年寄りは若い人に昔のことを物語るというのが、古来からの人間社会の伝統でした。一つでも参考になれば幸いです。
米 店    野良犬    総会屋と社員株主    ササニシキ    掛売り
チンドン屋    九龍虫    社内トトカルチョ    サイモン&ガーファンクル    チッキ

米店はどこに行った

リタイアしてもうすぐ4年になる。あっという間に4年が過ぎたけれど、いまはコロナ騒ぎで動きがとれない毎日が続いている。

あまり活動しない日々を送っていると、ふと昔のことを思い出すことがある。少し前のように感じるのだけれど、よく考えると半世紀前のことである。半世紀後には、さすがに生きていないだろう。

シンギュラリティになれば、私が文字に残した内容もビッグデータの一部として後の時代に残るかもしれない。だから、忘れないうちに覚えていることを書いてみたい。多くの人にはあまり関心はないかもしれないが、少なくとも脳の活性化には役立つ。

(なお、ビッグデータは携帯やスマホの位置情報のようにTVでは言っているが、あれはビッグデータのごくごく一部である。あまりミスリードするのはよくないと思う。)

半世紀前にはスーパーマーケットはほとんどなく、八百屋、肉屋、魚屋、パン屋などの個人商店が集まって商店街を作っていた。いまも多く残っているのはパン屋だが、当時はヤマザキパンとか木村屋のパンを売っていたのに対し、今日では自家製石窯パンが主流である。

肉屋や魚屋はわずかに見つけることができるけれども、今日ほとんど見ることがなくなったのは米店である。それにははっきりした理由がある。半世紀前には食管法(食糧管理法)という法律があって、米店でなければ米を売ることができなかったのである。

(「米店」はこめや、と読んでいただけるとありがたい。米屋と書くと羊羹屋のような感じなので)

当時、コメの流通はきびしく規制されていたが、これは第二次世界大戦による食糧不足に端を発する。農家は収穫したコメを農協に納めなければならず、許可された卸売業者を通じて末端の米店へ。さらに、その流通価格も規制されていた。

私が就職したのは1980年だが、当時、米穀通帳が本人確認書類として有効と教えられた(さすがに、実際に米穀通帳で本人確認した経験はない)。食管法が廃止されたのは、なんと平成に入ってからである。

戦後まもなくが舞台となった映画とかドラマで、田舎の農家に直接コメを仕入れに行き、汽車で帰ってきて上野駅で捕まるという場面がある。当時、そうした直接取引は「ヤミ米」と呼ばれ食管法違反であり、見つかったコメは没収されてしまうのであった。

食管法が廃止された直接の原因は1993年の「平成コメ騒動」と、GATTウルグアイラウンドによる輸入自由化であったが、それ以前から、コメの需要減少と自主流通米の増加(銘柄米への選好集中)により、かつてのように米店が営業していれば儲かるという時代ではなくなっていた。

米店に限らず、営業するのに免許が必要で、仕入れ値も販売価格も決まっているなら看板を掲げていれば儲かる。現在のように流通も価格も自由化されてしまうと、米店だけの商売でやっていける訳がないのである。

販売価格が決まっているから、他店と差別化を図ろうとすればサービスによる他はない。だから、米店の多くは「ご用聞き」という形で各消費者と直接のルートを持っていた。重い品物だから、家まで届けるのは当り前であった。販売ルートと顧客データを持っていたのである。

だから、宅配便事業が商売として成り立つのではないかと考えたヤマト運輸が、最初に集荷拠点として代理店にしたのが米店だったのである。(ヤマトはもともと三越の配送業者であったが、三越の業績悪化により他にビジネスチャンスを求めなければならなかった)

千葉ニュータウン周辺でも、20年前には成田ボンベルタに米店があった。銘柄米を専門に売っていたのでかつての米店とは違うけれども、しばらく前になくなってしまった。おそらくいまの若い世代は、米店を見たことがない人もいるのではないだろうか。

米穀通帳とか、外食券とか、食糧管理制度に伴うものはすでに歴史上の事柄になった。「犬神家」で石坂浩二が、外食券ありますかと聞かれてコメを出す場面など、何の意味だか分からない人も多くなっているのではないだろうか。

