ホロビン「天才と分裂病の進化論」    石井あらた「山奥ニートやってます」
堤未果「貧困大国アメリカ」    森本あんり「反知性主義」
オルムステッド「その食べ物、偽物です」
ダートネル「この世界が消えたあとの科学文明のつくりかた」
デイビス「小麦は食べるな!」
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ディヴィット・ホロビン「天才と分裂病の進化論」

原題" The Madness of Adam & Eve - How Schizophrenia Shaped Humanity "、「アダムとイブの狂気~分裂病はいかにして人間性を形成したか」である。直訳した方が、本の内容をよく表している。

いろいろな分野で、私の若い頃よりずっと科学が進歩していると感じるが、その中のひとつが精神医学である。当時は、分裂病、そううつ病、てんかんが三大精神病とされて、その原因は不明とされてきた。遺伝的要素が大きいとみられていたが、それは言ってはいけないことであった。

確かに、一卵性双生児が2人とも発症するケースは半数以下であるので、遺伝的要因がすべてではない。では、生育環境により決まるのか、そうとも言えないケースも多い。だから、結局のところ原因は不明で、対症療法、つまり少しでも症状を軽くする方法が主な研究領域であった。

著者は多くの臨床例、患者の検査結果と症状の重い軽いを精査した結果、脂質の代謝異常に原因があるのではないかと推測する。となると、分裂病(現在は統合失調症と呼ばれる)は「精神」の病気でも、「脳」の病気でもなく、「体」の病気ということになる。

この考え方は医学会の主流からは異端視されてきたが、近年(この本の書かれたのは2001年)、見直されつつある。実際の臨床例で、著者の主張するようにドコサヘキサエン酸、エイコサペンタエン酸という脂肪酸を処方すると、重症患者の容態が改善したからである。

ドコサヘキサエン酸、エイコサペンタエン酸は、分裂病患者の脳や赤血球で減少していることが著者の推論の根拠であった。これらの脂肪酸は、それ以前から健康食品として注目されていた。ドコサヘキサエン酸はDHA、エイコサペンタエン酸はEPAのことである。

DHA、EPAは体内で生成できない必須脂肪酸と呼ばれる栄養素で、主に青魚等から摂取される。近代以降、分裂病が増加したようにみえるのは、食生活の変化によりそれらの摂取が減り、重症化しやすくなったのが原因ではないかと著者は考える。

分裂病の臨床例から一転して、著者の考察は遠い過去へと遡る。分裂病の発生確率は、地球上のどの場所、どの民族でもほとんど変わらず人口100人当たり1人程度である。ということは、人類が地球上に分散する以前に、分裂病の遺伝子が存在したことになる。

そもそも、なぜ人類が住み慣れたアフリカから遠く全世界に広がる必要があったのか。広がった年代は、発掘結果からほぼ分かっている。10万年前から15万年前である。

ちょうどその時期に、宗教や芸術、音楽、技術の進歩や抽象的思考などが発生した。それは偶然ではないと著者は考える。分裂病の原因となる突然変異が、宗教や芸術、技術など人間性を形づくったのではないだろうか。

著者は注意深く、傍証となる事実を挙げる。分裂病が社会問題化し、どうやら遺伝的要因が大きいらしいと判明した時、優生学的な見地からこれを解決しようという考えもあった。分裂病を発生させる血を残さないようにしようというのである。

しかし、これは現実的に無理であった。というのは、ヨーロッパにおいては貴族の家系、アメリカにおいては成功者の家系にそうした患者が多かったからである。

実際、著名な芸術家、発明家、作家、起業家などの家系には分裂病をはじめとする精神障害、発達障害の患者が多い。本人も、子供の頃学校になじめなかったり、奇行や引きこもりで変人といわれる例がたいへん多い。これは偶然なのだろうか。

著者は偶然ではないと考える。もともとは脂質の代謝異常から発生した体質が、軽い症状として出ると新しいアイデア、抽象的思考などに現われ、重い症状になると幻視、幻聴などの形で現れるということではないだろうか。

