雁屋哲・池上遼一「男組」    木原としえ「銀河荘なの!」    CLAMP「ちょびっツ」
けらえいこ「あたしンち」    業田良家「自虐の詩」    小林まこと「1・2の三四郎」
さいとう・たかを「2万5千年の荒野」「蟷螂の斧」    西原理恵子「ぼくんち」
澤井健「表萬家裏萬家」
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雁屋哲・池上遼一「男組」

1974-79年少年サンデー連載。「巨人の星」「あしたのジョー」で少年マガジンに差をつけられて以来長らく低迷していた少年サンデーを一時期支えていた人気連載。原作の雁屋哲はこの作品の印税で高級料理を食べつくし、「美味しんぼ」の構想につながったという、その意味でもエポックメーキングな作品。日本刀を手に神竜剛次が「大衆は豚だ」と言う場面はあまりにも有名。

神竜が暴力で支配する高校、青雲学園(星飛雄馬の出身高校である青雲高校とは別・・だと思う)に無実の罪で少年刑務所に入れられている流全次郎が校長の要請により特待生として入学してくる。流は、親殺しという無実の罪が晴れるまでは、と自らの両手を手錠でつないでいるのだが、その流と神竜、そして「影の総理」と呼ばれる政界の黒幕(じつは神竜の実の父)の3人が単行本二十数冊にわたって三つ巴の抗争を繰り広げるという、見方によっては非常に単純なストーリーである。

とにかく全編にわたって、殴り合い、蹴り合い、斬り合い、撃ち合いの連続である。無敵の中国拳法の使い手とか殺人機械とかいろいろ出てくるが、流か神竜に倒されていつの間にかいなくなることになっている。

主要登場人物のほとんどが空手や合気道、古武道の使い手であるが、最後は機動隊の銃撃の前にあえなく倒されていく。このあたり、1969年公開の映画「明日に向かって撃て」(ロバート・レッドフォード/ポール・ニューマン主演。主題歌はBJ.トーマス”Rain Drops Keep Fallin' on My Head”)の影響が窺える。

雁屋・池上のコンビはこの後同様のテーマで「男大空」を連載するが、その後袂を分かち、雁屋哲は「美味しんぼ」で、池上遼一は「Crying フリーマン」「サンクチュアリ」等のヒット作品を連発した。最近では新境地を開いてギャグまんがに進出したとの噂もあるが、絵が同じだけで作者が違うというのが真相のようだ(「魁!!クロマティ高校」)。こちらは男組と同じく荒れた高校の抗争物語だが、ゴリラ高校生やロボット高校生が登場する。



雁屋哲は元電通社員。この作品で原作者として確固たる地位を築きました。元水木しげるのアシスタント池上遼一もメジャーに。

[Jul 24, 2006]


木原としえ「銀河荘なの!」

「ベルサイユのばら」がマーガレットに連載されていた74~75年頃、結構楽しみにしていたのが木原としえの作品である。彼女の作品は非常に類型化しており、どこの国でどの時代かという違いがあるだけで、ストーリーはほとんど一緒である。ちょっと冴えないおチビちゃんの主人公とその親友の才色兼備キャラがいて、かたや登場する男の子は純朴で天真爛漫なのとクールな2枚目が必ずいて、結局おチビちゃんと天真爛漫が幸せになりました、という悪く言えばワンパターンなのである。

後に彼女自身によりリメイクされ、最も有名な作品となった「摩利と新吾」シリーズでいえば、新吾が”天真爛漫”、摩利が”クールな2枚目”である。そして、”クールな2枚目”の代表として彼女の作品にはフィリップという人物がしばしば登場するが、これはやはり彼女が後にマンガ化したフランスの小説「アンジェリク」の登場人物フィリップをイメージしたものである。ともあれ、現代と違って30年前の日本はまだまだ平和だったから、こうしたストーリーは安心して読むことができるし、かつほのぼのとした気持ちになったものである。

というわけで、当時のマーガレットには「どうしたの?デイジー」、「エメラルドの海賊」、「あーらわが殿!」(これが”摩利と新吾”のオリジナル)、「天までのぼれ」などの作品が次々と連載されたのであるが、その中でどの作品かというと、私は「銀河荘なの!」をあげる。

