中山義秀「テニヤンの末日」
大木金太郎「伝説のパッチギ王」 中山義秀「テニヤンの末日」 私が小さい頃、昭和30年代中頃にはまだ傷痍(しょうい)軍人の人たちが上野界隈にいて、太平洋戦争(第二次世界大戦)はそれほど遠い昔のことではなかった。小学校の頃には「明治百年」がたいそう話題になったくらいで、江戸時代さえはるか遠くのこととは思わなかった。 大木金太郎「伝説のパッチギ王」 高校時代に、古くからいた先生がいうことには、「この学校が体育館を作ろうとした時に、プロレスの興行をしてその収入を充てようということになった。苦労してなんとか興行を行うことはできたのだが、収益の多くはヤクザに持っていかれてしまった」そうである。 佐藤優「崩壊する帝国」 鈴木宗男と佐藤優のコンビを好意的にみる人はあまりいないのではないかと思う。その理由は端的にいうと、「権力をかさに着る」からであろう。鈴木宗男のように選挙になるとぺこぺこ頭を下げまくり、それ以外のときは尊大に振舞う人間は、基本的にあまり尊敬されない。 長塚節「土」 時は明治時代、場所はわが家から利根川をはさんで反対側の茨城県南部。小作人の親子が貧困、病気、災害に苛まれながら、日々の生活を送っていく物語。作者である長塚節(ながつか たかし)は地主でいわゆる高等遊民であり、長塚家に小作料を納める人達をモデルに書いた作品であるといわれている。 内田樹「日本辺境論」 最近注目を集めている論客、内田樹(うちだ たつる)氏の新刊である。氏の著作は図書館とブログで愛読させていただいており、非常に参考となる指摘も数多くあることから、今回は新潮新書を購入させていただいた。すでに20万部を突破したというから、この手の堅い内容の本としては売れ筋といってもいいのではないだろうか。 池谷裕二「進化しすぎた脳」 著者は、現代における脳の研究では最先端にいる研究者であり、この著作の他に、糸井重里との共著である「海馬 脳は疲れない」がある。これらの著作を読むと、「海馬」は分かりやすいけれどもこれから・・・というところで終わってしまうし、「進化しすぎた」は中高生向けとはいいながら結構難しい。でも両方セットで読むと、なんとなく著者の言いたいことが伝わってくる。 桐野夏生「東京島」 いま、さかんにテレビCMを流しているこの作品、元ネタは第二次世界大戦後の北マリアナ諸島・アナタハン島で起こった事件である。北マリアナといえばテニアン島。となると読んでおかなくてはならない。アナタハン島はサイパンから100km北というから逆方向になるが、テニアンと同様、南洋興発のプランテーションで開発された島である。
佐藤優「崩壊する帝国」
長塚節「土」
内田樹「日本辺境論」
池谷裕二「進化しすぎた脳」
桐野夏生「東京島」
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この作品の作者である中山義秀(なかやま・ぎしゅう)は、1900年ちょうどに生まれた小説家で、戦前に芥川賞を受賞している。江戸から明治にかけての時代を背景とした作品が多く、その功績を称えて郷里である福島県白河市に中山義秀記念館がある。そして「テニヤンの末日」という作品は、もちろんダイナスティ・ホテルのあるテニアン島を舞台とした作品である。
戦争末期、テニアン島に軍医として着任した浜野大尉は、もと同級生であり同僚の軍医でもある岡崎大尉とともに厳しい戦局の中で任務を果たす。帝国海軍の救いがたい硬直性・後進性(大声で部下をどなりつけたり、理由もなくひっぱたいたり、酔いどれて放歌高吟する専門の軍人達、ろくに診察もしない軍医長など)に深く悩みながら、やがて戦争は絶望的な状況となっていく。
ラソ(ラッソー)山、テニヤ(ア)ン神社、カロリナス高地、ガラパン(サイパン島)、南洋興発会社などなど、聞き覚えのある単語が次々と登場するほか、「全島一面の甘蔗(かんしょ=サトウキビ)畑」「島には井戸は一つだけ。日常の用水はスコールの雨水を貯える」「十数軒の料亭と百数十人にのぼる娼婦が営業」といった、戦前のテニアンの様子がくわしく書かれているのは興味深い。
芥川賞受賞作の「厚物咲」(あつものざき=菊の品種)もそうだが、テクニック的には古くて、例えば現代の村上春樹といった作家と比べるとその差は歴然としているし、夏目漱石、森鴎外といった明治の文豪のような重厚さにも欠ける。「メッセージ」(いいたいこと)と「ストーリー」(書いてあること)がリンクせず、それを言いたいならこういう書き方はないだろうということもたびたび感じる。
