種田山頭火「行乞記・一草庵日記」    山本一成「人工知能は名人を超えたのか?」
谷崎潤一郎「細雪」    尚順「古酒の話」    橋本治「九十三歳になった私」
書評目次   書評2017   書評2019

種田山頭火「行乞記・一草庵日記」

この間書いたことだが、小中学校の国語の教科書すべてに作品が載っているのは、明治以降の俳句では山頭火だけだそうである。日本全国で芭蕉の次に句碑が多く立っているのも山頭火であると思われる。あと100年経ったら、俳句で名前が残っているのは芭蕉、一茶と山頭火だけになるかもしれない。

今回の区切り打ちで松山の一草庵に行ったこともあり、改めて山頭火の作品を読んだ。「行乞記」は昭和5年から托鉢しつつ九州地方を歩いた時の記録で、「一草庵日記」は死の直前まで一草庵の日々の暮らしについて書いた作品である。

「行乞記」を読んで最初に気付くのは、値段の記載がたいへん多いことである。泊まった宿の値段を毎日記録しているだけでなく、酒や食べ物の値段やら何やら、いろいろ書いてある。山頭火というと生活能力がなく、借金まみれの酒飲みというイメージがあるが、カネ勘定にはなかなか細かいのであった。

ふと思ったのは、この時代の宿代である。記事をみると、食事の内容はともかくとして1泊2食で30~40銭くらいが多い。鰯が5銭、大盛りうどんがたったの5銭などと書いてある。現代の値段に置き換えると、「たったの500円」とはならないので、50円とみるのが正しいだろう。鰯だって1尾で買えばそのくらいである。すると、換算レートは現代の1/1000になる。

ところが、「日雇いの日給が男で80銭、女で50銭にしかならない」とも書いてある。1000倍にすると800円と500円、これでは途上国並みの人件費である。当時の日本は国際連盟の常任理事国で途上国とはいえないが、国民の大半が農民で、米・野菜が自給できたことを考えるとそんなものかもしれない。

手許にある資料で調べてみると、昭和10年頃の課税最低年収が1,200円、大卒新人の年収が約1,800円ということだから、1000倍するとそれぞれ120万円、180万円となり、現在の水準に近い数字である。当時、銭湯が2~3銭というから今だと20~30円、米1升(1.8㍑≒1.5kg)18銭は180円。これでは安すぎてお百姓はやっていけないと書いてあるが、そのとおりだろう。

いろいろ勘案すると、1泊2食300~400円で泊まれる安い宿があったと考えるべきなのかもしれない。今ではとてもこんな値段ではやっていけないが、よく探すと現在でも素泊まり1泊1000円くらいの宿がない訳ではないし、当時の木賃宿は本当のボロ家である。建物にカネをかけず、もちろん冷房もネットもなく、風呂すらないところも珍しくなかった(銭湯に行く)。

乞食坊主の山頭火ですら、便所がきたないとか布団が臭くて寝られないと書いているくらいだからその程度の宿で、それでも相部屋で1人米2升の料金が取れれば、宿の経営者が食べていくには十分だったのかもしれない。つまり、それだけ安く提供できたのではなく、それだけ水準の低い宿だったということである。

昨今、ネオリベとかいう人達が、わが国に国際競争力がないのは人件費が高すぎるからだといって、規制緩和と人件費引き下げを図っているが(何が「働き方改革」なんだか)、行き着く先はここである。

カネのない奴は冷暖房なし、不潔なのも我慢しろ、途上国に負けないよう製造業もサービス業も安く提供しろなんてやっていたら、最後はこうなる。生活水準も衛生水準も文化水準も上がっているのだから、人件費・物件費が上がるのは当り前だ。子供の頃に見た冷暖房なしの電車や宿、不潔な道路や駅がまた戻ってくるなら、生きていくのもしんどそうだ。

話は戻って、山頭火の時代はまさに昭和恐慌さなかで、第一次大戦の好景気から一転して不景気となり、物価水準はピーク時の半分近くに落ち込むデフレの時代だった。

国民の大半が農業従事者で、米も野菜も値下がりして農村は大変厳しい状況となった。行乞記にも「二本一銭の食べきれない大根である」の句があるが、二本100円ならともかく、二本10円ではとてもやっていけないということがよく分かる。

