お金の神様邱永漢    川上卓也「貧乏神髄」
村上春樹「海辺のカフカ」    古田武彦「古代は輝いていた」
松下竜一「どろんこサブウ」    森巣博「神はダイスを遊ばない」
藤沢周平「海鳴り」    岩井志麻子「ぼっけぇ きょうてぇ」
ヴァン・ダイン「カナリヤ殺人事件」
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お金の神様邱永漢

失業中に読んだ本でもう一人印象に残っているのが、邱永漢である。当時はまだ平成に入ったばかりで、バブルははじけていたのだけれど日経平均で2万円以上は維持しており、まあ、しばらくは仕方がないな、といった程度の景気だったと思う。当時、株の神様といわれたのが是川銀蔵で、お金の神様といわれたのが邱永漢であった。

氏はもともと直木賞を受賞している小説家であるが、読んだのはそうした文学関係ではなくて、お金に関する本である。氏の主張していることは、おカネを貯めたらどんどん事業に出資しなさいということで、当時から香港、中国に注目するなど先見性があったが、やや不動産投資に偏ったものだったから、今から考えると旧パラダイムに属するということになるのだろう。ただ、強く印象に残っているのはそうした本筋の議論ではなく、どちらかというとついでの話である。

それは、月収100万円があれば、余裕ある暮らしを送るには十分である、ということである。100万円というのは税金を差し引いた手取りの金額のことで、だからサラリーマンだと税込み200万円の月収が必要となるが、自営業であれば経費の名目で使える部分もあるので名目100万円よりもっと少なくてすむ。だから自営すべきである、といった意見である。

サラリーマン、自営業の比較はともかく、私が注目したのは月100万円という金額である。「立って半畳、寝て一畳」といわれるように、人間生きていくのにそれほどのものは必要ない。贅沢もしようと思えばいくらでもできる訳ではなく、月100万円使えればそれ以上はほとんど同じである、ということを読んで、目から鱗が落ちた。

もちろん、そんな収入がある訳ではないのだが、その何分の1かというレベルであって、何十分の1というレベルではない。何分の1というレベルであれば、実は大して差がないのではないか。

多分その頃からなくなったのは、いい意味でも悪い意味でも上昇志向なのだろう。ちなみに、邱さんはいまでも毎日ホームページを更新している(2012年8月31日連載終了)。

[Mar 24,2005]


川上卓也「貧乏神髄」

インターネット発信の書籍というと「電車男」とか「実録鬼嫁」などがあげられるが、川上卓也「貧乏神髄」もその主張の明確さやWEBと本とのコラボレーションという意味において、評価に値するものである。

著者の主宰する「全日本貧乏協議会」では、魂の自由は時間の自由によって生まれること、時間の自由を得るためには消費を最小限に抑えること即ち「貧乏に降りて行く」必要があることを主張する。

WEBにおいては退職から職安での失業保険の受取り方、家賃を安く抑えるための借家の探し方、食費や公共料金の節約の仕方などを著者の実体験として同時代的に述べていくのに対し、本では現在に至るまでの来し方を振り返ることで、主張が整理され、より明確な形で述べられている。

この本も何十回も読み返した。その影響で、七輪を買ってしまったり冬には干し肉を作ったりしている(けっこううまい)。最近は市販のものに戻ってしまったが一時期「たれ」も手作りした(修業が足りない)。昔から「男おいどん」や「大東京ビンボー生活マニュアル」が好きだったから(いずれもマンガである。念のため)、そうした方面への志向性があるのかもしれない。

カシノで大損する奴が何を言うかと言われそうだが、普段の生活は質素で、本はほとんど図書館だし会社には弁当持ちで行くから、一日財布を開かないこともしょっちゅうである。年金生活になっても、やっていく自信はある(何の話だ)。

さらに著者に好感が持てるのは、いわゆる「貧乏自慢番組」には出ないことだ。なぜなら、彼は結果的に貧乏を余儀なくされているのではなく、自発的に「貧乏に降りて行った」からである。

その代わり、彼の主張を中心に番組を構成したNHKには出た。そこでも、彼は「やらせ」をやってしまったと告白する。ある日の夕飯に、ごはん、さんま、酒を用意するシーンがあるのだが、それらを一度に食べるほどの金はない、というのだ。