とはいえ、現代のテレビドラマがワンクール3ヵ月10回程度だからといって、ワンクール半年の時代のテレビドラマがつまらなかったとは必ずしもいえない。形式が古くてもテクニックが甘くても、メッセージが直接的に伝わってくるならば作品としては評価することが可能である。その意味ではこの作品も、単にテニアンのご当地小説というだけではない読み応えのある作品ということができるだろう。
[Jun 12, 2008]
本当かホラ話なのかよく分からないが、うちの高校の近くのゴルフ練習場には、馬場とか鶴田(そういえば、二人とも故人である)が来て試合をしていたこともあったので、いくぶんかの真実は含まれているのかもしれない。
それはともかく、戦後のテレビジョン草創期に力道山のプロレスに日本中が熱狂したというのは、歴史的事実である。私の子供の頃はまだ日本プロレス全盛期で、力道山の弟子であるジャイアント馬場、アントニオ猪木、大木金太郎が三羽烏だった。
この本はそのうちの一人、大木金太郎ことキム・イルの自伝である。大木が韓国籍だというのはよく知られていたのだが、当時日本と韓国の間には国交がなく、漁船の乗組員として日本に不法入国したというのは初めて知った。
力道山自身が北朝鮮籍であり、そのこともあって大木金太郎は「目をかけて」もらえるのだが、巨人の選手だった馬場や、ブラジルからスカウトしてきた猪木と違って、いわゆる「押しかけ弟子」である大木は彼ら以上に苦労させられたこともよく分かる。
また、大木のトレードマークであるハゲ頭は、頭突きのしすぎでなった訳ではなく、力道山が急死した後に「韓国に帰れ」という圧力があり(そもそも大木は不法入国者であり、力道山が身元引受人になることで日本滞在が許された経緯がある)、そのため円形脱毛症になったことが原因というのも驚きである。
前に「1987年のアントニオ猪木」をとりあげたが、猪木が力道山の路線から現代の異種格闘技への橋渡しをした存在であるのに対し、大木は力道山路線をそのまま継承した。韓国の高度成長期には、ちょうど日本における力道山のように、韓国のテレビで大木の試合が高視聴率を獲得したそうである。
そして、政治家に接近しすぎるという点でも大木は力道山によく似ており(力道山が日韓国交正常化に一役買ったこともこの本には書かれている)、プロレスファンであった朴正熙大統領が暗殺されることにより、大木もスターダムから転落する。そうしたプロレスラーとしての一生があまり感情的にならず、むしろ淡々と述べられている。
昔は、大木金太郎対ボボ・ブラジルの頭突き対決などというと非常に盛り上がったものであるが、いまでは頭突きを多く使うことは選手の健康管理上避けられるようである。他にもジョー樋口(レフェリーとして有名だが、もともとレスラーで大木のデビュー戦の相手)、吉村道明、星野勘太郎、ユセフ・トルコ等々なつかしい名前がいろいろ出てくる。古いプロレスファンにはぜひお奨めしたい一冊である。
[Aug 5, 2008]
佐藤優の場合は、その外見があまりにもふてぶてしいのと(この本によると、ロシアの少数民族に似ているのだそうである)、宗男の子分だというイメージで粗暴な印象を受ける。だから彼の書いたものも、どうせ職務上知りえたことを書いているのだろうと思ってこれまであまり関心がなかった。
その意味では、かなり意表をつかれた。佐藤優は同志社の大学院でキリスト教神学を学んだ研究者で、チェコにタダで行こうと思って外務省に入ったという経歴を持っていたのである。もちろんロシア正教にも詳しく、それで旧ソ連に独自のネットワークを持つことができた。
この本の前編にあたる「国家の罠」は、基本的に逮捕後における検察とのやりとり(その中には自己正当化もかなりの部分含まれる)が中心であるが、この本では、逮捕される以前の話、つまり著者がどのようにしてネットワークを築いたかが書かれている。自壊する「帝国」とは、著者が勤務していた旧・ソビエト連邦のことである。
共産主義は「宗教はアヘンであり、神は存在しない」という建前である。にもかかわらず、実際にはロシア正教という宗教的バックボーンがあり、そうした本音の部分を巧みに隠した二重構造が存在した。このことがソ連崩壊の大きな要因となったという分析は、一読の価値がある。