宗教の始祖のほとんどは天の声を聞くところから始まる。これは幻聴ではないだろうか。また、多くはエキセントリックな性格であるが、これも分裂病の症状が現れたものではないのか。戦争をしたり王になろうとするのも、同様の遺伝的要因が起こさせているのではないか。

著者は、これらの推論は、遺伝子の解析が進んで、ヒトとチンパンジーは遺伝子レベルでどこがどう違うか判明すれば答えが出るだろうと予測している。

脂質代謝が精神障害をすべて説明するものではないとしても、その一部であることは間違いないように思う。そして、そもそも「精神」なんてものが体と独立してあるものなのか、考えさせられる最新の知見である。

分裂病の原因となる遺伝子と、人類の特徴である創造・進歩を促す遺伝子は同じもので、脂肪酸の代謝異常から発生したという仮説はユニークであるとともに、説得力がある。


[Jan 28, 2021]


石井あらた「山奥ニートやってます」

たまたまこの本のことを知り、図書館で予約したのが回って来たので読んでいたら、NHK朝7時のニュースで採り上げられたのでびっくりした。こういう本が受け入れられる世の中になるのは、すばらしいことだと思う。

まず私個人のことを言うと、いま考えるとアスペルガーで適応障害だったのは間違いないと思うけれど、半世紀前はそういう言葉がなかった。癇の強いつきあいにくい子供で、20歳を超えてもその性格は変わらなかった。

職場を変えつつ何とか60近くまでサラリーマンを続けてこられたのは、幸運という以外なかったように思う。早々にリタイアして再就職もせず毎日を暮らしているが、ひとつ間違えばかなりの確率でニートと呼ばれただろう。

本の話に戻って、山奥ニートの人達は、最寄りの市街地から車で1時間半離れた和歌山の山奥で共同生活をしている。家賃はタダ、食費・光熱費・交通費(ガソリン代)として、月各自1万8千円を負担する。

彼らは生活保護を受けている訳ではない。少ないけれども所得があり、年金も健康保険料も負担している。なぜそれで生活が成り立っているかというと、衣類は全国から送られてくるし、食事は自炊、おカネを使うような場所が近くにないからである。

好きな時間に起きて、交代で作る食事をとる。気が向けばリビングでみんなで過ごすし、一人でいたければ個室に戻る。リビングにはTVやゲームがあるし、wifiが通じているので個室でもネットは使える。都会と暮らしはほとんど変わらないと彼らは言う。

食費の足しにと鶏を飼っているし、家庭菜園で野菜を栽培する人もいる。畑を荒らすシカやイノシシが悩みだが、狩猟免許をとって駆除かたがたジビエ料理の材料にする人もいる。

こうした環境は、誰かがニート支援のために用意してくれた訳ではない。最初は地方在住の篤志家が始めたNPOだったが、最初のニート達が住み始めて数日でその篤志家が急死。その後はニート達が自主管理して今日に至っている。

現在住んでいるシェアハウスはもともと廃校であったものを、障害者福祉施設として個室を整備した場所である。生活用品も揃っていたのだが諸般の事情により移転となった。おそらく、3~4年前に相次いだ豪雨災害による福祉施設孤立化が影響しているのだろう。その施設を譲り受け、住居として再利用しているのである。

その月約2万円の個人負担を彼らは短期のバイトで賄い、それ以外の日を好きに過ごす。手付かずの自然が周りにはたくさんあるし、仲間でゲームをしたりカラオケを楽しむこともある。まるで子供の頃が続いているようだ。

彼らの住む集落には人口が数人しかおらず、平均年齢は80代だという。都会にいれば30代だとむさくるしいが、地域の人達にとって孫のようなものである。地元名産の梅の収穫や山仕事を手伝ってバイト料を稼いだり、野菜などのお裾分けをいただいたりする。

地元住民だけでは困難になりつつある神社の掃除や手入れも手伝ってもらえるので、大変助かっていると評判である。

「貧乏神髄」以来、久々に読んだBライフの傑作。人里から遠く離れた廃校跡に集団生活する元ニートの皆さんの物語。常々思うのだけれど、みんながみんなサラリーマンをする必要はありません。


