阿佐田哲也「東一局五十二本場」
筒井康隆「筒井順慶」
椎名誠「哀愁の町に霧が降るのだ」
木村義徳「ボクは陽気な負け犬」
米長邦雄「人間における勝負の研究」
藤沢秀行「人生の大局をどう読むか」
山形県の民話「かさじぞう」
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阿佐田哲也「東一局五十二本場」
雀聖阿佐田哲也先生の作品としては、まず「麻雀放浪記」をあげるべきなのだが、同作品については映画化されたものが非常によくできていて、小説のイメージよりも真田広之、鹿賀丈史、高品格などの映像イメージが浮かんできてしまう。読者の想像力をかきたてるという意味では、短編ではあるがこの作品などは優れているといえる。
腕自慢の青年が、麻雀業者と名乗る男に、プロとの対戦をリクエストするところからこの小説は始まる。レートは青年にしては高めに設定したのだが、それを上回る差しウマ(プレイヤー間の相対勝負)を組まれてしまいプライドを傷つけられた青年は、役満を含む大型手を次々とツモって、プロ3人との差を大きく広げていく。
「俺に大差で負けているのに、お互いの勝った負けたでプロなどとは笑わせる」と青年は鼻高々であるが、やがて彼の親である東一局がずっと続いていることに気づく(ノーテン親流れにはならない取り決め)。この勝負に勝つだけの点数をすでに持っている彼は誰かに振り込んでゲームを進めようとするが、誰も上がらない。そして、連荘の点棒だけが際限なく積み上がっていく。二十本場、三十本場、四十本場・・・。
プロの一人が手洗いにたった時にそれを追った青年は、振り込むから上がってくれと頼む。しかしそのプロは言う。
「誰が最下位の奴と組むのかね。現時点での勝負は、我々3人の間のノーテン罰符千点だけの差にすぎない。実質的な最下位は君だ。」
「そんなこと言ったって、これから全部役満を振り続けたって俺の勝ちですよ。」
「だって君は、東一局から一歩も進むことができないじゃないか。」
五十二本場というのはすでに五十三回山を積んでいるということで、通常の東南戦であればすでに6回終っているはずなのに、まだ東一局(第一戦が始まったばかりの状態)である。そこで、その青年がとった作戦は、そしてその結末は、ということだが、これを言ってしまうとネタバレになるので続きはぜひ読んでいただきたいと思う。
さいきんポーカーをするようになって、この作品のことをよく思い出す。プロというものは、それほどすごいものなのだ。阿佐田哲也はギャンブル世界にたいへんな知識と経験を有してきた人だが、たぶん阿佐田哲也本人も、この作品を書きながら「どうだい?」と得意気にしていたのではないかと思う。そのくらい完成度が高く、ギャンブルの真髄のうちのある部分を表現した作品である。
なぜかアクセスの多いこの記事。新デザインにしてみました。
[Jun 22, 2005]
筒井康隆「筒井順慶」
前に、中学・高校の時には推理小説に行くかSF小説に行くか、二つに分かれたという話をしたことがあるが、推理小説に行った私でも、SFは全く読まなかったという訳ではない。星新一や小松左京、レイ・ブラッドベリなどを少しは読んだが、あまり熱心に読み進もうとは思わなかった。ただ一人の例外が、筒井康隆である。
筒井康隆がSF作家かという議論は昔からあるが、実際SFマガジンへの掲載が多かったのでSF作家なのだろう。「カメロイド文部省」や「活性アポロイド」などは、宇宙もの、科学もの、といえなくもない。ただ、直木賞候補にもなった「ベトナム観光公社」「アフリカの爆弾」をみると、明らかにSFの範疇を超えている。ちなみに、短編で私の好きな作品は病原菌もの(あはは)の「コレラ」である(実際はカミュの「ペスト」のパロディー)。
さて、筒井作品でひとつ薦めよといわれれば、私はこの作品をあげる。ちなみに、氏は戦国武将・筒井順慶の子孫だそうで、作品に出てくる「順慶会」というのも実際に存在するらしい。
二つの出版社から順慶をテーマに「SF的歴史観」で一作書いてほしいと依頼を受けた作中の「俺」は、一族の反対で遺産相続や親戚付き合いが難しくなりそうだ、と断りを入れにいく。そこに居たのは時代小説の大御所。脇で話を聞いていた大御所はステッキを振り上げるや、テーブルにあったガラスの灰皿を叩き割って一喝。「小説家とは天涯孤独。貴様のような奴がいるから、文学の質が低下するのだ!」