江戸時代であれば、米や野菜を自給できれば食べていくことはできるのだが、昭和初期になると現金がないと暮らしていけない。税金は全員が納めていた訳ではないだろうが、電気は通じていたので電気代が必要だし、移動すればバス代汽車代はいる。酒や肉・魚はもちろん店で買わなければならない(当時の資料に、農村の現金支出のうち10~20%は酒代が占めていたという統計がある)。



さて、先週は昭和戦前期と現代の物価水準の比較について考えていたら終わってしまったが、日雇いの1日の労賃が80銭にしかならない当時、山頭火が1日3~4時間の行乞で「泊まって飲む」だけの収入を得ていたのは大したものである。

宿泊費が平均35銭、酒1合が10銭、風呂は2~3銭、〆て50銭ほどは托鉢していたことになる。半分くらいは現金、残りの半分は米でいただいていたようだから、おそらく宿に米で支払っていたのだろう(石坂浩二の金田一シリーズにそんな場面がある)。

それにしても、日雇いの半分以上の収入である。山頭火自身は「袈裟の功徳と行乞の技巧」と自慢しているのだが、施す方にしても、坊さんにお経を上げてもらうことにそれだけ効用を認めていたということである。お寺や神社にお願いするお賽銭の単価は現在100円位だが、占い師や除霊の壷に財産はたく人はいくらでもいるのだから、今も昔もその意味ではあまり変わらない。

私が子供の頃(昭和30年代)、上野にはまだ傷痍軍人の人達が物乞いをしていた。数は少ないけれどアルマイトの皿を前に置いた乞食の姿も見たことがある。いまや、外国にでも行かない限りそうした姿を見ることはない。鈴を鳴らして托鉢する人は今でもいるが、あれはどちらかというと募金に近い性格のものだろう(実際は自分の生活費なのかもしれないが)。

そもそも、托鉢というのは自分が飲み食いする目的でするのではなく、寺を作るとか修繕するとか、少なくとも社会貢献するために浄財を役立てようとするものである。「行乞記」の中で有名な作品は「酔うてこほろぎと寝てゐたよ」だが、宿で同室のお遍路と飲みに出て(原資は浄財)そのまま野宿してしまったという時の句である。何のための行乞ですかという話である。

山頭火の俳句の師匠である井泉水は「よい句を作ることは重要だが、よく生きることはもっと重要である」と言った。井泉水はそのとおり大学教授になり芸術院会員となったが、弟子である山頭火はこの体たらくである。もう一人の有名な弟子・尾崎放哉も小豆島の堂守になり「咳をしても一人」で生涯を終えた。ちなみに、井泉水と放哉は東大卒、山頭火は早稲田中退である。

さて、今回の区切り打ちで訪れた松山・一草庵での生活を記録したのが「一草庵日記」である。図書館にあった作家の自伝シリーズでは昭和15年10月6日の「とんぼが、はかなく飛んできて身のまわりを飛びまわる。とべる間はとべ、やがて、とべなくなるだろう」 という印象的な文章で最後になっているが、実はこの日記、倒れる前日の10月8日まで記事がある。最後の文は、

「更けて書かうとするに今日殊に手がふるへる」

である。このまま自由律俳句になっているところがすごいのだが、なぜこれを最後にしなかったのだろう。

それを書いた翌日の10月9日、まだ手はふるえていたのかもしれないが護国神社の祭礼で後援者に一杯ご馳走になった(断る訳がない)。酔いつぶれた後、そのまま眠り続けて11日未明に脳溢血で死去した。享年58というから現在の私より3つも若いが、長年の不摂生で歯は1本も残っていなかったという。

現代の作家のように(あるいは酒場放浪記のように)、日記を書いて一句読めば原稿料(制作料)になるから書いているのではない。当時、句集を作れば読んでくれる人はいたけれどもそれを現金収入にする術はなく、揮毫も多く残っているが誰も買ってくれなかった。日中戦争さなかの緊迫した時代で、書だの文芸だのといったことに多くの人は関心を持たなかったのである。