下宿を追い出された貧乏学生ビクトリア(”チビ”キャラ)は、親友ミス・クイーン(”才色兼備”キャラ)と一緒に、家事手伝いをすれば下宿代タダという銀河荘にやってくるが、そこにヘルメス、イカルス、オルフェウス、ジークフリートの”美男子”4兄弟がいる。しかし彼らは、実は他所の星からやってきた吸血鬼なのでした、という舞台設定である。ヘルメスがどちらかというと”クール2枚目”キャラ(どちらかと、というのはこの作品の終盤にまたもやフィリップが登場するからだ)、ジークフリートが”天真爛漫”キャラである。

ジークフリートは実は人間で、しかも一緒に遊んでいたところをビクトリアと間違われて攫われてきた(ビクトリアはフィリップの娘なのだが、ジークフリートの方が美形なので、こちらがフィリップの娘に違いないと思われたというとんでもない理由で)。兄弟は情が移ってしまったジークフリートを故郷の星に連れて行きたがっているのだが、いろいろあってあきらめて彼だけ地球に残して故郷の星へと去っていく。

そしてラストでは、故郷に戻ったヘルメス(きわめて長命な星なのである)と交信した宇宙船の船長がジークフリートそっくりの彼の子孫で、交信画面(テレビ電話?)を見たヘルメスが「フリー!(ジークフリートの愛称)」と思わず呼びかけると、「何でぼくの名前を知っているのですか?」というところで終わる。当時すでに連載されていた「ポーの一族」(萩尾望都)や「地球(テラ)へ」(竹宮恵子)にもろ影響を受けているのだが、そうした作品とは違い木原ワールドともいうべきほのぼのとした世界が描かれている。

若くないと恥かしくて読めないのかもしれないが、今でもなつかしく思い出される作品群でありました。


この作者は当時非常にお気に入りでして、あしながおじさんをリメイクしたデイジーとか、うるわしのフィリップ大活躍のエメラルドの海賊とかもありましたね。

[Dec 6, 2005]


CLAMP「ちょびっツ」

突如として趣きを変えて、最近の作品から。実はこの作品非常に気に入っていて、おそらく21世紀の作品の中で、私にとってこれを上回るものは出ないのではないかとさえ思っている。2000-02年ヤングマガジン連載。

人型パソコン全盛の時代、パソコンにも通信にも全く疎い貧乏バイト学生の本須和秀樹(もとすわ・ひでき)がゴミ捨て場で人型パソコンを拾ってきたことから話が始まる。秀樹によって「ちぃ」と名付けられたパソコンは、実は桁違いの性能と他のパソコンが持っていない”ある要素”を持った、伝説のパソコンだったのである。

テーマは”アタシだけのひと”。感情とは何か、人間と「人間でないもの」との感情の交流は可能なのか、といった疑問を深く掘り下げた作品である。従来からこういうテーマのものはいくつかあって、私が一番印象に残っているのは森川裕美の「荒野のペンギン」。高橋留美子の「うる星やつら」やあしべゆうほの「悪魔の花嫁」もシチュエーションこそ違うけれど同様のテーマであり、さらにはディズニーの「ピノキオ」にまで遡るように思う(ある意味、第二部以降のターミネーターもそう)。

子供の頃は、人間の脳と同じことをコンピュータでやろうとすると丸ビル(昔の)何棟分とかいっていたが、近年のデバイスの小型化・軽量化によって、コンピュータとしての人型パソコンは技術的には難しいものではなくなった。一方、ロボットとしてはまだまだASIMO君程度だけれども、これも近い将来、人間に相当程度近いものができることは想像に難くない。

そうなった場合、人間とどう区別するのか?また作者は、「感情とは、プログラムのようなものだ」という意見に近く、さらに「感情の交流とは、究極的には自分がどう感じるか」ということを示唆しているので、ある種哲学的というか、考えさせられる作品となっている。(全然話は違うけれども、大学の哲学の講義で、われわれが体験していると思っていることは実は洞窟の中から外を見ているだけのことで、自分自身の他には確かに存在するものはない、という考え方を聞いたことがある)最後のところに出てくる「ロボット3原則」はちょっと余計な解釈のような気がするが。

ちぃだけでなく、ノートパソコン(小型の人型パソコン)のすももや琴子などなど、ロリコンアニメおたくにぴったり照準を合わせた絵柄は女性蔑視との批判を受けてもやむを得ないところが多分にあるけれども、私はこの作品の真価をかなり高く評価しており、繰り返すが21世紀最高の作品の一つではないかと思っている。


