リチャード・ドーキンス「利己的な遺伝子」    浅田次郎「椿山課長の七日間」
小野不由美「屍鬼」    京極夏彦「巷説百物語」
ヴィクトル・ユゴー「レ・ミゼラブル」    夏目漱石「吾輩は猫である」
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リチャード・ドーキンス「利己的な遺伝子」

注.この本の性格上やや過激な表現がありますが、あくまで生物学的・社会学的な見地から述べているものであり、個々人のライフスタイルに口出ししようというものではありません。ご容赦ください。

さて、今年初めての本のご紹介をどれにしようかと考えていたら、昨年とうとう日本の総人口が減少に転じたというニュースがあった。30年近く前に学校で「人口統計」を勉強していた頃には21世紀半ばといわれ、1990年頃に「1.57ショック」(出生率がひのえうまの年を下回る)があったときには2010年代といわれていた人口減少社会がとうとう現実のものとなったことになる。

ところで、週刊文春で連載を持っている竹内久美子さんという人がいる。彼女の著作で述べられているところの「姑が嫁をいじめるのは、古い嫁を追い出して新しい嫁を迎えることにより、自分の遺伝子を増やそうという戦略である」的主張のネタ元になっているのが、この本である。というのは、竹内さんの先生は日高敏隆京大教授なのだが、この方がドーキンスのこの著作の日本語訳をされた方なのである。

ドーキンスの考え方は「進化的に安定な戦略というのは、いったい何にとってなのだろう」というところから出発している。従来、例えば進化というのは、種の保存なのであるとか、淘汰であるとか、いや個体にとっての最適な戦略が合わさってそうなったのであるとか、いろいろな主張がなされてきた。

しかし、生物学者であるドーキンスは、そうした従来の観点では説明できない動物の生態があることに着目した。こうした生態が現実に残っている以上、それは何かにとって安定的な、メリットのあるものなのではないか。

その結果到達したのが、「生物は、遺伝子の乗り物である。生物の行動、生態というものは、遺伝子のコピーという観点で進化的に安定な戦略をとっているのである」という結論であった。

それにより、生物のいろいろな行動に説明がつくのである。さらに、世代間(親子)での利害の対立、配偶者(というと人間ですが、そうとは限らない)との利害の対立等々、これまでとはまったく違った観点から光が当てられたのである。

例えば、なぜ人間の大部分は一夫一婦制をとっているのか?未開な社会では乱婚ないしハーレムだったものが、宗教など社会的規範でそうなってきたと考えがちであるが、動物だってつがいの相手が確定しているものはいるのである。

ドーキンスの理論によれば、遺伝子が自らのコビーを残すという最適な行動をとると、集団の大部分は一夫一婦制となり、何分の1かが「浮気戦略」「尻軽戦略」をとることが進化的に安定となるのである。特に何らかの理由がない限り(富の集中とか)、人間という生物はそうなるようになっているのであった。



この本で一番印象に残っており、かついろいろな意味で参考にしていることがあるのでご紹介したい。

行動の選択肢に「好意」と「悪意」があり、お互いに協力(双方「好意」)すればほどほどのプラスだが、裏切った場合(自分が「悪意」・相手が「好意」)最大のプラス、相手に裏切られた場合(自分が「好意」・相手が「悪意」)が最大のマイナス、お互いに裏切った場合(双方「悪意」)そこそこのマイナスという関係があるものとする。“囚人のジレンマ”とも呼ばれるケースである。

本書では、くちばしの長い鳥と、その頭のノミという例をあげている。鳥がお互いに相手の頭のノミを取り合えばそこそこのプラスだが、自分は取ってもらい相手のは取らないという場合が自分の手間がかからない分個体にとって最大のプラスとなる。

このような関係性を持つ個体が一定数いるとして(つまり、そういう社会があるとして)、進化的に安定な戦略とは何なのか。すべてが協力(好意)のみで成り立っているお人よしの社会ではほどほどのプラスでみんなが満足しているが、そこに「裏切り者」(悪意)が現れたとする。すると、この「裏切り者」は最大のプラスを得ることができるからその数を増やしていく(例えば自分の頭のノミはとってもらい相手のノミはとらないから、その分えさをとったりする時間が増えて栄養状態がよくなる、といった状況)。