この本を読みながら、ニートって何だっけとまず思った。 ニートとは、"Not in Education, Employment or Training"の頭文字をとったもので、学生でなく、雇用されておらず、職業訓練中でもないという意味である。もともとイギリスの行政政策から20世紀末に出てきたお役所言葉である。

だから、専業主婦が定義上含まれてしまうことは当時から問題とされてきたし、日本では、フリーターとかいわゆる「引きこもり」とほとんど区別されないで使われてきた。

しかしよく考えると、生活が成り立っていればみんながみんなサラリーマンをする必要はない。どこかで書いたことがあるけれど、家族の収入で暮らすことが問題とされる時代など、いましかないのである。

「山奥ニート」と自称する彼らは、生活に必要なわずかな収入を、短期間のアルバイトや、地域の農業・林業の手伝いや、おそらく家族からの支援で賄っている。みんながサラリーマンや金儲けに向いている訳ではないので、それで何が問題なのだろうかと思う。

この本の中に、こんなに便利で豊かな世の中になったのに、すべての人が時間に追われて働かなければ暮らしていけないのはおかしいという意味のことを書いてあるが、まさにそのとおりだと思う。

一方、こうした共同生活に適応できるのは、ニートとされる人達の中でも限られた一部だと思った。「働かないふたり」でいうところのエニートである。

NPO運営者のひとりでもある著者は、山奥ニートになる前は東日本大震災のボランティアをしていたし、共同生活でも中心的な役割を果たすなど、定職がないということだけで普通の社会人と大きな違いはない。

そもそも見も知らずの人達との共同生活で、四六時中他人と一緒にいることが耐えられなかったり、地域の人達とコミュニケーションをとることが苦手という「引きこもり」の人はたくさんいるだろう(私がそうだ)。

ネットでの情報収集が苦にならないとはいっても、数あるジャンク情報の中からニート支援に関係ありそうな情報をピックアップし、関係者に連絡を取って会いに行くことも、それなりのノウハウと対人スキルがないと難しい。

著者は、共同生活の初期からブログやYouTubeで情報発信し、山奥ニート生活を始めてから結婚したくらいの人だから、エニートの中のエニートかもしれない。共同生活している仲間には、鶏を飼ったり農作業をしたり、狩猟免許をとる人達もいる。

そして、著者も書いているし共同生活者の誰かも言ったことなのだが、10年先とか遠い将来のことを考えても仕方がないのである。将来のためにいま現在楽しくなければ意味がない。

彼らが暮らしている元廃校の宿舎も、林業の衰退で裏山を誰も管理していない。台風や大雨で崩れてしまうかもしれないが、そうなったら仕方がないと著者はいう。人間誰だって、いつかは死ぬ。心配したらきりがない。

思えばわれわれの人生、安心して住めるマイホームを確保するために莫大な借金をし、安定した暮らしのため長時間労働・長距離通勤に耐え、老後のために年金を納め貯金をして数十年窮屈に過ごしてきた。それが本当に意味のあることだったのか、答えは簡単に出ない。

繰り返しになるけれども、みんながみんなサラリーマンをしなくたっていい。便利で豊かな時代なのだから、週に1日2日だけ働いてあとは自由に過ごすことだって、できないはずがないと思う。

[Feb 18, 2021]


堤未果「貧困大国アメリカ」

昨年の大統領選で、普通に考えると自分達のための政治をするはずのないトランプを、暮らし向きが中程度以下の白人層が支持している様子をみて、なんだかアメリカは妙なことになっていると感じた。そういう問題意識でこの本を読んだのだけれど、病巣は想像以上に深いようである。

ルポルタージュはまず、貧困家庭が生み出す肥満の問題から始まる。米国では、学童への給食を無料または割引で行う給食プログラムの有資格者の割合が、40%以上というたいへんな水準に達している。