一方で、理想かカネかの二者択一を迫られた結果、「カネ」を選んだケースや、民族紛争の実態はカネ儲けではないかと疑われるケースなどにせっかく言及しているのに、神学的な分析からその部分にさらに進めなかったところは、やや物足りない感じがした。
キリスト教世界の定番である「ユダヤと反ユダヤ」についても、宗教的なものだけでなく世俗的な部分(つまり、カネ)について踏み込めば、もっと説得力があるのではなかろうか。
そしてもう一つ、この人が好かれないのは、おそらくキリスト教(だけでなく他の宗教もそうかもしれない)の特徴的な価値観、「目的が正しければ手段は問わない」があるからではないかと思う。
佐藤氏が逮捕されたのは、他の外務官僚のように公金を私的に蓄財(馬とか)したからではない。きちんと上司の決裁(あるいは許可)を得て、情報活動をしていただけである。しかしその実態というのは、この本からも類推されるように、結局のところ飲み食いであり、情報ルートへの便宜供与である。
彼にとっては、「自分がいかにカネを使う権限があるかを示すことは、情報ルートを確保するために有意義である」ということなのだが、その目的はともかく手段として用いられているカネは、結局のところ税金であって彼のカネではない。
そこのところのバランスが失われているところに、キリスト教的な異質なものを感じてしまうのは、偏見だろうか。ちなみに、ロシアでは120kgなければデブとはいわないそうである。
[Aug 13, 2008]
文庫版のあとがきに書かれているとおり、冒頭の文章「烈(はげ)しい西風が、・・・痩(やせ)こけた落葉木の林を一日中苛め通した」が、この小説のテーマであり内容のすべてではないかと思う。
体調が悪いにもかかわらず行商に出た小作人の妻が、ようやく夜になってわが家に帰り、隣の家に「もらい湯」に行く。風呂に入っている間は温かいが、しまい湯に入った娘を待っている間に再び体は冷え切ってしまう、というのが最初のエピソード。亭主はというと、小作だけでは食べていけないので、利根川の工事現場に日雇いに行っているのである。
その日雇いも、天気が悪くて工事休みが多く、米代と薪代だけが取られてしまう。節約しようと工事現場までは歩いて(!)行くのだけれど、常総あたりから利根川べりまで、1日では難しい距離である。いまでもそうなのだが、利根川をはさんで茨城県と千葉県では気候風土や雰囲気が違う。それは、成田空港に関わる公共事業支出だけの問題ではないような気がする。
女房の具合が悪くなり、亭主は工事現場から汽車で帰ってくる。節約して残した米とわずかな魚が女房にとっての滋養なのである。亭主の稼ぎのほとんどは女房の薬代でなくなってしまうが、破傷風の女房は助からない。以下、これでもかこれでもかというくらい、不幸が不幸を呼ぶ、暗くて重い話である。
ただし、その不幸の中には自ら招いたものもあり(盗み癖とか)、貧乏人同士の足の引っ張り合いもある。現代の見方では不幸でも、もしかすると彼ら自身にとっては普通のことなのかもしれない。とはいえ読んでいるうちに、毎日おいしいご飯が食べられること、清潔で健康な生活を送れることが、きわめて幸運であるということが実感できるのであった。
これが、朝日新聞に連載されていたというのだから驚く(明治43年、1910年)。読者にとってかなり気が滅入る連載であったと思われるが、逆にこういう小説だからこそ100年経った今日まで読み継がれているということであろう。渡辺淳一の人気連載小説が、1世紀後の読者に読まれているとは限らないのである。
ところでこの小説、最後まで明るい展望が開けないまま結末を迎えるのであるが、個人的に、この小説の続編に位置づけたいと思っている作品がある。それは同じ常総を舞台とする「下妻物語」である。明治時代に小作の人達がつらい日々を送ったからこそ、平成の時代に深キョンが、原宿までロリータファッションを探しに行くことができたのかと思うと、ちょっとだけ救われるのである。
[Jun 30,2009]
この本の要旨をまとめると、わが国は地理的な要因から他の文明国(古くは中国、最近ではアメリカ)を理想として、それらとの対比で自分達を位置付けてきた「辺境」性があり、それはいまさらどうやっても動かせない。だとすれば、その辺境性を前提として、自らの長所を生かし短所を顕在化させない工夫が必要ではないだろうか、ということだと受け取っている。