これは現代作品なので、表紙だけ。その昔「荒野のペンギン」という作品がありましたが、それとはちょっとニュアンスが違うかもしれない。

[May 9, 2006]


けらえいこ「あたしンち」

先週、宅配の新聞を読売に替えた。前はS新聞を10年以上取っていたのだが、いろいろあって読売に替えた。読売新聞を宅配で読むのは生まれてはじめてであるが、うれしいのは、日曜版に「あたしンち」が載っていることである。

けらえいこに注目したのはかなり前のことである。通勤電車で隣に座ったOLさんが、おもしろそうなマンガを読んでいる。「それはなんというマンガですか?」とはまさか聞けないので、題名を盗み見ようとしたのだが、残念ながら見えない。仕方なく、特徴のある絵柄と装丁を記憶して、あとから本屋でそれらしいジャンルを探した。結局しばらくかかって見つけることができた本は、「たたかうお嫁さま」。けらえいこの出世作である。

それまでマンガというとペンとスクリーントーンというのが相場だったのだが、彼女の作品の多くはコピックという色付きペンが使われているのが特徴である(いまではかなり当たり前)。テーマはほとんどが自分のことなのだが、どちらかというと一般人なので、身近に感じる。女性の作者であるのだが、男が読んでもかなりおもしろい。というわけで、そのシリーズ(セキララ結婚生活とか)を続けて買うことになった。

「あたしンち」でブレークしたのは、それからまもなくである。いってみれば、「サザエさん現代版」とでもいうべき作品で、主人公のみかんとその母、弟のユズヒコと父という四人家族の物語である。登場人物も限られていて、みかんやユズヒコの同級生、母のお友達といったところで、きわめて平和に話が進んでいく。あまり大きな事件とかは起きない。いかにも、新聞の日曜版に掲載されるような作品である。

たまにすごく面白い回があって、そういう時は笑いをこらえるのに苦労するが、たいていは可もなく不可もなく、あまり毒もないので本当に平和に読み進めることができる。きっと昔であれば「PTA推薦」ということになったのかもしれない。いわばマンガ界のイージーリスニングといえるだろうか。その意味では、最初にあげた「たたかうお嫁さま」の方が微妙な毒とスリルがあって楽しい人が多いかもしれない。

ならばなぜ、そちらを主に取り上げなかったのか?それは、次回取り上げる作品との兼ね合いなのでした。(来週をお楽しみに)


これは現代作品なので、表紙だけ。2013年から、読売日曜版のマンガは「猫ピッチャー」になりました。まあ、けらも一生分稼いだろうから。

[Nov 2, 2005]


業田良家「自虐の詩」

昔「週刊宝石」という週刊誌があった。いまでいうと「週刊現代」と「アサヒ芸能」の間くらいの柔らかさ(グラビアとか)だけど、比較的上品なというか、しっかりした文章を書く雑誌だったような記憶があるが、この雑誌に昭和60年から5年間連載されていたのがこの作品である。ストーリー4コママンガというジャンルがあるとすれば、その草分けであり代表的な作品と言っていい名作である。

主人公の「幸江」(ゆきえ)さんは名前とは裏腹に幸福とは縁遠い生活を送っている。客が来ると押入れに寝なければならないような狭いアパートに住み、仕事はラーメン屋のパート、だがそれ以上に問題なのは元ヤクザの夫「イサオ」が定職もなく、競馬や麻雀で毎日を送っている「生活破綻者」であるということであった。

連載の初めの頃には、このイサオが生活が苦しいにもかかわらず、「でーい!」と星一徹ばりに盛大にちゃぶ台をひっくり返すというだけの作品であったが、話が幸江さんの子供時代に遡ると一気に盛り上がることとなった。母親に逃げられて父親ひとりに育てられた彼女は、当然のように甲斐性のない父親のために、内職をし新聞配達をし借金取りの相手をし、米を「合」単位で買う。それがすべて4コママンガで展開されるのである。