ところが、社会すべてが「裏切り者」となった場合、誰も自分の頭のノミはとらないから、みんながマイナスとなり社会全体が衰退していく(例えば、衛生状態の悪化により伝染病がはやるという状況)。それでは、さまざまの戦略を持つ個体が社会を構成するとして、どのような戦略がベストであるのか、コンピュータで演算してみたのである(プラスが一定値になれば増加し、マイナスが一定値になれば減少するというような仮定を置いて)。

すると、「お人よし」戦略、つまり相手がどうあろうと常に好意で対応するという戦略は、いろいろな状況による変化はあるが、最終的には生き残るし、「裏切り者」戦略、つまり好意に対して悪意で応えることにより大きなプラスを獲得しようという戦略は、それがどのように巧妙なものであったとしても、ごく少数あるいは全く生き残れないということが分かった。そして、最大のプラス、つまり社会においてより選択されていく戦略とは何か?実は、”Tit for tat”戦略といわれるものなのである(それと関係あるのかどうか、昔そういう種牡馬がいた)。

”Tit for tat”戦略とは、日本語では「しっぺ返し」と訳しているが、何もなければ「お人よし」である。しかし、相手が悪意を示してきた場合、その相手に対し次回は悪意で応えるというものである。この「次回は」というところがミソで、次回以降は再び「お人よし」に戻る。これが「お人よし」以上の成績をあげる唯一の戦略ということである。対人関係においてどの程度の実効性があるのかは分からないが、私自身このことを頭に置いて人と関わるように心がけている。

昨日の最初の話に戻るが、「個体数の増減」についても実は遺伝子にとって最適な戦略に沿ったものであることが考えられるらしい。従って、人口減少社会になったからといって、それほど気にする必要はないのかもしれない。少なくとも、「個体数の減少」は「飢餓の回避」という側面があるようである。

いまや古典的名著となってしまった作品。生物学が実生活の何に役立つかと思われるかもしれないが、例えば害虫の駆除には生物学の知見が必須です。


[Jan 12, 2006]


浅田次郎「椿山課長の七日間」

いくら親しい仲でも、政治と宗教の話はしない、というのが日本の常識である。「和を以って貴しとなす」わが国にあっては、お互いに譲ることの難しいそうした話題を避けるというのが、長年にわたり培われてきた風土なのだろうと思う。

しかし一方で、「私のいうとおりにすればインシュリンなどなくても糖尿病は治る」などという宗教家もどきにだまされて命を落とす人もいるし、命の次に大切なおカネを失う人など星の数ほどいるのだろうから、あまり宗教オンチなのもどうかと思う。

そこで、この作品である。物語自体は荒唐無稽なお話で、バーゲンセールの最中、激務に激務を重ねたデパートの販売担当責任者椿山課長は、とうとう取引先の接待中に倒れて突然死してしまう。そして、このままでは死んでも死に切れないと仮の姿で現世に戻るのだが、というストーリーである。作品自体はこの作者の特徴ともいえる説教臭いところが鼻につかないでもないが、すんなり読める。

ところがこの作品、実は仏教世界のパロディーなのである。そもそも七日間というのはいわゆる「初七日」のことだし、運転免許の書き換えのように判を押してもらって天国へ行くというのは、悪人でも南無阿弥陀仏と唱えれば極楽浄土という浄土宗、浄土真宗の教えを分かりやすく図式化したものなのである。その意味で、玄侑宗久(芥川賞作家、福島のお寺の二代目)のもったいぶった作品などよりよほど楽しく読める。

日本の伝統宗教である仏教や神道のよくないところは、自分たちの宗教を分かりやすく示すという努力をほとんどしていないことだと思う。それをしているのはむしろ新興宗教や異端に近い教団であり、だから宗教というとなんだか胡散くさいという印象を与えているのではないか。仏教関係の作者で読ませる努力をしているのはひろさちや氏くらいで、あとは難しい話をより難しくしているという印象をぬぐえない。

浅田次郎の作品では、他に「憑神(つきがみ)」が稲荷信仰のパロディーで(本人は結構まじめなのかもしれないが)、大店の主人風の「貧乏神」、貫禄ある相撲とりの「疫病神」、いたいけな少女の「死神」が出てくる。これもすごく面白い。

