吉村作治・曽野綾子「人間の目利き」    橘玲「読まなくてもいい本の読書案内」
源信「往生要集」    森博嗣「スカイ・クロラ」    金邦夫「すぐそこにある遭難事故」
福井勝義「焼畑のむら」    先崎学「うつ病九段」    兼好法師「徒然草」
森達也「悪役レスラー」    福本博文「ワンダーゾーン」    大原扁理「年収90万円でハッピーライフ」
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吉村作治・曽野綾子「人間の目利き」

副題は、「アラブから学ぶ人生の読み手になる方法」。ということは、ネームバリュー的には曽野綾子先生の方がずっと上だけれども、吉村先生が主役で曽野綾子が聞き手という位置付けになるだろう。

曽野綾子はもともと小説家なのだが、申し訳ないことに作品はひとつとして読んでいない。だが、エッセイ類はほとんど全部といっていいくらい読んでいる。

そのきっかけは、まだ景気のよかった時代、通勤電車の行き帰りで読むためにほとんど毎日週刊誌を買っていて、そこに曽野綾子の文章がよく載っていたことである。正直なところ、椎名誠の連載よりもずっと面白く、また考えさせられることが多かった。

その後、日本財団(旧・日本船舶振興会)が問題を起こした時、笹川一族に代わって会長となったのは、そもそもキリスト教の海外宣教師への補助で日本財団とお付き合いがあったからであった。その後、文化人を気取った元アナウンサーが似たようなことをしたが、年季が違うのである。

そうしたエッセイの中に、曽野綾子がまだ若い頃サハラ砂漠を横断したことが書いてあったのはよく覚えている。この遠征で、まだ世間的には無名の吉村先生が、現地アドバイザーとして同行していたのである。それ以前から、かれこれ半世紀にわたるお付き合いなので、並みの対談とは深さが違うのであった。

いまや早稲田の名誉教授であり、功成り名を遂げた吉村先生であるが、若い頃はそんなビッグネームになるとは思わなかったのだろう、現地のお嬢さんと結婚して子供もいるなんてことは知らなかった。向こうの女性は異教徒と結婚できないので、先生はイスラム教徒となった(現在は改宗)。メッカ巡礼もしているから、筋金入りのアラブ通なのである。

そういう吉村先生の伝記としても読める一冊なのだが、本題はアラブの人達の考え方についての解説である。これを読むと、曽野綾子先生の言うとおり、ポリティカル・コレクトネスなんてきれいごとでは、砂漠の中で自分や家族を守ることなどできないということがよく分かる。

例のイラク戦争の時、事態終結後にクウェートが出したお礼広告に日本が入ってないことをTV解説では一大事のように言うけれども、私はそれは違うんじゃないかと感じていた。うまく説明できないけれども、あちらは日本は中立だということにしていたいのではなかろうかと思った。

その疑問は、この本を読んでなんとなく分かった。血縁を大切にし、見ず知らずの人は騙しても旧知の人には信義を守り、貸し借りと恩義を忘れないというのは、近代化以前の日本と変わらない。ポリティカル・コレクトネスよりも、よっぽどしっくりくるのである。

アラプの人達は我々と全く価値観が違うという先入観があるけれども、コーランに書かれていることの多くは当り前のことである。豚肉を食べるなというのは極端なようだけれども、仏教だって本来は肉食禁止だし、200年前まで日本もそれでやってきたのである。羊が食べられるのだから、現地の人々にとってそれほどの制約とは感じなかっただろう。

そしてアラブの人達は「イン・シャー・アッラー」、何事も神の思し召しなので、取り越し苦労はしないという。起こってもいないことをあれこれ考えるのはムダであり、神様ではないのだからすべてを予測することなどできない。これは、改めてそうだなと思ったところである。

人ひとりの考えることなど微々たるものであり、この世のものごとすべてを考えようと思ったところで、人ひとりの持ち時間では到底できない。だとすれば、最低すべきことはするとしても、あとは祈るしかないのである。「イン・シャー・アッラー」の代わりに、「運を天に任せる」という言葉もある。そういえば「NINTENDO」はこの言葉から社名を付けたのだった。

[Feb 13, 2019]


橘玲「読まなくてもいい本の読書案内」

橘玲(たちばな・あきら)は私と同年代で、元宝島の編集者。この人の本はかなり読んでいるので、ブログの書評にも書いたと思っていたら、いままで採り上げたことがなかった。

タイトルはたいへん過激で何を言うのかと思っていたら、内容はごくまともな読書案内。この人の本にはこういう過激なタイトルが多いが、編集者としての経験から、とにかく手に取ってもらえなければ始まらないという考えであろう。

主旨としては、「時間は有限であり、巷にあふれている本をすべて読む時間はない。ここ数年でパラダイムシフトの起こった分野は多いのだから、古いパラダイムで書かれた本は読まなくてもいいのではないですか」ということで、ご説ごもっともである。

先だって文部省が、「大学教育で人文系を教える必要はない。もっと実用的な、社会に出て役立つ教育をするよう努力せよ」みたいな通達を出して、企業からも大学からも反発を食らったことがあった。その時、私の持った感想は世上で言われていることとはかなり違っていた。

というのは、「40年前だってアカデミズムなんてなかったし、実用的な教育ばっかりしてたじゃないか」と思ったからである。例えば法学は、いま現在の法律を学説・判例でどう運用しているかがほとんどすべてで、言ってみれば司法試験の予備校である(いまもそうだろう)。本来、アカデミックな法学ってそういうものじゃないと思っていたのである。

私が勉強した経済学も同様で、講義の半分を占めていたマルクス経済学がいまや片隅に追いやられてしまったのは当然として、ケインズ経済学や経営理論にしたところで、日経ビジネスに載っていたような内容である。つまり、企業に就職してビジネス会話(w)ができるように教育していたのが実際のところである。

もっとも、現在と同様、昔もほとんどの学生が勉強などしていなかった。私がゼミでとっていたのはベイズ統計学で、橘玲のこの本で勉強するに値する分野ということになっているのは光栄だが、当時は何を言っているのかちんぷんかんぷんだった。逆に、これからはコンピュータの知識が必須というのでフォートランを勉強したけれど、結局使うことはなかったのである。