日本の生活保護にあたるフードスタンプの受給者も数千万人にのぼり、これらのサービスによって食糧を得ている世帯の割合は、米国全体の2桁%の高率といわれる。

ところが、これらの給食プログラムやフードスタンプの予算はここ20年趨勢的に引き下げられており、限られた予算で空腹を満たすため、それらの人々はジャンクフードや炭水化物・糖質に偏った食事を摂らざるを得ない。

糖質制限中だからよく分かるが、糖質制限の最大の問題はコストがかかるということである。白米や精製された小麦を使ったパン、インスタントラーメンは最もコストをかけずにカロリーを摂る手段であり、ローコストで入手可能なジャンクフードとともに、多くの肥満体形を生み出しているのである。

食糧問題にとどまらず、米国の中流以下の家庭から高等教育機関に進める可能性も、年々狭められている。米国の大学入試では親の年収も合否判定の判断基準の一つとされ、学資ローンも教育費用のすべてを賄える額ではない。貧乏な家の子供でも大学には進めるが、大学卒業とともに身動きできないほどのローンを抱えることになる。

学資ローンの大手サリーメイについて、続編の「貧困大国アメリカⅡ」に信じられない話が載っていた。サリーメイでは、固定金利で借り入れた学生に対し、突然、変動金利への変更を通告し、金利を4%から8%にした。学生からの苦情に対し「払わなければ延滞扱いとする」と回答するとともに、苦情窓口をインドに外注して、折衝やコミュニケーションをとれなくしたそうである。

なんと米国では、学資ローンは倒産しても免責されない。つまり、サリーメイからの借金を返済しない限り、クレジットカードも作れなければ、住宅ローンも借りられないことになるのである。

だから、十分な資産のない家庭に生まれた子供にとって最大のチャンスとは、軍隊に入ることなのだそうである。しかし、ここも恵まれた職場ではない。最大の問題は、後遺症が残った場合の補償がほとんどなく、病院に行こうにも診療が1年待ちといった状況ということである。

「ランボー」の最初にも出てきたが、戦地で怖いのは放射能汚染である。もし白血病であることが帰国後判明したとしても、診療まで1年待ちしなければならないとしたら、待っている間にお陀仏である。

こうしたアメリカの現状を聞かされると、思い浮かぶのは「八方ふさがり」という言葉である。アメリカン・ドリームといえば聞こえはいいけれども、それに挑戦できるのは親が金持ちであるか、10万人100万人に一人の才能の持ち主だけである。

だとすれば、大多数の「その他大勢」にとって、現状は革命前と同じようなものである。どちらに行っても行き止まりなら、せめて誰かを巻き添えにしたい。こんな世の中なくなってしまえばよい。そう思うから、トランプに投票してすべてを破壊したくなるのではないだろうか。

よく指摘されるように、アメリカでコロナ感染が止まらないのは、医療費が高いだけでなく健康保険に全員入っておらず、多くの人はかなり悪くなるまで病院に行かないというのが一つの要因である。しかし、トランプがバイデンになったからといって、この問題がすぐに改善できる訳ではない。

思うに、何でもカネの多寡で判断するという新自由主義が、一種「ネズミ講」的な側面を持っているからではないだろうか。新自由主義では、低賃金で働き大量生産製品を消費する大衆がいることにより、少数のセレブにカネが集まる仕組みになっている。

しかし、彼らの踏み台になる大衆が健全に再生産されない限り、集まるカネはいつかは底をつく。ジャンクフードしか食べられず、教育の機会も十分に与えられず、唯一のチャンスが軍隊というのでは、健全な再生産はできないと思わなくてはならない。

この本は十年以上前のアメリカについて書いてありますが、現状は変わらない、というよりもむしろ悪くなっているように思います。


[Mar 11, 2021]


森本あんり「反知性主義」

反知性主義という言葉が、最近わが国でもよく使われるようになった。ニュアンスとして、反インテリ、反体制、理屈じゃなくて感性、のような感覚があるが、この言葉が生まれた米国と日本ではかなりの違いがあることがこの本を読むとよく分かる。

端的にいうと、日本においては「私がそう思うから」が根拠なのに対して、米国では「聖書にそう書いてある」が根拠なのである。そこを理解しないと、反知性主義という言葉が底の浅いものとなってしまう。