(そういえば「海辺のカミュ」に、山頭火は偉そうなことばかり言っている乞食坊主で、泊めたお礼にいろいろ残していったがすぐに処分してしまったという話があった)



山頭火の残した作品は膨大でおそらく数万にのぼるとみられるが、よく読むと(読まなくても)ほとんどの作品は愚にも付かないもので、それほどしみじみと味わいのあるものではない。よく知られたものは40とか50くらいのもので、まさに「せんみつ」「数打ちゃ当たる」方式である。

しかし、数打つことが大切なこともある。 「歩かない日はさみしい 飲まない日はさみしい 作らない日はさみしい」と20年以上歩いて飲んで句を作っていれば、中にはすばらしい作品だってある。数打っても当たらないことが多いかもしれないが、よほどの天才でないと打たなければ当たることもないのである。

山頭火についてもう一つ。無一文の乞食坊主にもかかわらず、なぜ多くの人達が酒代を出し、金を貸してやり、住むところまで世話するなど面倒をみてきたかということである。

何しろ、「行乞記」の中でも、普段は木賃宿の出来合いの飯とか安い焼酎を飲んでいるにもかかわらず、句会の集まりがあると、うまい酒を飲みフグはおいしいなどと書いている。恰好悪いから「行乞記」に書いていないが、汽車賃も出してもらいその上に小遣いまで貰っているのである。

その大きな要因として、山頭火は井泉水門下で師範代のような位置にあったことがあげられる。井泉水の主催する句誌「層雲」では選者であったし、句会では評者・添削者をしていた。今でいうところの夏井いつきさんであろうか。句の仲間で撮った集合写真がいくつか残っているが、山頭火は前列中央とか右端とか、目立つ場所で写っている。

(余談だが、夏井さんは愛媛県愛南町出身。四国遍路の記事でちょうど今書いているあたりである。1957年生まれというから私と同い年だ。)

考えてみると、ここ半世紀に多くの分野で世の価値観が変わってきているが、そのうちのひとつが、さまざまな才能・スキルに対するリスペクトがなくなってきているということである。私の子供の頃を振り返ると、芸事・稽古事の上手に対して一目置くという心情・姿勢が今よりずっとあった。段・級といった格付けにもそれなりに権威があった。

そうした才能・スキルに対するリスペクトがなくなった理由の一つとして、「権威はカネで買える」「評価はカネで買える」とみんなが思うようになったことがあげられる。時間をかけ努力し、才能を磨きスキルを身に付けて有段者・資格者になったところで、カネさえ出せば労せずして同じものが手に入るのである。

もちろん、それらはもちろん同じものではないのだが、他人から見れば区別がつかない(ように見える)。そして、カネでそれを手に入れる人達は、往々にして才能・スキルで手に入れた人達と同等にふるまったり、見下そうとする。そこに、才能・スキルに対するリスペクトはない。なんとかして自分が上であることを示そうとする猿並みのマウンティング精神である。

そうやって、芸事・稽古事に精進しようとするモチベーションはなくなり、多くの人がカネだけを目標にふるまうようになった。いまや、才能ある人はどうやってそれをカネに代えるか、カネのある人は才能ある人をいかにスポイルするかだけを考えているようにみえる。それは、芸事・稽古事の将来を危うくしている。

その発端が何だったのかを考えると、山頭火が句会や仲間の集まりで上席を占めたりタダ酒を飲んだり、あげくは借金とか生活の面倒まで見てもらったことに思い至るのである。評価される人が評価する人に敬意をもって対するのは人として当り前ではあるが、それがカネとか実利に結びつくことは堕落への第一歩に他ならないと思う。



とはいえ、評価者・査定者としての側面を除いて考えても、山頭火の句はすばらしい。

私の好きな句に「雨ふるふるさとははだしであるく」がある。「雨ふる」の「ふる」と「ふるさと」の「ふる」、さらに「ふるさとは」の「は」と、次の「はだし」の「は」、韻を踏むようなリズムがすばらしい。これをローマ字で書いたとしたら、意味は同じとしても句のよさは半分以上伝わらない。