人文系でもそんな分野ばかりでなく、例えば心理学の講義では、ネズミを迷路に入れるとどうなるとか、サルに何の絵を見せるとこわがるかなんてことをやっていた。フロイトやユングを教えてくれるのだろうと思っていた私には肩すかしだったが、半世紀たってみるとこちらが本筋なのである。

氏の考察によると、従来、人文系と言われていた分野は、21世紀に入ってから急速に進んだ脳科学、ゲーム理論、複雑系などの新たな知見と、コンピュータの高速化・AIの進展によって、近い将来いまあるものとは全く違った学問にならざるを得ないということである。

私なりに解釈すると、例えば現在の法学部の講義内容は、司法試験予備校的「社会に出て役に立つ勉強」ではあっても「アカデミズムの名に値する学問」ではない。これからの法学は、例えばゲーム理論を取り入れて「最も有効かつ低コストで違法行為を抑制する法とはいかなるものか」といったような方向に進むのではないだろうか。

同様に、新たな知見によるパラダイムシフトによって、例えばフロイトとか、デカルトとか、かつては古典と言われていた多くの著作が「読まなくてもいい本」に分類されている。

最近、読みたい本がどんどん少なくなって何度も同じ本を読むような状況なので、この本でいろいろ新たな分野を教えてもらったのは、たいへんありがたいことである。

[Mar 27, 2019]


源信「往生要集」

この本の題名と著者は、大学受験の日本史では必須である。だから昔から暗記して知っていたことは間違いないのだが、この歳になるまで読んだことがなかった。人生、いくつになっても勉強である。

なぜ今頃になってこの本か、という説明をしなければならない。発端は、昨年秋の第9次お遍路で、善通寺に行った時のことである。

宿坊「いろは会館」のすぐ近くに、閻魔(えんま)堂という建物がある。この中には閻魔大王はじめ十王、脱衣婆、懸衣翁など地獄の面々が鎮座しているのだが、その背景を調べてみたら、これまでの認識が十分でなかったことが分かったのである。

これまでの理解では、十王信仰は比較的新しくできたもので、仏教本来の教えとは別であると思っていた。たしかに十王信仰は、中国の道教や日本の末法思想・怨霊信仰などの影響を受けて成立したものであるが、全く別物とは言い切れない。というのは、源信のこの著作があるからなのである。

日本史的な理解では、「往生要集」は平安仏教のひとつ浄土教の基本的なテキストである。つまり、鎌倉仏教の浄土宗・浄土真宗のように念仏・阿弥陀信仰を徹底しておらず、従来の仏教思想の範囲内で阿弥陀如来を重視するという立場にとどまっているように思い込んでいた。

だから、基本となるのはあくまで仏教本来の「六道輪廻」であり、魂の平安を得るためにはこの無限ループから離れて、阿弥陀如来の極楽浄土に往生する他はない、というのが源信の説くところかと思っていた。ところが、そんな単純なものではなかったのである。

まずオープニングでは、六道のひとつである地獄界の様子が事細かに表現されている。もちろん、天界や人間界など他の世界のことも書かれているのだが、地獄界が群を抜いて細かく、また視覚的に訴える内容で、かつ分量も多い。それは、第一章だけでなく「往生要集」全体を通していえることである。

実際、第三章以降では浄土信仰はいかにすぐれているか、その修行はどのように行うべきかが経本や理論を根拠に述べられているのだが、第二章まで、特に第一章冒頭と比べるとインパクトに欠ける。正直、なぜ第三章以降が必要なのかという印象である。

それは、源信はもともと比叡山の学僧であるからである。「往生要集」に書かれていることすべて、「△△経にそう書いてある」「高僧の誰某が著作でそう書いている」などと根拠をあげている。つまり、「往生要集」は源信の創作でもオリジナルでもなく、過去の文献から導いた論文なのである。

お経の種類は多く内容も膨大である。高僧の数もそれ以上に多い。だから、お経や高僧の著作を根拠としてこうした論文を書くことは、浄土教・阿弥陀如来に限らず、戒律でもできるし座禅でもできる。もちろん法華経至上主義でも書けるのだが、源信の工夫は、地獄の記事をオープニングに持ってきたというところにある。

つまり、浄土信仰のPRにあたって、六道輪廻とか末法思想とかいった小難しい理屈ではなくて、「地獄はこんなに恐ろしいところですよ。行きたくなければ阿弥陀如来におすがりして極楽浄土に往生しましょう」という、仏教関係者でなくても感覚的に理解できる説明としたのである。

こうした説明に飛びついたのが位人身を極めていた藤原一族で、同時代の藤原道長はさっそく写本を作らせたし、息子の頼通は平等院鳳凰堂を造った。視覚に直接訴える地獄絵図も多く描かれて、多くの庶民が阿弥陀如来への信心を深めたのである。



先週書いたように、「往生要集」は過去の仏典をもとにした研究論文である。だから源信は、この「往生要集」を当時における先進国であり仏教の本場でもあった宋に送っている。今日でいうところの博士論文のような位置づけであったかもしれない。

しかし残念ながら、唐代以降の中国は少なくとも軍事的には先進国ではなくなっていた。遼や金といった北方民族に圧迫され、やがて宋はモンゴル世界帝国に滅ぼされることになる。浄土信仰も中国では根付かなかった。

「往生要集」と並んで日本史の暗記項目であるのが「日本往生極楽記」である。これは、源信と同じ浄土教サークルに属して一緒に勉強していた慶重保胤(よししげのやすたね)の著作で、わが国においてどういう人達が極楽往生したかという、一種のドキュメンタリーである。

保胤はもともと役人で、従五位下の中級貴族であった。花山天皇の側近で、政治改革に力を入れたが志半ばにして行き詰まり、官位を捨てて出家した。だから、「日本往生極楽記」は、正確には慶重保胤改め僧・寂心の著作ということになる。