その後、取材を続ける中で、どちらの出版社に渡すのか、一族の変わった人達の登場、睡眠薬の飲みすぎによる過去と現実とのシンクロなど、例によっての筒井ワールドが展開される訳だが、年取ってからの「文学部唯野教授」のような重厚さはない代わりに、軽くて展開が速い。どちらかというと最後収拾がつかなくなって終わることが多い氏の作品にあって、終わり方もまともである(週刊文春連載だそうだから、そんなことも影響しているのかもしれない)。
最初に氏の作品を読んだ頃は、NHKで「時をかける少女」がドラマ化されたことは知っていたが、ここまでメジャーになるとは思っていなかった。先日深キョンが主演した「富豪刑事」も氏の作品である(原作は男だが)。ファンなら周知のことだが、メジャーになってからより、初期の作品をぜひ読んでほしい。あれだけの量の作品をかなりの質(どういう質だという問題はある)で発表し続けた氏の才能はやはり素晴らしいということが実感できるだろう。
[Jul 11, 2005]
椎名誠「哀愁の町に霧が降るのだ」
「野菊の墓」(伊藤左千夫)が映画化されなくなって久しい今、わが郷土千葉県の産んだ作家の代表格は椎名誠ということになるだろう。その椎名誠の代表作がこの作品である。
小岩(昔は今よりかなりうらぶれていた)の中川放水路沿い、昼間でも陽の当たらないアパート克美荘の6畳1間に、椎名、木村、沢野、イサオの4人が共同生活を始める。
まともに稼ぎのあるのは、サラリーマンのイサオただ一人。残りの三人は親の仕送りやらバイトの収入でなんとかやっていくのだが、毎日酒盛りをやっているためか、その経済はたびたび破綻する。そう、この物語は創作ではなく、実際にあったことを書いているのであった。
作者はいわゆる団塊の世代で、私より10ほど年上になる。この世代はどの分野にもすさまじいエネルギーを発揮した世代であり、学生運動をやってみたり、モーレツ社員をやってみたり、「人類の進歩と調和」で大阪万博をやったりした。前に触れた「男おいどん」もそうなのだが、この世代の共通項は「上昇志向」である。
前の世代がそうだったためか、私と同年代の中には「一生懸命」があまり好きでない人が多い。もし、そうせざるを得ない状況にあったとしても、「テキトーに」やっているように見せるのが信条だったりする。これと対照的に、椎名誠はどこで何をしていても一生懸命である。無人島に行っても、厳寒のシベリアや中国奥地に行っても、子育てをしても、である。
この物語に話を戻すと、一番好きなところは、みんなで布団を干しに放水路沿いに行くところである。(上中下の下巻)布団を干したら、うまいカツ丼を食わせるという約束だったのだが、なんとその店が閉まっている。
「どうすんだよ、カツ丼の件は、どうすんだよ」と逆上する沢野に、3人のとった解決策は?といったくだりである。総武線で何十年も通勤通学したせいか、あのあたりの風景が目に浮かんで、とてもうれしくなる。(椎名ファンには補足するまでもないが、沢野とは、いまでも椎名の文章に挿絵を描いている沢野ひとしである。)
正直なところ、若い男4人で6畳は臭いだろうな、と思わないでもないが、おもしろくて哀しい、スーパーエッセイである。
椎名誠は確か市立千葉高出身。市立千葉とか、聖書学園とか出てきてしまうのが千葉ジモティ。昔の総武線は、千葉の向こうかこちらかで、女の子の顔が全然違いました。
[Aug 12, 2005]
木村義徳「ボクは陽気な負け犬」
将棋界は名人を頂点としてA級、B級1組、B級2組、C級1組、C級2組のそれぞれ順位戦と呼ばれる各クラスに分かれていて、この順位戦を1年間戦った結果、それぞれの上位・下位が入れ替わって翌年度の順位戦のランキングが決まる仕組みとなっている。名人に挑戦できるのはこのうちA級の棋士10人の総当り戦で1位になった棋士であり、A級はいわば一流棋士の代名詞ともなっている。
この順位戦の歴史の中で、ただ一人2年連続昇級してA級、そのすぐ後に続けて2年連続降級してB2という記録を作った棋士がいる。木村義徳九段といって、木村義雄十四世名人(戦前の名人である。月下の棋士で「わしは一度しか指さん」と言ってインチキで勝った村木名人のモデル)の子息であり、確か大学院から将棋界に転じた異色の棋士であった。