宮崎駿の「千と千尋」も神道世界(途中から魔女になってしまうが)からモチーフを持ってきている。もちろん原理主義的に一つの信仰に固まってしまうのはよろしくないが、ある程度の宗教の知識は小さい頃から持つことが望ましいのではないかと思ったりもする。

[Mar 7, 2006]


小野不由美「屍鬼」

最近、日本の作家の作品は得てして過激な方向へ行けば注目を集められる的なところがあり、あまり読書欲が沸かないことが多い。その中でこの作品はなかなか読み応えがある。この作品の内容やあらすじを全く知らないという人にはぜひお奨めしたい作品である。

そういう事情で、内容についてはあえて触れない。まあ単行本の帯「尋常でない、何かが起こっている」くらいでとどめておくこととして、単行本の上巻・下巻のうち上巻の2/3くらいまで読んで、これが「その話」だと分かったとしたら大したものである。その意味で、この作品は先を急がず前半部分をじっくり読むべきである。2日くらいは絶対に楽しめる。

下巻に入ってしまうと、大体あらすじが読めてしまう(そもそも冒頭部分に結末があるのだ)ので、むしろディテールを味わうことになるのだが、物語の中の論理としてもつじつまが合っているかどうかはちょっと首をひねるところがあるものの、決して熱くならない語り口と破綻しない文章力はなかなかのものである。

反面、こういう作品の読み方として、たくさんの登場人物の中で誰かに感情移入して読むという方法があると思うのだが、誰にも感情移入しにくいという弱点がある。作者はある種ノンフィクションのような読み方を期待しているのかもしれないが、ノンフィクションだって感情移入して読む人はいるのだ。

作者の小野不由美は、「なんたら館の殺人」シリーズ綾辻行人の奥さん。綾辻行人は西原のマンガで麻雀が下手だと言われていた。ちなみに、この作品をパロディにした「脂鬼」が収録されている京極夏彦「どすこい安(仮)」もかなり面白い。

[Apr 20, 2006]


京極夏彦「巷説百物語」

近年の新進作家といわれる人の中で最も「読ませる」作者の一人が京極夏彦であることに、疑義を唱える向きはあまりないのではないかと思う。

「読ませる」というのは、文字通り一つの作品が非常に長く読むのに骨が折れるという意味も含んでいるのだが、読者をうならせるという本来の意味でもまれにみる逸材といっていい。小説を読んでなるほどと思うのは一つは作者の知識であり、併せてそれを最大限に活かすためのプロット、すなわち仕掛けである。京極夏彦の場合、そのいずれにおいても読者の予想をかなり上回ることに成功している。

あまり説明してしまうとネタバレになるので概要だけいうと、彼の作品のテーマとなっているのは基本的に怪異である。いわゆる妖怪変化や不可思議な出来事である。それがモチーフとしてあるのだが、実際には人間の物語である。表紙や挿絵に惑わされて単なる怪談の類と考えていると、その予想は大きく裏切られることになる。その意味で、彼の代表作は「巷説百物語」ということになるだろう。

百物語は、一人がひとつずつ怪談を語っていき、それが終るつど目の前のろうそくを消していく。ろうそくは百本あって、その百番目のろうそくが消されて真っ暗闇になったとき、そこで不思議な出来事が起こっているというものなのだが、このシリーズ「巷説百物語」「続巷説百物語」「後巷説百物語」では、最後の話でその百物語が行われる。とはいっても、もともと独立した作品として発表されており、その一つ一つが百物語の仕込みというか、ひとつひとつの怪奇談となっている。

主人公というか語り部となっている山岡百介は、武士の出であるが縁あって商家の養子となる。しかしもともと商才があるわけではなく、養親が亡くなるとさっさと楽隠居して、諸国に怪談を収集しに行くという設定である。非常にうらやましい身の上であるが、御行(おんぎょう、行者のこと)の又市をはじめとする不思議な連中にいつのまにか巻き込まれて、さまざまな事件に関わりあっていく。

京極夏彦の作品では他に「鉄鼠の檻」(てっそのおり)という長編の作品があり、これもまた読ませる。禅宗をテーマとした作品で、最初からヒントが示されているという点で、推理小説のような味わいがある。しかしそのヒント自体読者の及ぶところではなく、ここでも作者の博識にうなってしまうのである(禅宗の奥義は不立文字~文字に表すことができない~であり、これでいいのかという疑問はやや残るが)。