保胤の理想としたのは文治政治で、財産とかコネではなく能力のある者が政治をすべきだという主張であった。残念ながら、わが国ではこうした主張は、過去現在を問わず受け入れられないことになっている。花山天皇は法皇になってからも影響力を保ったし、保胤自身もいまでいう政令・通達を起草したくらい有能だったのだが、藤原一門の権謀術数には敵わなかった。

話を戻すと、十王信仰はもともと道教の影響を受けて中国で作られた偽経(釈迦の教えではないお経)をもとにしているが、わが国において広く受け入れられたのは、十王信仰の分かりやすさに加えて、「往生要集」が地獄の存在を広くアピールしたからと考えて間違いなさそうだ。

「往生要集」に書かれた数字の中で、たいへん気になったことがある。それは地獄にいる日数なのであるが、地獄の1日は人間界に換算すると9百万年であるという。これは、生物学的には、ヒトの祖先とチンパンジーの祖先が枝分かれした時期にあたる。

そして、地獄にいなければならない年数は500年、つまり9百万×365×500で人間界の1兆6千万年ということになり、ビッグバンの10倍以上昔ということになる。つまり、地獄に落ちたら最後、ビッグバンが何回も起こるほど、永遠に苦しまなければならないということである。

地獄の後はまた別の世界に転生するのではなく、落ちたら最後、永遠の苦しみが待っているということで、これは経典に根拠があると書いてある。となると、何とかして極楽浄土に行きたいと思うのが人情である。

ここから、十王信仰による死後の裁判への距離は、ほとんど離れていない。つまり、十王信仰の土台は「往生要集」がすでに固めてしまっているということで、仏教と十王信仰の距離は私が考えていたよりもずっと近いことになる。

「往生要集」は、中世において最も重要な必読書のひとつであった。徳川家康の旗印「厭離穢土欣求浄土」は「往生要集」の第1章・第2章の表題だし、「平家物語」のエピローグ・灌頂巻は「往生要集」の内容を踏まえて書かれている。

こうしたことは当時の人々にとっては常識であっただろう。中身も読まないで作者と題名だけ覚えているだけだと、私のように見当違いの理解をしたまま長い年月を過ごすことになる。心しておかなければならない。

[May 29, 2019]


森博嗣「スカイ・クロラ」

この人の書いたものは、小保方STAP事件の時に「科学的とはどういうことか」を紹介しているが、本職は小説家である(学者かもしれない)。実は、彼の作品をかなりの数読んでいる。

「すべてがFになる」はじめ、推理小説風や怪奇小説風などいろいろあるが、おしなべて言えることは、この先生は読者に分かりやすく説明しようという気があまりないということで、読み終わってもう一度読み返したいという気分にはあまりならないのである。

もう一つ、この先生のコンセブトとして「物理的に不可能なことは起こらない。だからいくら奇抜でも、物理的に可能なことが実際に起こったことである」という考え方があり、結果的に説明の分かりにくいものにならざるを得ないのである。

にもかかわらず「スカイ・クロラ」を読み返したくなったのは、この間紹介した橘玲の本に、「記憶は作ることができる。だからトラウマ(心的外傷)なんてものは本当の経験が原因とは限らず、まともな医学者はトラウマを取り上げない」と書かれていたからである。

この物語は、永遠に生きる(戦闘による外傷でしか死なない)パイロットたちの記憶と情報処理がテーマとなっている。ただ、疑問は山ほど出てくるけれども、それに回答が示されるとは限らない。「スカイ・クロラ」だけではほとんど何を言っているか分からないし、シリーズ6作読んでも、疑問のまま終わることも多い。

ということは、世知辛い話になるが1万円出さなければ作品の全体像すら把握できず、自分で買うより図書館で借りる方が経済的である。私が何とかついていけたのは、最初に映画を見てそのイメージがあったからである。

加えて、全編にわたって戦闘機の操縦シーンが続き、その種の専門用語が分からないとちんぷんかんぷんである。作者は、エルロンとかラダーとかエレベータとか書いているとうれしくて仕方ないみたいだけど、飛行機の操縦に興味のない読者はその部分を読み飛ばすだけである。

ただ、物語の筋そのものはファンタジックであり、作者が現代の科学をどうとらえているか垣間見ることができて興味深い。

上に述べた「記憶の改変」は最新の知見であるが、おそらく理系の大学教授である作者には当り前のことであろう。また、人類がもし進化することがあるとすれば、外見上歳をとらないで長く生きるということは十分に考えられる。

とはいえ、いかに「病気では死なない」といっても、酒は飲み放題タバコは吸い放題で身体に影響が出ない訳がない。きっと、見た目は子供の容姿でも、肺ガンになったりアル中になったり、肥満体系になったりするのではないかと思う。

でも、そういう物語ではないので、登場人物達は戦闘で死ぬか、あるいは精神的におかしくなって自滅するしかない。戦争する両軍は卓越した兵器を持ってしまうと戦争が終わって仕事がなくなるので、あえて戦力を均衡させているというところは、よくできたメタファーである。

いずれにしても、この作品で示される多くの疑問には、シリーズ全作を読まないと回答は示されないし、その回答も読者に理解される表現とはなっていない。そういう意味では、たいへん読みづらく、また読後に手応えが残らない作品なのだが、おそらく作者はそれでいいと思っているのだろう。

あるいは、現実にいまこの本を開いている読者よりも、何十年後の読者に対して先見性を示したいと考えているのかもしれない。ただ、普通に考えると、いま現在の読者を満足させられずに、何十年後の読者を得られるのかという問題はあるかもしれない。

この作品はアニメ化もされていて、上に述べたように映画館に見に行った。この作品を奨めてくれたのは、当時有料メルマガでいろいろな記事を書いていた日垣隆氏だった。彼も同じような傾向(分かりやすく説明しようという気があまりない)があって、最近はあまり名前を見なくなった。

あと、このシリーズを読んで感じたのは、これは科学技術版の「ポーの一族」ではないかということである。作者は「トーマの心臓」のノベライズもしているから、きっと萩尾望都のファンなのだろう。

ちなみに作者の森博嗣は私と同い歳で、高校・大学時代に「ポー」や「トーマ」を読んでいるはずである。記憶の改変については、「百億の昼と千億の夜」や「銀の三角」にインスパイアされたのかもしれない。