また、「松はみな枝垂れて南無観世音」。これは南無阿弥陀仏でも南無妙法蓮華経でも、南無観自在でもダメで、南無観世音でなくてはならない。言葉の意味ではなく日本語のリズムがそれを求めるのである。そして、山へ空へ声を上げて唱えるのは「摩訶般若波羅蜜多心経」でなくてはならないのである。

こうした才能というのは時間と場所を越えて残るもので、いまもその価値は高い。そして、そうした才能は、なぜか明治から昭和戦前期に多く登場している気がしてならない。植芝盛平は本当に指先で大男を投げ飛ばしたから多くの門人が集まったのだろうし、天理教や大本教の教祖は本当に神通力があったから何十万人もの信者が集まったのだと思う。

その背景として、この時代には多くの人達が自分の目で見、耳で聞き、頭で考えて判断したのだと思う。他人がいいと言っているとか、TVでやっているとかの理由でない。そして、いいと思ったものに自分のできる範囲で援助した。家を手配できる人は家を世話し、カネを提供できる人は資金を援助した。時間・労力だけを提供できる人はそれを提供した。

そうやって、各々ができる範囲で可能な手助けをするというのが物事の本来のあり方であって、何でもかんでもカネに換算することをしなければ、今日のような才能・スキルに対するリスペクトの低下は起こらなかったと思う。カネに換算するのは便利で効率的だが、それはあくまで便宜的なものであって、大切なのはそのカネで何をするかということである。

才能・スキルをリスペクトし、段位・級位という形でレーティングするのは、参加する人達がその才能・スキルの習得に向けて努力し、結果として価値あるものを次の世代に残していくためである。それは、芸事・稽古事だけでなく人間社会すべてに通じることで、カネをたくさん集めて組織を残すことだけが目的ではない。

誰も自分の目や耳や頭を使わず、すべてカネの有無に換算している間に、才能・スキルに対するリスペクトはなくなり、芸事・稽古事に限らず新たな価値の創造はほとんどみられなくなってしまった。だとしたら、どうすれば本来あるべき姿に戻ることができるのか、この問いに対する答えはなかなか見つからない。

[Apr 27, 2018]


山本一成「人工知能はどのようにして名人を超えたのか?」

今年に入っての新たな体験を一つあげろと言われれば、将棋のインターネット中継を多く見るようになったことである。日曜日のNHK杯中継は以前から見ていたのだけれど、ネットでこれだけの中継が、しかも無料で流されているとは知らなかった。そして、ネット中継の目玉の一つが、ソフトによる形勢判断がリアルタイムで出力されることである。

解説陣もそのあたりは折込み済で、「ソフトの評価値はどうなってるでしょうか」「いまの一手で評価値が大きく動きましたね」などと普通にコメントしている。かつては、形勢判断というのはプロ棋士の専売特許で、「指しやすい」とか「こちらを持ちたい」といったあいまいなニュアンスで優劣を示していたのが、いまではプラスいくつマイナスいくつと数字で出て来る。

つまり、将棋もアメフトや野球のように途中経過が分かる競技になったということで、見る側にとって面白みが増したことは間違いない。さすがにNHKはそこまでやっていないが、いまの若手が中堅・ベテランとなりソフトへの抵抗感がなくなれば、いずれは導入されることになるだろう。

将棋の話題といえば加藤一二三・羽生以来の中学生棋士・藤井聡太君に集中しているが、実は昨年くらいからソフトがプロ棋士トップに勝つレベルに達していることが明らかとなっている。実は羽生竜王(残念ながら今年の名人戦は敗れてしまったが)は約30年前に、将棋ソフトがプロ棋士のレベルに達するのを2015年くらいと予言していた。すごいことである。

私自身、草創期の将棋ソフトの弱さを知っているから、まさに今昔の感がある。そして、コンピュータであれば計算の速さと正確さは人間の比ではないから、形勢判断を適確にできるようになったことがソフトのレベルアップにつながったのだろうと漠然と思っていた。ところが、本を読むと話はそこまで簡単ではなかった。