その辺境性の一つの例とされる「虎の威を借る狐」論は面白い。虎自身であれば虎としてのアイデンティティは明確であり、どこまでが虎の本質かを分かっている。ところが虎の威を借る狐はどこまでいっても虎ではないので、虎の本質が分からない。だから、虎であればどこまで妥協できるかが分からず、ネゴシエーションができないというのである。
これまで三十年サラリーマンをしてきた中で、「ハード・ネゴシエーター」を自認する何人かの人と仕事をしたことがある。そうした人は例外なく、相手の主張の言葉尻をとらえて議論を本質とは関係ない方向に誘導し、結局のところ自分の主張は一歩も譲らないことをもって「ハード・ネゴシエーター」と名乗っていたのであった。
わたし自身、ある時期からそういうのは違うのではないか。議論というのは相手と共通の土俵で相手の言葉を使って説得することであり、ハード・ネゴシエーターとはいかにも譲歩したように見せながら、実は自分の主張の根元は外さない折衝をすることではないかと思っていたものだから、同じようなことを感じる人はいるんだなあ、と妙なところでうれしくなった。
それと関連して、日本人が議論といっている話し合いの多くは、お互いの主張を中立公正な立場から検証するということではなく、「俺のほうがお前より上である」という差し手争いなのだそうである。言われてみるとその通りで、テレビの討論番組などを見ていても、「俺の方がずっとよく知っている」「お前はものを知らない。だからお前の主張は成り立たない」ということを手を変え品を変え言っているだけである。
このように、なかなか他人にはない視点でものを言う論者なのだが、世代的に団塊の世代というか、全共闘世代というか、少し下のわれわれにはちょっと違和感のある主張もある。この本ではないのだが、「目的地に向かって正しく進むことよりも、みんなで仲良く進むことの方が、優先順位が高い(正しい訳ではないが)」ということを述べている。
これは、聖徳太子の十七条憲法で言われていることと同じで、日本人が歴史的に選好してきたやり方ではあるのだが、正直なところどうかと思うのである。個人的には、隊列を乱さずにがまんして進み、八甲田山中で凍死するよりも、隊列から抜けて田代温泉に一歩でも近づいた方が、同じ倒れるにしても後悔しないような気がする。
もしかするとこの主張は、先だってのトムラウシで、ツアーガイドの未熟な先導にしたがって進退窮まってしまった人達と通じるところがあるような気がするのである。それはそれとして、いろいろ考えさせられる指摘が多く含まれている作品であり、一読をお奨めしたい。
[Feb 16, 2010]
内向きの矢印 ( <-----> ) と外向けの矢印 ( >-----< ) とでは、同じ長さであっても外向けの矢印の方が長く見える、というのは小学生の頃教科書で習った。これは錯覚によるものであるが、それではなぜそういう錯覚が起こるのか、錯覚しないためにはどうするかといった点についてはこの本を読むまであまり理解していなかったと思う。
著者の説明によると、脳では目(網膜)でとらえた二次元の画像を三次元で把握しようとするため、そのように処理されるのだそうである。だから、本当に意味するところは、同じ長さを違う長さと認識しているのではなくて、同じ長さに見えるのであれば遠くにあるものの方が実際には長いという理解をするということらしい。
(説明するのが難しいのだが、脳の中では外向けの矢印の方が遠方にあることになっているとのことだ)
脳が特に意識しなくても情報を処理してしまう例は、他にもたくさんある。例えば人間の目と脳は1/30秒より細かい単位で画像を認識することはできない。だから、映画もアニメも1秒間に何十コマの細切れを見せているのだけれど、脳はそれをなめらかに連続した動画と認識する。陸上100m走の計測単位が1/100秒なのは、それより細かくしても脳には区別がつかないということである。
そんなふうに脳に関する話題を展開していくのだが、この本によれば、まだまだ脳には開発の余地があるらしい。著者自身が、老化に関心があって研究しているのだけれど、よく言われるところの、脳細胞は再生しないので年を取ると減る一方であるとか、だから物覚えが悪くなるのは当り前というのは、必ずしも正しいとはいえないとのことだ。