残念なのは、このNHK出演あたりを境に、WEBの更新速度がぐっと落ちてしまったことだ。「耐乏Press Japan」は今年何回発行されるのであろうか。(WEB「耐乏Press Japan」は2022年6月現在リンク不能となりました。)

WEBから活字になると勢いをなくしてしまう著者は結構いる。この人も、もしかしてその一人かもしれない。もう少し発信してほしかったが。


[Mar 30,2005]


村上春樹「海辺のカフカ」

今更ながら、「海辺のカフカ」を読んだ。特に読みたかった訳ではないが、たまたま図書館で上下巻そろっていたので、考えていた本がなかったこともあって借りてみたのである。

村上春樹の作品に一時期はまっていて、「羊をめぐる冒険」は百回以上読み返しているし、「世界の終わりと」やその頃の短編集も好きだ。一方、「ノルウェイの森」は一度読んだだけだし、「ダンスダンスダンス」はぎりぎり許容範囲、「国境の」は許容範囲外、「ねじまき鳥」に至っては黒犬に食わせたいような作品である。だから90年代以降の作品はほとんど読んでいない。

「カフカ」も上巻の真ん中あたりまでは期待した。好きな頃の作品にテイストが近かったし、ナカタさんなんてすごいキャラだったから。ただ途中から(はっきり言うと猫の首を切るあたりから)だんだん許容範囲を外れていって、最後は欲求不満が残った。

例によって、テーマ(らしきもの)はあるのだが、その展開も不十分であるし解答も示されない。「分からないことは考えるだけムダ」とまで言われてしまう。解答がないならないでいいのだが、物語のストーリーとしてみても、非現実的な世界なりの結論(「羊」にはそれがあると思う)が示されないまま、主要登場人物がほとんど死んで終わってしまう。

公立のトレーニングジムや図書館が出てきたり、料理や文学や音楽についての薀蓄が披露されたりするところは、個人的に同じようなことをしているので共感できるのだが、いかんせん方向性が私の求めるところと違ってきているみたいで、残念である。まあ、読者は気に入れば読む、気に入らなければ読まないというだけのことだが。

それにしても、ナカタさんは結局救われなかったなあ。

[Mar 9,2005]


古田武彦「古代は輝いていた」

今から15年以上前のバブル経済華やかなりし頃、総武線快速で都心まで通勤していた。朝は5時起きで帰るのはたいてい真夜中過ぎ、今では考えられないが当時は周りもみんなそうだったから当たり前だと思っていた。

隔週の週休2日がようやく完全週休2日になったが、休日も職場の行事やゴルフでたびたびつぶれ、通勤の朝はいつも疲れていた。市川を過ぎると、ぎゅうぎゅう詰めの車内から、江戸川の河原が見えた。

東京都と千葉県を分けるこの川をはさんで両側には河川敷を利用したグランドが広がり、その外側には堤防を兼ねた土手が築かれ芝生が広がっていて、いかにも寝転がると気持ちよさそうに見えた。ああ、会社なんか行かないで一日あそこで寝ていたいなあ、と思った。

その後、考えるところがあってそれまで10年とちょっと勤めていた会社を辞めて、2ヵ月足らずだけれど「無職」の浪人生活を過ごした。その時真っ先にしたのが、図書館に行って本を借り、例の河原に寝転がって読むことだった。

それまで公立の図書館には行ったことはなく、借りたとしても読む暇などなかったので、この機会に思う存分読みたかったのである。思ったとおり、図書館には本当にいろんなジャンルのたくさんの本があった。河原も思ったとおり気持ちよく、日が西に傾くまで本を読んだり居眠りをしたりして過ごした。梅雨どきだったから、雨の日には自習室の机を借りて一日本を読んだ。

ジャンル的には、郷土史から始めて、日本史、特に古代史の本を読むことが多かった。いま一番記憶に残っているのは古田武彦氏の一連の著作である。

この人はもともと中学だか高校の先生で(後に大学教授)いわゆる学閥に属していなかったし、その後一種の山師的な人物と組んでオカルティックな方向に行ってしまったこともあって「荒唐無稽」との評価が固定しているけれども、根底にあるのは政治的思惑を離れて根拠となる文献そのものを検証しようというごく真っ当なやり方である。