日本において反知性主義とされる人々は、理屈はともかくとして私が思うことが真実である、といった傾向が強い。私の日本史ブログにも時々そういう人達が現われる。お互いに論拠をあげて議論したいのではない。私の言うことを信じよという宣伝をしたいのである。

一方で、もともとホフスタッターが反知性主義を批判した論拠は、聖書を読めば主イエスはあなたのような人を否定しているということなのである。確かに、ホテルに置いてある聖書をめくるだけでも、律法学者やパリサイ人を否定する場所はすぐに見つかる。

これには前段があって、メイフラワーでアメリカに渡ってきた人々はピューリタンが多く、従来のカトリック教会に冷遇されていた(迫害といってもいいかもしれない)。しかも、ケンブリッジやオックスフォードを出た秀才が多かったので、新大陸アメリカをピューリタンの理想郷としようと思ったのである。

だから、入植後すぐにハーバードやイェール、プリンストンといった今日アイビーリーグといわれる大学を創立し、牧師の養成と入植者の教育水準引き上げを図ろうとした。

しかし、こうした理想主義は、アメリカが国として成長するに伴いさまざまな人種、経済環境、教育水準の人達が集まるにしたがって、実情と合わなくなってきた。何を小難しいこと言ってるんだということである。

牧師の養成だの教育水準の向上ではなく、主を信じることが一番大切というのが、大多数の庶民の実感だったのである。ケンブリッジやオックスフォードが偉くてそれ以外はダメだなんて主イエスは言っていないぞ、と。

それを踏まえると、聖書の知識もキリスト教の信仰も持たない日本人が、「反知性主義」などといったところでちゃんちゃらおかしいということになる。結局みんな、アメリカ発祥の言葉を自分の都合のいいように使っているだけなのだ。

反知性主義とは直接関係しないが、この本に書かれていることでたいへん印象に残ったことがある。旧約聖書の申命記の中に、神がモーセを通じてイスラエルの人々に語った言葉として以下があるそうだ。

「もしあなたがたが心をそむけて聞き従わず、誘われて他の神々を拝み、それに仕えるならば、わたしは、きょう、あなたがたに告げる。あなたがたは必ず滅びるであろう。」

現代のキリスト教徒の多くは、物神である貨幣を拝み、それに仕えているように見える。だとすれば、必ず滅びるというのが神のお告げになるのだが。

反知性主義は日本ではさまざまなニュアンスで使われているが、米国のピュリッツァー賞受賞作であるホフスタッターの「アメリカの反知性主義」が初出である。この本はホフスタッターが使った趣旨を忠実にたどっている。


[Apr 7, 2021]


ラリー・オルムステッド「その食べ物、偽物です」(爆)

原題 Real food, Fake food 、日本語訳の副題が「安心・安全のために知っておきたいこと」。米国の料理ジャーナリスト、ラリー・オルムステッドの著作。ただ、読み進むうちにだんだん疑問符が頭の中で大きくなる。この人は一体何を問題にしているのだろうか?

この本の最初には、クラフト社の粉チーズはボール紙を削ったらこんな味がするだろうと思わせる。これは比喩ではなく、同製品には4%から8%、植物由来のセルロース成分が検出されたと書いてある。

日本版発行者である早川書房もこれには強烈な印象を受けたようで、あとがきの中でわざわざ、クラフト社の粉チーズは日本でも売られているが、原料は生乳と食塩だと念押ししている(クラフト粉チーズの輸入販売元は雪印)。

ここまで読むと、著者は食の安全性を問題にしていると思うけれど、それは早合点である。ほぼすべての寿司レストランで本物のマグロを出していないとか、神戸ビーフが米国全土で食べられるほど供給されていないとか、この著者の関心はむしろ「商標権=ブランドの詐称」なのだ。

かなり前のことになるが、日本でも代用魚が問題にされたことがあった。その時書いたことと私の意見はほとんど変わっていない(こちら)。バナメイエビを車エビと言って出したところで、騙される奴は車エビの味と値段を知らない奴だけである。