彼女が中学に進み、同じように貧しい「熊本さん」が登場することによって、ストーリーは最高潮に達する。病気の親と小さい兄弟を抱えた彼女は、学校の備品を盗み池の鯉も盗み街灯の電球も盗んでしまうのだが、それでも胸を張って生きている。そういう熊本さんをみんなは仲間はずれにし、幸江も熊本さんを裏切ってしまうのだが、甲斐性のない父親が銀行強盗をすることにより、今度は彼女自身が仲間はずれにされてしまうのである。

この作品が連載された昭和60年頃は、「NTT株公開」や「昭和天皇在位六十年記念金貨」の騒ぎがあり、バブルがいよいよ最高潮に達しようかという時期であった。まだまだ、幸江さんが小さい頃住んでいたような長屋や熊本さんが住んでいた川の上に建てられた家も、多くの人の記憶に残っていた時代である。あれからすでに20年が経過しているが、今読んでも「泣ける」作品ではないかと思う。

ちなみに、作者業田良家はSapioに政治風刺マンガ(当時から書いていた)を連載するなどいまだに活躍中であるが、「自虐の詩」がやはり他を圧倒してすばらしい。あと「執念の刑事」が個人的には好きですが。


週刊宝石なんて知る人も少なくなりましたが、この作品は最近になって、阿部寛のイサオで映画化されました。

[Jan 31, 2006]


小林まこと「1・2の三四郎」

昭和53年から少年マガジン連載。アントニオ猪木をこよなく尊敬しブレンバスターを得意技とする東三四郎(あずま さんしろう)が、プロレス界で活躍するまでを描くスポーツ漫画である。

本編は3つの部分に分かれており、不本意な形でラグビー部を追われた三四郎が、親友の南小路虎吉、西上馬之助らとともに格闘部を立ち上げ、校内試合でラグビー部を破るまでが第一部、そのメンバーに参豪辰巳を加えて県の高校柔道界を制覇するまでが第二部、上京してプロレス界に身を投じ、空手日本一の鳴海頁二と組んで若手世界一を決めるタッグトーナメント戦で優勝するまでが第三部である。なお、続編である「1・2の三四郎2」ではファミレス店長から復帰した三四郎が、総合格闘技日本一になるまでを描いている。

作者の小林まことは、この中でも特に柔道には思い入れが強いようで、後に「柔道部物語」という作品も書いている。柔道時代の「エビ」「カニ」などの特訓や、「有効は何回取られても一本にはならない」というようなディテールは専門的である。ただ、「柔道部物語」には主人公や登場人物のカリスマ性がなく、分かるんだけれどもそれほど面白くないという印象があるのに対し、三四郎にはカリスマ性があり、そこがこの作品の最大の特徴になっている。

つまり、それまでの少年スポーツ漫画というのは多かれ少なかれ梶原一騎の影響を受けていて、「巨人の星」「あしたのジョー」に代表されるように、「男たるものスポーツは命がけでやらなくてはならない」「努力を積み重ねれば天才を上回る」というコンセプトがあったのに対して、三四郎の体現していたのは「常に本気を出す必要はない」「才能は努力を上回る」という、梶原一騎的哲学とは全く逆の方向性なのであった。

そのことを端的に示していたのが、プロレス編で三四郎の師匠となるプロレスラー桜五郎である(彼の名言が「格闘技に番狂わせなし」である)。桜五郎は京浜東北線鶴見近郊で「ひまわり保育園」を経営するかたわら悪役レスラーとしてリング復帰を志しているのだが、そのトレーニングたるや、平気な顔をして古巣である新東京プロレスよりハードトレーニングをこなすのである。そして、この作品に出てくる対決のほとんどで、努力を重ねるキャラクターは天才三四郎や馬之助の前に敗れ去ることになる。

おそらく高度成長時代には努力はいつか報われると考えても大きな間違いではなかったが、オイルショック後の世界では背伸びをし過ぎることはいつの日か破綻を招くということが明らかになり、天才がそのまま能力を発揮するという物語の方が現実に近いものと認識されるようになったと私はとらえている。

難しい理屈はともかく、三四郎がラグビー界から始まって、柔道界、プロレス界、総合格闘技界を制覇してしまうストーリーは何度読んでも楽しい。気が滅入った時にはぜひお勧めしたい作品である。


第二部では、総合格闘技でブレンバスターを決めてしまう三四郎。その後はまたファミレスの店長に戻ったのだのだろうか。

[Oct 30,2007]


