小泉八雲「怪談」
ジョナサン・スウィフト「ガリヴァー旅行記」
渡辺和博「夫婦鑑」
鴨志田穣・西原理恵子「アジアパー伝」
J.D.サリンジャー「キャッチャー・イン・ザ・ライ」(村上春樹訳)
柳澤健「1976年のアントニオ猪木」
武田邦彦「環境問題はなぜウソがまかり通るのか」
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小泉八雲「怪談」
ご存知のとおり日本の伝奇小説の最高峰であるが、なぜか差別語問題以降入手しづらい状況にあった。現在出ているのは偕成社文庫版。昔の「怪談」は「耳なし芳一のはなし」が最初だったはずなのに、いまでは「むじな」から始まるのはその影響か。
作者小泉八雲はご存知のとおり明治に入ってから日本に帰化した米国人ラフカディオ・ハーンのことであり、もともと新聞記者で仕事で日本に来たハーンが、欧米に日本を紹介する意図で英語で書いた本である。
作中でもことわっているように、ここに収録されている作品は上の二つの作品や「雪女」「ろくろ首」をはじめとして八雲の創作ではなく、日本の民話から採られたものである。それでも現在そうした話は八雲のこの作品以外で読むことは難しく、おそらくいろいろと細部の違っている伝承から分かりやすく整理された形で作品にまとめた八雲の功績は、きわめて大きい。
そして、柳田邦夫の「遠野物語」がまさに民間の伝承の純粋な形を残しているのに対し、この「怪談」はそれに加えて日本の地理・歴史の紹介という要素がある。その意味で、いま読み返してみるといろいろと新鮮な発見があって楽しい。
例えば「雪女」、吹雪にあったきこりの二人が小屋で一夜を過ごしていると雪女が現れて息を吹きかけると年寄りの方が死んでしまう、という話であるが、この話の舞台は越後でも奥州でもなく、武蔵(東京・神奈川近辺)なのである。
確かに奥多摩や秩父、丹沢あたりは雪になることも多いのだが、イメージ的にもっと雪国の話かと思っていた。でもよく考えてみると、雪女がお雪となって嫁に来た時すごい色白で驚かれたというのだから、みんな色白な東北や新潟というより関東の話という方がそれらしい。もしかしたら昔の関東地方はもっと寒かったのかもしれない。
「鏡のおとめ」という作品では、井戸の中に沈められてしまった鏡の精が、「私は昔、藤原家の宝であったので、藤原の血をひく足利将軍(義政)に献上してほしい」という場面がある。
確かに足利氏、つまり源氏の祖先である清和天皇は藤原氏の血筋だし、足利将軍の歴代の正妻である日野氏も藤原一族なのだが、いわゆる五摂家、藤原本家からはかなり遠い。それでも当時藤原家の縁につながると認識されていたということは興味深い。あるいは、文化人将軍である義政だけに、平安王朝文化を支えた藤原氏とイメージ的に近かったのかもしれない。
そうした作品もあるのだが、やはり白眉といえるのは「耳なし芳一」であろう。琵琶法師の芳一(琵琶法師は目の不自由な人の職業)が平家の怨霊に呼び出されて夜な夜な平家物語壇ノ浦の段を演奏させられる。それに気づいた和尚が、芳一の全身に経文を書き込んで怨霊に見えないようにするのだが、耳だけ書き忘れて持っていかれてしまうという話である。
書き込まれた経文は般若心経。井沢元彦氏がよく書いているように、般若心経は空の理論(色即是空、空即是色)について述べた理論書なので、なぜ怨霊除けになるのかと思うのだが、おそらく八雲の認識は聖書と経文は同じようなものなんだろうと思う。
[Jan 15,2007]
ジョナサン・スウィフト「ガリヴァー旅行記」
この小説のことを全く知らないという人はまずいないにもかかわらず、全部読んだという人もあまり多くはない作品である。この小説が出典となった言葉はいろいろあって、マーケットシェアの極めて大きい企業のことを指す「ガリバー」は、もちろんこの小説の第一部小人国のガリヴァーから採られている。第二部でガリヴァーは巨人国に行くので、その意味では中小零細企業を示す言葉でもおかしくはないのだが。