かつてはどこの商店街にもあった米店ですが、最近は銘柄米を専門に売るお店くらいしか見なくなった。(資料画像)


[May 28, 2020]


野良犬

先日近所の里山を歩いていたら、野生のキジと出くわした。千葉ニュータウンは自然がまだまだ残っていて、散歩していると時々こうしてキジと出会うことがある。二十年前には向こうから全速力でウサギが突進してきたが、最近は見ない。

半世紀前、私が子供の頃住んでいたのは新興住宅街であったが、タヌキは見かけたもののキジやウサギを見ることはなかった。田圃に行けばメダカやタニシ、もちろんアメリカザリガニもそこらじゅうにいた。

それらの生物よりも印象深く記憶に残っているのは、やたらと野良犬が多かったことである。飼われている犬でもロープやリードなしの放し飼いという奴らがいたのだけれど、野良犬は首輪をしていないのですぐ分かる。

子供同士で空き地に集まり、原爆(という名前のボールゲームがあった)や竹馬で遊んでいると、どこからともなく野良犬が現われて、狂暴に吠え掛かるのであった。その頃分譲中の空き地は至る所にあったから、誰かの家というのではない。にもかかわらず、なぜか犬が現われるのである。

いまの時代だと、家で飼われているのはほとんど血統書付きの純血種であるが、その時代は血統書付きなどごく一部の金持ち犬に限られていて、他は例外なく雑種犬だった。避妊手術などしていないので、野良犬がどんどん増えていくのである。

また、現代の犬はペットとして飼われているので、番犬としてうるさく吠え掛かる犬は多くない。犬が吠える場面はほとんどが散歩中に気が合わない犬と遭遇した場合で、人間相手だとたいてい尻尾を振って友好的な雰囲気であることが多い。

ところが当時の野良犬というのは、当然のことながらしつけなどされていないし、友好的でもなく、しかも雑種だから見た目もかわいくない。そういう連中が子供たちを威嚇するものだから、ボール遊びもそこそこに逃げ出さざるを得ないのであった。

現代でも福島の原発付近や沖縄の米軍基地近くには野犬の群れが確認されるらしいが、住宅地で野良犬を見ることはほとんどない。狂犬病予防の観点から全頭に予防注射が義務付けられたとともに、自治体が野犬処分に力を入れたからである。

私の記憶では、1964年の東京オリンピックと70年の大阪万博を契機に、野良犬の数が大きく減った印象がある。サッカーワールドカップで大阪の路上に布団を敷いて寝る人がいなくなったのと同じで、国家的イベントに備えて環境整備が大々的に行われたのだろう。

よく知られるように、犬は狼を家畜化して、番犬や獣害予防のため人間の集落内で飼われるようになったものである。ネコはネズミを捕るという本来の目的がなくなってもペットとして安泰であり、野良猫はいまでもいくらでも目にすることができる。

対して犬の場合は、本来の目的で飼われる犬は少なくなり、介助犬やセラピー犬として生きていかざるを得なくなっている。ネコはありのままでそれほど不自由はなさそうだが、犬の場合は生きていくのが難しそうである。

千葉ニュータウンの里山の中では、いまでも野生のキジを見かけることがあります。20年前にはウサギもいました。


[Jun 24, 2020]


総会屋と社員株主

先月、株主総会のお知らせを見ていたら、時節柄仕方ないとはいえ、昔なら考えられない記載があった。

いわく、「株主様におかれましては、極力、書面またはインターネット等により事前に議決権を行使いただき、株主総会への当日のご来場をお控えいただくよう強くお願い申し上げます。」

昔だって、会社側はすでに過半数の委任状を事前に確保しているのだから、株主総会など開きたくないのが本音である。しかし、商法の定めるところ株主総会は開催が必須であるので、仕方なく開いていたのである。

いまの人達は、100万株の株主は1000株の株主の1000倍の発言権があるのは当然と思っているし、それが国会にまで適用されているのはあまりよくないことだが、昔は違った。

株主総会に出席している以上、一人は一人。1000株しか持っていなくても経営方針に意見が言えて当然だし、疑問があれば質問して回答を求めることができる。それが嫌なら株式公開するなというのが原則であった。そこに、総会屋と呼ばれる人達の突け入る隙があったのである。