[Jun 26, 2019]


金邦夫「すぐそこにある遭難事故」

山岳事故の記録は折に触れて読むようにしているが、救助もするし文章も得意という人はそれほど多くない。すぐ頭に浮かぶのは羽根田治氏と金副隊長で、金副隊長の書いたものには、よく知っている道が頻繁に出てくるので興味深く読ませていただいている。

金(こん)副隊長は警視庁で山岳救助を担当してきたベテランであるとともに、今上天皇陛下の山行警護にずいぶん昔からあたっていた。管内の山岳事故や四季折々の様子をまとめた副隊長の作品では、「奥多摩山岳考」「金副隊長の山岳救助隊日誌」に続くシリーズとなっている。

この「すぐそこにある遭難事故」は2015年の刊行。前作「救助隊日誌」は2007年なので、8年振りの新刊ということになる。「岳人」の掲載記事が中心で、その間、金副隊長は長らく勤務した警視庁を退職された。

退職後も嘱託の山岳指導員として、引き続き奥多摩に詰めておられる。昨年の三頭山のような遭難騒ぎには、金副隊長もさぞかし苦い顔をしているに違いない。地域的には五日市警察署の管内と思われるが、やっぱり出動したんだろうか。

さて、私の奥多摩山行は金副隊長の影響をかなり濃厚に受けている。天祖山に行ったのは金副隊長を読んだからだし、奥多摩小屋を訪れたのも皇太子殿下(今上天皇陛下)も行かれたと書かれているからである(期待に反したが)。

この本でも何度も触れられているが、山岳事故を防ぐためまずしなければならないのは、登山計画書の作成である。事故の第一報は家族から届けられることがほとんどであるから、個人情報が気になる人は家族に預けるだけで全然違う。

次に「口を酸っぱくして」と副隊長が強調しているのが、「迷ったら尾根に戻れ。谷に下りるな」ということである。昨年も五頭連峰で親子の遭難死があったが、限られた山域であってもすべての谷を捜索するのは不可能である。奥多摩駅の周辺でさえ、行方不明者が年に何人も出ているのだ。

そして、私が個人的に心がけているのは、計画どおりいかないのも山の楽しみだと思うことである。実際、道間違いや時間的な制約で途中で引き返すことは、1シーズン1、2度必ずある。

始めからそう思っていれば、たとえ地図上で道があっても、赤テープが貼られていても、危ないと思ったらすぐ撤退することができる。いよいよ進退窮まってから引き返すより、はるかに安全だしストレスも少なくてすむ。

私の場合はそれらの対策にプラス幸運にも恵まれて、いまのところ危ない目には遭っていない。しかし、金副隊長のこの本を読むと、御殿山とか、本仁田山とか、なぜこんなところでというような場所で事故に遭ったり行方不明になっているのだ。

単独行はいけないとよく言われるが、複数で登っていても滑落事故は起こる。私が不審に思った大休場尾根への入口にあるトラロープは、トレランやバリルートの滑落事故が原因と、この本には書いてある。

いまや、奥多摩でも相当人里離れた場所でなければ携帯の電波が届く。だが、電波が届いても正確な場所が説明できなければ助けは来ないし、実際110番通報をしたけれども場所が特定できず行方不明というケースは発生している。いくら文明が進んだといっても、山というのは非日常空間なのだ。

[Jul 19, 2019]


福井勝義「焼畑のむら 昭和45年四国山村の記録」

この本は、当時すでに奥深い山村で最後の焼畑集落と呼ばれた椿山(つばやま)を舞台とした調査報告と関連論文をまとめたものである。初版は1973年と45年前であるが、最近になって(2018年)復刊された。

椿山は、四国遍路で歩いた岩屋寺からさらに奥に進んで県境を越え、国道から数km奥に入った標高500mを超える高地にある。調査当時でも30戸ほどの小規模な集落だったが、平成26年に定住しているのはわずか1戸、家の維持管理に通う人もおり、郷土芸能は続けられているということだが、WEBの秘境サイトにもでてしまうくらい人里離れた土地になってしまった。

著者は当時、京都大学農学部におり、学部横断的な調査グループを立ち上げて調査した。専門分野であるから農業技術的な「焼畑」がもともとの関心分野だったと思われるが、徐々に文化人類学、民俗学の分野に重点が移ったようで、国立民族学博物館、京都大学総合人間学部の教授を歴任した。2008年、まだ64歳の時に亡くなっている。

この本を読んでいて引き込まれるのは、焼畑の技術的な側面、手順や農作物といった分析よりも、山村における人々の暮らしぶりや親戚・近所付き合いなどの記事である。特に、調査当時行われていた村長選挙に対する村人の熱の入れようはすさまじく、元村長・対立候補の人柄やそれぞれの支持者の構成などが細かく記録されている。

こうした著者の関心の深さは、当時の学生運動という側面もあったかもしれない。多くの大学で授業ができない状態になり、東大などは入学試験を行えなかったくらいである。そうした中、山村のフィールドワークに努力した著者は学生運動自体には消極的・批判的だったと想像するが、いずれにしても旧来の政治への関心は強かったに違いない。

「むらを生きる」という章では、この地で長年生きてきた人々の話が語られるが、まるで宮本常一の書いたものを読むようである。1970年当時の年寄りだから明治半ば以降の生まれであるにもかかわらず、病気やケガがもとで多くの人々が寝込んだり死んだりした経緯が細かく語られる。

「医者がいないから拝み屋に拝んでもらった」などという話は江戸時代かフィクション(飛んで埼玉)と思っていたら、昭和初期になってもまだ実際にあったのである。そういう話を聞くと、全国どこにいっても衛生的な環境が保たれていて、医師の質もほとんど一律であるという現代は、得難いものであることが分かる。

栄養状態もよくなくて、椿山では鶏もいなければ魚も伊予から入る干物くらい、そもそも焼畑なので米がとれないという状況であったから、病人にも滋養のあるものを食べさせられなかった。とはいえ、現金収入は周辺の村よりあって、その大きな要因は焼畑でできるミツマタであった。