「邪馬台国(氏によれば邪馬一国)の所在は、魏志倭人伝を素直に読む限り、九州北部以外ではありえない。」

「隋書倭国伝を素直に読む限り、『日出処天子』は阿蘇山の近くに政権があり後宮に数百人の女性がいるのだから、聖徳太子とは別の人物である。」

「以上の事実及び逸年号といわれる大化以前の年号(大化は大和朝廷最初の年号)が風土記や仏像光背銘文等に残されていることから、大和朝廷以外の政権が九州に存在していたことが推定される。」

「白村江の戦いに大軍を派遣してしかも大敗したにもかかわらず、大和朝廷にはほとんど深刻な影響がみられないことから、この時に大和朝廷が(それまでの『倭』から)『日本』として日本列島を代表する政権となった可能性が高い。」

氏のこれらの主張を明確に論破した人はたぶんいないと思う。このあたりの話は日本の「学界」といわれるものの問題もいろいろ含んでいるので、またいずれ。

[Mar 17,2005]


松下竜一「どろんこサブウ」

1ヵ月ほど前の産経新聞に、道徳教育の見直しといった論点で、広島県の学校で、20年間ゴミ拾いをした人の話などを題材に勉強している、とあった。多分そうだろうと思ってよく読んでみたら、やっぱり谷津干潟(やつひがた)の話だった。広島県(やたらと教職員組合が強い)でというところはちょっと笑うが、わが千葉県では非常に有名な話である。

昔、私の子供の頃は津田沼のあたりでも潮干狩ができたし(いまは木更津あたり)、船橋(半人工)や稲毛でも泳ぐことができた(いまは内房だと岩井あたりか)。京葉道路がやっと通った頃でその先は海だったし、湾岸道路やJR京葉線などは影も形もなかった。海面だから国の持ち物で、そこはほどなく埋め立てられることが決定していたから、だんだんゴミ捨て場と化していったという。

生まれ育った干潟の惨状を見かねたサブウは、仕事の合間に、ひとりゴミ拾いを始めた。ゴミといってもビンやカンといった小物だけではなく、産業廃棄物のような大物もあったという。雨の日も風の日も、サブウは腰まで泥につかりながら干潟のゴミ拾いを何年も続けた。

初めは、くさいだけの干潟など早く埋め立ててしまえ、と言っていた人々も、徐々に協力してくれるようになった。そして、干潟と海をつなぐ水門(これにより満潮干潮で海の水が循環し、干潟が生きている)をふさぐ予定であった国をも動かし、今日、津田沼高校の裏から船橋競馬場あたりまで続く広大な干潟が、埋立地からすっぽり抜けた形で、公園として残されることになったのである。

このあたりをまとめたノンフィクションが、松下竜一の「どろんこサブウ」である。著者の思想なのか、ややレフティーな色彩が鼻につくけれども、たいていの図書館の児童書には揃えられている(千葉県だけか?)ので、子供の頃の純粋な気持ちを思い出したい方にぜひお奨めしたい。余談だが、サブウこと森田三郎氏は、習志野(谷津干潟がある)市議会議員を経て、現在千葉県議会議員である。

[Apr 12,2005]


森巣博「神はダイスを遊ばない」

この作品を最初に読んだときの衝撃をどう表現すればいいのだろう。まだ学生の頃に阿佐田哲也の「麻雀放浪記」を読んで以来、ギャンブル小説でここまで感激したことはない。今でも繰り返し読んでいるのは、それだけこの作品の完成度が高いということであろう。

とにかく、鯨賭人ケリー・パッカーの話から始まって、アインシュタインの"God does not play dice."の解釈で終わるまで、息つく間もない展開が続く。通常のギャンブル小説では、「ギャンブルを題材に人生を語る」ものが多いが、この作品は「人生を題材にギャンブルを語」っているのがすばらしい。

ディーラー上がりの大口賭人ミーガンと、「常打ち賭人」ヒロシの出会いと連携、そして歯医者を相手にした乾坤一擲の大勝負。最後のヒロシの自爆的バカラ勝負に至るまで、全編にギャンブルのエッセンスが詰まっている。「知れば知るほど負けるもの」「懼れを持った者が負ける」「博打に必要なのは確信である」などなど、他の森巣作品に登場するフレーズもてんこ盛りである。