著者は将棋界ではたいへん有名なソフト「ポナンザ」の開発者である。学生将棋界では相当の実力者だったが、プロ棋士ではないし、プロ養成機関である奨励会の経験者でもない。だから、ソフトに対して何か作戦を「教える」ことはできない。ではどうやって、ポナンザはプロ棋士を超えるほどの実力を身につけたのか。

答えは「自分で強くなった」である。能力の許す限り大量のデータを入力し、それを解析し、必要なパラメータを自ら修正して最適化してきた。著者はそれを「黒魔術」に例える。いまや、「ポナンザ」を作った開発者でさえ、「ポナンザ」がどのような段階(考察)を経てその手を選んだのか説明することはできない。それはプロ棋士も同じで、なぜ評価値がそうなっているかを説明することはできない。

発展途上の「ポナンザ」は、プロ棋士の対局をお手本にしてデータを収集してきた。ところが、年間数千に及ぶプロの棋譜すべてを読み込んだとしても、ソフトにとってまだ十分な数とはいえないのである。だから次はコンピュータの内部でソフト同士が戦って、その棋譜を記録し分析しということを数限りなく(億とかいうレベルで)行い、それをフィードバックしてきた。

人工知能ではこれを「機械学習」と呼び、その手法の一つがディープラーニングである。読みながら、膨大なデータで回帰分析をするイメージかなと思っていたら、実際に機械学習の中にはロジスティック回帰という手法があるそうだ。学生時代にかじった統計学が少しは関係しているようでうれしい。

つまり、現在の将棋ソフトはその資源の許す限り、24時間365日対局をし感想戦をして、数億局にのぼるデータの裏付けのもとに進化しているということである。最も対局数の多いプロ棋士でも年間百局に届かないことを考えると、すでに圧倒的なデータ量の差がある。ということは、もはやプロ棋士でも将棋ソフトに敵わないということになる。

そうなると、人間が将棋を指す意味はどこにあるのか。羽生竜王が、NHKの番組をまとめた著書「人工知能の核心」の中で印象的なことを述べている。それは、「人工知能だから間違いがないとはいえない」ということである。

将棋でありうる局面数は10の226乗といわれる。億だって10の8乗に過ぎない。10の226乗という数は、コンピュータが宇宙始まってからずっと稼働してきたとしてもデータとして計算(処理)しきれない量だということである。にもかかわらずコンピュータが処理しているということは、どこかで何かを間引いているということである。

その間引いている範囲は、通常考えられているよりもずっと広い。それでも誤りなくデータを処理するにはどのような手法が有効なのかというのが現在の人工知能全般の課題であり、逆に言えばコンピュータにも見落としはありうるということである。

この本を読んで最もうれしかったのは、将来人工知能は加速度的に成長を続け、いずれは1つのコンピュータの知性が全人類の知性を上回る特異点(シンギュラリティ)を迎えるだろうというくだりである。現在、それは2045年と想定されているそうだ。もし私が生きていれば、90歳近くになっている。

このシンギュラリティ以降、コンピュータは世界中のデータ(テキストであれデータであれ)を収集して分析し、自らを修正しつつ人間のコントロールを超えて進化していくと予測されている。私がこうして頭を絞っている記事も、いつの日かビッグデータとして人工知能の一部、つまり集合知となると思うと、頼もしいような誇らしいような、そんな気持ちになる。

[Jun 22, 2018]


谷崎潤一郎「細雪」

関空が大きな被害を受けた台風の日、関東はそれほどの風雨ではなかったものの一日外に出ないで本を読んでいた。最近は村上春樹以外ほとんど食指をそそらないので、これまで読んだことのない谷崎潤一郎を読んでみた。

この作品は日本文学の最高傑作のひとつと呼ばれ、また昭和天皇が全巻読破したという興味深い記事もwikiに書かれていたので楽しみにしていたのだが、やっばり私には合わなかった。どうしてなのか。この作品の登場人物はほぼ全員、自らのミッションにまじめに向き合っていないからだろうと思う。