第三部でガリヴァーが行く島のひとつが飛ぶ島ラピュタで、アニメ「天空の城ラピュタ」はもちろんここから発想されたものである。そして第四部でガリヴァーは知的な馬の国フウイヌムに漂着するが、ここで馬を悩ます野蛮な人類の呼び名がヤフー、インターネットの巨大検索サイト「Yahoo!」の語源である。(注)
(注)Yet Another Hierarchical Officious Oracleの略だともいわれているが、Yahooに語呂合わせしたっぽい。
英国の船乗りガリヴァーは1699年に南太平洋に向かう航海の途中で暴風雨に遭い難破、九死に一生を得るがたどり着いた先は小人国リリパットだった。やっとの思いでそこから脱出して英国に生還し、1702年に喜望峰から太平洋に進むがここで再び暴風雨に遭って難破、今度は巨人国ブロブディンナグに漂着する。やっとの思いでそこから脱出して英国に生還し、1706年に東アジアに向けて出帆するが今度は海賊に捕まって、・・・・といい加減にしてくれよというほどのワンパターンの展開である。
イメージ的には子供向けの冒険小説のように思えるのだが、実はこの作品は18世紀初頭の英国社会に対する風刺小説であり、その言わんとするところは大人の読者でないとまず分からない。
第一部では王権や政党政治に対して鋭い指摘がなされており、第二部では貴族社会や貴族趣味、第三部では文明や科学、第四部では知識や教養が主たるテーマとなっている。それら世間的に価値があると思われているものは実は下らないもの、少なくとも相対的なものにすぎないというのが作者の視点のようだ。
そしてこの時期日本は鎖国の状態にあるのだが、第三部でガリヴァーは、ラピュタからバルニバービ、ラグナグ、グラブダブドリップといった島々を経て、日本(長崎)からオランダ経由で英国に帰ったことになっている。ひっきりなしに沈思黙考して我を忘れてしまうので「たたき役」という召使いを連れている島(ラピュタ)と並列だというのが当時の英国人の日本に対するイメージかと思うとちょっとおもしろい。
ちなみにガリヴァーは「踏絵」をやらされそうになるがなんとか勘弁してもらったと書いてあるが、「踏絵」をさせられるのはもちろん日本人だけであり、これは嘘であろう(それを言ったら全部嘘なのだが)。
全文読むと最後の方はちょっと作者「いっちゃってる」かな?というところもあるのだが、児童文学にとどまる作品では決してないので、ご興味のある方はぜひ読み返していただきたい。因みに、大抵の図書館で子供の本のところに置いてある。
[Feb 7,2007]
渡辺和博「夫婦鑑」
さる2月6日に渡辺和博氏が逝去された(享年56)。同氏や「金塊巻」の共同執筆者神足裕司氏は私とほぼ同年代であり(コータリは同学年)、訃報を耳にしてまず最初にちょっと早いよなぁと思ったけれど、考えてみればそういうことがあってもおかしくない年代に差し掛かってきたということでもある。
渡辺氏は伝説のマンガ雑誌「GARO」の編集長を経て、84年「金塊巻」により一躍スターダムにのし上がった。この作品は作家、弁護士、銀行員、商社マン、料理人その他もろもろの職業について、お金持ち(マル金)と貧乏な人(マルビ)でどのくらい差があるのかを明らかにしたもので、マル金、マルビはその年の流行語大賞を獲得した。
その「金塊巻」もかなりおもしろいのだが、今回お奨めするのはその次の作品である「夫婦鑑」(ふうふかん)である。ここでは、当時できたての言葉であったDINKs(Double Income No Kids)に対抗する概念としてOITKs(オイティクス、One Income Two Kids)を提唱したのである。
もちろんDINKsはマル金、OITKsはマルビである。DINKsは片付ける人がいないので家をいつもきれいにしておかなければならないが、OITKsはきれいにしても子供がちらかすので片付けること自体を放棄する、などの違いがあるそうである。
おとうさんの月の小遣いは年収の100分の1になる、という法則をもとにしたマル5(年収5百万円=月のこづかい5万円)とマル8(年収8百万円=月のこづかい8万円)の考察もおもしろかった。