連続昇級は実力ある棋士には珍しくないが、そうした棋士は連続で降級することはない。氏は後に「弱いのが強いのに勝つ方法」「ボクは陽気な負け犬」といった著書でその秘密の一端を明かしている。
木村のA級昇進は昭和54年のB級1組順位戦であるが、当時のA級というと大山康晴十五世名人がまだまだ健在。名人は「突撃しまーす」で有名になった中原誠、中原のライバルで後に名人になった米長邦雄(林葉の師匠でもある)、「神武以来の天才」と呼ばれた加藤一二三などが将棋界のトップクラスであった。
氏はどう逆立ちしても彼らのようにはなれない、という観点から、それでも何とかして勝つにはどうしたらいいか考えた。なにしろ、将棋界において勝つということは名誉だけでなく、生活もかかっているのである。
彼の至った結論は、「長い勝負になれば実力の差が出る。弱いのが強いのに勝つには短期決戦しかない」ということである。将棋の作戦には急戦と持久戦があり、急戦の場合6~70手で勝負がつくが、持久戦の場合百数十手の勝負となる。この場合、迷うことなく急戦を選択するのである。
当然の帰結として、早い段階で攻める将棋となる。また、決断も早く行わなければならない。ある種、「負けてもともと」という思い切りも必要となる。
氏はその戦法を駆使して、その年のB1順位戦を勝ち抜いた。そして、次の年のA級順位戦で全敗、その翌年のB1順位戦でも1勝11敗でその下のB2に降級した。それでも、あまり本人は気にしていない。なにしろこの本の副題が「強いばかりが人生じゃない」なのである。勝負師の著作としては異色この上ないといえる。
気がついた方がおられるかもしれない。私のポーカーの戦法はまさにこれである。つまり、私にとって非常に有意義な本であった、ということである。
[Sep 13, 2005]
米長邦雄「人間における勝負の研究」
先週に引き続き、将棋の棋士が書いた本である。米長は後に名人になったが、この本を書いた当時は同年代のライバル中原誠の全盛期であり、十段や棋聖といったいわば「マイナータイトル」を獲得するにとどまっていた。この後にいろいろな本を書いており、東京都の教育委員会委員にも抜擢されたように元来多才な人だが、確か将棋以外の著作はこの本が初めてである。
昔の囲碁・将棋のプロたちの間で、よく「指運」ということがいわれていた。囲碁や将棋の変化はいわば無限であり、限られた持ち時間の中ですべての変化を読みきる(検討し尽す)ことは到底できない。だから、実力差が紙一重のトッププロ同士の対戦において、その時その場でどの手を選ぶのか、ひいては勝つか負けるかの境目というのは、いわば運なのだという考え方である。
だから、当時の棋士たちはどうしたら「運」を呼び込むことができるか真剣に考えた。そのために、というかそれを言い訳にして、競輪や競艇(平日でもやっている)にのめり込む者も多かった。そうした中で、米長なりの回答を示したのがこの本である。エッセンスだけいうと、「運を呼び込むためには、人生において貸し方に回らなければならない」ということである。
この場合の貸し方とは、簿記会計における借方・貸方とは少し違う。「債権者」がより近い言葉になるだろう。例えば、第二次大戦前に相当の土地を持っていた米長家は、戦後の農地解放によりその資産の大部分を失うことになるのだが、これを米長は「米長家は日本国に貸しがある。だから、この先悪かろうはずがない」と考えるのである。また、女性と別れる際には、相場より多い額を渡すことが貸し方に回る、ということだそうである(経験のない私にはコメントできない)。
そのように、人生に借りを作らず貸しを作ることが「さわやかな生き方」であり、幸運の女神はこのような生き方をする人を好むはずである、というのが米長の主張である。だから、当時彼を評して「さわやか流」というような表現がなされたし、実際、後に将棋界の最高峰である名人となったのだから、それも一つの考え方である、ということはできるのだろう。
20年以上の時を経て、わがリゾートカシノ界においては、ちくわさんを初めとする生独+我中の人たちが「善行」を励行されている。もしかしたら、これは普遍的な運勢向上法なのかもしれない。
[Sep 20, 2005]
藤沢秀行「人生の大局をどう読むか」
先週、先々週、と将棋の棋士の本を紹介したが、囲碁の棋士の本にも面白いものがある。その最右翼は藤沢秀行の著作だろうと思っている。