主人公の四姉妹は着飾って歌舞伎に行ったり料亭に行ったり花見をしたりするのにたいへんご執心だが、それ以外のことについてはすべて人任せである。男も常に防波堤を張って逃げの姿勢が明確である。「刈り揃えた芝の丈を確認」したり、「真実を話すとは限らないが正直であろう」とする人間はどこにも出てこない。

村上春樹の小説が何度読み返してもあきないのは、日々の食事や生活のさまざま、与えられた仕事に対するストイックな姿勢を細々と延べることにより、規則正しい生活をまじめに送ることが落とし穴に嵌らないために大切であるというメッセージが伝わってくるからである。

一方の「細雪」は、四姉妹のうちの3人が、脚気予防のためビタミンBの注射を自ら打つというところから始まる。あるいは、それが戦前の上流家庭のデフォルトだったのかもしれないが、私は麻雀放浪記で出目徳がヒロポン注射をしているのとダブってしまった。

そして、物語は三女の見合いの話が延々と続き、なんとそれが最初から最後まで主たるテーマなのである。イベント的に長女の婿の東京転勤の話や神戸大水害の話、四女が引き起こす男性問題などがあるのだが、そのすべてが結局三女の縁談に関係してくるのである。

あるいは昔の読者は、正体不明の羊を追って札幌のホテルで羊博士と邂逅したり、日本画家がオペラの登場人物に何を仮託したかの謎と同じ様な関心をもって、上流階級の見合い問題を読んだのだろうか。その方が謎だ。

時代が古いからとはいえない。この作品が執筆されたのは第二次世界大戦中、発表されたのは戦後まもなくで、時期的にはチャンドラーの一連の作品やサリンジャーの「キャッチャー・イン・ザ・ライ」と同じである。これじゃ日本は負けて仕方がないと思ってしまう。

古典芸能を一部の階層がカネとヒマに任せて楽しむのが文化なのだろうか。私はそうは思わない。楽屋に入って芸人と歓談する人達だけが文化の担い手だというのなら、そんな文化はなくなっても構わない。

確かに、私の世代には「芦屋」とか「船場」という言葉には特別な思い入れがある。転勤で大阪に住んだのはもう35年も前のことになるが、当時はまだそういう名残りが少しは残っていた。

とはいえ、そうしたブランドイメージの裏返しとして、「大阪駅の北側は永遠にあのままであろう」とか「環状線に乗ってはいけない。難波と堺の間には立ち入ってはいけない」といったことが、特に東京から行った人間にはまじめに語られていたのである。

いまや、大阪駅の周辺は北も南も再開発され、昔の姿を想像するのが難しくなった。芦屋の高級住宅街も久しく行っていないが、単に金持ちが住むというだけのことになってしまうのだろうか。もともとそういうもののような気もするし、寂しい気もする。

作者がたいへんこだわっているのが、どこの料亭で何をするとか歌舞伎は何がかかっているかという種の薀蓄であるが、私に関心がないせいかいまひとつピンとこない。「その頃には貴重品となっていたバアガンディーの白葡萄酒」には興味をそそられたが、ブルゴーニュでもどこかによって受ける印象は全く違う。

(バーガンディはブルゴーニュの英語読み。上流階級だったら「コルトン・シャルルマーニュ」くらい飲んでほしいものだが、銘柄を書かないところをみるとどうなんだろう。大体、どうやってワインを保管しているのかさえ書いていないのだ。)

きれいどころが着飾っていろいろやる訳だから、いまだに明治座とかの舞台で演じられるのも分からないではないが、言ってみれば「ベルばら」と同じレベルであって、これをもって日本文学を語ってほしくないというのが正直な感想である。

[Sep 19, 2018]


尚順「古酒の話」

先日「細雪」を読んだ後味があまりよくなかったのと、書かれた時期がほぼ同じということもあって、この小作品を読み返したくなった。

尚順は名前から明らかなように琉球王家の末裔である。旧華族制度では男爵に列せられるが、この人の場合男爵というより、古くからの琉球貴族の尊称である「松山王子」(英国のPrince of Walesに相当)や「松山御殿(うどぅん)」の名前がふさわしい。