また、この作品で取り上げられているカシノ種目が「牌九(パイガオ)」である。おそらく氏の作品以外で登場することのないこのゲーム、実は私も大好きである。カシノゲームは単に勝負がつけばいいというものではない。もしそうであれば、世界中のカシノは「カジノウォー」(注.日本では「戦争」という名で知られるカードゲーム。2人がカードを引いて大きい方が勝ち)ばかりになってしまう。そこには、考える楽しさ(考えたから結果が変わるのではないにせよ)や途中経過の楽しさ、信じ・祈る楽しさがなければならない。

だからといって、将棋やマージャンは強い者が勝つことになっているのでカシノゲームとはなり得ない。牌九はそのぎりぎりの所に位置するゲームである、と氏はいう。クライマックスのミーガンと歯医者の勝負はまさにそういう展開になっている。

これ以上はネタバレになるので言わないが、この作品を読めばカシノ賭博の泥沼にはまり込むこととなるのは必定である。氏はこの作品の後も「越境者たち」「ジゴクラク」「非国民」「悪刑事」「蜂起」と大作を発表し続けているが、私はこの作品がいちばん好きである。

著者にはリゾカジでお会いしています。連載時の題名は全作品「打たれ越し」で、単行本になって改めて名前が付きます。マカオで牌九台を一生懸命探したことを思い出します。


[Apr 19, 2005]


藤沢周平「海鳴り」

藤沢周平を読み出したのは今から15年ほど前、「藤沢周平全集」が出た頃のことである。例によって図書館で借りたのだが、その後読み返したくなって少しずつ新書版を買った。ちなみに、当時から文庫は読みにくかったが、今では立派な老眼である。

藤沢周平の作品を大きく分けると、「武家もの」と「市井もの」があり、映画化やTVドラマ化されているのはほとんどが前者である。最近では「たそがれ清兵衛」がそうですね(2つの作品をMIXさせていますが)。私も夜寝る前に読むのは「平四郎活人剣」や「用心棒日月抄」、「秘太刀馬の骨」など武家ものであることが多いが、今回お奨めする作品は市井ものの代表作といわれる「海鳴り」である。

氏の作品は多くの場合、人間の持つ弱さや世間の理不尽さに翻弄されつつ自らを厳しく律する主人公を描いているが、それが武家ものの場合、最後は剣に物を言わせるので分かりやすく、読後感も爽やかである。

一方市井ものでは、その最後の解決の仕方が必ずしもさっぱりとしたものではない。だから気軽に読み返したくなる作品ではないのだが、氏の作品のもう一つの特徴として、舞台は江戸時代なのだが扱っているのは現代に通じる問題であるということがある。そちらの色彩については、市井ものの方が格段に強い。

主人公である小野屋新兵衛は新興の紙問屋である。夢中で働いてきて初老の域に達し、何かやり残してきたような不安を感じている。大店の主人連中が画策するカルテル騒動に巻き込まれると同時に、同業の店のおかみと関わりが生まれる。

自らの息子の不始末や丁稚時代からの仲間である鶴来屋の家庭問題など問題は複雑にからみつつ、物語は終局へと向かっていく。本の帯のキャッチコピーは「心通わぬ妻、放蕩息子の跡取り、暗闇のように冷える家」である。

この作品が発表されたのが昭和58年というから、ちょうどバブルに向かっていく時期である。その時期に、こうした作品を世に問うた先見性はすばらしいと思う。筋立てもさることながら、細部のさりげない会話が何度読んでもすばらしいと感じるのは、自分がそのような年齢に達してきたこともあるのかもしれない。

二度目の転職の前、毎日のように図書館で藤沢周平全集を読んだことを思い出します。この記事の後、「たそがれ清兵衛」などが続けて映画化、再評価されました。


[Apr 5,2005]


岩井志麻子「ぼっけぇ きょうてぇ」

作者は最近では「自分自身」を売り物にする路線に転向してしまったようで、それはそれで結構なことなのだが、デビュー作(出世作というべきか)のこの作品集を読んだときは、これはすごい民俗伝奇小説家が出てきたと感激した。