生活していく以上必要な支出というのはある訳で、その支出を勘案するとマル5は毎月赤字が出てマル8は毎月自由に使えるおカネがあることから、服装から趣味から行き付けの酒場からその際のおつまみから全然レベルが違ってきて、この両者を同じサラリーマンという範疇で括るのは間違いである、といった主張だったように思う。
またニューファミリーの区分として、買う車によって「カローラ派」と「シビック派」に分かれるという話もあった。カローラ派は車の中に家庭がどんどん入り込んでしまうのに対し、シビック派は家庭とは一線を画していて、チャンスがあれば妻以外の女性を助手席に乗せようという魂胆があるということである。
他にも、「多摩ニュータウン」と「新松戸」、「姉」と「妹」、カローラとシビックの延長線上にある「ベンツ」と「BMW」などなど、マル金・マルビのようなさまざまの対立軸に関する面白い考察がなされていたのであるが、バブルの崩壊とともにみんなマルビになってしまうような世の中の動きに対応したのか、その後の著作ではあまりこうした議論はみられなくなってしまった。
「マルビ」という一種相対的に貧乏な人(つまり本当に貧しい訳ではない)を揶揄できるのは、いつかはみんなマル金に近づけるだろうという幻想があるからであって、それがなければただの嫌味になってしまう。その意味では、古きよきバブル時代を代表する作品のひとつであったということができるかもしれない。
この本、装丁は頑丈なのに紙質が悪くてもうまっ茶色になってます。著者の趣味でしょうか。ガロだからなあ。
[Feb 8,2007]
鴨志田穣・西原理恵子「アジアパー伝」
さる20日に鴨志田穣(かもしだ・ゆたか)氏が亡くなった。享年42。カメラマン、エッセイストというより西原理恵子の元夫としての方が有名かもしれない。元夫とはいっても、「毎日かあさん」によると最近は再び同居していたようだ。
タイに渡ってひょんなことから戦場カメラマンの橋田信介(2004年、イラクで死去)のアルバイトになり、やがて本職のカメラマンとなっていくあたりのストーリーが中心となっている表題作は、それ自体かなり読み応えがある。ただ、一緒に載っている西原のショートコミック(本題とほとんど関係のない内輪ネタ)の方でむしろ売上を伸ばしていたのではないかと思われるのは、ちょっと悲しいところか。
それでもこのシリーズは単行本5冊になるほど続いたのだから、かなり評価されていた作品ということになる。実際、もと共産党員でありみんな平等な回転寿司をこよなく愛する橋田信介が、カンボジアやボスニア・ヘルツェコビナでかなりきわどい世渡りをしていたり、お手伝いさんに財産を持ち逃げされたりする話を読むと、思想と人柄はあまり関係がないんだなあということがよく分かる。
他にも、漂泊のタイ在留邦人ミヤタのおっさんや、格調高い韓国の酒豪キムさんとカクさん、タイ社会のかなり底の方を生きている人たちなどたくさんの魅力的な人物が登場する作品なのだが、橋田氏の他に一人だけ上げろといわれるとわたし的には札幌時代から続くカモ(作者鴨志田氏)の親友である土肥(ドイ)君を推薦したい。
ドイ君は故郷札幌で出版社をやっているのだが、たびたび韓国を訪れるうちに韓国語がぺらぺらになってしまったので、二人で韓国に行くといろいろ安い宿や飲み屋を開発してくれるのである。
この二人は豊平川の上に走っている水道管の上を渡ろうとして途中まで行ったら雪が降ってきて立ち往生、九死に一生を得たというようなあぶない真似をしているのだが、この二人とキムさんとカクさんがソウルでとことん飲んだ「鯨飲のソウル」はかなり好きな作品。単行本5冊を初めから読むのもいいが、この話の載っている「煮え煮えアジアパー伝」を最初に読むと入りやすいと思う。
そういえば最近ジンギスカンを食べていないなあ。氏の冥福を祈って、久しぶりにラムを食べたくなってしまった。
[Mar 27, 2007]
J.D.サリンジャー「キャッチャー・イン・ザ・ライ」(村上春樹訳)
アメリカ文学というとこの作品が出てきてしまうのかもしれないが、題名とは違ってロマンティックな作品では全くない。1951年発表の作品で、日本語訳は野崎孝「ライ麦畑でつかまえて」が有名。ただ2003年の村上春樹訳の方が読んでいて違和感がそれほどない。ところどころ、村上春樹になってしまっているところも味わい深い。