実業家として文化人として沖縄ではたいへん有名で、この作品はジャンル分けをすればエッセイということになるのだろうが、文章全体に流れる風格といい沖縄文化に対する愛着といい、「船場文化の真髄」とは比較にならない格の高さを感じる。

「古酒は単に沖縄の銘産で片付けては勿体ない。何処から見ても沖縄の宝物の一つだ。」という最初の一文からして、読む者をはるか南の異界に引きずりこむ。以下、泡盛古酒がいかに歴史と格式を持つ酒であるかをわかりやすく述べるのである。

泡盛について詳しくない方のために補足すると、泡盛の古酒というのはただ年数を保存すれば古酒になるというものではない。まず親酒といわれるすぐれた酒があって、それが自然に蒸発したり消費したりして減少した分を、あらかじめ用意してある二番酒で補充し、二番酒が減った分を三番酒で補充して、というたいへんな手間をかけて作られるのである。

この手順を「仕次ぎ」といって、これを百年以上にもわたって綿々と続けて来たのが古酒であった。沖縄に行った際、あるメーカーがやっている泡盛博物館で戦後まもなく製造された泡盛、「夕びぬ三合瓶」と歌にある三合瓶が、栓をしてあるのに例外なく3分の2くらいまで目減りしているのを見て、なるほど飲まなくても減るものだなあと思ったものである。

(ちなみに、泡盛で三合瓶がデフォルトなのは、戦後の物資難の際に米軍払い下げのビール瓶を再利用したからであるといわれる。その後自前でガラス瓶を製造できるようになったが、それ以来一升瓶の次は三合瓶という銘柄がほとんどである。)

せっかく親酒がいい酒であっても、二番酒の風味が落ちたり年数の違う若い酒だったりすると、仕次ぎをしたとたんすべてが台無しになったそうである。そして、由緒正しい古酒を持つことは家の名誉にかかわるので、一家の主人は金庫の鍵は召使に持たせても、古酒蔵の鍵だけは自ら保管したとこの作品には書いてある。

泡盛古酒としていま売られているものは、ウィスキーと同じようにメーカーでブレンドされているもので、尚順男爵が言うような「ときどきは出して自らも飲み、人にも供し、その都度二番三番より順次に繰上げ」というやり方はよほどの愛好家が個人でやっているだけである。

例えば私がやろうと思っても、百年二百年たたないと本当の古酒の味わいは期待できないし、ということは生きている間はとても無理ということである。そうやって先祖代々愛蔵した古酒が、沖縄戦で無残にも破壊されてしまったことは、返す返すも残念なことであった。

(そういえば、初期の美味しんぼに、山岡が沖縄に行って古酒をご馳走になる場面がある。しかし、そもそも戦前からの古酒自体ほとんど残っていないし、戸外の甕から飲んでいたような絵だったから、薩摩あたりの焼酎と混同していたのではないかと思っている。)

このエッセイの原文は「松山王子尚順遺稿」に収められており、amazonの古書で17,500円~の値がついている。国会図書館に行って読んでみたが、古酒だけでなく沖縄料理全般、沖縄陶器、首里城明渡し前後の印象などが書かれており、たいへん面白い本である。

ちなみに、本当の上質な古酒になると、白梅香かざ、トーフナビーかざ、ウーヒージャーかざといった独特の匂いがしたものという。とはいえ、素人が飲むと「何だか脂臭い感じがした」となってしまうらしいので、造る方も飲む方も経験が必要だったようである。

[Oct 12, 2018]


橋本治「九十三歳になった私」

「背中の銀杏が泣いている」は同時代だから知ってはいるものの、橋本治の作品はあまり購読意欲が湧かないというか、再び読もうという気が起きにくい作家なのである。

その理由はというと、何かノリノリで書いてはいるんだけれど、自分だけ分かっているというか、楽しんでいるというか、そういう気がするのである。この人は、推敲してないんじゃないかと思うくらいである。