総会屋と呼ばれる人達は、さまざまのルートから会社側の秘事を入手し、それを株主総会で爆弾発言することで経営側を威圧し、自分達に有利な取り扱いを求めるのを常としていた。

だから、上場している株式会社は警察OBや検察OBなどその方面に顔の利く面々を普段から総務部に配属しておき、総会が始まる前に話をつけておくのが当たり前であった。 しかし、総会屋にも大小あって、すべての総会屋と事前に接触できるとは限らない。上場企業の株主総会を妨害して名前をあげようとする連中だっていないとは限らない。

そういう時のために、若手職員が株主総会の多くの席を始まる前から占拠しておき、危ない連中が役員に近づかないよう身をもって盾になるのであった。

当時は若かったのでそういうものだと思っていたし、その間だけは通常勤務から解放されるのでありがたいとすら感じていたけれども、よく考えると連中だって直接の暴力に訴える訳ではないし、質問だろうと動議だろうと規則に則って処理すればいいだけのことである。

それを、受付前から職員株主だけ会場に入れて、経営陣に近い席を占拠させておくのだから、肝っ玉の小さいことだし、そもそも株主間の公平に反している。まあ、職員の多くは株主でもあるので、いること自体が問題ではないのだが。

時は移り、現代では株主総会に出席しないよう強く推奨しても、うるさく言う人達はいないようである。もともと株主総会などというものは有名無実であると言えばその通りなのだが、今は昔としか言いようがない。

昔、社員総会屋をしていたころの総会入場票。普通の株主はこれと引き換えにお土産をもらえるのですが、社員株主はもらえないのでした。


[Jul 16, 2020]


ササニシキ

今年も収穫の季節が近づいた。近所の田圃を歩いていると、今年は田植えが半月ほど早かったので、長梅雨にもかかわらずに穂が出始めている。「みのるほど頭(こうべ)を垂れる稲穂かな」の句が思わず口をつく。

千葉県でも、圧倒的に多く作付けされているのはコシヒカリである。「コシ」ヒカリというくらいで昔は新潟中心に作られていた銘柄なのだが、いまや全国各地で人気があり、コシヒカリをもとに作られた新銘柄も続々と開発されている。

今から50年前、コシヒカリと並ぶ人気銘柄米があった。ササニシキである。コシヒカリが新潟なのに対し、ササニシキは宮城を中心として作られていた。コシヒカリが「ふっくらもちもち」した食感であるのに対し、ササニシキは「さっぱりすっきり」した食感であった。

ご飯だけで食べるならば、コシヒカリの方が味わいがあったが、ササニシキも自らを主張しすぎないおいしい米であった。お寿司屋さんにササニシキを好む人が多かったというのも、わかる気がする。

ところが現在、ササニシキをマーケットで見かけることはほとんどない。現代人にとって銘柄米といえば、コシヒカリ大前提でどこの生産地かという点に絞られているが、半世紀前にはかなり状況が違ったのである。

さらに、40年ほど前には西日本産のコメというのはあまりおいしいものではなかった。現在では全国どこでもコシヒカリ系の銘柄が作られているけれど、当時は生産量が多く病気に強いのが一番で、味は二の次だったのである。

米店のときに書いたように、当時は食管法があって、農家はコメを作れば農協が決まった金額で引き取ってくれるのであった。すでに減反政策は始まっていたものの、作付けを減らして補助金をもらうか、収穫を多くして収入を多くするかの違いだけである。

だから、農家としても農林省や農協が推奨する銘柄を作っていればよく、より高く売れるコメという観点はなかった。だから、農林何号とか、日本晴とか、多収穫で病気に強い銘柄を多く作っていたのである。

食管法の廃止と輸入自由化によって、農家の銘柄選択は大きく変わった。コシヒカリのように収穫量より味のいい品種が好まれたことと、もう一つにはササニシキが平成のコメ騒動の際冷害で不作だったという要因があった。

ササニシキはもともと東北地方での作付けを前提に品種改良された銘柄であったが、それでもやはり病気に弱かった。他の品種より背が高く、寒冷な気候や強風によって倒れるものも多く出た。