魚にせよワインにせよ、旨いものは旨いし、値段の割にたいしたことのないものもある。そして、値段が安くてもおいしく食べられるものはたくさんある。コービー・ブライアントのおかげで神戸ビーフが有名になったのかもしれないが、私自身神戸牛を買ったことはない(松阪牛は何度も買った)。

著者のいうように、中国や東南アジアで養殖されるエビが何を飼料としているのか、抗生物質を投与しすぎていないか等の問題はある。しかし、養殖場を作るためマングローブが伐採されているとか、奴隷労働・人身売買の温床であるとかは、食の安全とはまた別の問題である。

現に日本の場合、ブラックタイガーもバナメイエビもいまや市民権を得ている。旨いかどうか、安全かどうかは問題であっても、ブランドかどうかはたいした問題ではない。ヒラメのエンガワが回転寿司で出てくる訳がないのだ。

驚いたことに、大東島で有名な「下剤魚」バラムツが、米国ではツナと称して売られているそうだ。アメリカ人の胃腸はたいそう丈夫である。バラムツは少し食べる分にはおいしいらしいが、日本では販売禁止で市場経由では流通しない(大東島に行って食べるしかない)。

全巻読んでみて感じるのは、この著者は米国の読者が不快に感じることを脈絡なくつなげて書いているだけで、一貫したポリシーとか言いたいことがあるのではないということである。

自分が経費を使って世界中でおいしいものを食べることが大事なのであって、どうしても言いたいことがあるからニューヨークタイムズやフォーブスに寄稿している訳ではない。

本当に東南アジアの養殖場で行われている奴隷労働に憤慨するなら、まずそのことをレポートすべきであって、生産されたエビを問題にするのは筋違いである。こういうのを「坊主憎けりゃ袈裟まで憎い」というのである。

現に、著者自身「神戸牛と他の有名産地の牛肉の区別はつかない」と言っているし、「そもそも和牛なんて毎日食べるものじゃない」そうである。だったら、和牛だの神戸牛についてもっともらしく語るな。

日本の読者にとって、アメリカン・ワギュウをコーベビーフと名付けて売ったところで実害はない。カリフォルニアのスパークリングでも、クレマン・ド・ブルゴーニュでも、シャンパンで問題ない。

アスピリンがもともとバイエルの商標だったというようなトリビアこそ満載ながら、私には食通気取りのくだらんジャーナリスト気取りにしか見えない。実際、日本語訳はこの本以外ほとんど出ていないようである。

商標権に関するトリビアは書いてあるけれども、著者が何を問題視しているのかよく分からない本。少なくとも、副題にあるような食の安全について啓発する本ではありません。


[Apr 29, 2021]


ルイス・ダートネル「この世界が消えたあとの科学文明のつくりかた」

原題 The Knowledge - How to Rebuild Our World from Scratch、「知識 ~どうやって世界をゼロから再構築するか」である。日本語訳の題名とはかなりニュアンスが違う。

著者が想定しているのは核戦争や巨大隕石の衝突などにより地球上の大半の人類が滅び去り、残された人達でゼロから世界を再構築する際にどうするかということである。

そうした脳のトレーニングは嫌いではない。以前、無人島に漂着したという小説の書評で、誰も島の正確な位置を知ろうとしないのに救助を求めて船出したという場面に強烈な違和感をもったのだけれど、未知の環境におかれた時、いまある知識をどうやって使うかというのは死活的に重要である。

あるいは、いまの自分の記憶が1枚のチップに還元されて、遠い将来に何かのハードウェアに搭載されて再起動した場合に、どうやって生き延びるかを考えておくことは役に立つかもしれない。

その意味でいうと、著者の答えは私の想定したものとはかなり隔たりのあるものであった。著者は、工業をはじめとした産業、科学技術、運輸通信手段などをどのように再構築するか、そのために必要な知識は何かということに頭を使っているけれども、私の考えでは、その多くは世界の再構築に必要ない。