推敲とは、「てにをは」を直したり、送り仮名を正しくしたりすること<だけ>ではない。村上春樹が1Q84で書いたように、説明の必要な部分は書き足し、不必要な部分は削り、プリントアウトし読み直してみてまた書き足し、削り、これ以上足せないし引けないというところまで文章を磨き上げることである。

きっとこの人は頭が良すぎるんだろうと思う。自分のレベルで終わりにしてしまうのである。それでも、図書館に置いてあることが多いので、時々読んでしまう。てんやわんやの「ピーコちゃん」ではないが、ノリで書かれたものも時には楽しいからである。

この作品は珍しく、読み返してしまった。まず発想が秀逸である。戦後百一年の2046年、東京大震災により都心が壊滅。九十八歳作家である「私」は栃木の杉並木近くにある仮設住宅に住んでいる。(あとがきで、この想定は「群像」編集部からのお題であることが判明する)

もはや原稿用紙を作っているところはなく、パソコンは打てないので、昔の原稿の裏に墨を使って手書きしている。だから、自分以外は何を書いているか分からない。介護士のバーサン(30歳年下)に、「昔の字で書いてあるから分からない」と言われてしまうくらいである。

ジュラシックパークに憧れた科学者がクローン再生してしまったプテラノドンが杉並木の上に巣を作り、老人をさらって雛のエサにしてしまうので自衛隊が出動して退治する。県政最大の実力者は知事のお母様で、すでに齢百十五。だから知事は七十越えてるのにお嬢様と呼ばれているなどドタバタが続くが、最高に面白いのは「メロンの娘」であった。

「メロンの娘」とは、九十八歳作家の「私」がいくら説明されても名前が覚えられないし人間関係が把握できないものだから、なじみの編集者の親戚でメロンを作っている誰かの係累としか分からないのでそう呼んでいる。このメロンの娘が、「私」の全集を出していいですかと聞いてくるのである。

「いまどき全集なんて買う人いないよ」と九十八歳作家は言うのだが、「それでもいいんです」とメロンの娘は言う。

「私の本て、三百冊くらいあるのよ」と言うと、「三冊じゃだめですか」と娘。「三冊じゃ全集とは言わないよ」と九十八歳作家。

このメロンの娘は編集者とか書籍関係の仕事をしている訳ではなく、宇都宮で手作りのブローチを売っているという。「もしかして、コート着てスカーフ巻いて、寒い冬の夜に街灯の下でバスケットに入れて売ってるの?」と聞くと、「なんで知ってるんですか」と驚かれてしまう。

ここから九十八歳作家の空想は、18世紀のペテルスブルグに飛び、宇都宮だから「餃子姫」という童話を誰か書かないだろうかとさらに飛ぶ。このあたりで、宇都宮駅前の「餃子像」を知っていると大笑いである。

結局、3冊の全集をOKするのだが、メロンの娘は、地震で崩れた書店の取り壊しの時拾った原本を、10冊コピーして自分で売るという。九十八歳作家は、そういえば昔、新宿西口に座って自分の詩集を売っていた女がいたなあと思いをはせる。

「もう、本に関しては流通なんてものは存在しませんね」となじみの編集者は言うのだが、だったら編集者は何をしてどこから給料をもらっているんだろうと、これは私が突っ込みを入れたのだった。

なんだか、あらすじを紹介しているだけで書評にも感想文にもなっていないような気がするのだが、2040年代を待たずに、雑誌とか書籍という紙媒体は存在基盤が大きく揺らぐだろうことは間違いない(新聞も)。

もはや、電車の中でサラリーマンが週刊誌を読んでいる光景は過去のものだし、少しは残っている新聞バサバサおっさんもいずれはいなくなるだろう。新聞も雑誌もスマホやタブレットの画面で完結するのであれば、印刷や流通といった業態も必要なくなる。

人口が減り続ける訳だからスペース的問題の重要度が相対的に低くなって、行政サービスとしての図書館は続くような気がするけど、行政が購入するような本ばかりというのもちょっと寂しいかもしれない。

p.s. この書評を書いて間もなく、2019年1月に死去されました。ご冥福をお祈りします。

[Dec 5, 2018]

ページ先頭に戻る    書評2017←    →書評2019    書評目次