あと、ひとつだけ言いたいのは直木賞のことで、シリーズ最終編である「後巷説百物語」が受賞したのだが、これは反則だと思う。というのは、続編の場合、登場人物の造形がすでに前作までで行われているため、読む前の時点で読者にはすでに先入観や予備知識があり、そうでない作品とは出発点が違うからである。でもこれは作者の罪ではなく選者の罪であろう。もっといえば、「覘き小平次」で当然受賞してしかるべきだったと思う(なんとこの時、受賞作品なしである)。

大沢在昌、宮部みゆきと共同でマネージメント会社「大極宮」を運営している。3人とも売れっ子というのはすごい。


[Apr 6, 2006]


ヴィクトル・ユゴー「レ・ミゼラブル」

このところマンガの話が続いたので、たまには小説を。小説というジャンルに限れば、日本で親しまれている外国文学というと東(中国)の「西遊記」と西(欧州)のこの作品が東西の横綱であるといっても過言ではないだろう。大抵の国語の教科書には"銀の燭台"の話が載っているし、ミュージカルでもやっている。この小説を全く知らないという人はあまりいないのではないだろうか。

1789年に「ベルサイユのばら」でフランス革命が起こった後、ナポレオンの時代となったが、1814年にナポレオンが没落した後のウィーン体制におけるフランス国内はかなり不安定な状況が続いた。そして1930年の八月革命、1948年の二月革命へと向かうことになる。

この時期有名な絵画にドラクロワの「民衆を導く自由の女神」があるが、既得権益を守ろうとする国王および貴族階級と、自由と平等を旗印にする労働者や市民が、この絵にみられるように鋭く対立したのであった。「レ・ミゼラブル」の舞台となったのも、この時代である。

この物語の主人公であるジャン・ヴァルジャンは家族のためにパンを盗んでそれがもとで20年近くを牢獄で過ごすことになった。出所後、身分を隠して実業家となり、ひと財産作って市長にまでなったが、馬車の下敷きになったフォーシュルバンじいさんを助けたことで刑事ジャヴェールに正体がばれて再び牢獄へ。

事故を装って脱獄し、市長時代に助けることが出来なかったファンティーヌの娘コゼットを引き取ってようやく安定した生活を送るかと思われたが、コゼットの恋人(後に夫)マリユスをめぐって革命の渦に巻き込まれて、というあらすじである。

この物語で一番好きなのは、ジャン・ヴァルジャンがテナルディエのところにコゼットを助けに行くところである。

コゼットを追い出そうとしていたテナルディエが、コゼットを引き取りたいというジャンに「養育費の未払いがある」「この子の親に貸したカネがある」などといってお金を取っていって、まだ払えるとみるや「預かっている子を勝手に渡すわけにはいかない。この子の親から許可がとってあるのか」と言ってさらに巻き上げようとしたところ、ジャンは財布からメモを出す。

そこにはファンティーヌの字で「この手紙を持った人にコゼットを渡してください」と書いてある。というのは、ジャン・ヴァルジャンはマドレーヌ市長を名乗っていた時から、コゼットを引き取るとファンティーヌと約束していたからなのであり、その後牢獄につながれたにもかかわらず、その時に書いてもらったメモを大事に持っていたのであった。



この小説の原作は4部構成となっていて、第一部の表題が「ファンティーヌ」、第二部が「コゼット」、第三部が「マリユス」、そして最後の第四部がようやく「ジャン・ヴァルジャン」である。もちろん、この物語の主人公はジャンなのだが、その名を付したところが、彼が華々しく活躍するところではなく、コゼットが彼の許を離れ、財産もかなりの部分を譲ってしまい、パリの片隅で一人寂しく暮らしているところ、というのも作者の趣向である。

原作を読まれた方はご承知のように、小説として展開がめまぐるしく動くのは第二部までで、第三部以降はフランスの八月革命(1930年)以降の政治的混乱についての記述が延々と続く。ウィーン体制というのはつきつめると一種の反動政治というか旧来の特権階級の既得権を守ろうという観点から、「フランス革命(1789年)はなかったことにして、昔の王政に戻しましょう」というものであったから、革命後その政治的勢力を強めた市民・労働者層には受け入れがたいものであった。