確かに、破滅後の世界が北斗の拳の世紀末では困るし、それなりの秩序が保たれるという想定はそうあってほしいものだが(あんな筋骨隆々とした連中が揃うとは思えないが)、一世代かそこらの期間で農業が可能となり、工業製品の生産ができるとはとても思えないのである。

だとすれば、より優先順位の高い頭の使い方としては、そうした状況下でいかに生き延びるかということではないだろうか。

著者は、そうした知識は数あるサバイバル本に任せるというのだが、いきなり産業の復興というのはいかにも唐突であり、そこまで行き着くのは次の世代以降というのが普通である。だとすれば、そうした知識をいかに継承するかという教育の問題となる。

無人のスーパーマーケットや、誰も住まなくなった廃屋の存在を想定しているのだから(地下タンクに相当量のガソリンが放置されることさえ仮定している)、産業の復興よりも優先順位が高いのはいかに自らの身を守るか、安全を確保するかではないかと思う。

限られた輸送手段の中で、移動に当たって何を持ち、どこに向かうのが最も生き残るチャンスが大きいのか。著者も都市部にいては危ないことまでは書いているのだが、例えば水は、簡易ろ過機を使って飲料水を確保するという考えである。それよりも、清潔な水があり、最低限の食糧を採集できる土地をめざす方がよさそうだ。

生き延びるという点を最優先に考えるならば、まず医療、公衆衛生をどうするか。清潔な水、寒さや雨風をしのぐ住居、当分飢えないだけの食糧、これらをどう確保するか。移動する人数は何人くらいが適当か。無人のスーパーマーケットがいくらでもある訳ではあるまい。

次に、身を守るための手段。飢えるのは人間だけではないだろうから、狂暴な野生動物からどうやって身を守るか。他人の資源を奪って生きようとする狂暴な人間をどうするか。何しろその世界には、治安を守ってくれる軍隊も警察もないのである。相当量の武器を身近に用意しなければならないだろう。

原題は「ゼロから世界を再構築するための知識」ですが、日本語題は超訳しています。個人的には、著者がいうより重要な知識があるし、もっと大切なものもあると思います。


また、化学工業や通信伝達技術よりも先に用意しておかなければならないのは、時間・空間を越えた価値の移転手段と信用の創造ではないかと思う。

経済学の教えるところ、一人が生きていくためのすべての仕事をするよりも、分業する方がより多くのアウトプットを得ることができる。分業をより広くとらえた概念が、交換であり貿易である。

交換なり貿易をするためには価値の移転手段が必要で(その頃、紙幣はただの紙切れである)、大規模な投資を行うためには信用を創造しなければならない。金貸しだっていないし、担保にするものもない。

紙幣やコインは使えない、プリペイド決済もできない、もちろんスマホも使えない世界では、交換できる範囲も品物もごくごく限られたものになるだろうし、個人が短期間に作れる以上の機械設備もできない。

著者がいうような方法で生産設備を再構築できるとしても、それを作っている間食べるものはどうするのか、その仕事にあたる人をどうやって確保するのか。まさか、戦争で確保した捕虜や奴隷を使うというのではあるまい。

送電施設が使えなければ手近に発電設備を持たなければならないというが、それよりも、電気がなくても生活できるような方法を考える方が、生き延びるには近道のような気がする。

それに、いまの世界が滅亡するとしたら、巨大隕石が衝突することで起こる確率よりも、戦争や人為的な要因によって起こる可能性の方がずいぶん高いように思う。

だから、せっかく復興しても再び滅亡に向かう世界よりも、より長く生存できる、地球環境と共存できる世界の方が望ましい。技術の進歩や便利な生活などいらない。むしろローテクな、労働集約的な世界の方がいいのではないだろうか。

そうした世界でも重要なのは、医療であり公衆衛生である。感染症の防止には清潔にすることが最も大切であり、石鹸の生産は不可欠であると著者はいう。そこまでは同意なのだが、次に来るのが新薬生産のための治験の話なのである。

別に厚生省も医師会もないのだから、誰も薬品を認可する訳じゃないのに治験?危険の有無さえ確認しておけば、効果は使って調べればいいだけの話では?