高校を中退させられた主人公ホールデンが、学生寮をぶらぶらした後自宅にまっすぐ帰りたくないからニューヨークのホテルに泊まってさらにぶらぶらする話、といってしまうとどこがいいのだか分かりにくいが、実際そんな話である。
テーマは、「世の中にいる奴はみんな嘘つきのろくでなしだ」というところにあるが、そういうホールデン自身がかなりの嘘つきでろくでなしなので、主人公に感情移入するのはかなり難しい。
この主人公がほとんど唯一心を許しているのが小さい妹のフィービーなのだが、その妹に、「じゃああんたは、何になりたいわけ?」と聞かれて答えたのが、「子供達がライ麦畑でいっぱい遊んでいて、その脇には危ない崖があるのだけれど、誰も大人が見ていない。そういう場所で、子供達が走ってきて崖から落ちそうになると捕まえてあげる、そんなものになりたいんだ」というのがこの作品の題名である"The catcher in the rye"なのである。
若い頃読んだときには、なんとなく分かったような気がしたのだけれど、いま読むとだから何なんだ?って気がちょっとする。遊んでいる子供より見張っている自分の方が上だというような見下したところがあるのが嫌だし、遊んでいる子供だって見張られるのは嫌だと思う。
「ノルウェイの森」でちょっと似た表現がある(草むらには小さな深い穴が開いていて、そこに落ちない人は決して落ちないのだが…というような)ところをみると、訳者である村上春樹もかなり影響を受けているのかもしれない。
ちなみに、ちょっと別のところに書いたことがあるのだが、私のなりたかったものは「灯台守り」である。他に誰もいない灯台で、近くを通る船が事故に遭わないように毎晩きちんと海を照らしている。うーん、かなり似ているというか、そのまんまのような…。ということで、へんなところで人格形成に係わっている作品なのでありました。
[May 29, 2007]
柳澤健「1976年のアントニオ猪木」
中学校の時、交換授業でアメリカンスクールの生徒達が来たことがあった。そのとき、自由に話していいということだったので、私が同じくらいの年の奴に聞いたのは、「ブルーノ・サンマルチノを知っているか?」だった。
そいつの答えは「知らない。聞いたこともない」だった。その頃ジャイアント馬場とアントニオ猪木のことを知らないという日本の小中学生はまずいなかったから、すごく不思議に思ったのを覚えている。(ブルーノ・サンマルチノは当時のWWWFヘビー級チャンピオン。東海岸で抜群の人気者、と言われていた)
そんな疑問に回答を与えてくれるのがこの本である。つまり、アメリカではそもそもプロレスはショーであると広く認識されており、だからインテリ層(死語?)が見るものではないとされていたこと、そしてその原点はテレビ草創期のスポーツ中継において、プロレスくらいしかできるものがなかったこと、があるのであった。
当時、野球やアメフトが放送できるような中継施設もなく、VTRもないのでそれらの人気スポーツはライブで中継することができなかった。ボクシングであれば設備的には可能であったが、早く終わってしまったら目も当てられない。
かたや日本では、何人も国会議員になってしまうくらいプロレスラーの知名度は高いし、元ジャイアンツの馬場や柔道日本代表の坂口や小川、大相撲の三役力士力道山や天龍、ラグビー日本代表の草津や原などアスリートからの転進が当たり前なので、レスリングのプロがプロレスだと認識されている。だからこそ、浜口京子の親父がアニマル浜口だとみんなうれしくなるのである。プロレスにそういうイメージを確立させたのは、馬場ではなく猪木だというのも衆目の一致するところであろう。
そして、その分岐点が1976年の猪木vsアリ戦にあるというのも間違いないことである。この試合、アリとの契約があるのか試合の動画が再放送されることもDVD化されることもなく、実際にテレビで見ることができたのは今では貴重な経験になってしまった。その舞台裏にはさまざまないきさつがあったのだが、ともかく現役のボクシング世界ヘビー級チャンピオン、モハメド・アリが、いまUFCとかプライドでやっている異種格闘技戦をリアルファイトで戦ったのであった。