囲碁のタイトルにおいて別格なのは「本因坊」である。これは、江戸時代から続く囲碁の名人の名跡(他にも安田とかがある)であり、本来、茶道の千家や相撲(行司)の木村家と同様、家元やその弟子筋が世襲するはずのものであった。ところが、本因坊家の当主は、「囲碁の名人である本因坊を名乗るのは、一番強い棋士であるべきである」との信念のもと、これをタイトルにしてしまった。
だから、昔は本因坊のタイトルをとると「本因坊秀格」(高川格)とか「本因坊栄寿」(坂田栄夫)とか名乗るものだったのだが、現在では、「趙治勲本因坊」というように、タイトルとして苗字とは別に表記するようになっている。
名人のタイトルができたのは戦後大分たってからで、この第一回を制したのが藤沢秀行である。それから20年近くたって、名人に匹敵する高額賞金タイトルの棋聖ができたとき、やはりこれを制したのは藤沢秀行であった。このことから、棋界では彼を評して「初物食いの秀行(シュウコウ)」と言ったのであった。
しかし、彼を有名にしたのは、碁打ちとしての才能、実績というよりも、その借金と奇行であった。このあたりを述べたのが本書であるのだが、この中で秀行は「酒を飲んでも競輪に溺れても、毎日の碁の勉強を怠ったことはない」という。
もちろん、何十年にもわたって一線級を張っていくのに、生活が乱れて勉強ができないのではとても無理だろう。しかし、常人には、当時ですでに億単位にのぼったという借金を抱えて、平常心でいられる訳はないから、その意味でも稀有な才能(図太い神経)をもっていたことは間違いない。
ちなみに、秀行が今でいうとおそらく十億単位の借金を作った理由は競輪であるといわれているが、どうもそうではなく、いろいろな事業に手を出した末に、会社をつぶしたり保証人になって逃げられたりしたのが原因であるらしい。
もっとも、関東近郊のとある競輪場で、彼が買っていた先行選手が差されないように、金網をつかんで「がまん~、がまん~」と叫んでいたら金網が広がってしまったという「藤沢秀行がまんの金網」というのは、本当にあった話とのことである。
[Oct 1, 2005]
山形県の民話「かさじぞう」
笠地蔵と書くのが本当かもしれないが、もともと子供向け絵本で読んだ話なので、あえてひらがなで表記してみる。
舞台はずっと昔、雪深いどこかの村はずれの大晦日。貧しいおじいさんとおばあさんが二人で暮らしている。年越しのための餅やいろいろな物を揃えられないほど貧しいので、おばあさんが編んだ笠をおじいさんが町まで売りに行き、そのお金でいろいろ買おうとする。笠は5つ用意して、おじいさんは朝から一生懸命売るのだが、全く売れない。日も暮れて、人通りもなくなり、おじいさんはあきらめてとぼとぼと帰り道に向かう。
帰り道も大雪である。ふとみると、6人のお地蔵さんが頭にも体にもすっぽり雪をかぶって立っている。これを見たおじいさん、「お地蔵さんも、寒そうだねえ。売れ残りの笠で悪いが、これでもあると大分違うだろう」と、お地蔵さんの頭の雪を払って、笠をかぶせてあげる。笠は5つしかないから、最後の一人には、「これしか笠がないんで、悪いがこれでがまんしてください」と自分が頭にかぶっていた手ぬぐいをかぶせて、手を合わせた。
手ぶらで家に帰ったおじいさん、「笠は売れましたか?」とのおばあさんの問いに、「一つも売れなかったんで、帰り道のお地蔵さんにかぶせてやったよ」と答えると、おばあさんは「それはいいことをしましたねぇ」と言って、わずかに残っていた粟をおかゆにして、食べて早くに寝てしまいました、という話である。
なぜか、年の暮れ、正月間近になると、この話を思い出す。餅とかおせちの材料とかそういうものを「正月買い物」(しょうがつかいもん)というらしいのだが、以来わが家では、このフレーズをよく使う。最近は元旦からスーパーが開いているのであまりおせちの必要もなくなってしまったが、以前は「しょうがつかいもん、行く?」とか言って、三が日分の食料とか酒をたくさん買い込んだものである。
ちなみに、この物語の結末では、夜中にどかんどかんという地響きで目をさましたおじいさんおばあさんがそっと戸のかげから覗いてみると、6人の石の地蔵さんが「親切なおじいさんの家はここだぞ」と言いながら、餅やら小判やらをたくさん置いていってくれました、ということになる。いわゆる「善行」ということですね。古今東西にわたって、善行はすばらしい、という教訓でした。
[Dec 27, 2005]