表題作「ぼっけぇ きょうてぇ」とは、岡山弁で「すごく、怖い」という意味だそうで、舞台は明治時代の岡山の遊郭、あまり売れない遊女の寝物語から始まる。夢か現実か区別のつかないような物語の結末で明らかになる彼女の秘密とは・・。と、短編であることからあらすじを説明するとネタバレになってしまうのだが、基本的には岡山各地を舞台とした伝奇小説集である。

作品自体がおどろおどろしいだけに、作者はあまり表に出てこないか、あるいは作品とは全く異なるもの静かな人であったら面白かったのだが、残念ながらというか、作者のイメージは作品のとおりである。また、作者自身の露出に反比例して、作品のパワーはやや衰えてしまった感は否めない。柳田国男や南方熊楠を期待してしまう私が悪いのかもしれないが。

民俗というジャンルは学問とするには体系立っていないし、フィクションとノンフィクションの狭間のようなところがあるから文学作品としても難しい位置づけにある。

しかしそこには、人間社会の原点というかエッセンスのようなものがあり、その多くは現代では失われてしまったように思う。日本中の人間がヨーカドーやジャスコの服を着て、TVやインターネットで同時に同じ情報を共有している、そういう社会が望ましいものであるのかどうか、などと考えさせられる。

その意味で、この作者の醸し出す世界は非常に興味深いものがある。テレビその他で作者をみて食傷気味の人も、この作品集だけは読んで損はない。他の作品の中では、やはり岡山県山間部で起こった津山事件を題材にした「夜啼きの森」も味わい深い。もっとも、横溝正史「八つ墓村」をはじめ、津山事件を題材にするとたいてい読み応えのある作品にはなるのだが。

[May 25, 2005]


ヴァン・ダイン「カナリヤ殺人事件」

いまの中学生は塾通いで忙しいし、あいている時間はテレビゲームと相場が決まっているが、私の頃はもう少し世の中がのどかで、中学生の男子はミステリーを読むかSFを読むか、はたまた部活動に熱中するかのいずれかだった。

ミステリーの分野でも江戸川乱歩など国内作家を好む組と海外作家を好む組とに分かれたが、私はというと後者に属したので、エラリー・クイーンやアガサ・クリスティ、クロフツ、ディクスン・カーなどの作品を読みあさったものであった。今ではほとんど内容を忘れてしまったが、いまだに強烈な印象を残しているのがヴァン・ダインのこの作品である。

なにしろ、主人公である探偵のファイロ・ヴァンスは多方面の芸術に通暁している上にギャンブルも好きだという「好事家」である。この作品でも、トリックの要が「ベートーベンのアンダンテ」なのだが、70~80年前のことだからトリックの古さは措くとして、発見に至るまでの能書きの多さは推理小説としての枠組みを超えているものがあった。

また、犯人を特定する手掛かりとなるのは、容疑者たちと探偵が行うカードゲーム(ポーカーだったと思う)なのである。ポーカーが強いからといって特定されてしまう犯人も気の毒だが。ちなみに、ヴァン・ダインの長編作品「○○殺人事件」は全部で12あるが、後期の作品の中にカシノを舞台とした「カシノ殺人事件」がある。カシノファンとしては、一読して損のない作品群であると思う(ただし、いま残っているのは文庫だけのため、老眼にはきびしい)。

ヴァン・ダインはペンネームで、本職は評論家である。大方の作家は多くの作品を発表する中で名作といわれるものがときたま出てくるのだが、ヴァン・ダインの場合はほぼ最初の4作品がベストで、後期の作品はそれほど評価が高くない。作者自身もそれが分かっていたためか、12作品を発表してあとはミステリーの執筆を止めている。「カナリヤ」は2作目の作品で、代表作といわれる3作目「グリーン家」4作目「僧正」に次いで評価の高い作品である。

因みに、当時この手の海外ミステリーは、創元推理文庫に頼るしかなく、大体の本屋にはかなりの量の創元推理文庫の本が置かれていた。たいていの作品はそれで手に入ったが、版権の関係でアガサ・クリスティの名作「そして誰もいなくなった」がハヤカワミステリで出たので、わざわざその本を探しに神保町まで行ったことを覚えている。

[May 17, 2005]

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