ミツマタは和紙の原料となり、コウゾよりも高く売れたようである。とはいえ、現金収入があることはいいことばかりではない。酒やバクチで浪費してしまう人や、事業に失敗して借金をする人も出てきた。

椿山で行事や共同作業の後に行われる打ち上げ宴会のことを「ケチガン」というようだ。四国遍路の結願である。遍路用語が先だったのか、当地の民間語彙である「ケチガン」が先なのか、興味深い。

[Aug 14, 2019]


先崎学「うつ病九段」

先日行われた王位戦第6局の立会人は、先崎学九段であった。先崎九段は一昨年(2017年度)途中から病欠休場したのだが、それはうつ病で入院したためであった。復帰してすぐの昨年度はなかなか勝てず順位戦も降級したが、今年は順位戦でも勝ち星をあげているし、こうして立会人を受けているから順調に回復しているようである。

先崎といえば、われわれの世代には将棋界最後の内弟子として有名である。米長永世棋聖が、将棋界の貴重な伝統を自分の時代になくしてしまうのはしのびないということで、先崎と林葉を内弟子にとったのである。

かつては将棋の勉強をする場所が限られていて、師匠の家に住み込みで将棋に接するしかなかった。とはいえ、大山・升田が同じ木見門下で内弟子時代を過ごしたのは第二次大戦前であり、住宅事情も情報の流れも今とは全く違う。

先崎も、大山・升田のように師匠の家で下働きをしたり後援者回りの手伝いをした訳ではなく、いわゆる下宿に近い形だったと思うけれど、とにかく「同じ釜の飯を食べた」内弟子は、私の知る限り先崎が最後である。

先崎自身もA級に上がることはできたが、残念ながらタイトルには手が届かなかった。ただ、これは本人の才能や努力というよりも、同世代に羽生永世七冠がいた影響がきわめて大きい。羽生が一人で99もタイトルを取っていて、他にも森内、佐藤康光がいるとなれば、他の同世代になかなかチャンスが回らないのも仕方がない。

うつ病の症状として、夜いつまでも眠れない、朝になってもベッドから起き上がれない、何をしても集中できない、などは予備知識として持ってはいた。とはいえこの本の中で、プロ棋士歴30年を誇る先崎が七手詰めをどうしても解くことができなくなるというのは衝撃だった。

自分に置き換えて考えると、キーボードのどこに何の字があるか分からないとか、アプリケーションがどうしても開けないとか、そういうことになるんだろう。となると、気分が落ち込んだとか、どうしてもやる気が起きないとか、そういう症状とはレベルが違うということである。

半世紀前の精神疾患の知識というのはたいへん遅れていて、クレッチマーの3類型とか、性格的な偏りが極端に出るのが精神疾患というような考え方であった。しかし、このような実際の症状の説明を受けると、体形とか性格の偏りとはおそらく関係ないと見当がつく。

うつ病の大きな原因は過大なストレスで、そのストレスが胃腸や循環器系に症状が出るか、情報処理(脳)に出るかの違いだけである。肥満型の人だけがうつを患うわけではないし、普通に考えると粘着質の人はうつになりやすい気がする。

この本の中にも、「うつ病はこころの病気ではなく脳の病気だ」ということが書いてある。かつては精神疾患と体の病気とはちょっと違ったとらえ方をされてきたが、脳も体の一部である以上、消化器系や循環器系の疾患と同様のアプローチが可能なはずである。

実際、fMRIやPETといった最先端医療機器により、脳のどの部分の異常がどういう症状に現れるかという研究は、近年急速に進んでいる。近い将来、うつ病のメカニズムもかなりの部分まで解明されることになるだろう。3類型とか気質とか性格とかいうアバウトな議論ではなく、脳の機能と症状が関連付けられることになると思う。

精神疾患の中には、脳の機能の問題もあれば、遺伝的な要因もあれば、ストレスや生活習慣によるものもある。当たり前だが、症状も治療法も予防法も違う。ということは、身体の疾患とほとんど同じということである。

[Sep 18, 2019]


兼好法師「徒然草」

昔、受験の頃は「吉田兼好」と覚えたものだが、兼好の時代にはまだ吉田姓は使われておらず「卜部」だったので、いまは兼好法師が作者ということになっているらしい。いずれにしても、通読したのは今回はじめてである。

試験勉強ではないので、現代語訳を読んで気になるところは原文を当たるという体力節約的な通読である。探してみると、現代語訳は内田樹先生がなさっている。ユダヤ語訳をしている先生なので勘どころはつかんでいるとしても、畑違いで大変だっただろう。

それはともかく、兼好法師の正体はよく分からない点が多い。吉田神道の吉田兼倶が自分の先祖と主張しているので吉田家の祖である卜部氏であると思われることと、従五位蔵人という位階があること、勅撰和歌集に何首も選ばれているので公家であると思われるが、確かなことは不明である。

ただ、通読してみると、いくつか気になることがある。まず、全体に順不同であり、同じような内容が違う場所で何度も出てくるということである。ということは、本人が一時に書いたというよりも、誰かが後からまとめた可能性が大きいように思う。そして、後から追加していったので、現在ある形になったのではないか。

その意味では、生前に交流があった今川了俊(今川義元の先祖)が、兼好法師の弟子に集めさせたという俗説は、疑わしいとされているが結構真相に近いのかもしれない。了俊には経済力があり、そういう手間暇をかけるだけの余裕があったからである。(今川氏は代々東海地区の守護大名で、文化には造詣が深い家系である。)

公家とはいっても、卜部氏は神祇をつかさどる家系であり、藤原氏ではないのでいわゆる上流貴族ではない。だから京都生まれ京都育ちとは限らず、金沢文庫(もともと鎌倉執権北条氏のコレクションである)に「うらべのかねよし」の動向を伝える資料が残っていることから、何らかの形で鎌倉に縁故があったらしい。

それを裏付けるように、「徒然草」の中には鎌倉幕府、特に北条氏の人物についての記事が多い。兼好の生きた時代は鎌倉末から南北朝の時代である。幕府滅亡とともに一族自刃した北条氏に関して好意的な記事を残すことは、南朝はもちろん北朝にとっても面白くなかったはずだが、太平記もそうであるように価値観が多様化していた時代なのだろう。