小説家や芸術家はいつの時代も反体制的であるから、ドラクロワの作品もユゴーの作品も市民のスタンスから描かれているのだが、そうした観点から主要登場人物の造形を考えてみるのもおもしろい。

ミリエル神父に銀の燭台をもらってからのジャン・ヴァルジャンはまるで別の人物のように思慮深く、商売上手で、人当たりがよく、怪力の持ち主なのはともかく、射撃もうまくなっている(どこで練習したんだろう?)のに対し、テナルディエは何十年たっても悪党だし、ジャヴェールは執念深い。マリユスは基本的に世間知らずのお坊っちゃまくんである。

最後の脱獄の後、コゼットを引き取ることに成功したジャンが、またもやジャヴェールに追われて修道院に逃げ込むと、そこの寺男(というのか?)をしていたのが昔馬車の下敷きになっていたのを助けたフォーシュルバンじいさんで、ジャンとコゼットはここで十数年を過ごした、というのも結構好きなところである。

莫大な隠し財産があるのに、十数年もそうやって身を隠して再起の機会を窺うというあたり何とも言えない。私には隠し財産などないのだが、疲れる割に実りの少ない仕事で毎日を送りながら、「いまは修道院の時期だ。もう少し待てば、展開が変わるはずだ」と自らを元気づけている。いろいろな意味で、私にとって印象深い作品である。

[Jun 27,2006]


夏目漱石「吾輩は猫である」

先週の土曜日、久しぶりに蕎麦屋に行った。蕎麦屋に行くと、頼むのは大もりか大ざるである。わさびはつゆに溶かずに直接蕎麦につけるのが本式らしいが、構わずつゆに溶いてしまう(どうせたいしたわさびではない)。蕎麦を手繰って半分ほどつゆに浸し、そのまま噛まずに飲み込む。蕎麦はのど越しで味わうのである。この食べ方は小学生の頃、夏目漱石のこの作品を読んで始めたのであった。

その頃、生まれて初めて文庫本というものを見て、早速買ったのがこの作品であった。確か角川文庫だったと記憶している。小学生用の装丁もしっかりして字も大きい「児童文学全集」よりかなり値段が安くて、これならいろんな本が読めるぞ、と思った。

ただ、活字は非常に小さくて、紙もそれほど良くなかったから目はひどく疲れてしまう。実際に小4まで両目1.5あった視力が、文庫本を読むようになって1年ほどで0.3近くにまで落ちて、メガネをかけなければならなくなってしまった。高校受験の頃にはすでに0.0いくつかの世界である。

さて、この小説であるが、明治時代に文芸誌「ホトトギス」に掲載された作品で、基本的に1話読み切りになっているので読みやすい。

上の迷亭氏が主人公である苦沙弥先生宅に蕎麦の出前を頼むシーンはとても好きだし、他にも、天彰院様のご祐筆のなんとかとか(天璋院様が島津家から将軍家に嫁に来た篤姫だというのは知らなかったが)、義太夫に行こうとしたら悪寒がしてとまらなくなる話とか、七代目樽金とか、おなじみの薀蓄話がいろいろ出てくるのがこの小説の楽しいところである。ちょっと暇になった時に適当に数ページ読むのには最高に適した本であるので、そういうニーズのある方にはぜひお奨めしたい。

この小説が世に出たのは日露戦争の直後だからもう100年も前のことなのだが、登場人物の話し言葉や苦沙弥先生の奥さんの亭主に対する態度などを読んでいると、今とそんなには変わらないなあ、という気がする。

戦前(第二次世界大戦前)は閉鎖的な世の中で、戦争が終わってようやく自由になったというのはやや思想的に偏った人の言い分で、実際にはそんなことはなかったという意見があるが、この小説などを読んでいるとなるほどその意見もうなづける。

それはそうと、この小説を初めて読んだ時は、胃弱とか、タカジャスターゼとかになぜか好奇心を覚えてしまったのであるから何とも不思議である。これまでの人生で、二日酔いには数限りなくなったけれども、胃腸が弱いと感じたことは一度もない。

[Nov 22,2006]

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