さいとう・たかを「2万5千年の荒野」「蟷螂の斧」

今回の福島原子力発電所の事件で、ゴルゴ13の最高傑作の一つであるこの作品を連想した人は少なくないと思う。「2万5千年の荒野」ではカリフォルニアの原子力発電所の配管が壊れて内部の圧力が上昇。設計技師の依頼を受けたデューク東郷が、設計図を頼りに配管を打ち抜いてメルトダウンを防ぐというストーリーであった。

クライマックスで、蒸気で曇った建屋の中、配管をめがけて狙撃した後、技師が「何も起こらないじゃないか」と問い詰めるのに対してゴルゴ13のセリフが
「設計図は正確なのか?」
「私が作った設計図だ。寸分間違いない。」
「なら私の仕事は終わりだ」
次の瞬間、配管に穴が開いて水蒸気が噴出し炉内の気圧は下がり始めるのである。

このストーリーでは、原子炉が崩壊すれば風に乗って死の灰がカリフォルニア一帯に降り注ぎ、2万5千年は誰も近付くことのできない荒野になるという意味で、題名が付けられている(25000年とは、プルトニウムの半減期である)。避難命令により退避してきた住民が髪を切られてしまうところや、無人となった街で技師とゴルゴが銀行や銃器店で現金(ゴルゴへの報酬である)や狙撃用ライフルを調達するあたりは、昔の作品なのに非常にリアリティがある。

また、作品の中で「チェルノブイリは数百年は人が住めないと言われたが、そうなっていないではないか」という主張に対し、「チェルノブイリとこの原子炉では、規模が違う」というセリフがあったと思う。これは、今回の福島原発についても同様に言えることであろう。

もう一つ、放射能絡みのゴルゴ作品として、「蟷螂の斧」がある。この作品では、前作「穀物戦争」においてゴルゴ13の一撃により穀物倉庫を爆破され一敗地にまみれた日本人の商社マンが、決済代金である金を輸送中の国際貨物列車を、ゴルゴ13に依頼して核攻撃されたように偽装する。そして穀物市場の乱高下に乗じて大金を手にし、「これで補助金漬けでない、本物の農業をやるのだ」と立ち上がるまでを描いたストーリーである。

この作品の肝は、「金は何物にも溶かされないし変形しても価値は不変であるが、放射能汚染されてしまえば実質的に無価値」というところにある。不勉強なもので、汚染された金が本当にクリアにできないのかどうかは自信がないが、確かに放射能を撒き散らすことになれば資金決済には使えないと思われる。

このように、ゴルゴ13は非常に勉強になるとともに先見性に優れた作品なのであるが、そのことと今回の事故後の対応をみていると、こんなものでいいのだろうかという気がしてならない。

確かに、人々がパニックに陥って大混乱となるのは避けなければならないが、かといって、事故が起こった福島からそれほど遠くない東京で、みんなが普通に通勤し原発報道を他人事のように見ているというのは、どうかと思う。

西日本に疎開するまでしなくても(そうする人がもっといてもおかしくない)、通勤通学も含め、不要不急の外出は避けるよう推奨したり、交通機関や物流は最小限とし、電力や燃料は集中的に被災地へ投入するといったことがなぜ行われないのだろうか。

そうすると経済活動が停滞する(要するに、カネ儲けができない)ということが裏にあるらしいということは見当が付くし、プロ野球開幕問題も含めこのままうやむやになるだろうことは想像に難くないが、万が一カタストロフに陥った際には収拾不可能ということになる。

原発について最も楽観的なシナリオは、このまま原子炉崩壊とかにはならないものの、半年一年後には「放射能で巨大化した○○」というような特集が週刊誌に載る。そして、電力不足は長期間にわたり経済に影響を及ぼすというあたりで、これ以上悪い方に傾かないよう祈るばかりである。


ゴルゴがリアルタイムで生きていたら、2015年現在で、少なくとも70歳にはなっていることになるのですが。

[Mar 17,2011]


西原理恵子「ぼくんち」

「あたしンち」の次は、当然「ぼくんち」である。けらえいこが読売新聞なら、西原理恵子は毎日新聞という共通点もある(せりかさんに見事に読まれてしまいました。さすが最近ポーカーでも強いはずです)。