神祇官の家柄とはいえ、勤めは藤原氏の使用人的位置づけであった。兼好が勤めていた蔵人も藤原氏出身の姫が入内したことに伴うもので、天皇や上皇(院)に直接仕えるものではない。そのせいもあり早くから出家したようで、神道に関する記述は少ない。

半分近くを占めるのは宮中におけるさまざまの故事来歴やしきたりに関することである。兼好の博識が示されるが、その知識が生かされるのは上級貴族へのアドバイスに際してだけであって、おそらくそうしたことへの不満があったのだろう。

「知っていることでも知らない顔をしていた方がいい」、「財などあってもムダなだけだ」、「老いたらいつまでも第一線にいるべきではない」などなど、兼好の人生観は徒然草の中に繰り返し語られる。

「つれづれなるままに」で始まる冒頭の文章は、「あやしうものぐるほしけれ」で終わる。物狂おしいとは強い表現で「ある坊さんが念願の石清水八幡宮にお参りしたが、男山の麓に行って帰ってきた」とか「田圃の中で地蔵様を洗っている人がいた。誰かと思ったら昔の大臣だった」なんて話が物狂おしいとは思えない。なぜなんだろうと思っていた。

おそらく、書いていると昔のいろいろなことが思い出され、いたたまれない気持ちになったのだろう。いくら知識があっても、身分の壁があるのでこれ以上の出世は望めない。それを考えると、質素で堅実な武士の生活がうらやましいという気持ちが、行間からにじみ出ているように思うのである。



たびたび登場するのが寺や僧侶の話題である。兼好が得度したのは比叡山横川とされているが、御室に住んだことから仁和寺についての記事が多く、鎌倉ゆかりの真言律宗や浄土宗についても何段か書かれている。

教科書によく載っている「先達はあらまほしきものなり」は仁和寺の法師の話だが、どうみてもあまり誉めていない。仁和寺は兼好法師のご近所ではあるものの真言宗御室派で、比叡山延暦寺とは関係が遠く、そういったこともあるのかもしれない。

西大寺(真言律宗)の高僧が宮中に参内した時、「年寄りなだけだ」と参議の日野資朝が言い放ち、「歳取っているのが尊ければ、こいつはどうです」と毛が抜けた老犬を連れてきたなんて話もある。資朝は後醍醐天皇のお気に入りで、建武以前の討幕計画に連座して処刑された。太平記では亡霊となって登場する。

たいへん興味深かったのは、法然の弟子の宗源が東二条院(後深草天皇中宮)に「死者の供養には何がいいでしょうか」と尋られれて、「光明真言、宝篋印陀羅尼がよろしいでしょう」と答える段である。

あとから弟子達に、「何で念仏って言わないんですか」と問われて、「そう言いたいのは山々だが、経文のどこに根拠があるか尋ねられたら困る。だから根拠が明らかな光明真言と宝篋印陀羅尼と答えたのだ」と答えるのだが、実はこの「念仏が経本のどこに書いてあるか」というのは、信長の「安土宗論」にも出てくる質問なのだ。

光明真言はお遍路をする際に札所で必ず唱えるものだし、宝篋印陀羅尼は房総の宝篋印塔山、茨城の宝篋山など、最近おなじみである。こうしてみると、鎌倉時代がついこの間のように思えてくるから不思議である。

兼好が酒好きだったことも徒然草のいたるところに現れている。「人に無理に酒を勧めるというのは、何を考えているのか全く分からない」とか「すぐに言い争いになり、次の日は具合が悪くなる」とか言うから酒嫌いなのかと思ったら、その舌の根も乾かないうちに「気の合う友と呑みながらしみじみ語り合うのはいい」などというのである。

そして、例によって鎌倉の話。北条時頼が夜分若い武士を呼び出した。あわてて行ってみると酒と盃を用意していて、「一人で酒を呑むのも寂しいので呼んだのだ。みんな寝てしまったので、何か酒のアテを探してきてくれ」と言われる。若い武士が台所で味噌を見つけて持ってくると「これで十分」と気持ちよく呑んだなどという話は、酒好きでないと書けない話である。

さて、徒然草に書かれている人生訓の多くは、兼好が仕えていた堀川(本姓は藤原)具親が後醍醐天皇の怒りにふれて官位剥奪のうえ謹慎を余儀なくされた時代の、いわゆるカウンセリングノートではないかと言われている。

お怒りに触れてというのは、後醍醐天皇お気に入りの女官を口説いて連れ去ってしまったというもので、その女官というのが「神皇正統記」北畠親房の妹であったというのだから、狭い世界の中の出来事である。後醍醐天皇の女好きは有名だから、それほど悪いことだったか疑問ではあるが、ともかく公文書に「女で事件を起こし官位剥奪」と書いてあるそうだ。

だから、徒然草の中に、「妻は持たない方がいい」「女はつまらないものだ」「たまに会うくらいがちょうどいい」と書かれているのは、そういうご主人様に向けてのカウンセリングという側面があると考えられる。「高僧の説教を聞きに行ったら、香の匂いをぷんぷんさせた女がしなだれかかってきたので、途中で退出した」なんて話もある。

年金生活者にとって、心すべき言葉が第123段に書かれている。衣食住に、医薬を加えて4つ。これらがささやかなりとも充たされていれば、それ以上を求めるはぜいたくである、というのである。

いまから千年前に書かれているのだが、これは今日にも通じる言葉である。中国の故事に、「健康で住む場所があり、今日明日食べるものがあればそれ以上求めるべきではない」というけれども、心身の不調を癒す医薬も、クオリティ・オブ・ライフを維持するのに不可欠である。

リタイア生活を送ってはいても、時には歯も痛くなれば頭が痛い日もある。そうした痛みを取り除くことは、衣食住に加えて大切である。酒やいろいろな楽しみはなくても何とかなるし、地位や財産はあるだけストレスのもとだと兼好法師もおっしゃっている。そのとおりである。