この試合、ご存知のようにアリは立ったまま、猪木は寝たままで15R戦ったのだが、当時お付き合いのあった古武道(棒術)の専門家が、「本気で戦えばああする他に方法はない」と言っていた。あれから30年を経て、今でも打撃系と寝技系が戦えば猪木vsアリの状態になることは珍しくない。
しかし今では戦法や技術がより洗練され、寝技系は寝たままでも相手の関節を極めに行けるし(例えばノゲイラ)、打撃系は相手のガードする足を越えて殴りに行ける(例えばヒョードル)。その意味で、あの試合が膠着したのは時代が早すぎてお互いにそれだけの技術がなかったからであるというのがこの本の結論で、これには全く同意するものである。
いまや、馬場や猪木の全盛時代を知る人も少なくなりつつあり、もしかするとこの本もあまり売れないまま絶版になってしまう可能性もあるので、興味がある方はいまのうちに入手されることをお奨めする。決して、読んで損はない本である。ちなみに、私がインド国歌を聞いたのは、後にも先にも猪木vsタイガー・ジェット・シンのNWFヘビー級タイトルマッチだけである。
猪木が現役のプロレスラーだった時代を知ることのできる貴重なノンフィクション。ゼロからスタートした猪木が、どのようにして現在の知名度を獲得したか。好き嫌いは別として、猪木の努力とアイデアには敬意を表します。
[May 15, 2007]
武田邦彦「環境問題はなぜウソがまかり通るのか」
著者は内閣府原子力安全委員会や文部科学省科学審議会の専門委員をしている大学教授だが、こんな本を書いているとそのうちお呼びがかからなくなるのではないかと思われるくらい「官」にとって不都合な本。著者の名前から「田」を取るとかつての名ジョッキーであり武豊の親父にあたる調教師の名前になるのは不思議である。
地球温暖化防止とかリサイクルなんてのは、誰かが言い始めたから仕方なくやっているもので、実際はほとんど社会の役には立っていないということは感覚的に分かるのだけれど、それを専門的な立場から説明した本である。地球温暖化で海水面が何メートルも上がるだとか、ゴミの分別はリサイクルに役立っているとかはみんな嘘っぱちだということがよく分かる。
そして、単にみんなが信じているのが実は嘘だったというだけならば罪は軽いのだが、実際には嘘だと知りつつ自らの名声や権益や商売のために世の多くの人々の善意を「食い物」にしているというのだから、その罪は重い。そのために環境白書が意図的な誤訳をしているというあたりを読んで、やっぱり世の中は間違っているなあ、少なくとも北朝鮮(とかの他所の国)をひどいという資格は日本にはないなあというのが正直な感想である。
地球温暖化についてはいろいろな立場からさらに検討が必要だが(日本ががんばっても地球全体で1%も改善しないからといって、やらない方がましとまではいえない)、リサイクルが大嘘だというのは本当のことである。著者が本書で述べているように、「リサイクルが可能なものは政府が手出ししなくても市場として成り立つし(例.鉄・銅・アルミなどの金属、古紙)、そうでないものは結局資源のムダ使い」なのである。
経済産業省には「リサイクル課」という部署があって、この課があるということは「推進する組織と資金(補助金=税金)があり、ダメでしたというのは面子に関わる」ということだから、日本国としてリサイクルは結局ムダでしたとは口が裂けても言えない。でも、現実にペットボトルを回収してできたペットボトルは存在しないし、仮に存在するとしても最初にペットボトルを作るよりもさらに資源を使うということは間違いないのである。
このことを知っていれば、自分たちが生きていく上において、全く必要でないことについて無駄に心を痛めることをしなくてすむ。仮にご近所にゴミの分別を守らない人がいたとしても気にすることなど本当はないし、マクドナルドで紙ゴミとプラスチックゴミの入れる場所を間違えたって大勢に影響はない(そもそも、客にそこまでやらせるのがおかしい)。本当に考えなければならないことはもっと別にあるはずなのである。
[Oct 2,2007]