そして、コメ自体の味ではコシヒカリを好む消費者が多かったので、農家の作付けもコシヒカリやコシヒカリをもとに品種改良された銘柄(ひとめぼれ、あきたこまち、きらら397など)に移ってきた。下のグラフは2000年までのものだが、すでにコシヒカリとは大差がついている。

今日ではこうした統計はほとんどとられていないようだが、ササニシキ単体で作っている水田はほとんどなくなってしまったと思われる。お米ひとつでも、半世紀の間にかなり変わってしまったのである。

かつてコシヒカリと並ぶ両横綱と呼ばれたササニシキ。平成に入ると急激に収穫を減らし、今日ではほとんど作られていない。



[Jul 28, 2020]


掛売り

以前、米店のことを書いたのだが、それと関連して。

私が育った家はけっして金持ちではなかったし、4人家族なのでそれほど大口の需要がある訳でもないのに、歩いて15分くらいかかる米店や酒屋からわざわざお店の人が来ていた。俗に「ご用聞き」と言っていた。

いまの人からは想像もできないだろうが、当時はほとんどの家庭に自家用車はなかった。だから、米とか酒とか重い品物を買う時には、店の車で届けてもらう以外に手段はないのである。

注文するにしても電話がないので、店まで歩いて行って「二級酒の一升瓶、2本お願いね」とか注文するのだが、店の方でも前にいつどのくらい注文したか分かるので、その頃になるとお店の人が「何か足りないものありませんか」と聞きにくるのである。

だから、今の訪問販売とは全く業態が異なる。通信手段や輸送手段がお客の側にはないので、店がお客に代わってそれらの機能を提供するのである。もちろん、実店舗があるので、お客の側が何かのついでに行くこともある。

こうした場合、商品を配達するごとに代金を支払うのがいまでは普通だが、当時は月末締めでひと月分をまとめて支払うのが普通であった。専門用語で「掛売り」と言うが、会社同士なら当たり前なように個人客でも広く行われていたのである。

いまの若い人達だと、こういう商習慣が半世紀前まであったと聞くと驚くかもしれないが、現金掛け値なしは江戸時代に三井呉服店が始めてすぐ広まったのではない。掛売りは、ついこの間まで現役だったのである。

私の経験で一番最後まで残っていた月末締めの掛売りは、クリーニング店であった。当時、3日に1回くらい店主が家まで取りに来て(サラリーマンなのでワイシャツとかスーツである)、前回集荷した品物を持ってくる。月末締めで大体3千円とか5千円だから、小口もいいとこである。

思うに、こうした各家庭への直接販売が少なくなったのは、専業主婦が急速に少なくなって昼間に訪問しても留守の家庭が多くなったことが一つ。もう一つは、電話や車があるのは当り前になって、お客の側がより安価な店を選好するようになったからだと思われる。

サザエさんの時代設定は半世紀前よりさらに古いので、サザエさんは専業主婦であるのみならず実家にそのまま住んでいる。三河屋のサブちゃんがお酒の注文を取りにくるのは、かつては当り前の風景だったのである。

ちなみに、昔は酒屋ごとに扱う銘柄はほぼ決まっていたので、「一級酒」とか「二級酒」とか注文したように記憶している。銘柄で注文することは一般家庭ではあまりなかったが、思うにどこのメーカーの酒もたいして味に差がなかったのではないだろうか。

御用聞きはサザエさんの中だけの存在になってしまいました。ちなみに、ご用聞きが普通であった時代に一般家庭にガス給湯器はありません。


[Sep 2, 2020]


チンドン屋

チンドン屋といっても、いまの若い方はご存じないかもしれない。言葉として知ってたとしても、実際に見たことがある人はは多くはないだろう。

家の奥さんも今年還暦であるが、子供の頃チンドン屋が嫌で嫌で仕方なかったそうである。それと関連あるのかどうか、今は着ぐるみが大嫌いである。ともに、広告宣伝に従事していて、顔が見えないという共通点がある。

半世紀前には個人商店の開店が頻繁にあった。いまだと、イオンとかショッピングセンターのテナントだからいつの間にか開店していつのまにか閉店してしまうけれど、昔は住む家も店舗も同じというのがほとんどだから、盛大に開店祝いをしたものである。