確かに脳細胞は毎日減っていくけれども、それでも千億単位の脳細胞が残っている。また、記憶を処理する海馬の神経細胞は、年をとっても必要に応じて増える。そして、単純な数字の羅列を覚えることにかけては若い脳の方が優れているが、物事を関連付けて考察することについては、回路ができ上がった中年以降の脳の方が優れているとのことである。
もう一つ印象深かったのは、脳は意外とお調子者で、自分に都合のいい解釈をするということである。最初に述べた錯覚(遠近法)もそうだし、実際にはコマ切れでしか見ていないのに連続した動きを見ているように思うのもそう。また、脳の側の都合で、見えないはずなのに見ているものとして処理したり(例えば盲点)、見えたとしてもなかったものとして認識しないということもある(例えば自分の鼻)。
題名の「進化しすぎた」という意味は、人間の脳は体に対して進化しすぎてしまい、実際には未開発(未使用)の部分が多く残されているという意味である。つまり、いくつになっても、新しい刺激を受け、それを加工してアウトプットするよう心がければ、脳は衰えないということらしい。そろそろ老年の入り口に入ろうとする我々にとって、心強い話である。
[Jul 26,2010]
実際のアナタハン島では島民の大半は日本兵で、帰れないというより帰らない(米軍に投降しない)という状況であった。その頃島で暮らした5年間は長いけれど、横井さんは20年以上グアム島に隠れていたし、シベリアに抑留されていた人達も多くいた時代である。
作者の桐野夏生は、出世作の「OUT」以降、「グロテスク」「残虐記」など、実際にあった事件をもとにした作品が多い。いま最も人気のある作家の一人であるが、私の印象は、発想はともかくとして展開に難があるというか、お話としてはともかく、現実的にどうなのかという点が多い(小説だとしても)ように思える。
別の言葉でいうと、感情移入しづらいのである。例えば、犯人はまず犯罪が露見しないようすべきであろうし、危険が迫ったときは自らの身を守ることに注力すべきであろう。それが何かの理由でできない場合、それが読者に納得のいく形で示されなければ読んでいて面白くない。自分だったらどうする、というのと離れすぎているのである。
だからこの作品もあまり期待しないで読み始めたのだけれど、意外に面白かった。特に、表面上の主人公の観点から述べられた最初の部分を過ぎると、途端に物語に引き込まれる。実際のアナタハン島事件は、唯一の女性(20代前半)を巡って殺し合いが起こったが、そんな単純な筋書きではないのである。
その意味では、映画版がどの程度原作の面白さをとどめているか、ちょっと疑問に思っている。そもそも、主人公は46歳の太った女性(映画のような美人ではない)であり、トーカイムラに追放されるのはハゲかけた男なのだ(ネタバレになるのであまり言わない)。そもそも、原作より面白い映画などはほとんどないのだけれど。
さて、こういう設定が示されると、「自分ならどうするか」を考えながら読むのは仕方のないところである。その意味で、納得がいかないというか、どの登場人物にも感情移入できない点が残るのは、いつもの通りこの作者の物足りないところである。
例えば、誰も住んでいない無人島というのは、それなりに理由があって住んでいないことがほとんどである。火山があったり、風土病があったり、水が得られなかったり、何かの理由があるはずなのである。実際のアナタハン島でも、大量の漂流者が加わって食料不足となった。このあたり、「東京島」は読んでいて釈然としないところがある。(例えば水はどこから得ていたのか。途中から地下水が出てくるが)
そして最大の疑問点として残ったのは、なぜ誰もこの島の正確な位置を測定しようとしなかったのか、という点である。太陽と星の軌道を見れば、緯度はそれほど苦労しなくても分かる。初めは時計を持っていたのだから、大体の経度だって測定できたはずである。季節だって、何年もいるのだから推測できなければおかしいし(赤道直下にいたとしても見える星が違う)、暦を作るのだって難しくなかった。
脱出しようとする以上、自分達の位置や、季節(気候や風向き)を知らないで船出しようというのは、どう考えても無謀である。また、他の部分では抜け目ない登場人物たちが、誰かが脱出できても島の位置を教えられなければ助けは来ないということに気づかないというのも不思議である。私が感情移入しづらいというのは、そのあたりなのである。
[Aug 30,2010]