日本語題に合わせていうならば、この世界が消えたあとに大切なのは科学文明をつくることではなく、より健全な価値観をどうやって確立し継承していくかではないかと思う。

[May 18, 2021]


ウィリアム・デイビス「小麦は食べるな!」

原題 Wheat Berry 、直訳すると「小麦腹」である。感心しなかったので最初は書評に載せるのをやめようと思っていたのだが、書かないでいるとこういう本があったのを忘れてしまうので、あまり気が進まないが書くことにした。

著者は米国の循環器疾患の権威だそうである。もちろん医学博士、ドクターである。そういう人が書いたものだから、この本もミリオンセラーとなり、たいへんよく売れたということである。

前に書いたことがあるけれど、食事療法に関する理論はほとんどすべて仮説にすぎない。人間を対象にした実験が非常に難しく、他の条件を同一にして効果や副作用を確かめることがほとんど無理だからである。

だから、ひと昔前に言われた「コレステロール悪玉説」も「カロリー制限による糖尿病治療」も、「動物性たんぱく質は避けるべき」論も、最新の知見では疑問符が付されている。

著者の「すべて小麦が悪い」説も仮説として提案するのは自由だし、もしかすると50年経ったらそのとおりだったということになるかもしれない。ただ、本に書かれている論拠からみるかぎり首をひねらざるを得ないし、私の中では「トンデモ本」に近い評価である。

何しろ気にいらないのは、「高血圧、肥満、糖尿病、心臓疾患、(その他もろもろの疾患)が増えている」「小麦の品種改良・遺伝子組み換えで、今の小麦は昔の小麦ではない」という二つの事実を組み合わせただけで、「すべての元凶は小麦であり、小麦をやめればすべて解決する」という結論に導いている強引な論理展開である。

事実Aと事実Bが同時に起こっているからといって、AがBの原因であるとは断定できない。他の事実Cが原因かもしれないし、たまたまそうなったのかもしれない。悪いことが起こるのはみんな魔女が悪いといって魔女狩りするのと同じである。

読み進めるうちに首をひねるのは、ある疾患が糖質の過多により起こるのか、もっぱら小麦によって起こるのかの論証がほとんどなされないことである。確かにセリアック病は小麦で起こるだろうが、だからといって糖尿病も心臓病もすべて小麦であるとは断定できない。

著者としては、糖質一般ではこれまでの考え方とたいして変わらないから、小麦を悪者にしてセンセーショナルに書きたいのだろう。分からないではないが、「小麦がすべての元凶であることは間違いありません」と断言されても困るのである。

正直なところ、この本であげられた小麦絶ちによる病状の劇的改善のほとんどは、小麦を絶ったせいなのか糖質を絶ったせいなのか判然としない。もともとアメリカは肥満大国であり、糖質制限で多くの病気が改善するのは当り前である。

唯一の例外ともいえるセリアック病にしても、小麦全般が悪いのか、品種改良された小麦が悪いのか、ちゃんと説明していない。品種改良による安全性が十分精査されていないのは、小麦のみならずとうもろこしも、肉類も、養殖魚類も同じである。

いまの小麦が自然界で育たないのはけしからんと言うけれども、牛だって豚だって鶏だって自然界でほとんど生きてはいけない。生け簀で育った魚だって同じである。日本のコメだって、病虫害に強くおいしいおコメにするために、長年にわたり品種改良が続けられてきた。

遺伝子組み換えで未知の植物になったと著者は主張するが、それを未知だというなら養殖魚類の3倍体は未知の生物だろう。危険性は小麦だけに限定されるものではない。

すべての災厄を小麦のせいにしているけれど、本当に小麦が原因と疑わせる病気はそれほど多くない。アメリカ人の食べ過ぎに多くの原因があることは疑いなく、著者は小麦に警鐘を鳴らすというよりも、売れる本を書きたかっただけではなかろうか。

小麦を悪者にしてセンセーショナルに書きたいのは分かるが、「小麦がすべての元凶であることは間違いありません」と断言されても困る。


[Jun 11, 2021]

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