チンドン屋さんが周囲を触れ回るのもその一環で、小さい商店でも店を構えれば一国一城の主だし、長年商売を続ければそれだけ信用もついたのである。

チンドン屋の語源にはいくつかの説があるが、鉦(チン)や太鼓(ドン)で人目を引いて、何かの広告宣伝をする人達と単純に考えていいのではないだろうか。

ほとんどの人がTVを持っておらず、もちろんパソコンもなかった頃、大勢の人達に告知する手段は限られていた。新聞だってすべての家が宅配している訳ではなかったから、折り込み広告も対象が限られる。

となると、車で宣伝して回るか、アドバルーンを上げて空中から広告するか、でなければチンドン屋さんを使うしかない。考えてみれば、のどかな時代である。実際に声を出して動くしかないのである。

盛り場に行けば当り前のようにサンドイッチマンがいたし、プラカードを持って立っている人も大勢いた。現代でも交差点とかに案内板を持って一日座っている人がいるけれども、あれは固定看板が置けないからやっているだけで昔とは違う。

チンドン屋さんを見なくなったのは、個人商店がどんどん減って、近所にあるのはコンビニばかりという時期と重なるように思う。セブンイレブンにしろローソン、ファミマにしろ、店舗の周知と見込み客の発掘はフランチャイズのノウハウであり、チンドン屋さんに頼ることはなくなったのである。

検索すると、今でもチンドン屋さんは見つかるのだけれど、どちらかというと伝統芸能的な位置づけで、古き良き日本文化を次の世代に受け継ぐという面が強いように思う。生業として、商売として成り立つものではなくなっているのではないか。

チンドン屋さんは私の育った千葉県でも多く見かけたのですが、すでに伝統芸能となってしまったのでしょうか。


[Sep 24, 2020]


変な健康食品・九龍虫

いまから半世紀前のこと、世にも奇妙な健康食品が流行したことがあった。九龍虫という昆虫である。これを生きたまま食べると、その(断末魔の)体液が非常に滋養強壮に効くというので、スポーツ選手をはじめ肉体派の方々が愛用されたのであった。

私は実際、この現物を見たことがある。どういう状況であったのか記憶が確かでないのが残念だが、親戚のおっさんが持ってきて食べたのである。大きさは蟻より少し大きい程度だったが、いずれにせよ気味が悪いものであった。

その後妙に流行した健康食品には、紅茶キノコだとか飲尿療法だとか不思議なものがいくつかあったので、食用昆虫ならばそれほど奇異とはいえないかもしれないが、それにしても変なものであった。

この虫が長く記憶に残った大きな要因が、「巨人の星」に出たことである。応援団長時代の伴宙太が、ひよわな野球部員に活を入れるため、自宅に呼んで強精料理を無理やり振舞うのだが、その中に九龍虫がいたのである。

私が見たのもマンガと同じく、パンをエサにうごめいている虫たちであった。梶原一騎もこういう世界にたいへん造詣の深かった人であるから、当然自らも試したことがあっただろう。

PL出身の人気選手が、にんにくエキスを注射しているなんて話があった(本当かどうか分からない)。食べるならともかく注射するというのは、効果以上に害の方が大きいような気がするが、紙一重の差が結果を左右するスポーツ選手が、そういうものに頼るのは分からないではない。

中国四千年の歴史の中で、不老長寿、滋養強壮に効果があるというものは動物、植物、鉱物の別なく試され、効果のあったものもあれば害の方が大きかったものもある。有名な例は水銀で、不死の薬品と信じて水銀中毒で命を落とした人は多い。

九龍虫についてはどうやら毒性はないようなので、食べたとしても体に害を及ぼすことはない。たんぱく源として昆虫を食べる人は海から遠い場所では少なくないから、多少なりとも効果があっておかしくない。

とはいえ、本当に効果絶大なら本家本元の中国で盛んに食べられておかしくない。ところが、どうやら九龍虫のブームは日本だけらしいので、効果についてもそれなりという可能性が大きい。

体育会系の猛者(梶原一騎とか)がマッチョぶりをアピールするために食べたのを、誰かが珍しがって広めたのではないかと個人的には思っている。以来半世紀、九龍虫のブームが再びという話はないようだ。