[Oct 9, 2019]


森達也「悪役レスラーは笑う」

ブログの書評ですでに「1984年のアントニオ猪木」「1、2の三四郎(w)」「伝説のパッチギ王」「木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか」などのプロレスものをとりあげているが、図書館の岩波新書の棚でこの本を見つけた。岩波とプロレスとは、なかなか妙な組み合わせである。

テーマとなっているのは、第二次大戦直後に米国の人気レスラーとなり、日本のプロレス草創期に大きな足跡を残したグレート東郷。2019年の現在では東郷といえばデューク東郷だが、50年前はグレート東郷の名前の方がずっと通っていた。

しかし、私自身も力道山との関わりでグレート東郷の名前を記憶していたので、あまり威張れたものではない。グレート東郷がスターとなったのは力道山より前で、米国プロレス界に地位を築いたからこそ日本に多くのレスラーをあっせんすることができたのである。

東郷の全盛期は力道山より約10年早い。当時のVTRを視聴した著者は次のように書いている。

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リングに登場した東郷は、紋付姿の従者を引き連れている。小柄な東洋人らしき従者がまず、リングの中央で香をたく。その前にひざまずいた東郷は、手にした茶碗に従者がそそいだ酒らしきものを口に含み、それからやはり従者から受け取った塩を、ゆったりとした動作でリングの四方に撒く。(中略)

映像はモノクロだからはっきりしないが、おそらくは相当に金ぴかの衣装なのだろう。最後に高下駄を脱ぎ、四股を踏んでから、東郷のセレモニーはやっと終了する。
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このセレモニーは、「1984年のアントニオ猪木」に書かれているゴージャス・ジョージのセレモニーとそっくりである。おそらく、ゴージャス・ジョージが始めたショー的要素を前面に押し出したパフォーマンスの二番煎じがグレート東郷であり、それが大戦直後の日本バッシングの空気とTV黎明期の需要に合致して人気を博したということであろう。

その人気たるや、ニューヨークMSGのメインイベントでアントニオ・ロッカと戦ったり、AWAの帝王バーン・ガニアとも対戦しているくらいだから、ヒールとして一流といっていい。その理由の一つとして、東郷はレスリングの基礎ができていたことがあげられる。ヒールだから反則だけしていればいいというものではなく、きちんとしたレスリング技術を知らなければ受け身もできない。

1940年代後半から50年代にかけてメインイベンターとしての実績を積んだから、東郷はプロモーターやレスラーに顔が利いたのである。後にジャイアント馬場が米国に武者修行に出された際、マネージャー兼プロモーターとなったのも東郷である。馬場によると東郷にはずいぶんピンハネされたということだが、当時の馬場と東郷の立場の違いからすれば仕方がない。

そういえば、「木村政彦は・・・」の本にも、やはり大戦直後に米国のリングに上がっていた木村政彦が、かなり高額のファイトマネーを受け取っていたと書いてある。毎晩豪遊して、日本の奥さんに高額な薬を送って、まだ余ったほどだという。現代の売れっ子芸人が吉本のピンハネなしで報酬を受け取っていたという感じだろうか。

当時、プロレスラーの国籍なんていい加減なもので、アフリカ出身・アラブ出身・インド出身などと称していても実際はアメリカ国籍、カナダ国籍がほとんどであった。「鉄の爪」フリッツ・フォン・エリックがナチスの末裔を称した悪役レスラーで、実際はユダヤ人だったなんてことは初めて知った。

さて、著者は関係者の多くが亡くなっている中、残された手掛りを追ってグレート東郷の正体に迫ろうとするが、豪邸も多岐にわたったはずのビジネスもどこに行ったのか全く分からない。調査が難しい原因の一つが、米国には戸籍がないことがある。そもそも世界で戸籍なんてものがあるのは日本と韓国くらいということも、この本を読んで初めて知った。

東郷はマフィアとも交流があったと書いてあるし、実際にショービジネスと暗黒街は隣り合わせだから、そうでない方がおかしいともいえる。東郷の死後、ビジネスが雲散霧消してしまったのも、そうした要因があるかもしれない。

第二次大戦中に強制収容所にいたらしいので日系人であることは間違いないし、関係者の証言から日本語に堪能だったことも確かなのだが、そのルーツは熊本、沖縄、朝鮮半島、中国など諸説あってどれが本当なのか分からない。本人も、いろいろな人に別々のことを言っていたようである。

著者はオウム関連の映画や著作もあって、麻原の人物像は警察とマスコミが作った虚像だという主張である。確かに、警察やマスコミが一般受けのしやすい単純な麻原像を提供し、国民全体がそれに乗ったということは言えそうである。麻原もオウムもそんなに単純なものであれば、あれだけ多くのカネや人材が集まったはずがない。

グレート東郷についても同様のことがいえて、「カネに汚い」「反則王」「日本人の面汚し」などというプロトタイプで東郷を理解したような気になっているが、世間もプロレスもそう一面的、単純なものではない。馬場や猪木にも多面性があるように、グレート東郷にも間違いなく多面性があり、それは世間一般の理解の外にあるのかもしれない。

[Oct 30, 2019]


福本博文「ワンダーゾーン」

この間、学生会館らしき場所にいる夢をみた。なんでそんな夢をみたんだろうと考えているうちに、自分が学生会館のような場所で過ごしたのは大学の心理学研究サークルだけだったのを思い出した。そういえば、その2~3日前にこの本を読んだのだった。

私の若い頃、超能力とか超常現象がたいへんはやっていた。私もそういう方面に関心が深かったのだが、大学の心理学の授業はネズミを迷路に入れるとどうなるかとか、ゴリラの赤ちゃんに何の絵を見せるとこわがるかというような内容で(もちろんそれが保守本流である)、あきたらずにサークルに入って勉強会をしていた。

そういう勉強会をしていることをどこかで聞きつけて、他の大学の学生もよく来ていた。いま思い出すと、かなり美人が多かったような気がする。この本によると、そういう方面に関心のある女性には美人が多いようである(サイババの章に出てくる女優とか)。