「ぼのぼの」全盛期のまんがくらぶ(4コマ専門月刊誌)に、「ゆんぼくん」が載ったのはかれこれ10年以上も前のことである。当時、決して有名作家という訳ではなかった西原であるが、この作品を読んだ時、その叙情性に驚いた。その後、「恨ミシュラン」のさし絵とかマージャンもの、冒険もの(鳥頭紀行とか)で人気が出てしまったが、そうした人気作よりも、「ゆんぼくん」は10倍すばらしい。

その「ゆんぼくん」の系譜に連なる作品が、「ぼくんち」である。これ以上ない貧しい境遇にある一太と二太の腹違いの兄弟、これまた腹違いのお姉さんかの子、彼らを置いて男と出て行ってしまった母、かれらを取り巻く例外なく貧しい人々を描いた作品である。

わが家では、近所の奥様方に「あたしンち」の単行本をよく貸しているので、ついでに「ぼくんち」もお奨めするように言ってあるのだが、あまり評判はよくないらしい。はっきり言って「ぼくんち」の方が作品として優れていると思う。一方で、そもそも「あたしンち」を好む読者層に「ぼくんち」が受け入れられるはずもないような気もするが。

この作品は観月ありさ主演で映画化もされているのだが、残念ながら原作には遠く及ばない。多分制作者に「貧乏」に対する考察が足りなかったせいであろう。岸部一徳なんて金持ちの顔をしているし、よゐこの浜口も売れすぎてるし。本当は、猫ひろしとかもっと貧乏そうな人を使えばよかったのにと思う。また、題名からも分かるようにこの作品の主人公は二太であるので、かの子を主役にしたことにも無理があったような気がする(設定もいろいろ変えてあるし)。

この物語のラストは二太がもらわれていくところなのだが、「こういうときは、笑うんや」というセリフが泣かせる。ゆんぼくんのラストもよかったのだが、ぼくんちのラストも最高にいい。西原は現在、毎日新聞に「毎日かあさん」を連載しているが、どちらかというと鳥頭紀行やアジアパー伝に連なる作品で、それはそれでいいのだがいわゆる内輪ネタなのがちょっと不満である。まだまだ余力はあるはずなので、ゆんぼくん、ぼくんちに続く叙情作品がいつか発表されることを祈ってやまない。


これは現代作品なので、表紙だけ。西原も一生分稼いだだろうけど、この作品やゆんぼくんみたいなのは、もう書けないと思う。貧乏じゃないから。

[Nov 10, 2005]


澤井健「表萬家裏萬家」

1989年ビッグコミックスピリッツ連載。これ、実はすごい好きな作品なのだが、作者は引退、作品は絶版でいまとなっては読む手段はない。しかしかぜか「初版第一刷」で前・後編を持っており、なぜかいまだに処分していないのであった。

京都・足利女学園の教師であり日本舞踊家元の次男藤原晴信と、茶道家元表萬家の慈瑠(じる)、裏萬家の寿璃(じゅり)の物語。慈瑠の趣味は即身成仏、寿璃の趣味は「キンカンぬって~またぬって~」と言いながらあそこにキンカンをぬることである。タイトルからして、言うまでもなくお下劣マンガであるが、相当おもしろい。

足利女学園から東京の男子校吉兆学園に転勤(転職)した晴信だが、晴信を追って慈瑠と寿璃が上京、札束を積んで無理やり男女共学にしてしまう。そんな浪費が祟って、表萬家は破産してしまう。家元の鳳瑠(ほうる)、家元の娘で慈瑠の母親、そしてなぜか座敷牢に入っている登瑠(とる)もそれぞれの事情で東京に向かう。ちなみに、苗字は全員「萬」である。

物語のクライマックスは、晴信の実の妹が慈瑠と寿璃のどちらかというところなのだが、表萬家の萬鳳瑠家元や奈良のご神鹿、気持ち悪い上杉先生、吉兆学園の番長館山航(表萬家に婿養子に行ったら変な名前になると悩む)、岸田劉生の「麗子」にそっくりな岸田隆盛など、濃ゆいキャラクターも目白押しである。

この作品の後、ほどなく引退(イラストレーターになったらしい)したのは残念なことであった。


もはや絶版になっているので、雰囲気を味わうためご覧ください。


1980年代末のスピリッツは美味しんぼ全盛時代でした。柳澤きみおが、作風を変えたのもこの頃。

[Jun 13, 2007]

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