巨人の星で伴宙太が食べたことで、後世に証拠が残った。その後も紅茶キノコはじめさまざまな変な健康食品が流行したが、その中でもいま考えても変なものだった。


[Oct 22, 2020]


社内トトカルチョ

しばらく前のことだが、アベノマスクが無理やり定年延長させて検事総長にさせたかった黒川検事長が、新聞記者と賭けマージャンをしていたことが文春砲で直撃されて、法案もキャリアもふいになってしまったことがあった。

家の奥さんなども、「賭け事などとは大変けしからん。やめて当然」というご意見で、国民にGW中の外出を自粛させておいてのお遊びは確かに問題なのだけれど、半世紀前にはカネを賭けないでマージャンをする人など皆無だった。

純粋にゲームとして楽しんでいるのは覚えたての高校生くらいで、大学生ともなれば千点10円では安いくらい。もっと高いレートで打っている連中は山ほどいた。その頃は、健康マージャンもオンライン麻雀もなかった。

就職して会社に入るとレートが高くなる上に、会社によってさまざまのローカルルールでインフレ化が図られていた。それが当たり前と思って長年過ごしてきたので、賭けるのがいかんと言われても、これから気をつけますとしか挨拶できない。

私の最初に就職した会社にはやんごとなき筋から入社される人がいて、政治家や社長の子供など珍しくもなかったが、最近亡くなられた旧宮家の方も同じ会社に勤めていた。雀荘で何度か見かけたから、きっと同じように楽しんでいらっしゃったのだろう。(注.ヘイト発言で有名な宮家ではない)

転職した会社にも愛好家はいて、レートの高さはどこもほとんど同じであった。その会社の一つが、なんと社内トトカルチョをやっていたのである。

話には聞いていたけれども、実際に見たのはそこが初めてであった。高校野球が始まるたびに出場校を8枠に分けて、1口100円で賭けていた。動く金額は、マージャンと比べて問題にならないくらい小さかった。

当時は、風通しのいい会社だなと思ったくらいで、刑法上問題があるとも会社員としてどうかとも思わなかった。さすがに大相撲まで回ってくることはなかったが、暴力団がやるものは面白いから、みんな真似するのであった。

ところが、そういう前時代的なおおらかなお付き合いも、いつの間にかなくなってしまった。私が嫌われ者だから回さないという訳ではなく、社内名簿を廃止したり、虚礼廃止で付け届けや年賀状をやめるよう通達が出た頃からだったので、上から指示があったのだろう。

もともとトトカルチョはイタリアのサッカーくじのことで、Jリーグのtotoはトトカルチョから採られた言葉である。わが国では、広くスポーツ全般に賭けることをトトカルチョと言っていて、プロ野球や大相撲、高校野球などがその主なものであった。

現在、それらのスポーツに賭けることは海外のスポーツブックを使えば可能であるし、社内で開帳しているところなどなくなっているのではないかと思う。法律で決まっているので当り前なのだが、ちょっと寂しいような気もする。

ラスベガスのスポーツブック、なつかしいなあ。(記事とはあまり関係ありません)


[Nov 18, 2020]


サイモン&ガーファンクル

あまりTVを見ないのだが、時々耳にするCMでカーペンターズの"Close to You"やジャクソン5の"I'll Be There"が流れている。ショッキングブルーの"Venus"も誰かのカバーだけれど使われている。

いまの人が聴く分には、昔の曲が流れているというだけかもしれないが、オールドファンには感慨深い。というのは、これらの曲はちょうど50年前、1970年のビルボード(全米ヒットチャート)で週間1位を獲得したヒット曲なのである。

著作権の保護は作者の死後70年だから、まだまだ先である。にもかかわらずこれらの曲が流されるのは、ちょうど半世紀前ということがあるのだろう。それらの曲を発表直後に聞いたのは、もう半世紀前のことなのである。

他にも1970年の全米1位にはいまだによく耳にする曲がいくつかある。年初、1月に連続1位だったのは、映画「明日に向かって撃て」の主題歌"Rain Drops Keep Fallin' on My Head"(B.J.トーマス)。春にはジャクソン5が"ABC"でブレークして、ニール・ダイアモンドのケネディ家賛歌"Sweet Caroline"も全米1位となった。