当時いろいろな実験をして、透視とかテレパシーは少なくとも自分に関してはないらしいと分かった。それで次第に足が遠のいてしまったけれども、もし自分でなくてもあの部屋にいた誰かがそういう能力を持っていたら、深入りしてしまう可能性は少なくなかったように思う。それはおそらく、紙一重の差にすぎない。

この本の導入部分は自己啓発セミナーで、それはもともとアメリカのニューエイジ運動の中から出てきた手法である。少人数を閉鎖された環境に一定期間置いてプレッシャーをかけることで、参加者の感情をある程度操作することができる。

もちろんそれには個人差があって、何も感じない人間は何も感じないから足が遠のく(私のように)。でも、どこかに弱点があったり偏りがある人間にはすばらしい体験に思えて、繰り返しセミナーを受けて徐々に深みにはまり、けた違いのおカネをはたくのである。

その後の大脳生理学の知見により、脳のある部分を刺激することで幻覚を見ることが明らかとなったし、ある種の薬物を使用することで感情も制御可能である(例えば抗うつ剤)。透視や超能力をトリックでそれらしく見せることができるのは、仲間由紀恵がさんざんやっていた。

薬物やトリックを使わなくても、言葉によって人間の感情を動かすことはできる。警察が尋問の時に使うとされる「怒鳴り役」「なだめ役」などもその一つだし(実際に尋問されたことはないので想像だが)、この本を読むと自己啓発セミナーはまさにそう。演劇をやっているのと同じことだが、それで騙されるのが人間である。車谷長吉が「耳から入るのはみんな毒」と書いていたとおりである。

そうした手法を使って信者を増やしてきたのがオウム真理教だし、他の宗教だって似たようなところはある(TRICKのモデルとされる宗教団体など)。自己啓発セミナーやマルチ商法も同じ穴のムジナである。

だから、そうした胡散臭い連中がサークルにいて、それらしく超能力を見せてくれたりしたら、そういう世界に深入りしたかもしれない。それでなくても、1999年には世界は滅びるかもしれないと思った人は少なくなかったのである。

この本では、「どこかに弱点があったり偏りがある人間」が怪しげなセミナーにはまっていく様子が描かれる。人間は、そこにある事実を見るのではなく、見たいものを見るのだということがよく分かる。

そして、この本の主張の一つは、「所詮彼らがやっているのはカネ儲け」ということである。いくら口できれいごとを並べてみたところで、実のところそれしか考えていない。だから、自己啓発セミナーやマルチ商法をやっていた人間は、おそらくオレオレ詐欺もやっているんだろうと思う。

私自身、宗教が心のやすらぎとなると思っているし(お遍路歩きをしているように)、現在の科学では説明できない現象があるとも思っている(例えば、第六感とか虫の知らせ)。しかし、そうした人達の興味は何が真実なのかではなく、どうやって自分がいい思いをするかなのだ。

数億年先に地球が太陽に飲み込まれることは予言できても、たかだか十年先に何が起こるか分からないのが人間である。おそらく人の世が続く限り、手を変え品を変えて同じようなことに深入りしたり財産をはたいたりする人はいるのだろう。自分は大丈夫と思っていても、紙一重で逃れているに過ぎないことは自覚しておくべきかもしれない。

[Nov 27, 2019]


大原扁理「年収90万円で東京ハッピーライフ」

「貧乏神髄」の川上卓也がその後の生活記録を書かなくなって以来(耐乏Press Japanはとうとう”503 Service Unavailable”になってしまった)、この分野でなかなかしっくりくる本がなかった。この本は久々に読んだしっくりくる本である。

とはいえ、著者は自分が「節約」をしているとは考えていない。「やりたいことをするために稼ぐ生活」から、「やりたくないことをしないために身の丈に合った生活」にしただけである。私が60年かかって分かったことを20代で会得するのだからたいしたものである。

大きな違いは、私が60代になってからの「まさに隠居」であるのに対し、著者が20代後半から「隠居生活」をしていることである。とはいえ、自分の生活を見直して必要なおカネを得るだけ働くというのは、筋道の立ったまっとうな考え方だと思う。

地方から東京に出てきた著者は、最初は家賃7万円のシェアハウスに暮らしていた。家賃・食費・その他必要経費を稼ぐために休む間もなくバイトを掛け持ちし、これは違うとある日思った。

よく探すと都内でも安い家賃の部屋はちゃんとあって、駅から20分・家賃3万円以下の物件を国分寺に見つけて引っ越す。心霊現象が嫌なので事故物件を避け、ちゃんとバス・トイレ・冷蔵庫もついてこの値段である。

そして、これまでの生活を見直した結果、月に6万円あれば不自由なく暮らせるということに気づく。毎日やっていたバイトを整理し、週2日だけにしてあとは自分の好きに過ごすことにした。

みんながしているように自分もしなければならないと著者は考えない。それよりも、自分で感じ考えたことに従って生きる方がいい。他人はともあれ、自分はそう思うのだからそうする。週休5日は結果であり、働くのが楽しくなれば将来週休ゼロになるかもしれない。

著者のいいところは、そういう自然体なところである。節約したりなるべく働かないことが目的ではなく、自分が満足して一日過ごすことが一番大切だという。だから、温泉や外食にも行くし本が売れれば税金も納める。

この本の中に、おカネの身になって考えればおカネに困ることはないと書いてある。年収90万円だからけっして金持ちではないが、必要な時はなぜかおカネが入ってくるめぐり合わせにあるという。

おカネの身になってというと妙だけれども、昔から「高く買ってくれる人よりも、おいしく食べてくれる人のために(農作物を)作っている」という言葉はあった。ほとんどの人はおカネは通貨とかデジタルデータのことだと考えているが、本当は形あるものなのである。

著者は現在、国分寺のアパートを引き払い、台湾で海外隠居生活を送っているという。学校を出て間もない頃、おカネを貯めて世界一周したことがあるくらいだから海外も苦にならないのだろう。

私のように老い先短い隠居と違って、まだ若い人にはいろいろ可能性がある。自分のできる範囲でやりたいことをするというのは、大変いいことだと思う。

[Dec 31, 2019]

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