業態が下降線をたどるのと、女性の働ける場所が多くなるのとは、ほぼ同じ時期であったと記憶している。なにしろ、私の就職した当時、大卒女子の就職はコネでもなければ無理だったのである。いまとは時代が違う。

その頃から、やむを得ず水商売で働く女性というのは少なくなり、適性があって自ら高収入を求めてというケースが多くなった。結果、容姿とか接待の上手下手で差別化が起こり、さまざまの業態に枝分かれしたのである。

いまはそういうことを言わないだろうが、二、三十年前に接待に女性職員を連れて行くと、「ホステスのようなまねをさせるのか」というクレームが諸方面からあった。

おそらくそうしたクレームのもとになったのは、キャバレーに行ったことのあるおじさんとか、話を聞いたことのある女子社員だとかだっただろう。今は昔のできごとである。

キャバレーは平成にも少しはあったけれど、もう地方にわずかにあるかどうかでしょう。名前だけ「キャバクラ」に名残りがあるくらい。横浜Fマリノスみたいと言ったら怒られるか?


[Jul 30, 2021]

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