ポップス史的に大きな事件だったのは、ビートルズ解散である。彼らの最後のアルバム"Let It Be"が発表されたのはこの年で、アルバムから"Let It Be"と"Long and Winding Road"が全米1位となった。

ビートルズももちろんヒットしたのだが、この年最大のヒット曲だったのはサイモン&ガーファンクルの"Bridge Over Troubled Water"だった。日本ではあまりヒットしなかったけれど、ビルボードでは5週にわたり1位となった。

余談になるが、日本でこの年ヒットしたのは同じサイモン&ガーファンクルでも"El Condor Pasa"(コンドルは飛んで行く)の方であった。後に競馬の凱旋門賞で日本調教馬初の上位入着を果たしたエルコンドルパサーの馬名は、この曲から採られている。

当時、ビートルズの後はサイモン&ガーファンクルがメガヒットを立て続けに飛ばすのだろうなと思っていたのだけれど、すぐ解散してソロになったこともあって、二人とも1970年ほどの活躍はできなかった。

むしろ、終わったとみられていたビー・ジーズが"Saturday Night Fever"で復活したり、クイーンやイーグルスといった新しいグループが一気にスターダムにのし上がったのである。

しかし、ビートルズ以降最大の大物といえば、マイケル・ジャクソン以外に考えられない。そのマイケルは、ジャクソン5のリードヴァーカルとして1970年に3曲、ビルボード1位を記録しているのである。

そう考えると、1970年というのは本当に特別な年だったと感じる。そんな1970年のヒット曲を50年経って聞いてみると、少しも古いと感じないのは歳をとったせいだろうか。

このジャケットを最初に見たのは50年前ですか・・・。歳をとったものです。


[Nov 26, 2020]


チッキ

半世紀前にまだ国鉄があった頃、手荷物を送るチッキという制度があった。 Wikipediaによると、チッキの語源はcheckとticketの2説あるようだが、私は切符に付属したサービスだからticketと理解していた。いずれにしても、現在でも航空便や遠距離バスで当り前のように提供されているサービスである。

それらとの大きな違いは、飛行機やバスは当該便の貨物室に積んで行って下車する際に受け取るのに対し、チッキは駅で預けて人とは別便で輸送されることであった。鉄路の場合は乗り継ぎしなければ目的地に着くことは難しいので、一緒の便では無理である。

そのため、遠路の場合は翌日とか翌々日に駅まで取りに行くのが普通であった。親が東北だったので小さい頃よく利用していて、私も引換証を持って駅まで取りに行ったことがある。

現代の感覚だと人間が鉄道で行くのはいいとして、荷物はトラックで高速道路を使った方が早いと思うかもしれないが、半世紀前には高速道路網は全国各地に整備されていなかった。

いまだに忘れないのは、社会人になってすぐ、東名高速道路でどこかに行こうという集まりがあって、新宿に集合して一般道で東名に向かったことである。首都高はあったのだが、まだ東名高速とつながっていなかったのである。

東名でそんな程度だから、東北道などまだまだ全然である。1970年代に段階的に整備されつつあったものの、東北各地と首都圏を結ぶにはほど遠く、特に山形・秋田など裏日本から東京に来るのは大変だったのである。

そういう時代に、国鉄の貨物輸送はたいへん手軽であった。台風や大雪による遅延はあるにせよ渋滞というものがないので、基本的には決まった時間に品物が到着する。あとは荷主にどうやって渡すかだけなのである。

トラック輸送にしても、当時から日通はあったものの大口輸送のみであり、一般顧客の荷物を輸送するという発想はなかった。宅配便もまだできていない。

そんな状況だったから、鉄道利用者の手荷物配送は、郵便小包にするかチッキで行われていた。そして、国鉄は経営者よりも労働組合が強いことで有名であった。定時配送を行うための労働強化など、とてもできる状況ではなかったのである。

チッキが早くになくなったのも、国鉄職員の仕事をできるだけ少なくしようという発想ではなかったかと考えている。本来あっておかしくない(というより当然あるべき)サービスがそういう理由で削られたとしたら、悲しい話である。

国鉄があった頃には、受託手荷物(チッキ)で送ることができた。画像は1970年時刻表の国鉄営業案内。


[Dec 9, 2020]

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